古への守(もり)

弐式

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二十五.(最終)

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 自分の右の手に触れるのは誰の手か目を向けると、奈津の小さな手よりずっと幼い手が握りしめていた。その手の手首、腕、肩と目線を上げていくと、見慣れた顔にたどり着いた。

 誰かに抱えられて、すやすやと寝息を立てている佐奈の顔。奈津は名前を呼んでみるが「ん……」と身じろぎしただけで起きる気配はない。
 
 ずっと探していた妹に再会したはずなのに、目の前に迫ってくる野犬の恐怖と、ありえないことが起こった驚愕とで、頭がうまく回っていないせいか、何の感慨も沸いてこなかった。せいぜい思わずぶん殴りたくなった程度である。

 奈津はさらに目線を上にむける。佐奈を抱えているのは、年の頃は奈津とほとんど変わらないように見える女の子だった。

 少女が着ている真っ白なワンピースとほとんど変わらないくらい肌の色も白く、二の腕がやたらと細くて、背の高さは奈津と同じくらい。目鼻立ちがぱっちりした普通の人間なら美少女で通るだろう容姿。頭の上に、鮮やかな緑色の草や蔓が大量に乗っていて、まるで緑色の髪のようだ。

 細部まで、この暗闇の中ではっきり見えるのは、その少女自体が淡い光を放っているからだった。それで、少女が人外の存在なのだと確信する。

「あなたは……神様?」

 そんな奈津の声と、

「葉月……?」

 と呆然としたような春人の声が重なる。

 春人に葉月と呼ばれた少女は、無言のまま一歩二歩と進む。一瞬だけ奈津と肩が並び、すれ違う。その瞬間、奈津が神々しさのようなものを感じたのは、その全身を覆い、その腕の中の佐奈を照らしている光のせいばかりではない。今晩、この森のあらゆる命が活動を止めてしまったかのような異様な静けさは、この少女のせいだったのだと、感じた。奈津だって、この少女がすぐ近くにいたなら、息を潜めてやり過ごすことを選んでいただろう。 

 奈津にさえ気付いた少女の異質さを、この森で暮らす野犬たちが気付かないはずがないと思うのだが、食欲が恐怖に勝ったか、森の外で生まれた野犬たちは野生の本能を鈍らせていたか、新たな乱入者に威嚇の唸り声をあげ、攻撃の体勢をとった。

 少女は意に介した様子もなく、さらに歩みを進めていく。

 ぴりっと空気がはじけた――ような気がした。戦いの始まりを感じたが、次の瞬間には野犬たちはくるりと背を向けて、散り散りに去っていった。

「……た、助かったの?」

 さっきまで脅威だった野犬たちの姿は全く見えなくなったが、まだ近くに潜んでいるのではないかと震えながら奈津は呟いた。呟いてから、沙奈のことを思い出した。

 奈津は「沙奈っ!」と声を上げ、少女のところに駆け寄る。野犬たちが去っていったら、少女も足を止めていた。奈津が近づいてもまるで表情を変えなかったが、「葉月っ!」と木の枝を放り捨てた春人も少女の前に立った時は微かに肩を震わせたのが奈津には見えた。

 それを見て、彼女は人間ではなくても、心を持たない存在というわけではないようだと奈津は思った。沙奈を抱えたまま、少女は再び歩き出す。不思議と、その小さな背中が、「ついてこい」と促しているような気がして、奈津と春人は後を追った。

     *     *     *

「やっぱり、あの少女は、葉月ちゃんなんですか?」

 2,3歩前を歩いていく少女の背を見ながら、奈津は横を歩く春人を見上げた。

「ああ……失踪した時のまんまだ。変わったところと言えば、頭の上の草と、裸足で歩いていることくらいか。葉月は、砂場でも海岸でも、裸足で直接歩くのを嫌っていたから……」

 頭の上の草と言われて、屋敷の中に落ちていた白詰草の葉を思い出す。それから少女の頭の上に目をやると、そこには、特徴的な白詰草の三枚の葉や、白く小さな可愛らしい花が、無造作に乗っている。その下からは、真っ黒い髪が伸びていた。

 やっぱり……あれは……。

 奈津は、屋敷の中で、何度も少女の痕跡を見ていたことを考える。人と繋がりを絶たざるを得なかった少女が、人知れずかつて人だった場所に度々足を運ぶ理由は何だったのだろうか……。

 その時、その少女が歩みを止めた。奈津のほうに振り返ると、しゃりしゃりしゃりとかすかな音を立てながら近づいてくる。変わらずの無表情で、相変わらず寝こけたままの佐奈を差し出してきた。慌てて佐奈を受け取った奈津は、「あ……ありがとう」と戸惑いながら謝辞を返す。

 その時、確かに少女がはにかんだ様な笑みを浮かべた。それは、とても人間のような笑みだった。それから少女がゆっくりと腕を伸ばして指をさした。その先には、見覚えのあるトラロープが地面に落ちていた。これをたどっていけば、森の入り口にたどり着くはずだ。

「葉月!」
 
 少女が伸ばした腕を、横から春人が掴んだ。

「戻って来いっ! お前がいるべき場所は、そっちじゃない!」

 ばちっと言う小さな破裂音が響いた。春人の「ぐぅっ」と痛みをこらえる声に続いて、肉の焦げる匂いが辺りに漂い、奈津は思わず春人の手を見る。少女の放つ光に照らされた春人の手は真っ黒になっていた。

 それでも、春人は手を離さなかった。

「戻って――」

 春人のほうを見上げた少女は、今度は俯き、小さく首を左右に振った。その明確な拒否の姿を見て、春人は苦しそうに手を放す。

 両手が自由になった少女が背中を向けて、元来た道を帰っていく。その背中に向けて、春人がもう一度「葉月っ!」と叫んだ。

 しかし、その悲痛な声に、少女が応えることはなく、ふっと闇の中へ溶け込むように消えていった。

*    *    *  

 この道を通るのは何度目だろう。この階段を上るのは何度目になるだろう。神木のところから屋敷へと、奈津は佐奈を抱えて歩く。なんだかすごく軽く感じ、「俺が抱えていこうか?」という春人に問われても、「大丈夫です」と断った。

「それに春人さんだって、怪我をしているじゃないですか」

 黒く焦げた春人の右手に、奈津は顔をしかめた。

「それこそ心配無用だ。少し痛いけれど、葉月も手加減をしてくれたみたいだしな」

 夜空は雲もなく瞬く星々とくっきりとした満月に近い月が放つ煌々とした明かりが眩しく感じ、足下が気にならない。

 いつしか、にぎやかな虫の声が奈津たちを包みこんでいた。あの森の中の異様な静寂を思い出し、奈津は自分たちがあっち側の世界から戻ってきたのだと実感する。

「でも……やっぱり妹さんなんですね。お兄さんが危険になって、ああやって助けに来たんですよ」

 それだけは言っておかなければ、と奈津は何となく思う。佐奈を渡すときに彼女が見せた笑みだけはきっと人間のそれで、その笑みを向けた相手は、自分ではなく春人だったと思うから。

「そうかな」

 と春人は答える。

「俺には最後の顔は――俺はどうしたところで、この森から逃れられないんだと、言いたいように思えたが」

 どちらが正しいのか、その答えを知る術は奈津にはない。

「やっぱり代ろう。君が、この子を抱えてこの階段を上がるのは大変だろうから」

 崖の下の階段の真下に来たところで春人が言う。ここを上がれば、本当に人の世界。人が作り出した明かりが、出迎えてくれる。答えを考えたところで、答えは出ない。奈津はそう思いながら佐奈を預ける。

「上がったらシャワー借りていいですか」

 言いながら佐奈を手渡す。

「この子も起こして、一緒に浴びておいで」

 春人に渡してから、佐奈の頭に白詰草の葉と花を編んで作った冠が乗っているのに今頃気付いた。それをみて、奈津は、葉月はきっと佐奈と遊んでくれていたんだろうな、と思った。ただ、人だった時にそうしたように、誰かと一緒に遊びたくて迷い出ただけかもしれない。もしかしたら、自分とも一緒に遊びたかったのかもしれないと奈津は思った。

 この地での滞在の予定はもう何日かあるが、もし、もう一度、葉月に会ったらどうすればいいだろう。きっと、もう二度と会うことはないだろうと、漠然とした確信を持ちながらも、その時のことを思い、怖いようにも、楽しみなようにも、感じていた。
 
 それにしても、よくここまで落ちなかったものだと思いながら、階段を上がる間は持っておこうと、奈津は冠に指をかけた。引っ掛かりを感じて、うまく引きはがせない。

 髪と絡んでいるのだろうか、とちょっと力を入れてみる。プチプチっと何かが千切れる嫌な感触があった。

「いひゃい」

 と寝言で呟いた佐奈が小さく身じろぎした。
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