ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

文字の大きさ
30 / 48
3章

一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【2】

しおりを挟む
「実は……」

 梓はすっと真顔になると、視線を河川敷のグラウンドのほうに、すらっと長い人差し指を向けた。

「しばらく前に辞められたコーチの代わりに、兄がコーチをやることになって。それで、兄は、サトルさんにも手伝ってほしい、と。もちろんボランティアですけれど」

 そうか、あいつは、これからも野球に関わる道を選んだのか。サトルは何となく嬉しく思う。プロになることや、社会人野球に入ることだけが、野球と関わると道というわけではないよなぁ、と思う。高校卒業後、進学ではなく就職することになったのは、家の都合だと聞いたが、その中でも好きなことに関わり続けることはできる。

 それを、喜ばしいことだと思える程度には、あの頃よりは大人になったのだろう。

 でも……と、サトルは思う。

 自分は違うのだ、と。

「なんで、いまさら俺に? 野球を辞めて何年にもなるのに」

「それは……」

 サトルの問いに答えようとした梓の様子は、何だか本来口にしようとした言葉を飲み込んだように思えた。

「……兄さんは、サトルさんは絶対に野球を捨てられないと……言っていました」

 まるで機械が喋っているような口調だった。本心とは全く別のところにある言葉を、適当に引き出して口に乗せた感じ。だから、多分、その言葉は、彼女が実際に言いたかった言葉ではないと感じた。

 しかし、そんな機械のよう発せられたセリフに、サトルは衝撃を受けていた。

 ……俺は野球を“捨てた”のか?

 確かに、野球部を辞めてからボールを握ったことも、バットを振ったこともない。野球の試合を見たこともない。野球から離れたかもしれない。“逃げた”かもしれない。“諦めた”かもしれない。

 でも、胸の中のどこかでは思っていた。自分は、決して“捨てた”わけではない。

 他人の……自分が逃げ出したことを知っている人間にはっきりとそう言われると、かなりショックだった。

「……俺は……」

 サトルはもう一回視線を河原のグラウンドのほうに向ける。

 ノックをする修一の姿と、白いボールに必死に飛びつく少年たち。時折聞こえる修一の鋭い声。子供たちが威勢よく返事をしている声。

 ……あ、後ろに逸れた。
 
 まだまだ、ボールを怖がっている子が何人かいいるようだ。俺も最初はそうだったっな。サトルは昔を思い出す。ノックで飛んでくるボールに怖がって体で受け止めることが出来るようになるまで、結構時間がかかったような覚えがあった。いつの間にか、気がついたら出来るようになっていた。

 そういえば、ボクシングを始めて半年ほどして、初めてスパーリングをしたときは、あまり恐怖を感じなかった。時速100㎞を超える硬球と向き合ってきたという経験は、確かに自分の身になっていたのだと、その時は思ったものだった。

 恐怖に打ち勝てるのは自身への揺るぎない信頼のみ。それは、質の良い修練と、その量、日々の研鑽。常に己を高めようという意思のみでしか得られない。 

 子供たちがボールに飛びついている様子を好もしく見守っていたサトルは、はっと気づいた。

「どうかしましたか?」

 思わず声を上げたサトルに、梓が怪訝そうな目を向ける。

 サトルは気づいた。

 彼らを見ていても、ワクワクしてこない。昔のように、胸を震わされない。バットを振る音、ボールの跳ねる音、グローブがボールをはじく音。昔だったら良質の映画のBGMのように心地よく耳に響いていたそれらの音に、不思議なほどに何の感慨も沸いてこなかった。

 努力している子供たちを見ていると「頑張れ」と思う。「負けるな」と声をかけたいとは思う。

 でも、それだけだ。

 ……そうか……やっぱり俺は捨ててしまっていたんだな。

 サトルは思った。

 今、自分の胸を熱くさせるのは、拳を振るう音、ミットをサンドバッグを叩く音、グローブ同士がぶつかり合う音。人と人が殴りあう音。

 ふっ、と小さく息を吐いた。

 いつの間にか……それだけ好きになってしまっていたんだな。

「やっぱり、俺は力になれそうにない」

 サトルは踵を返して梓に背を向けた。

「ちょっと! 何でよ……」

 声を上げかけた梓に、

「別に、野球を嫌いになったわけじゃないけれど……」

 サトルはぎゅっと拳を握り締めた。

「今の俺には、もっとワクワクすることがあるんだ。教えてやりたいことがたくさんあるんだ。だから……」

 サトルは拳を開いて、背を向けたままそっと手を上げた。

「まぁ、修一にはよろしく言っておいてくれ」

「それって……何なのよ!」

 サトルの背中に梓の声が飛んできた。

「一度、背中を向けて逃げ出した人が、一体何を教えるというの!」

 サトルはもう足を止めなかったが聞こえなかったわけではない。

 ……そうだ。俺は一度逃げた。誰かを強くしてやろうと思ったら、俺が強くならないといけない。

 胸の中でサトルはそう思っていた。

     *     *     *

「よぉ」

「こんなところで、何をしているんですか……」

 サトルが夕方のとある公園で、つかさと顔を合わせたのは別に偶然だったわけではなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

幼馴染が家出したので、僕と同居生活することになったのだが。

四乃森ゆいな
青春
とある事情で一人暮らしをしている僕──和泉湊はある日、幼馴染でクラスメイト、更には『女神様』と崇められている美少女、真城美桜を拾うことに……? どうやら何か事情があるらしく、頑なに喋ろうとしない美桜。普段は無愛想で、人との距離感が異常に遠い彼女だが、何故か僕にだけは世話焼きになり……挙句には、 「私と同棲してください!」 「要求が増えてますよ!」 意味のわからない同棲宣言をされてしまう。 とりあえず同居するという形で、居候することになった美桜は、家事から僕の宿題を見たりと、高校生らしい生活をしていくこととなる。 中学生の頃から疎遠気味だったために、空いていた互いの時間が徐々に埋まっていき、お互いに知らない自分を曝け出していく中──女神様は何でもない『日常』を、僕の隣で歩んでいく。 無愛想だけど僕にだけ本性をみせる女神様 × ワケあり陰キャぼっちの幼馴染が送る、半同棲な同居生活ラブコメ。

私がガチなのは内緒である

ありきた
青春
愛の強さなら誰にも負けない桜野真菜と、明るく陽気な此木萌恵。寝食を共にする幼なじみの2人による、日常系百合ラブコメです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...