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3章
一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【8】
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サトルにとっては一つのことが確かめられただけで充分だった。川内将輝は高野つかさの父親ではなかった。つかさが殴りたいと言っていた相手は、全くの別人だった。どこで、そんな間違いが起きたのかは別として、つかさがその拳に怒りや憎しみを乗せるべき相手は、川内ではないということが明らかになったのだ。
だとすれば、今度のスパーリングは止めるべきなのかもしれない。
父娘の話だと思えばこそ、サトルはつかさのスパーリングの手助けをしようと思ったのだ。その前提が崩れてしまえば、今度のスパーリングに何の意味があるというのか。ただの危険なゲームになってしまうだけではないのか。
一瞬、そんなことを考えたサトルは――由美子の顔を見て「何を馬鹿なことを」と呟いた。
さっきまで、つかさのパンチを受け続けてきたサトルには、何となくだけれど分かっていた。彼女の拳に、怒りだの、憎しみだの、そんな負の感情など乗っていなかった。つかさは純粋に楽しんで拳を振るっていた。
つかさにとっては、今度のスパーリングの意味は自分の生まれのこととは、すでに別次元のこととなっているのかもしれない。純粋に、努力の成果を試したい。どうして、そんな心境の変化を得たのかは分からないが、そんなふうに、彼女の拳は語っていたような気がした。
意味なんてものは、闘う本人ではない自分が決めるものではないよなぁ、とサトルは思う。
「5月11日はお暇でしょうか?」
サトルは、その日付を口にした。
「その日は、つかさの誕生日です……最近、つかさが何かを隠しているような雰囲気がありました。その日は、何か特別なことがある日なのでしょうか?」
「その日……」
サトルは詳細は告げずに、
「ジムは15時からですが、その日は14時より前には人が来ます。その頃にジムに来てください。見てもらいたいものがあるんです」
勝手なことをしているという自覚はあった。身内であっても、あまり他人の目に触れさせるべきものではないかもしれない。つかさも他人の目に晒されたくはないかもしれない。でも、この戦いはきっと見てもらった方がいいと思った。
* * *
5月11日の日曜日を迎えた。
この日を迎えるまでの10日にも満たない日々は、駆け足であっという間に過ぎたようにも思えるし、ようやくと感じるほど長かったようにも思える。それだけ濃密だったともいえるかもしれないし、色々なことを考えすぎた数日間だったともいえる。
長期連休が終わり、つかさは4月の一時期が嘘のように毎日のように毎日のようにジムに通っていた。毎日のようにサンドバッグを叩き、ボールをかわして、何キロも走っていた。
その様子を近くで見て、時にはミットを受けていたサトルには、つかさの様子は練習熱心なんてつまらない言葉で形容することはできないように思えた。一心不乱にサンドバッグを撃ち続けるその背中に、声をかけるのもためらわれるほどだった。
何といっても、相手はつかさが今持っているものを全て絞り出したとしても到底及ばない相手なのだ。ここまでやれば大丈夫。これだけやったから大丈夫。それがない相手なのだ。
ボクサーとしての血を濃くしていくための練習。
何かの漫画に出てくた台詞を思い出した。ひたすら自分を追い込み続けるように、殴り続け、走り続ける。そうやって、一介の女子高生から、ボクサーへと変化していく。サトルから見てもオーバーワークに感じる場面も、危うさを感じる場面あったが、どうしても「やめろ」とは言えなかった。
ひたすらに、がむしゃらに自分を追い込んでいく鬼気迫るつかさの背中を見ながら、「不安を振り払うために」そんな気持ちで練習をしたことが、かつての自分にもあったことを、今更ながらサトルは思い出す。
しかし、練習をすればするほど、不安が増大し、自分が誤ったことをしているのではないかという思考の悪循環に陥ってしまうこともよくあったことも思い出す。格上と呼ばれる、明らかな実力差のある相手との試合を控え時はそうだった。
ただ、身体を動かし続けなければ気が済まない。例えば、過食症の患者が食べては吐いてを繰り返すような、それに似た精神状態に、今のつかさはあるのかもしれない。
昔の自分と照らし合わせ、声をかけたい衝動に駆られた。「……少し前の自分を思い出せよ」と。
この間はできていたじゃないか。純粋に楽しめばいいんだ。余計なことを考えずに。そう肩を叩いてやりたかった。恐怖とか、不安とか、負の感情に打ち勝てるのは、それだけのような気がした。
でも、つかさがそんなふうに恐怖を覚えるのは彼女が強いからだ。弱いものは、いざ殴られるまでその実力差に気付かない。不安を払うことが出来るのは、膨大な練習だけ。それも事実だ。つかさは今、川内将輝という相手と闘う前に、己の中の強敵と戦っている。そして、その答えは、つかさ自身が見つけなければいけない。
……自分は、無茶なことをつかさに要求してしまったのかもしれない。
サトルにできるのは、その日が来るまで、つかさが怪我をしないように祈ることだけだった。何事もなく、その日を迎えるまで、この一日が過ぎることを祈るだけだった。
祈りが通じたのか……。
表面上は何事もなく、5月11日の昼を迎えたのだった。
だとすれば、今度のスパーリングは止めるべきなのかもしれない。
父娘の話だと思えばこそ、サトルはつかさのスパーリングの手助けをしようと思ったのだ。その前提が崩れてしまえば、今度のスパーリングに何の意味があるというのか。ただの危険なゲームになってしまうだけではないのか。
一瞬、そんなことを考えたサトルは――由美子の顔を見て「何を馬鹿なことを」と呟いた。
さっきまで、つかさのパンチを受け続けてきたサトルには、何となくだけれど分かっていた。彼女の拳に、怒りだの、憎しみだの、そんな負の感情など乗っていなかった。つかさは純粋に楽しんで拳を振るっていた。
つかさにとっては、今度のスパーリングの意味は自分の生まれのこととは、すでに別次元のこととなっているのかもしれない。純粋に、努力の成果を試したい。どうして、そんな心境の変化を得たのかは分からないが、そんなふうに、彼女の拳は語っていたような気がした。
意味なんてものは、闘う本人ではない自分が決めるものではないよなぁ、とサトルは思う。
「5月11日はお暇でしょうか?」
サトルは、その日付を口にした。
「その日は、つかさの誕生日です……最近、つかさが何かを隠しているような雰囲気がありました。その日は、何か特別なことがある日なのでしょうか?」
「その日……」
サトルは詳細は告げずに、
「ジムは15時からですが、その日は14時より前には人が来ます。その頃にジムに来てください。見てもらいたいものがあるんです」
勝手なことをしているという自覚はあった。身内であっても、あまり他人の目に触れさせるべきものではないかもしれない。つかさも他人の目に晒されたくはないかもしれない。でも、この戦いはきっと見てもらった方がいいと思った。
* * *
5月11日の日曜日を迎えた。
この日を迎えるまでの10日にも満たない日々は、駆け足であっという間に過ぎたようにも思えるし、ようやくと感じるほど長かったようにも思える。それだけ濃密だったともいえるかもしれないし、色々なことを考えすぎた数日間だったともいえる。
長期連休が終わり、つかさは4月の一時期が嘘のように毎日のように毎日のようにジムに通っていた。毎日のようにサンドバッグを叩き、ボールをかわして、何キロも走っていた。
その様子を近くで見て、時にはミットを受けていたサトルには、つかさの様子は練習熱心なんてつまらない言葉で形容することはできないように思えた。一心不乱にサンドバッグを撃ち続けるその背中に、声をかけるのもためらわれるほどだった。
何といっても、相手はつかさが今持っているものを全て絞り出したとしても到底及ばない相手なのだ。ここまでやれば大丈夫。これだけやったから大丈夫。それがない相手なのだ。
ボクサーとしての血を濃くしていくための練習。
何かの漫画に出てくた台詞を思い出した。ひたすら自分を追い込み続けるように、殴り続け、走り続ける。そうやって、一介の女子高生から、ボクサーへと変化していく。サトルから見てもオーバーワークに感じる場面も、危うさを感じる場面あったが、どうしても「やめろ」とは言えなかった。
ひたすらに、がむしゃらに自分を追い込んでいく鬼気迫るつかさの背中を見ながら、「不安を振り払うために」そんな気持ちで練習をしたことが、かつての自分にもあったことを、今更ながらサトルは思い出す。
しかし、練習をすればするほど、不安が増大し、自分が誤ったことをしているのではないかという思考の悪循環に陥ってしまうこともよくあったことも思い出す。格上と呼ばれる、明らかな実力差のある相手との試合を控え時はそうだった。
ただ、身体を動かし続けなければ気が済まない。例えば、過食症の患者が食べては吐いてを繰り返すような、それに似た精神状態に、今のつかさはあるのかもしれない。
昔の自分と照らし合わせ、声をかけたい衝動に駆られた。「……少し前の自分を思い出せよ」と。
この間はできていたじゃないか。純粋に楽しめばいいんだ。余計なことを考えずに。そう肩を叩いてやりたかった。恐怖とか、不安とか、負の感情に打ち勝てるのは、それだけのような気がした。
でも、つかさがそんなふうに恐怖を覚えるのは彼女が強いからだ。弱いものは、いざ殴られるまでその実力差に気付かない。不安を払うことが出来るのは、膨大な練習だけ。それも事実だ。つかさは今、川内将輝という相手と闘う前に、己の中の強敵と戦っている。そして、その答えは、つかさ自身が見つけなければいけない。
……自分は、無茶なことをつかさに要求してしまったのかもしれない。
サトルにできるのは、その日が来るまで、つかさが怪我をしないように祈ることだけだった。何事もなく、その日を迎えるまで、この一日が過ぎることを祈るだけだった。
祈りが通じたのか……。
表面上は何事もなく、5月11日の昼を迎えたのだった。
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