ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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4章

思いっきりぶつかって、思いっきり受け止められて【2】

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 かつて甲子園の大観衆の中で試合した時は、どうやって克服しただろうかとサトルは思う。もちろんアマチュアボクシングの、ましてや、中学生のボクシングの大会で、甲子園の大観衆のような人数が集まることはまずない。しかし、観客の視線は、リングの上のたった2人に注がれている。その中でいくら柔らかいグローブとヘッドギアに守られているとはいえ殴り合いをやるのである。プレッシャーの大小を観客の数で論じるのは無意味だ。

 サトルは、試合前は勝てるイメージを膨らませ、悲観的なことはなるべく考えないようにしていた。そうして、ぎりぎりまで集中力を高めてから試合に挑んだのを思い出す。他にも自分なりに試合に挑む前のジンクスのようなものはあったが、試合経験をいえばつかさだって人前で何度も試合をしているわけだから、試合にどう臨めばいいのか、彼女なりに分かってはいるだろう。

 一瞬だって気は抜けない。気を抜いたらその瞬間に、意識が刈り取られかねない。今やっているのはそういうスポーツなのだ。ましてや今日は旅立ったばかりのレベル1の勇者がいきなり魔王と戦うくらいの実力差がある相手を戦うのである。試合前の気持ちづくりに失敗したら、何もできずに終わってしまうことになるだろう。

 もちろん、川内がどういうつもりでこのスパーリングをするかによって変わってくるかもしれないが、先日までの気持ちのままで挑むことになったら、確実に納得できないスパーリングになってしまうのは目に見えていた。 

「2分2ラウンド……最後まで気持ちでは負けるなよ」

「そのつもりで、やります」

 独り言のつもりで吐いた言葉への返事が真後ろからあったので、サトルは少し驚いた。いつの間に来ていたのかと思いつつ振り返ると、練習の時と同じ水色のトレーナーに小さな黒いリュックサックを背負ったつかさの姿があった。

「来たのか。……自動ドアの電源入れてなかっただろう?」

「鍵は開いてましたので、手であけました」

「ドアが外れたら困るから声をかけてくれ」

「かけましたよ。何度も。考え事をしていて、いつまでもこっちに気付かないから」

 苦情を言ったサトルに言いながら拳を握り、振り上げてノックする真似をした。

「開けてー。開けてーって何回も声をかけたんですよ」

 そう言ってから、つかさの口元が緩む。その表情には、先日までの気負いは見えなかった。

「あんまり、気を張っている感じはなくて良かったよ」

「サトルさんのせい……じゃなくて、おかげです」

 自動扉の方に視線を走らせると、開け放たれた自動扉の向こう側に、見覚えのある女性と、見覚えのない女性よりも少し若く見える男が立っていた。

「……お母さん、連れてきたのか」

「サトルさんでしょ。勝手に教えたのは」

 一瞬ふくれっ面を見せたつかさだったが、すぐに相好を崩し、

「ニ、三日前、母と色々なことを話しました。今日のスパーのこととか、何でボクシングを始めたかとか、それから……」

 つかさにジェスチャーで掌を開いて構えるように促されたサトルは、右の掌を自分の顔の横に構えた。その掌にものすごい衝撃が走る。つかさの右ストレートがおもいっきし叩き込まれたのだ。

「私が、どれだけボクシングが好きか、とか」

「痛いな」

 ジンジンする掌を開いたり握ったりするサトルに、「感謝のしるしです」とつかさは笑う。感謝のしるしは、もう少し別のやり方にしてくれと思いつつ、苦笑を返す。

「何だか、今日、色んなことに決着をつけられそうな気がします」

「そうなると、いいな」

「じゃ、着替えてきますね」

 ジムの奥の更衣室に駆けていこうとしたつかさは、2、3歩で脚を止めて振り返り、

「サトルさん、ちょっと顔が強ばりすぎですよ。今日やるのは私なんですから」

 それだけ言うと、更衣室の方へ消えていった。

     *     *     *

 サトルは、そんなひきつっているかなと思いつつ、待たせたままの由美子に挨拶するために、入口の方に向かった。

「いらっしゃい。お久しぶりです」

「お久しぶりです」

「入っていただいても良かったのに」

「いえいえ。何だか緊張しますね。あの子の試合は何度も見ているんですけれど」

「授業参観に来たくらいのつもりで見ていってください」

「もっと緊張します」

 面識がある由美子にまず挨拶をした。授業参観とは、言いえて妙だな、と思う。そう思うと、これから殴り合いをするのに、教師の問いに親の前で手を上げるのをためらっている少女の姿を想像してしまい、何となく口元が緩む。

 それから、由美子の左後ろに立っている男の方に目を向けた。
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