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1章
出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【2】
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ほんのこの間まで現役だった32歳とあって、今でも、このジムに川内に勝てる選手はいない。唯一の例外はもう一人のトレーナーの鈴木俊哉だが、川内より2歳年上の鈴木は高校時代からの実績を積んできたボクシングエリートで、キグレボクシングジムの生え抜きではない。ジムの中で一番の期待の星になっているつかさにしても、他所でボクシングを学んでからこのジムに入ってきたのだから、これからどんなに結果を残しても生え抜きとは言い難い。
キグレボクシングジムでボクシングを始めて、キグレボクシングジムで強くなって、大きな大会などで実績を残してくれる選手が出てきてほしい、と願うのはサトルだけでもないだろう。自分がミットを持った選手が試合に出れば誇らしくも感じるし自慢にもなる。もっとも、サトルには自分がそうなる、という気持ちは持ち合わせておらず、そのことを周囲の者たちからは残念がられていることに気付いてはいなかった。
それはさておき、今、ジムの練習生を見ているのは、キリカと川内の2人で、練習に来ているのはつかさだけ。開店直後とはいえ、練習生が一人しかいないのは、土曜日にしては珍しいことだった。
川内はリングに腰掛け、吉野がその傍らに立って、何か話し込んでいる。どうやら、大会に出場する選手について、何か相談をしているらしかった。
なので、つかさの練習はキリカが見ている状態だった。
「サトル。アンタ、今日は休みじゃなかったの?」
準備運動を始めようとしたサトルに、サンドバッグを抑えたままでキリカが振り返り声をかけてきた。
「そうですよ」
屈伸をしながらサトルは答える。
「でも、僕も、ここのスタッフだけれど、会員でもあるんですよ」
それは、キリカも同様である。アルバイトの2人は、ある程度時間を拘束されてミットを持ったり、初心者の指導をしたり、ジム内の雑務をこなしたりする代わりに、会費は免除という扱いになっていた。その代わり、バイト料自体はそんなに良くもない。悪くもないが。
「……休みだから少しばかり汗を掻きに来ました」
「だったら正面から入ってくればいいのに」
「練習靴を2階のスタッフルームに置いたままにしてたんですよ」
と言いながら、今度は大きく息を吸い込みながら伸びをした。
ちょうどそのとき、一瞬サンドバッグの音が乱れた。
サンドバッグのほうに目をやったサトルとつかさの目が合った。つかさは、サトルとキリカが話しているのを聞いて、ようやくサトルが入ってきたのに気づいたようだった。
サトルに、はにかんだような笑顔を見せながら、「どうもこんにちは」と声をかけてきたつかさに、もう一回挨拶をしてから準備運動を続けた。
練習場にサンドバッグを叩く小気味のよい音響いていたが、電子音が響いたタイミングで
サンドバッグを叩く音が止まる。
ボクシングは1ラウンド3分、インターバル1分で行われる。練習もその時間に沿って行われており、練習量も何ラウンドやったか、で表される。
「高野さんは何ラウンドさんバッグを叩いた?」
「3ラウンド終わりました」
といった具合に。
今の電子音は、ラウンドの終了を告げるものだ。壁に設置されたデジタル時計は規則正しく3分と1分の表示を交互に映し出している。
「サトル。ちょっと来てくれ」
と川内に声をかけられたサトルは、リングサイドに腰を下ろしたままの川内の傍に、腕を伸ばしながら歩み寄った。続けて、3ラウンド終わったと答えたつかさも呼ばれた。タオルで額の汗を拭きながらつかさも寄ってくる。サンドバッグを支えていたキリカも一緒にやってくる。
用が終わったらしい吉野は、「それじゃ、何かあったら内線で呼んで」と言い残して練習場を出て行った。
今、練習場の中にいる4人全員が一箇所に集まる格好になった。サトルは準備運動の手を休めずにいたが、
「サトルの準備が終わったら、高野さんとマスボクシングをやって」
という台詞に手を止めて聞き返した。
「いいんですか?」
「いいんですか!」
期せずして、ニュアンスの違う同じセリフが重なった。戸惑うサトルに対して、嬉しそうに目を輝かせるつかさ。
入会から2週間経っているが、まだ寸止めで打ち合いをやるマス・ボクシングも、実戦練習であるスパーリングも1度もやっていなかったから、つかさが喜ぶのは、サトルだってよくわかる。
つかさのボクシング歴はそれなりに長いとはいえ、川内らコーチが彼女のレベルを把握しないうちに実戦形式の練習をさせるわけにはいかなかったために、ここまでやらせずに来たのだが、つかさからしてみればお預けを食わされた犬のような心境だっただろう。
ただ、やらせなかったことには別にも理由があった。つかさと実戦形式の練習をさせられる丁度いい相手がいないのである。
キグレボクシングジムでボクシングを始めて、キグレボクシングジムで強くなって、大きな大会などで実績を残してくれる選手が出てきてほしい、と願うのはサトルだけでもないだろう。自分がミットを持った選手が試合に出れば誇らしくも感じるし自慢にもなる。もっとも、サトルには自分がそうなる、という気持ちは持ち合わせておらず、そのことを周囲の者たちからは残念がられていることに気付いてはいなかった。
それはさておき、今、ジムの練習生を見ているのは、キリカと川内の2人で、練習に来ているのはつかさだけ。開店直後とはいえ、練習生が一人しかいないのは、土曜日にしては珍しいことだった。
川内はリングに腰掛け、吉野がその傍らに立って、何か話し込んでいる。どうやら、大会に出場する選手について、何か相談をしているらしかった。
なので、つかさの練習はキリカが見ている状態だった。
「サトル。アンタ、今日は休みじゃなかったの?」
準備運動を始めようとしたサトルに、サンドバッグを抑えたままでキリカが振り返り声をかけてきた。
「そうですよ」
屈伸をしながらサトルは答える。
「でも、僕も、ここのスタッフだけれど、会員でもあるんですよ」
それは、キリカも同様である。アルバイトの2人は、ある程度時間を拘束されてミットを持ったり、初心者の指導をしたり、ジム内の雑務をこなしたりする代わりに、会費は免除という扱いになっていた。その代わり、バイト料自体はそんなに良くもない。悪くもないが。
「……休みだから少しばかり汗を掻きに来ました」
「だったら正面から入ってくればいいのに」
「練習靴を2階のスタッフルームに置いたままにしてたんですよ」
と言いながら、今度は大きく息を吸い込みながら伸びをした。
ちょうどそのとき、一瞬サンドバッグの音が乱れた。
サンドバッグのほうに目をやったサトルとつかさの目が合った。つかさは、サトルとキリカが話しているのを聞いて、ようやくサトルが入ってきたのに気づいたようだった。
サトルに、はにかんだような笑顔を見せながら、「どうもこんにちは」と声をかけてきたつかさに、もう一回挨拶をしてから準備運動を続けた。
練習場にサンドバッグを叩く小気味のよい音響いていたが、電子音が響いたタイミングで
サンドバッグを叩く音が止まる。
ボクシングは1ラウンド3分、インターバル1分で行われる。練習もその時間に沿って行われており、練習量も何ラウンドやったか、で表される。
「高野さんは何ラウンドさんバッグを叩いた?」
「3ラウンド終わりました」
といった具合に。
今の電子音は、ラウンドの終了を告げるものだ。壁に設置されたデジタル時計は規則正しく3分と1分の表示を交互に映し出している。
「サトル。ちょっと来てくれ」
と川内に声をかけられたサトルは、リングサイドに腰を下ろしたままの川内の傍に、腕を伸ばしながら歩み寄った。続けて、3ラウンド終わったと答えたつかさも呼ばれた。タオルで額の汗を拭きながらつかさも寄ってくる。サンドバッグを支えていたキリカも一緒にやってくる。
用が終わったらしい吉野は、「それじゃ、何かあったら内線で呼んで」と言い残して練習場を出て行った。
今、練習場の中にいる4人全員が一箇所に集まる格好になった。サトルは準備運動の手を休めずにいたが、
「サトルの準備が終わったら、高野さんとマスボクシングをやって」
という台詞に手を止めて聞き返した。
「いいんですか?」
「いいんですか!」
期せずして、ニュアンスの違う同じセリフが重なった。戸惑うサトルに対して、嬉しそうに目を輝かせるつかさ。
入会から2週間経っているが、まだ寸止めで打ち合いをやるマス・ボクシングも、実戦練習であるスパーリングも1度もやっていなかったから、つかさが喜ぶのは、サトルだってよくわかる。
つかさのボクシング歴はそれなりに長いとはいえ、川内らコーチが彼女のレベルを把握しないうちに実戦形式の練習をさせるわけにはいかなかったために、ここまでやらせずに来たのだが、つかさからしてみればお預けを食わされた犬のような心境だっただろう。
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