ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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4章

思いっきりぶつかって、思いっきり受け止められて【4】

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 身に覚えのないことで、一方的に恨まれたり傷つけられたりするというのもおかしな話だが、世の中にはそういう話は山のように転がっている。さっき玄関先であった時の雰囲気から、幸治が殴りかかったりするのではないかと微かに緊張する。

 川内と由美子、幸治が何を話しているのか、声ははっきりとは聞こえなかったが、少なくとも和やかな雰囲気には見えなかった。かといって険悪という感じではない。一方的に攻撃的になっている幸治を、川内が受け流している、そんな感じだろうか。

「あの。サトルさん……ヘッドギアを」

 と、待ちかねたようにつかさが声をかけてきた。彼女の手の中には、お気に入りの赤いヘッドギアが抱えられている。

 我に返ったサトルは「ああ、悪い悪い」と、つかさの手からヘッドギアを取り上げる。つかさが持っていた試合用のヘッドギアを一目見て、

「ダメだな……ちょっと待っていろ」

 一階の練習場まで階段を駆け上がって、貸出用のボクシング用品置き場から、同じ赤い色のヘッドギアをつかむと、再び地下の練習場に戻った。その時には川内はとっくに話を終えて、ヘッドギアを装着していた。

 頭部を守るヘッドギアは別に二人がかりでなければ着けられないものではないが、サトルに着けてもらえと言われればおとなしく待っているあたりは可愛いなぁと思う。

 すぽっと頭の上からヘッドギアを被せ、頭の後ろでマジックテープで止める。

「痛くないか? 頭が動きにくいとか、そういうのは大丈夫か?」

「大丈夫。痛くもないです」

 頭を振ったり上下に動かして、ずれたりしないことを念入りに確かめサトルに向けてぐっと親指を立ててみせるつかさに、サトルがグローブをつけさせようとした時、つかさがぼやいた。

「でも私、鼻付きのヘッドギアは視界が狭くなって嫌なんだけれどなぁ」

 ッドギアは試合用と練習用がある。試合用は側面が守られ顔面の広い部分が露出している。練習用は頬回りが大きく出たヘッドギアと鼻を覆うバーが付いたものとがある。

 ヘッドギアの有用性には前々から議論がある。外傷は防げても脳へのダメージ――首は固定されていないわけだからパンチをもらったら脳は揺れてしまうのは自明だし、ヘッドギアがあることでパンチをよける意思が希薄になりかえってパンチをもらってしまうという説もある。

 また守られる部分が必然的に増えてしまうため視界が狭くなってしまい、パンチを避けにくくなってしまい、実は練習用の鼻付きより試合用の方が安全性が高いと語るボクシング経験者も多い。

 つかさのファイトスタイルを考えると、視界が十分に確保できる方がいいと思うのは当然かもしれないが、今回に関しては身を守る防具は強固なのに越したことはない。

「それでも心許ないくらいだ。文句があるのなら、空手とかで使う顔面の前に強化プラスチックのフェイスガードが付いたヤツにしようか? それとも、バイクのヘルメットをつけてやるか?」

 サトルは自分で言っておいて、ヘルメットをつけてボクシングをしているところを想像し、思ったよりシュールだったので頭から振り払う。つかさも同じことを考えたのか、げんなりしたような顔で、「勘弁してよ」と答えた。

 それから、さらにつかさに練習試合用の12オンスのグローブを装着させる。グローブをつけ終えてから、叩かれた拍子にずれたりしないか、グローブの上からぱんぱん、ヘッドギアの上からもぱんぱんとはたく。

「そういえばマウスピースはつけたか?」

「あ。忘れてた」

「どこにある?」

 つかさは隅っこに設置された棚にかけた、いかにも女の子の小物入れらしいポーチをグローブで示した。

「開けてもいいのか?」

「仕方ないし。大したものは入ってないし」

 サトルがポーチを開けて中からマウスピースが入った半透明のケースを取り出した。今度は部屋の逆側の隅の洗い場まで走っていき、ケースからつかさの水色のマウスピースを取り出し、ざっと水洗いしてから駆け足で戻った。

「ほれ、口開けて」

 と言いながら、マウスピースをくわえさせる。マウスピースをくわえて、手を使わずに口の中へ入れたつかさは、口の中で場所を整えて噛み合わせの位置を合わせた。

 もごもご……。

 2、3秒してから、「オッケーか?」というサトルの問いに、「おっへーです」と返事が返ってくる。

「ガンバレ」

 ポンとつかさの背をたたいてから、「準備は終わりました」とリング上の川内と、木暮会長に声をかける。

「よし、じゃあ、リングに上がれ」

 ある意味一番やる気満々なのは会長かもしれない。

 リングの横に小さな机がある。その上には木槌と、年代物のゴングが置かれている。サトルはポケットに入れていたストップウォッチを首から下げた。

 サトルは木槌をつかむと、ロープをくぐり、リングの中に入っていくつかさを目で追った。
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