ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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プロローグ

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 たとえ家族を失っても……そんな思いで妻に切り出した木暮だったが、拍子抜けするほど妻はあっさりと賛成に回ってくれた。お金の無心に、妻の実家に頭を下げに行く――妻の実家は手広く事業を展開する地元の有名企業の創業者だった――時も、積極的に協力してくれた。

 妻の父、つまり木暮の義父は、決していい顔はしなかったが、最後は折れて協力することを約束した。

 その時に、経営に口を挟むつもりは毛頭ないが、と前置きした上で一つの条件が出された。それは、チャンピオンや有名選手を輩出することにこだわらず、運動不足の解消やダイエットといった“戦うこと”以外を目的とする人たちも対象に間口を大きく広げることだった。

 その条件は、木暮にとっては不本意なものだったが、その約束はしっかりと守り、新しく旗揚げしたボクシングジムを、プロボクシングの統括団体には参加させなかった。

 それから10年――。義父のアドバイスの通りにしたのが良かったのか、会員は100人を数えることになった。その多くが、試合とは無縁の体力づくりやダイエットを目的にした主婦やサラリーマン、引退後の団塊の世代だったりする。

 しかし、中にはアマチュアの選手として活躍した者もいる。3年連続で全日本実業団ボクシング選手権でウェルター級を制した川内将輝などは出世頭といっても良い。

 その後に続くことを目指して、リングの上で暴れまわることを目標に腕を磨いているボクサーの卵も少なからずいる。

 今では、その川内がトレーナーとして彼らを指導している。川内を含めて2人のトレーナーと、アルバイトのスタッフを2人、事務員を1人、抱えるまでになったのだった。

「いつまで、俺も見ていられるかわからんが……」

 木暮は顔を上げて、2階建てのジムの正面の外壁に10年前に掲げた看板を見上げた。今度はジムの名前を間違えられないように、くっきりした赤い文字で、『キグレボクシングジム』と書かれていた。

「俺が見ていられる間は、俺を楽しませてくれよ」

 50を過ぎて白髪は増えたししわも深くなったし、手も固くなった。体型も、中年らしく腹が出っ張った筋肉の形も見えない丸みのある体つきは、トレーニングを再会したところで現役時代のそれに戻るはずもない。

 だが、10年経っても、あの日思い描いたことは忘れない。この街には……この国には、きっと数え切れないほどの“強さに飢えた”奴がいるに違いない。

 木暮は拳を握り、全力で右ストレートを打ち出した。練習生と一緒に汗を流す日を作るようにしており、今はもう、この程度で体を痛めたりすることはない。その手の中には一通の便箋が握られていた。それは、かつて木暮と同期の友人で、遠く離れた街でボクシングジムを開いている大串と言う人物からのものだった。その中には、昨年、47.5kg以下級の中学生女子の全国チャンピオンになった高野つかさを預かってほしいという内容が書かれていた。

 その子が、今日来ることになっているのである。

「いい天気だ。今日もいい一日になるといいなぁ」

 木暮は大きく伸びをして、ジムの中に入っていった。三月末日月曜日の昼を回ったばかりのころだった。

          *     *     *

 木暮がジムの中に消えてから程なく、一人の少女が姿を現した。おろしたてと見られる、地元の高校の制服を身に纏っていた。胸元には『高野つかさ』と書かれたネームが安全ピンで留められていた。

 キグレボクシングジムは駅から徒歩で15分。駅の南口を出て、入り口を間違えなければ一本道で迷うことはない。ジムの正面に10台ほど停めることができる駐車スペースを設けていて奥まってはいるものの、道からでも見られる大きな看板も設置しているので、見落として通り過ぎる心配はまずない。

 この少女も迷うことはなくやって来れたが、母親の生家があるこの街に、10日ほど前に生まれて初めてやってきたばかりだったので、街の空気にはまだ馴染めておらず、勝手がわからず不安だらけだった。

「ここだ……間違いない」

 来週の入学式の前に、大串会長から紹介のあったボクシングジムに入会の手続きを済ませておこうと赴いてきたのだ。掌のメモ用紙を何度も確かめて、小さく深呼吸した。

「会長さんやコーチが、いい人だったらいいなぁ……」

 期待半分、不安半分の言葉を口にして、つかさはキグレボクシングジム入り口の自動扉の前に立った。






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