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3章
一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【2】
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「実は……」
梓はすっと真顔になると、視線を河川敷のグラウンドのほうに、すらっと長い人差し指を向けた。
「しばらく前に辞められたコーチの代わりに、兄がコーチをやることになって。それで、兄は、サトルさんにも手伝ってほしい、と。もちろんボランティアですけれど」
そうか、あいつは、これからも野球に関わる道を選んだのか。サトルは何となく嬉しく思う。プロになることや、社会人野球に入ることだけが、野球と関わると道というわけではないよなぁ、と思う。高校卒業後、進学ではなく就職することになったのは、家の都合だと聞いたが、その中でも好きなことに関わり続けることはできる。
それを、喜ばしいことだと思える程度には、あの頃よりは大人になったのだろう。
でも……と、サトルは思う。
自分は違うのだ、と。
「なんで、いまさら俺に? 野球を辞めて何年にもなるのに」
「それは……」
サトルの問いに答えようとした梓の様子は、何だか本来口にしようとした言葉を飲み込んだように思えた。
「……兄さんは、サトルさんは絶対に野球を捨てられないと……言っていました」
まるで機械が喋っているような口調だった。本心とは全く別のところにある言葉を、適当に引き出して口に乗せた感じ。だから、多分、その言葉は、彼女が実際に言いたかった言葉ではないと感じた。
しかし、そんな機械のよう発せられたセリフに、サトルは衝撃を受けていた。
……俺は野球を“捨てた”のか?
確かに、野球部を辞めてからボールを握ったことも、バットを振ったこともない。野球の試合を見たこともない。野球から離れたかもしれない。“逃げた”かもしれない。“諦めた”かもしれない。
でも、胸の中のどこかでは思っていた。自分は、決して“捨てた”わけではない。
他人の……自分が逃げ出したことを知っている人間にはっきりとそう言われると、かなりショックだった。
「……俺は……」
サトルはもう一回視線を河原のグラウンドのほうに向ける。
ノックをする修一の姿と、白いボールに必死に飛びつく少年たち。時折聞こえる修一の鋭い声。子供たちが威勢よく返事をしている声。
……あ、後ろに逸れた。
まだまだ、ボールを怖がっている子が何人かいいるようだ。俺も最初はそうだったっな。サトルは昔を思い出す。ノックで飛んでくるボールに怖がって体で受け止めることが出来るようになるまで、結構時間がかかったような覚えがあった。いつの間にか、気がついたら出来るようになっていた。
そういえば、ボクシングを始めて半年ほどして、初めてスパーリングをしたときは、あまり恐怖を感じなかった。時速100㎞を超える硬球と向き合ってきたという経験は、確かに自分の身になっていたのだと、その時は思ったものだった。
恐怖に打ち勝てるのは自身への揺るぎない信頼のみ。それは、質の良い修練と、その量、日々の研鑽。常に己を高めようという意思のみでしか得られない。
子供たちがボールに飛びついている様子を好もしく見守っていたサトルは、はっと気づいた。
「どうかしましたか?」
思わず声を上げたサトルに、梓が怪訝そうな目を向ける。
サトルは気づいた。
彼らを見ていても、ワクワクしてこない。昔のように、胸を震わされない。バットを振る音、ボールの跳ねる音、グローブがボールをはじく音。昔だったら良質の映画のBGMのように心地よく耳に響いていたそれらの音に、不思議なほどに何の感慨も沸いてこなかった。
努力している子供たちを見ていると「頑張れ」と思う。「負けるな」と声をかけたいとは思う。
でも、それだけだ。
……そうか……やっぱり俺は捨ててしまっていたんだな。
サトルは思った。
今、自分の胸を熱くさせるのは、拳を振るう音、ミットをサンドバッグを叩く音、グローブ同士がぶつかり合う音。人と人が殴りあう音。
ふっ、と小さく息を吐いた。
いつの間にか……それだけ好きになってしまっていたんだな。
「やっぱり、俺は力になれそうにない」
サトルは踵を返して梓に背を向けた。
「ちょっと! 何でよ……」
声を上げかけた梓に、
「別に、野球を嫌いになったわけじゃないけれど……」
サトルはぎゅっと拳を握り締めた。
「今の俺には、もっとワクワクすることがあるんだ。教えてやりたいことがたくさんあるんだ。だから……」
サトルは拳を開いて、背を向けたままそっと手を上げた。
「まぁ、修一にはよろしく言っておいてくれ」
「それって……何なのよ!」
サトルの背中に梓の声が飛んできた。
「一度、背中を向けて逃げ出した人が、一体何を教えるというの!」
サトルはもう足を止めなかったが聞こえなかったわけではない。
……そうだ。俺は一度逃げた。誰かを強くしてやろうと思ったら、俺が強くならないといけない。
胸の中でサトルはそう思っていた。
* * *
「よぉ」
「こんなところで、何をしているんですか……」
サトルが夕方のとある公園で、つかさと顔を合わせたのは別に偶然だったわけではなかった。
梓はすっと真顔になると、視線を河川敷のグラウンドのほうに、すらっと長い人差し指を向けた。
「しばらく前に辞められたコーチの代わりに、兄がコーチをやることになって。それで、兄は、サトルさんにも手伝ってほしい、と。もちろんボランティアですけれど」
そうか、あいつは、これからも野球に関わる道を選んだのか。サトルは何となく嬉しく思う。プロになることや、社会人野球に入ることだけが、野球と関わると道というわけではないよなぁ、と思う。高校卒業後、進学ではなく就職することになったのは、家の都合だと聞いたが、その中でも好きなことに関わり続けることはできる。
それを、喜ばしいことだと思える程度には、あの頃よりは大人になったのだろう。
でも……と、サトルは思う。
自分は違うのだ、と。
「なんで、いまさら俺に? 野球を辞めて何年にもなるのに」
「それは……」
サトルの問いに答えようとした梓の様子は、何だか本来口にしようとした言葉を飲み込んだように思えた。
「……兄さんは、サトルさんは絶対に野球を捨てられないと……言っていました」
まるで機械が喋っているような口調だった。本心とは全く別のところにある言葉を、適当に引き出して口に乗せた感じ。だから、多分、その言葉は、彼女が実際に言いたかった言葉ではないと感じた。
しかし、そんな機械のよう発せられたセリフに、サトルは衝撃を受けていた。
……俺は野球を“捨てた”のか?
確かに、野球部を辞めてからボールを握ったことも、バットを振ったこともない。野球の試合を見たこともない。野球から離れたかもしれない。“逃げた”かもしれない。“諦めた”かもしれない。
でも、胸の中のどこかでは思っていた。自分は、決して“捨てた”わけではない。
他人の……自分が逃げ出したことを知っている人間にはっきりとそう言われると、かなりショックだった。
「……俺は……」
サトルはもう一回視線を河原のグラウンドのほうに向ける。
ノックをする修一の姿と、白いボールに必死に飛びつく少年たち。時折聞こえる修一の鋭い声。子供たちが威勢よく返事をしている声。
……あ、後ろに逸れた。
まだまだ、ボールを怖がっている子が何人かいいるようだ。俺も最初はそうだったっな。サトルは昔を思い出す。ノックで飛んでくるボールに怖がって体で受け止めることが出来るようになるまで、結構時間がかかったような覚えがあった。いつの間にか、気がついたら出来るようになっていた。
そういえば、ボクシングを始めて半年ほどして、初めてスパーリングをしたときは、あまり恐怖を感じなかった。時速100㎞を超える硬球と向き合ってきたという経験は、確かに自分の身になっていたのだと、その時は思ったものだった。
恐怖に打ち勝てるのは自身への揺るぎない信頼のみ。それは、質の良い修練と、その量、日々の研鑽。常に己を高めようという意思のみでしか得られない。
子供たちがボールに飛びついている様子を好もしく見守っていたサトルは、はっと気づいた。
「どうかしましたか?」
思わず声を上げたサトルに、梓が怪訝そうな目を向ける。
サトルは気づいた。
彼らを見ていても、ワクワクしてこない。昔のように、胸を震わされない。バットを振る音、ボールの跳ねる音、グローブがボールをはじく音。昔だったら良質の映画のBGMのように心地よく耳に響いていたそれらの音に、不思議なほどに何の感慨も沸いてこなかった。
努力している子供たちを見ていると「頑張れ」と思う。「負けるな」と声をかけたいとは思う。
でも、それだけだ。
……そうか……やっぱり俺は捨ててしまっていたんだな。
サトルは思った。
今、自分の胸を熱くさせるのは、拳を振るう音、ミットをサンドバッグを叩く音、グローブ同士がぶつかり合う音。人と人が殴りあう音。
ふっ、と小さく息を吐いた。
いつの間にか……それだけ好きになってしまっていたんだな。
「やっぱり、俺は力になれそうにない」
サトルは踵を返して梓に背を向けた。
「ちょっと! 何でよ……」
声を上げかけた梓に、
「別に、野球を嫌いになったわけじゃないけれど……」
サトルはぎゅっと拳を握り締めた。
「今の俺には、もっとワクワクすることがあるんだ。教えてやりたいことがたくさんあるんだ。だから……」
サトルは拳を開いて、背を向けたままそっと手を上げた。
「まぁ、修一にはよろしく言っておいてくれ」
「それって……何なのよ!」
サトルの背中に梓の声が飛んできた。
「一度、背中を向けて逃げ出した人が、一体何を教えるというの!」
サトルはもう足を止めなかったが聞こえなかったわけではない。
……そうだ。俺は一度逃げた。誰かを強くしてやろうと思ったら、俺が強くならないといけない。
胸の中でサトルはそう思っていた。
* * *
「よぉ」
「こんなところで、何をしているんですか……」
サトルが夕方のとある公園で、つかさと顔を合わせたのは別に偶然だったわけではなかった。
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