ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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2章

知りたいことが知りたくはなかったことと同じだったとき【7】

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 高揚する気持ちを顔に出さないようにしながら、

「そういうわけじゃないけれど……ただの興味」

「興味本位で母さんを悲しませるんじゃないぞ」
 
 決して興味本位ではない。でも、もしも自分が父親に会ったことが知れたら、母は悲しむだろうか。つかさは、意思が揺らぐのを感じた。

「それは分かっていますけれど……けれど……」

 けれど、の後に何と続けようとしたのかは自分でもよく分からなかった。ただ、確かめてみたかっだけだった。自分にボクシングを教えてくれているのが自分の父親なのか。形は違うかもしれないけれど、自分は“父親”に何かを教わっているのか。

 しかし、確かめたその後で何をしたいのかは何もなかった。

「16年前、姉さんの妊娠が発覚して……。隠そうにも隠しきれるものではなく、近所でもいろんな噂がたって、姉さんは他所の街の親戚の家に預けられた。父さん……君のお祖父さんは、姉さんのことは母さん……君のお祖母さんの監督不行き届きだと激しく責めたてて、それが原因で離婚した。母さんは、姉さんと勘当して、入院しても姉さんに決して会おうとはしない……。分かるだろ? あいつは、俺たちの家族を全部めちゃくちゃにしたんだ。だから、君がどう思っているにしても、俺はあいつを許せない。俺たち家族にとって、憎んでも憎み切れない“敵”……いや、“元凶”なんだ。俺はあいつには会って欲しくない」

 その瞳に宿る暗い怨念に、叔父が……いや、自分の知らない家族が抱えた病巣の深さを見る思いだった。そして、つかさもまぎれもない当事者の一人。何だか針の筵に座らされているような気分になって、つかさは俯いてしまう。それをどう解釈したのか分からないが幸治はポケットから四つ折にしたA4の紙を取り出した。

「ホームページがあったから印刷してきた」

 と言いながらつかさの前に広げる。

「顔写真はないけれど……こいつが君の父親だ」

 それは、地元のランニングクラブの会員募集の内容だった。ランニングクラブと言っても、本格的なマラソンチームではなく、健康づくりから少し速く走りたい人といったサークル活動の延長のようなものだった。赤く書かれた会員募集中という大きなPOPが目立つ。練習場所とか、練習日の下に、指導者の名前として、『川内将輝(○△世界選手権マラソン銅メダリスト)』の記述があった。

 その名前に目が釘付けになる。

「くどいようだけれど……俺は、そいつには会って欲しくない」

 幸治はそう言うと、伝票を取ってさっと立ち上がった。喫茶店の出入り口の扉に取り付けられた鐘が鳴ったので、幸治が出ていったのだとわかる。つかさはしばらく中空を見つめたままで座り込んでいた。目の前には、白い壁に喫茶店のマスターの趣味らしい茶色の猫の写真が飾られているが、気持ちが明後日の方に飛んでいるつかさの視界には入っていなかった。

 不意に耳に入り込んできたコトンと何かを置く音で、つかさは現実に引き戻された。目の前には新しいティーカップが置かれ、カップに注がれた紅茶から湯気が上がっていた。

「お連れ様からお代は頂いています」

 50歳くらいの、白髪交じりの、一見英国紳士風なマスターが笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます」

 そう言って、砂糖を入れてカップに口をつけた。それから、幸治に渡された紙に視線を落とした。練習日と時間は毎週月曜日の午後7時~9時までと土曜午後6時から午後8時まで……。確かに、月曜日と土曜日は川内は早めに鈴木コーチと交代していたような気がする。

「あの……」

 カウンターに戻ろうとしていたマスターに声をかけた。ランニングクラブの紙を見せながら、練習場所として記載されていた市内の陸上競技場の場所を尋ねた。

「ここからだとちょっと遠いですね。場所は大通り沿いだから方向を間違えなかったらすぐに分かると思うし、標識も出てるから分かると思いますけれど」

 そう言ってから、簡潔に陸上競技場の場所を説明してくれた。

「遠いって、歩いていけないほどですか?」

「……歩いていけないほど遠いわけじゃないですけれど。多分、2kmちょっとって所だと思うから、30分くらいは見た方がいいと思いますよ」

 つかさはそう言われて「そう遠くないな」と考えた。さすがに今履いているややゆったりしたジーンズであまりスピードは出せないけれど、普段から10km単位で走っているので2kmくらいなら遠いと思う距離でもなかった。

 つかさはマスターに丁重に礼を言ってから、紅茶を飲み干して立ち上がる。喫茶店の壁掛け時計は18時半になろうとしていた。
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