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第二部
第15話 ハサンの回想~力なき者の哀歌
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1年と半年前。
アメルの祝祭のその日、必死にその姿を探し街中を駆け回り、かけつけたその先で見たものは。
――彼が姉と慕う皇女と異国の王子との逢瀬だった。
その日、バステトの側付きの侍女が裏切った。バステトを誘い出し、街中に連れ出したのだ。
気づいた護衛達は即座に追ったが、分散したところで次々に殺された。
ハサンが殺されなかったのは、バステトの追手に加わらなかったからだ。12歳の自分では、大人の足手まといにしかならないため、待機していたからに過ぎない。
次々と、護衛の殺害や追跡状況の情報が入る中、姉さまの命を守れるならなんでもするとハサンはただ、マレの神々にそう祈るしかなかった。
そして、何者かからバステト保護の連絡が入り、いてもたってもいられず街に出て、ハサンはその光景を目にしたのだった。
即座に飛び出そうとしたとき、すぐ後ろで小さな声が響く。
『邪魔をするな。離れて見守ることは許す』
喉元に突きつけられる冷たい感触はたやすく自分の命を奪えるものだとすぐに理解した。
一緒にここまで来た護衛が気絶させられ地面に横たわっているのが目の端に映った。
小さくうなずくと、冷たい感触と人の気配はすっと消えた。
消えた男がバステトの命を狙う暗殺者ならば自分を生かすはずはない。
名前を名乗らなかったという、バステトを保護した側の手の者だ。
護衛が10人以上も殺された暗殺者を退けたのだから、相当の手練れだ。一人ではないのかもしれない。
そこで、バステトと一緒にいる銀狐の仮面をかぶった相手が誰だかに思い至る。
銀狐は、明らかに異国人だ。銀狐の背後には、狼の仮面をかぶったケイリッヒ人と思われる大男もいる。こちらは姿を隠さない。表の護衛なのだろう。
マレに異国人は珍しい。これだけの手練れを街中に潜ませることのできる異国人など、数日前から視察に来ているケイリッヒの王子ぐらいしか考えられない。
ケイリッヒの王子の手のものならば、バステトや自分を害する者ではない。
バステトに声をかけることはあきらめて、ハサンは離れて見守ることにした。
何を見せられているんだろう?
仲睦まじそうに、食べ物を食べさせあう二人。その様子は誰が見ても恋人同士にしか見えない。
やがて、バステトが、銀狐の手をとり、神殿へと連れだっていく。
ハサンは衝撃を受ける。
姉様は、いつもあんな風に、人に近寄らない。
手なんか繋がない。
あの男は、きっと姉さまに手を延ばされることの特別さなんて知らないんだろう。それが許せない。
そして、神殿の中で。
巫女が、舞を個人に対し捧げることの意味も、知らずに享受しているのだ。
でも、その意味が解らなくても、姉さまの舞の魅力に抗える者なんていようはずもない。
ハサンは、人が恋に落ちる瞬間を、おそらく見てしまった。
二人の世界は、ただそこに二人がいるだけで完全で。
ハサンにはなす術もなくて、耐えきれず、ホールの舞台裏から出てきてしまった。
気づかれないうちに、そっと神殿をでると、その入り口で暗殺者と思しき者が倒されていた。
あの王子に守られているのだと、何の力もない自分が情けなくて、涙が出た。
◇◇◇◇◇◇
バステトと初めて会ったのは、バステトが10歳で、ハサンが7歳のころだ。
やんちゃで、でも面倒見がいいバステトとは、はじめは男女というより、男兄弟のようだった。
そのうち、自分の方が精神年齢が高くなっているとは気づいたけれど、バステトの無邪気な弟という立場を崩したくなくて、ずっと姉さま、と言って後を追いかけてきた。
まだ12歳の自分に愛とか恋とかそういうのはわからない。
ただ、巫女として外界の悪意から隔離されて育てられた彼女を、守らなければ、という使命感だけは人一倍あった。
周りが、なんとなく婚約者だと言い始めて、そんな気になって、バステトを将来守るのは自分だけだと、疑いなく思い込んでいた。
バステトは、3歳年上の従姉弟で、ハサンの母の兄がマレ皇帝であるバステトの父だ。
マレは後宮にハーレムを築く文化は健在で、皇家には兄弟が多く、従姉弟もそれこそ非常に多くいる。
そんな中、仲良くなったのは、政略的な意図があったのだろう。
10歳を超えた頃から神殿の巫女姫として民衆の大きな支持を集めつつあったバステトの身元が隠されたのは、バステトの身を守る意味よりも、皇家の力が増すことを防ぎたかった軍部の意向が強い。
ハサンの父は、神殿の高位神官で、神殿内部の情報統制をおこなう立場にあった。
また、婚約者候補として検討され、身元を調べられることを防ぐためにも、早くから自明の婚約者がいる、という状態も必要だった。
ただ、ハサンとバステトの間には、いつまでたっても正式な婚約はなされなかった。
周囲には、自分の年齢が理由だと思われていたが、そうではないことは、早くから気づいていた。
自分はバステトを保護し、婚約という政治的なカードを残すための、仮の婚約者だと。
正式な婚約でなければ、新たな婚約者と婚約を結ぶのにもなんの弊害にもならない。
例えば、軍を抑えるために、軍部の将軍に。
例えば、バステト自身を守るために、どこかの国の王族に。
そして、今日、バステトは、暗殺者に襲われた。
有数の国家行事であるアメルの神事のために皇家と神殿で万全を期していた警備は、なんの役にも立たなかった。
大事な姉を、こんなことでなくしてしまうのかと、胸がかきむしられるような衝動を感じながらも、12歳の自分は、ただ連絡を待つことしかできなかった。
それを、あの王子はいともあっさりと守り通してしまった。
やっと気づいた。
正式な婚約が結ばれなかったのは、婚約を切り札としてとっておきたからではなくて。
自分では、足りなかったから。
自分には、バステトを守りぬくだけの力がなかったからだった。
◇◇◇◇◇◇
アメルの祭りの初日、あたりに灯りがともり始める夕方、逢魔が時。
ハサンは、神殿の出口で、銀狐と二人きりの舞を終えたであろうバステトを待っていた。
先ほどの男が、また背後から、邸まで護衛につくのでお前が連れて帰れ、と一言告げて気配を消したからだ。
『姉さま!』
ほどなく、きょろきょろとあたりを見回しながら出てくるバステトに駆け寄る。
銀狐と狼の仮面の男は出てこなかった。
『ハサン! 迎えに来てくれたのか? 一緒に屋台見に行ったのに、メイとはぐれてしまったのだ』
『姉さま、今日は邸にいなければならないって、父様たちが伝えましたよね』
『え? だって、メイが、初日だけは、街の雰囲気を知るのも巫女姫の務めだからって。旦那様たちが許可したって』
神殿の巫女姫は、世俗のことに囚われると舞が曇るとされており、命を狙われていることはずっと伏せられている。
姉さまに危機感がないのは、その弊害だ。
バステトは相変わらず周りをきょろきょろしている。
『あの仮面の男なら、僕が迎えに来たので、帰りました』
そう告げると、バステトは、目を見開いた。
『銀狐。いなくなっちゃったのか。そうか。……そうか』
彼女は、自分に言い聞かせるように、繰り返していた。
ごまかしていたけれど、そのがっかりした表情に、先ほどの舞が重なり、奥歯をかみしめる。
舞姫は、個人に対して舞うことは公には許されていない。
舞姫の舞は、神に捧げられるべきものだから。
舞を個人に向けることは、とても特別なことだ。
特別な人に、特別な感情を捧げること。
感謝、敬意、哀悼、そして愛。
姉さまは、舞に何をのせたのだろうか?
姉さまから向けられる気持ちすら、あの男には敵わないのかもしれない。
大事なものは手に入らないと思い知らされ、それを奪っていくあの男には、自分ではとても敵わないことを突きつけられた。
これが事実なのだと納得し、向き合うには、自分はまだ幼すぎて。
幼かった自分は、その醜い感情を、よどんだ澱のように心の奥に、どろどろと積もらせていくしかなかった。
アメルの祝祭のその日、必死にその姿を探し街中を駆け回り、かけつけたその先で見たものは。
――彼が姉と慕う皇女と異国の王子との逢瀬だった。
その日、バステトの側付きの侍女が裏切った。バステトを誘い出し、街中に連れ出したのだ。
気づいた護衛達は即座に追ったが、分散したところで次々に殺された。
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次々と、護衛の殺害や追跡状況の情報が入る中、姉さまの命を守れるならなんでもするとハサンはただ、マレの神々にそう祈るしかなかった。
そして、何者かからバステト保護の連絡が入り、いてもたってもいられず街に出て、ハサンはその光景を目にしたのだった。
即座に飛び出そうとしたとき、すぐ後ろで小さな声が響く。
『邪魔をするな。離れて見守ることは許す』
喉元に突きつけられる冷たい感触はたやすく自分の命を奪えるものだとすぐに理解した。
一緒にここまで来た護衛が気絶させられ地面に横たわっているのが目の端に映った。
小さくうなずくと、冷たい感触と人の気配はすっと消えた。
消えた男がバステトの命を狙う暗殺者ならば自分を生かすはずはない。
名前を名乗らなかったという、バステトを保護した側の手の者だ。
護衛が10人以上も殺された暗殺者を退けたのだから、相当の手練れだ。一人ではないのかもしれない。
そこで、バステトと一緒にいる銀狐の仮面をかぶった相手が誰だかに思い至る。
銀狐は、明らかに異国人だ。銀狐の背後には、狼の仮面をかぶったケイリッヒ人と思われる大男もいる。こちらは姿を隠さない。表の護衛なのだろう。
マレに異国人は珍しい。これだけの手練れを街中に潜ませることのできる異国人など、数日前から視察に来ているケイリッヒの王子ぐらいしか考えられない。
ケイリッヒの王子の手のものならば、バステトや自分を害する者ではない。
バステトに声をかけることはあきらめて、ハサンは離れて見守ることにした。
何を見せられているんだろう?
仲睦まじそうに、食べ物を食べさせあう二人。その様子は誰が見ても恋人同士にしか見えない。
やがて、バステトが、銀狐の手をとり、神殿へと連れだっていく。
ハサンは衝撃を受ける。
姉様は、いつもあんな風に、人に近寄らない。
手なんか繋がない。
あの男は、きっと姉さまに手を延ばされることの特別さなんて知らないんだろう。それが許せない。
そして、神殿の中で。
巫女が、舞を個人に対し捧げることの意味も、知らずに享受しているのだ。
でも、その意味が解らなくても、姉さまの舞の魅力に抗える者なんていようはずもない。
ハサンは、人が恋に落ちる瞬間を、おそらく見てしまった。
二人の世界は、ただそこに二人がいるだけで完全で。
ハサンにはなす術もなくて、耐えきれず、ホールの舞台裏から出てきてしまった。
気づかれないうちに、そっと神殿をでると、その入り口で暗殺者と思しき者が倒されていた。
あの王子に守られているのだと、何の力もない自分が情けなくて、涙が出た。
◇◇◇◇◇◇
バステトと初めて会ったのは、バステトが10歳で、ハサンが7歳のころだ。
やんちゃで、でも面倒見がいいバステトとは、はじめは男女というより、男兄弟のようだった。
そのうち、自分の方が精神年齢が高くなっているとは気づいたけれど、バステトの無邪気な弟という立場を崩したくなくて、ずっと姉さま、と言って後を追いかけてきた。
まだ12歳の自分に愛とか恋とかそういうのはわからない。
ただ、巫女として外界の悪意から隔離されて育てられた彼女を、守らなければ、という使命感だけは人一倍あった。
周りが、なんとなく婚約者だと言い始めて、そんな気になって、バステトを将来守るのは自分だけだと、疑いなく思い込んでいた。
バステトは、3歳年上の従姉弟で、ハサンの母の兄がマレ皇帝であるバステトの父だ。
マレは後宮にハーレムを築く文化は健在で、皇家には兄弟が多く、従姉弟もそれこそ非常に多くいる。
そんな中、仲良くなったのは、政略的な意図があったのだろう。
10歳を超えた頃から神殿の巫女姫として民衆の大きな支持を集めつつあったバステトの身元が隠されたのは、バステトの身を守る意味よりも、皇家の力が増すことを防ぎたかった軍部の意向が強い。
ハサンの父は、神殿の高位神官で、神殿内部の情報統制をおこなう立場にあった。
また、婚約者候補として検討され、身元を調べられることを防ぐためにも、早くから自明の婚約者がいる、という状態も必要だった。
ただ、ハサンとバステトの間には、いつまでたっても正式な婚約はなされなかった。
周囲には、自分の年齢が理由だと思われていたが、そうではないことは、早くから気づいていた。
自分はバステトを保護し、婚約という政治的なカードを残すための、仮の婚約者だと。
正式な婚約でなければ、新たな婚約者と婚約を結ぶのにもなんの弊害にもならない。
例えば、軍を抑えるために、軍部の将軍に。
例えば、バステト自身を守るために、どこかの国の王族に。
そして、今日、バステトは、暗殺者に襲われた。
有数の国家行事であるアメルの神事のために皇家と神殿で万全を期していた警備は、なんの役にも立たなかった。
大事な姉を、こんなことでなくしてしまうのかと、胸がかきむしられるような衝動を感じながらも、12歳の自分は、ただ連絡を待つことしかできなかった。
それを、あの王子はいともあっさりと守り通してしまった。
やっと気づいた。
正式な婚約が結ばれなかったのは、婚約を切り札としてとっておきたからではなくて。
自分では、足りなかったから。
自分には、バステトを守りぬくだけの力がなかったからだった。
◇◇◇◇◇◇
アメルの祭りの初日、あたりに灯りがともり始める夕方、逢魔が時。
ハサンは、神殿の出口で、銀狐と二人きりの舞を終えたであろうバステトを待っていた。
先ほどの男が、また背後から、邸まで護衛につくのでお前が連れて帰れ、と一言告げて気配を消したからだ。
『姉さま!』
ほどなく、きょろきょろとあたりを見回しながら出てくるバステトに駆け寄る。
銀狐と狼の仮面の男は出てこなかった。
『ハサン! 迎えに来てくれたのか? 一緒に屋台見に行ったのに、メイとはぐれてしまったのだ』
『姉さま、今日は邸にいなければならないって、父様たちが伝えましたよね』
『え? だって、メイが、初日だけは、街の雰囲気を知るのも巫女姫の務めだからって。旦那様たちが許可したって』
神殿の巫女姫は、世俗のことに囚われると舞が曇るとされており、命を狙われていることはずっと伏せられている。
姉さまに危機感がないのは、その弊害だ。
バステトは相変わらず周りをきょろきょろしている。
『あの仮面の男なら、僕が迎えに来たので、帰りました』
そう告げると、バステトは、目を見開いた。
『銀狐。いなくなっちゃったのか。そうか。……そうか』
彼女は、自分に言い聞かせるように、繰り返していた。
ごまかしていたけれど、そのがっかりした表情に、先ほどの舞が重なり、奥歯をかみしめる。
舞姫は、個人に対して舞うことは公には許されていない。
舞姫の舞は、神に捧げられるべきものだから。
舞を個人に向けることは、とても特別なことだ。
特別な人に、特別な感情を捧げること。
感謝、敬意、哀悼、そして愛。
姉さまは、舞に何をのせたのだろうか?
姉さまから向けられる気持ちすら、あの男には敵わないのかもしれない。
大事なものは手に入らないと思い知らされ、それを奪っていくあの男には、自分ではとても敵わないことを突きつけられた。
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