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第一部 記録/安寧の学園
(五)
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昼休憩が終わるまで、あと五分もない。
純暦一九一四年。十月の半ば。昼休憩も終わるころ、アイは人けのない廊下を走っていた。午後の課外授業に必要なものを忘れてしまい、取りに戻っていたらこんな時間になってしまったのだ。
たいていの生徒は、もう教室に着いている頃だろう。この学園校舎はやたら大きいせいで、移動ひとつに時間をとられてしまう。せっかくイルフォール島には交易のために本大陸へつながる転移魔導門――遠方と遠方をつなぐ、革新的な魔導機構――がいくつもあるのだから、どうせなら内部間の移動を楽にするものでも作ってしまえば、生徒はむだな移動時間を有益なものにできるだろうに。
(ま、時間ができたらその分、オレは遊んじゃうけどな)
アイは肩をすくめると、人がいないことを確認して、階段の手すりをすべるように下った。そのままの勢いで、とんと跳びだすと、壁面を蹴り、ふつうに手を伸ばすにはやや高い位置の出窓に手をかけた。じつは、ここの窓の鍵は壊れているのだが、教員はそれを知らない。あるいは、知っていたとしても、こんなところは手が届かないだろうと、慢心し放置しているのだろう。アイは手早く登りきると、すぐさまさっと顔をのぞかせて、外に人の視線がないことを確認した。すべらせるように身を外へ。もちろん開口部を閉めておくのも、忘れない。びゅう、と吹いた秋風が襟足をさらう。校舎を支えるいくつもの柱頭のうえに横たわる梁へ足をかけ、慎重に身体をずらす。裏庭からまっすぐ演習棟へ行ってしまえばものの一分もかからない。アイは自分の足の速さを心得ていて、またこの学園校舎の地図は、立ち入り禁止区域を除いて、ほとんど頭に入っていた。
さて、なんなく裏庭へ降りきったアイは、素早く駆けだそうとした。それとほぼ同時に、物音がしたことに気がつき、慌てて木陰へ身をひそめた。そっと伺ってみると、こんな誰も通らないような裏庭で、生徒がひとり、ひょろりと立ちつくしている。奇妙なことに、彼の背には薄く透ける美しい黒翼が、大きく広がっていた。天翼族だろうか。彼らは魔素――正式には魔導元素という。魔導技術の運用や魔導術に必要な物質――の翼を持っているというが、個体数が少ないことから、めったに見られるものではないし、そもそもこの学園にはいない。しかし彼が身に着けているのは、まちがいなくイルフォールの制服だ。その袖口は、今まさに刃物で裂かれたように、ほんの一部が破れていた。つぅ、と赤いひと筋がにじんでいる。
彼は、近くの足元をなんとなしに、無感動に見下ろしているように思えた。アイはもうすこし身をのりだした。ほうぼうと生えた草のすきまに、青年を狙ったのであろう銀色の刃と、まだ色味のある何者かの腕がごろりと横たわっている。しかしそれはぴくりとも動かなかった。アイはいっそう息をひそめた。おもむろに、青年はかがんだ。脈を測ったのだろうか。
次の瞬間、死体はボロりと黒く崩れた。
「!」
目を、逸らすことができなかった。魔導術、なのだろうか。しかし、あんなものは見たこともない。魔導力をあつかうには、一般的に魔導術式と呼ばれる規定の術式を展開し、範囲や現象を細かく設定する手間がいる。それを必要としないとすれば、よぼど魔導の才に恵まれた――それこそ、サファイアのような――者か、あるいはかつて大陸の独裁者であった魔族のような。
だが。
だが、目の前で起こっている事象は、魔導術とはてんで思えなかった。この瞬間、いますぐにでも逃げるべきだと本能が訴える。身体がいっせいにふるえだした。歯の奥が鳴りそうになったのを、どうにか押しとどめていた。死体は、服装から見るに外部の者のようだったが、それ以上のことがわからないまま、異臭を発しながら黒く腐り、そして、まるで地へ帰る時間をたった数秒に押しこめてしまったかのように、最後には塵と消えた。
「刺客かと思いきや、ただの不審者さんとは……」
青年がようやく、声をあげた。聞き覚えのある声は、いたって平生であり、また、穏やか以外のなにものでもないような音だった。彼はおもむろに、首をかしげた。
「あ、でもこういう場合って、先生に報告したほうがいいんでしたっけ。でも、バレたら困るんですよねぇ」
イナサの左手には、黒紫の紋様がきざまれていた。大輪の花のようにも、なにかの目玉のようにも見えるそれが、じっとこちらを見据えているような気がして、アイは背筋を凍らせる。魔導術式にもよく似ているが、あまりにも禍々しかった。あれは、危険なものだ。
アイは逡巡した。この場には、選択肢がふたつある。逃げるか、殺される前に殺すか、だ。それ以外にはないように思えた。イナサは革手袋をつけた。――彼はまだ、こちらに気づいていない。
おもむろに、その手が地面に落ちていた紙切れを拾う。野外訓練の参加希望調書だ。時季外れの入学生だから、いまごろの提出にならざるを得なかったのだろう。アイは固唾を呑んだ。ある邪心が、よぎったからだ。
現状、アイが参加する野外訓練の行動班は、アイをふくめて三人しかいない。来週からの演習で学園から評価をもらうためには、あとどうしても一人必要で。その一人というのが、決まっていなかったからだ。アイはまた、逡巡した。けれどもすぐに、答えを出した。
「なぁ」
ブレザーの裏側に、片手をさしこんだまま、アイはイナサの前へ姿を現した。彼は「ご覧になってしまいましたか」とおどろいた顔をしたものの、しかし、とくべつに焦ったようすはない。アイは制服の中で、ホルスターに下げた魔導拳銃へ手をかけながら、言った。
「取引しねぇ?」
「と、言いますと?」
イナサには、とくに目立った動きがなかった。
「オレに協力してくれよ。そしたら、まわりには黙っててやる」
「なるほどそれは」
彼は、すくなからずこちらへ興味を抱いたらしかった。
アイは笑った。
「場所、変えようぜ」
せまい資料室は、教科棟のはしにあり、教員もめったに訪れない。棚に積みあげられた古い資料のせいでほこりっぽいが、ソファがしつらえられていて、日当たりもよく、昼寝には申しぶんなかった。アイは息抜きがてらに授業を抜け出すときは、しばしばここを利用していた。脇にはちいさな給湯室もある。それをいいことに、ここへ足をはこぶ度、学園街で仕入れた茶葉やお菓子を置くということをくりかえし、今ではすっかり、アイの秘密基地と化してしまった。
手狭な資料室に詰めこまれた低いテーブルと向かいあうソファ。対面に座ったまま、アイは赤い制服の布地に針を通して、破れた箇所をていねいに縫いあわせていく。さきほど、手持ちのものでイナサの傷を手当してやったが、彼の細腕は殴られるだけでも簡単に折れてしまいそうだった。
イナサは何口目かの紅茶を口にはこんだ。
「――つまり、野外訓練の行動班に俺が入れば、アイさんは俺のことを他に黙っていてくれると、そういうわけですね」
「そそ、悪い話じゃないだろ?」
「しかし、アイさんなら、どなたでもお誘いできるのでは?」
「バカ言え。オレの班にはレヴがいるんだよ」
「レヴ……」
イナサは記憶をめぐらせたらしかった。そのうちに、該当するものに思い当たったらしく、彼はとても上機嫌に顔をほころばせた。
「ああ、俺に『死ね』っておっしゃった、あのレヴさんですね!」
「なんなのお前変態なの?」
「いえいえそんな」イナサはあわてて両手を振った。
一度針を止めて、ためしに茶菓子をさしだしてみるが、彼は革手袋を外すつもりがないのか、やんわりと断った。
「あんな図体にあの態度。アイツといっしょに組みたいやつなんて、いねぇんだよ」
「ではどうして、アイさんはレヴさんと?」
「なぁ、その、さんってつけるのやめてくんね? むず痒くてさ」
「失礼。では、アイはどうして?」
「まぁ、腐れ縁みたいな感じかな。で、どうよ?」
アイは口の中に砂糖菓子をほうりこんだ。舌先で転がしながら、また針を動かし始める。自分のものでない制服は、こんなにも大きいのかと思いながら、興味半分ていどにイナサのようすをうかがった。彼にはとくべつ、焦りなどは見られなかった。妙なかんじだと思った。それもそのはずだった。彼は、いま話題にしていることとは、まったく別のことを考えていたからだ。このことを思い知らされたのは、次にイナサが発した一言に集約していた。
「ずっと思ってたんですけど、アイって、女性ですよね」
「どわっ」
今度はアイが動揺する番だった。イナサはどこかぼうと視線をおとして、考えこむように言った。
「声が高いし小柄なのは、まあ成長期とも思ったんですけれど、よくよく見ると制服のブレザーは女性もので。しかも聞くところによると、女生徒といくらか関係をもっているようですからそれもまた不思議で。ああ、すみません。話の腰を折ってしまって。気になっていたので、つい」
「そりゃまぁ、別に隠してねぇけどよ。いきなりびっくりすんじゃん。針ブッ刺さるかと思った」
アイはソファからずり落ちた身体を直しながら片手をひらひらと振った。
「それは失礼。しかし俺としては、非常に有益な反応と思いましたよ」
イナサはにっこりとほほ笑んだ。
「アイって、教室のなかでの立ち回りがとても上手いじゃないですか。ですから、とても感心していたんです。空気を読んでもちあげるんですけど、あんまり利己的な主張をしない、というか」
「そりゃどうも」
「それで、本当の本心は、どこにあるんです?」
「――……、」
アイはイナサの翡翠色を、じっと見つめた。底の読めない色の向こうに、淡々と映る自分の顔がある。表情の失せた黒い瞳だった。真っ黒で、陽の光があたっても瞳孔だってわからないくらいの、黒色。
アイはかるく笑った。
「なら、まずはてめぇの腹を明かしてもらおうか」
「あなたに対しては、単純な興味。それに尽きます」
イナサは端的に答えた。
「お前、出身は?」
「イグラシアです」
「へぇ、レヴといっしょじゃん」
アイは口笛を吹いた。
――イグラシア王国。そこは、レヴの故郷であり、レヴがひどく憎んでいる国だ。
魔素の翼をもつ天翼族が国を治めるその世界は、白を絶対とし、黒を悪しきものとする。そのために、黒はあたりまえに排斥され、さらに、濃い色の者たちは、良い待遇など得られないのが常。そしてその国を治める者たちこそ、天翼族と呼ばれる種族だった。
「ん? イグラシア? 天翼族……黒い、翼。お前まさか……」
イナサは、人さし指を立てると、しぃ、と息をもらして、いたずらっこのような笑みをうかべた。
「王族?!」
「そうですけど、ちがいます」
イナサは否定した。
「正確に申し上げるのでしたら、私は王位継承権のない王族、ということになりますね。さらにいえば、私の存在は、伏せられている」
「なんでそんなとんでもねぇやつが、ここにいんだよ」
「そりゃあ、国の目を盗んで逃げてきたんですよぅ」
イナサはお茶目に笑った。
「んまぁ私の存在なんて今のイグラシアにとって取るに足らないものですし。俺はただ学園生活を楽しみたいだけなので、先ほどのことを黙っていただけるのでしたら――野外訓練、でしたっけ? そちらの参加についても、やぶさかではございません。ああしかし、私、運動には少々難がございまして。その点でみなさんの足をひっぱってしまうかも」
イナサは悩ましげに言った。
「運動、ってぇのは、どのくらいできる?」
「日常生活にさしつかえはないですねぇ。しかし、走ったり跳んだりというのは……なにぶん、脚の腱が使いものにならないので、必要最低限の魔素運用で、毎日毎秒、ひそかに補っておりまして」
イナサはとくに心を痛めるふうもなく、ただ視線を下げた。自分の脚を見る彼のまなざしは淡々としていて、それこそ、日常的に、日常づかいのモノを見るというていどのものだ。スラックスから、わずかに足首がのぞく。彼の両足首には、古傷のようなみみず腫れがあった。
アイは苦笑した。
「まぁ、とりあえず人数が必要だからさ。成績がぜんぶ身体能力で決まるわけじゃねえし……あ、でも、レヴがつっかかるのだけは、ほんとごめん。さきに謝っとく」
イナサは、レヴのようすを思いうかべたのか、くすくすと笑みをこぼした。
「かしこまりました。では、暫定、ということで参加しましょうか」
「頼むよ」
縫ってやった制服を彼にわたすと、イナサはさっそくそれに袖を通し、まるで子どものように笑ってはしゃいだ。
「ふふ。こういうの、いいですね」
「そんなにはしゃぐなよ。どうせてきとうにしか、やってないんだから」
「いいえ、あなたが私に時間をかけてくれた事実が、嬉しいのです」
すなおに頬を赤らめる青年に、アイはどんな顔をしてやればいいのか、わからず、往生してしまった。彼は、学生というには、あまりにも平生としすぎていて、しかし、そのおちついた印象よりもずっと、無邪気であるように思えてならなかったからだ。
「ありがとうございます、アイ」
イナサは黒く薄い翼を広げて、制服の縫いあとを嬉しそうになでた。
純暦一九一四年。十月の半ば。昼休憩も終わるころ、アイは人けのない廊下を走っていた。午後の課外授業に必要なものを忘れてしまい、取りに戻っていたらこんな時間になってしまったのだ。
たいていの生徒は、もう教室に着いている頃だろう。この学園校舎はやたら大きいせいで、移動ひとつに時間をとられてしまう。せっかくイルフォール島には交易のために本大陸へつながる転移魔導門――遠方と遠方をつなぐ、革新的な魔導機構――がいくつもあるのだから、どうせなら内部間の移動を楽にするものでも作ってしまえば、生徒はむだな移動時間を有益なものにできるだろうに。
(ま、時間ができたらその分、オレは遊んじゃうけどな)
アイは肩をすくめると、人がいないことを確認して、階段の手すりをすべるように下った。そのままの勢いで、とんと跳びだすと、壁面を蹴り、ふつうに手を伸ばすにはやや高い位置の出窓に手をかけた。じつは、ここの窓の鍵は壊れているのだが、教員はそれを知らない。あるいは、知っていたとしても、こんなところは手が届かないだろうと、慢心し放置しているのだろう。アイは手早く登りきると、すぐさまさっと顔をのぞかせて、外に人の視線がないことを確認した。すべらせるように身を外へ。もちろん開口部を閉めておくのも、忘れない。びゅう、と吹いた秋風が襟足をさらう。校舎を支えるいくつもの柱頭のうえに横たわる梁へ足をかけ、慎重に身体をずらす。裏庭からまっすぐ演習棟へ行ってしまえばものの一分もかからない。アイは自分の足の速さを心得ていて、またこの学園校舎の地図は、立ち入り禁止区域を除いて、ほとんど頭に入っていた。
さて、なんなく裏庭へ降りきったアイは、素早く駆けだそうとした。それとほぼ同時に、物音がしたことに気がつき、慌てて木陰へ身をひそめた。そっと伺ってみると、こんな誰も通らないような裏庭で、生徒がひとり、ひょろりと立ちつくしている。奇妙なことに、彼の背には薄く透ける美しい黒翼が、大きく広がっていた。天翼族だろうか。彼らは魔素――正式には魔導元素という。魔導技術の運用や魔導術に必要な物質――の翼を持っているというが、個体数が少ないことから、めったに見られるものではないし、そもそもこの学園にはいない。しかし彼が身に着けているのは、まちがいなくイルフォールの制服だ。その袖口は、今まさに刃物で裂かれたように、ほんの一部が破れていた。つぅ、と赤いひと筋がにじんでいる。
彼は、近くの足元をなんとなしに、無感動に見下ろしているように思えた。アイはもうすこし身をのりだした。ほうぼうと生えた草のすきまに、青年を狙ったのであろう銀色の刃と、まだ色味のある何者かの腕がごろりと横たわっている。しかしそれはぴくりとも動かなかった。アイはいっそう息をひそめた。おもむろに、青年はかがんだ。脈を測ったのだろうか。
次の瞬間、死体はボロりと黒く崩れた。
「!」
目を、逸らすことができなかった。魔導術、なのだろうか。しかし、あんなものは見たこともない。魔導力をあつかうには、一般的に魔導術式と呼ばれる規定の術式を展開し、範囲や現象を細かく設定する手間がいる。それを必要としないとすれば、よぼど魔導の才に恵まれた――それこそ、サファイアのような――者か、あるいはかつて大陸の独裁者であった魔族のような。
だが。
だが、目の前で起こっている事象は、魔導術とはてんで思えなかった。この瞬間、いますぐにでも逃げるべきだと本能が訴える。身体がいっせいにふるえだした。歯の奥が鳴りそうになったのを、どうにか押しとどめていた。死体は、服装から見るに外部の者のようだったが、それ以上のことがわからないまま、異臭を発しながら黒く腐り、そして、まるで地へ帰る時間をたった数秒に押しこめてしまったかのように、最後には塵と消えた。
「刺客かと思いきや、ただの不審者さんとは……」
青年がようやく、声をあげた。聞き覚えのある声は、いたって平生であり、また、穏やか以外のなにものでもないような音だった。彼はおもむろに、首をかしげた。
「あ、でもこういう場合って、先生に報告したほうがいいんでしたっけ。でも、バレたら困るんですよねぇ」
イナサの左手には、黒紫の紋様がきざまれていた。大輪の花のようにも、なにかの目玉のようにも見えるそれが、じっとこちらを見据えているような気がして、アイは背筋を凍らせる。魔導術式にもよく似ているが、あまりにも禍々しかった。あれは、危険なものだ。
アイは逡巡した。この場には、選択肢がふたつある。逃げるか、殺される前に殺すか、だ。それ以外にはないように思えた。イナサは革手袋をつけた。――彼はまだ、こちらに気づいていない。
おもむろに、その手が地面に落ちていた紙切れを拾う。野外訓練の参加希望調書だ。時季外れの入学生だから、いまごろの提出にならざるを得なかったのだろう。アイは固唾を呑んだ。ある邪心が、よぎったからだ。
現状、アイが参加する野外訓練の行動班は、アイをふくめて三人しかいない。来週からの演習で学園から評価をもらうためには、あとどうしても一人必要で。その一人というのが、決まっていなかったからだ。アイはまた、逡巡した。けれどもすぐに、答えを出した。
「なぁ」
ブレザーの裏側に、片手をさしこんだまま、アイはイナサの前へ姿を現した。彼は「ご覧になってしまいましたか」とおどろいた顔をしたものの、しかし、とくべつに焦ったようすはない。アイは制服の中で、ホルスターに下げた魔導拳銃へ手をかけながら、言った。
「取引しねぇ?」
「と、言いますと?」
イナサには、とくに目立った動きがなかった。
「オレに協力してくれよ。そしたら、まわりには黙っててやる」
「なるほどそれは」
彼は、すくなからずこちらへ興味を抱いたらしかった。
アイは笑った。
「場所、変えようぜ」
せまい資料室は、教科棟のはしにあり、教員もめったに訪れない。棚に積みあげられた古い資料のせいでほこりっぽいが、ソファがしつらえられていて、日当たりもよく、昼寝には申しぶんなかった。アイは息抜きがてらに授業を抜け出すときは、しばしばここを利用していた。脇にはちいさな給湯室もある。それをいいことに、ここへ足をはこぶ度、学園街で仕入れた茶葉やお菓子を置くということをくりかえし、今ではすっかり、アイの秘密基地と化してしまった。
手狭な資料室に詰めこまれた低いテーブルと向かいあうソファ。対面に座ったまま、アイは赤い制服の布地に針を通して、破れた箇所をていねいに縫いあわせていく。さきほど、手持ちのものでイナサの傷を手当してやったが、彼の細腕は殴られるだけでも簡単に折れてしまいそうだった。
イナサは何口目かの紅茶を口にはこんだ。
「――つまり、野外訓練の行動班に俺が入れば、アイさんは俺のことを他に黙っていてくれると、そういうわけですね」
「そそ、悪い話じゃないだろ?」
「しかし、アイさんなら、どなたでもお誘いできるのでは?」
「バカ言え。オレの班にはレヴがいるんだよ」
「レヴ……」
イナサは記憶をめぐらせたらしかった。そのうちに、該当するものに思い当たったらしく、彼はとても上機嫌に顔をほころばせた。
「ああ、俺に『死ね』っておっしゃった、あのレヴさんですね!」
「なんなのお前変態なの?」
「いえいえそんな」イナサはあわてて両手を振った。
一度針を止めて、ためしに茶菓子をさしだしてみるが、彼は革手袋を外すつもりがないのか、やんわりと断った。
「あんな図体にあの態度。アイツといっしょに組みたいやつなんて、いねぇんだよ」
「ではどうして、アイさんはレヴさんと?」
「なぁ、その、さんってつけるのやめてくんね? むず痒くてさ」
「失礼。では、アイはどうして?」
「まぁ、腐れ縁みたいな感じかな。で、どうよ?」
アイは口の中に砂糖菓子をほうりこんだ。舌先で転がしながら、また針を動かし始める。自分のものでない制服は、こんなにも大きいのかと思いながら、興味半分ていどにイナサのようすをうかがった。彼にはとくべつ、焦りなどは見られなかった。妙なかんじだと思った。それもそのはずだった。彼は、いま話題にしていることとは、まったく別のことを考えていたからだ。このことを思い知らされたのは、次にイナサが発した一言に集約していた。
「ずっと思ってたんですけど、アイって、女性ですよね」
「どわっ」
今度はアイが動揺する番だった。イナサはどこかぼうと視線をおとして、考えこむように言った。
「声が高いし小柄なのは、まあ成長期とも思ったんですけれど、よくよく見ると制服のブレザーは女性もので。しかも聞くところによると、女生徒といくらか関係をもっているようですからそれもまた不思議で。ああ、すみません。話の腰を折ってしまって。気になっていたので、つい」
「そりゃまぁ、別に隠してねぇけどよ。いきなりびっくりすんじゃん。針ブッ刺さるかと思った」
アイはソファからずり落ちた身体を直しながら片手をひらひらと振った。
「それは失礼。しかし俺としては、非常に有益な反応と思いましたよ」
イナサはにっこりとほほ笑んだ。
「アイって、教室のなかでの立ち回りがとても上手いじゃないですか。ですから、とても感心していたんです。空気を読んでもちあげるんですけど、あんまり利己的な主張をしない、というか」
「そりゃどうも」
「それで、本当の本心は、どこにあるんです?」
「――……、」
アイはイナサの翡翠色を、じっと見つめた。底の読めない色の向こうに、淡々と映る自分の顔がある。表情の失せた黒い瞳だった。真っ黒で、陽の光があたっても瞳孔だってわからないくらいの、黒色。
アイはかるく笑った。
「なら、まずはてめぇの腹を明かしてもらおうか」
「あなたに対しては、単純な興味。それに尽きます」
イナサは端的に答えた。
「お前、出身は?」
「イグラシアです」
「へぇ、レヴといっしょじゃん」
アイは口笛を吹いた。
――イグラシア王国。そこは、レヴの故郷であり、レヴがひどく憎んでいる国だ。
魔素の翼をもつ天翼族が国を治めるその世界は、白を絶対とし、黒を悪しきものとする。そのために、黒はあたりまえに排斥され、さらに、濃い色の者たちは、良い待遇など得られないのが常。そしてその国を治める者たちこそ、天翼族と呼ばれる種族だった。
「ん? イグラシア? 天翼族……黒い、翼。お前まさか……」
イナサは、人さし指を立てると、しぃ、と息をもらして、いたずらっこのような笑みをうかべた。
「王族?!」
「そうですけど、ちがいます」
イナサは否定した。
「正確に申し上げるのでしたら、私は王位継承権のない王族、ということになりますね。さらにいえば、私の存在は、伏せられている」
「なんでそんなとんでもねぇやつが、ここにいんだよ」
「そりゃあ、国の目を盗んで逃げてきたんですよぅ」
イナサはお茶目に笑った。
「んまぁ私の存在なんて今のイグラシアにとって取るに足らないものですし。俺はただ学園生活を楽しみたいだけなので、先ほどのことを黙っていただけるのでしたら――野外訓練、でしたっけ? そちらの参加についても、やぶさかではございません。ああしかし、私、運動には少々難がございまして。その点でみなさんの足をひっぱってしまうかも」
イナサは悩ましげに言った。
「運動、ってぇのは、どのくらいできる?」
「日常生活にさしつかえはないですねぇ。しかし、走ったり跳んだりというのは……なにぶん、脚の腱が使いものにならないので、必要最低限の魔素運用で、毎日毎秒、ひそかに補っておりまして」
イナサはとくに心を痛めるふうもなく、ただ視線を下げた。自分の脚を見る彼のまなざしは淡々としていて、それこそ、日常的に、日常づかいのモノを見るというていどのものだ。スラックスから、わずかに足首がのぞく。彼の両足首には、古傷のようなみみず腫れがあった。
アイは苦笑した。
「まぁ、とりあえず人数が必要だからさ。成績がぜんぶ身体能力で決まるわけじゃねえし……あ、でも、レヴがつっかかるのだけは、ほんとごめん。さきに謝っとく」
イナサは、レヴのようすを思いうかべたのか、くすくすと笑みをこぼした。
「かしこまりました。では、暫定、ということで参加しましょうか」
「頼むよ」
縫ってやった制服を彼にわたすと、イナサはさっそくそれに袖を通し、まるで子どものように笑ってはしゃいだ。
「ふふ。こういうの、いいですね」
「そんなにはしゃぐなよ。どうせてきとうにしか、やってないんだから」
「いいえ、あなたが私に時間をかけてくれた事実が、嬉しいのです」
すなおに頬を赤らめる青年に、アイはどんな顔をしてやればいいのか、わからず、往生してしまった。彼は、学生というには、あまりにも平生としすぎていて、しかし、そのおちついた印象よりもずっと、無邪気であるように思えてならなかったからだ。
「ありがとうございます、アイ」
イナサは黒く薄い翼を広げて、制服の縫いあとを嬉しそうになでた。
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