弐式のホラー小説 一話完結の短い話集

弐式

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七話.一杯の水から

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 とある小さな町のはずれに、少し大きなお屋敷がありました。豪邸と呼ぶほどのものではないにせよ、古く立派な邸宅には、広い庭がついていました。

 庭の隅には井戸があり、その横には木製のベンチや、ブランコと鉄棒といった簡単な遊具がいくつか設置されていました。 

 この家の主は、初老の婦人でした。貿易を営む大きな会社の経営者だった旦那は、数年前に婦人に莫大な遺産を残して亡くなっていました。夫婦の間に子供は男の子が一人いましたが、その子は少年の頃に事故で死んでいました。庭の隅の遊具は、この子供の為に作られたものでしたが、今は誰も使うものがいないまま、誰も近寄ることもなく、時折吹いた風に揺られてブランコがキィキィと寂しそうな音を立てるばかりです。 

 婦人は一人暮らしでしたが、通いの家政婦や介護師と庭師がいましたし、財産は弁護士に管理を任せていたので、老後のことも、自分が死んだ後のことも何ら心配することもないと考えておりました。 

 婦人は決して意地の悪い人だったわけではなく、とても善良で優しい人だったのですが、人づきあいが上手くなかったので、あまり表に出ることはなく、町の人たちから気取った偏屈な人だと思われ敬遠されていました。婦人はそんなことは知りもしませんでしたし、知っていたとしても気にも留めませんでした。  

 婦人は、好きな本を読んだり、趣味の編み物や刺しゅうをしたりといった悠々自適の生活を楽しんでいましたし、これ以上望むものはないと思っていました。 

     *   *   *

 そんなある日、いつものように自室で椅子に腰かけて本を読んでいると家政婦が「奥様」と声をかけてきました。

「乞食が来て、庭の隅の井戸の水を求めているのですが、いかが致しましょう?」 

 婦人は、そのくらいのことならと思い、「自由に使わせておやりなさい」と言い、さらにその乞食の為に何かしら食べ物を見つくろってやるように申しつけました。 

 翌日も、その乞食がやって来て、同じように水を求めましたので、婦人は再び前日と同じようにするように、家政婦に命じました。

 そんなことが幾度となく続くと、乞食は許可を得ることもなく井戸を使うようになりましたが、婦人は気にも留めていませんでした。

 ある日、庭師が「乞食が井戸の水を飲んだばかりか、ベンチで食事をとっている」と言ってまいりました。この時も本を読んでいた婦人は顔を上げて、「ごみを散らかされては困るけれど、そうでないのなら食事の場所くらい好きにさせておやりなさい」と言って、読書の続きを再開しました。

 実際、乞食はごみを散らかしたりして庭を汚すようなことはしなかったので、婦人はよいことをしているというくらいにしか考えていませんでした。 

 そんなことがしばらく続いたある日、婦人が庭を見ると、隅の方――井戸やベンチがあるところにテントが張ってあるのが見えました。あの乞食だとすぐに気付きましたが、外は窓にパチパチと強く打ちつける激しい雨とビュービューを恐ろしいほどの音を立てながら吹きつける風の真っただ中でしたので、出て行けと言うのも気の毒に思い、見て見ぬふりをすることにしたのです。 

     *   *   *

 問題は、この乞食がさらに翌日からも居座り続けてしまったことでした。テントを張ったままで出て行く気配もないため、さすがの婦人も気になり始め、そろそろ何とかしなければ、一度弁護士に相談してみようと思っていた矢先、婦人のところに市役所の人間を名乗る二人組がやってきました。

 一人は中年の、もう一人は新人かせいぜい2、3年目くらいのかなり若い男で、安っぽいスーツに身を包んでいました。

「役場の方が何のご用でしょう?」

 婦人が尋ねると、

「実は……」

 と中年の役人が、「この方をご存知ですか?」と聞いたこともない名前を出しました。婦人は戸惑いながら、そのように答えますと、役人が言うには庭の隅で寝泊まりしている乞食の名前なのだそうです。

「……実はこの人が、この家の住所で住民登録をしようとしているので、確認しに来たのです」

「とんでもない!」

 と婦人は顔の前で両手を振って、

「あの人は、勝手に寝泊まりしているだけですわ」

「でも、あそこに住んでいるんですよね?」

 と若い方の役人が口を挟みました。

「居住実態があれば、我々は住民登録しなければなりません」

 婦人は、唖然としてしまいました。開いた口がふさがらないとはまさにこのことです。役人たちを一旦引き取らせて、弁護士を呼びつけて、乞食を立ち退かせるための措置を相談し合いました。

 ところが、思わぬところから敵が現れました。それは、何と町の住民たちだったのでした。

「今まで放っていたのにいきなり出て行けと言うなんてひどいじゃないか」

「大きな庭があるのに、その隅で寝泊まりするくらい好きにさせてやればいいじゃないか」

 そんな抗議の電話や手紙が、婦人の元や町の弁護士の所に次々と届いたのです。

 婦人は、町でこの乞食が一体何を話しているのか確かめることができず、突然起こった自分へのバッシングに非常に戸惑い、困り果ててしまいました。

 そんなある夜、婦人は乞食がたくさんの廃材を庭に持ち込んでいるのを見かけました。婦人はすぐに、乞食が即興で建物を作ろうとしているのだと気付きました。これ以上、庭を荒らされてはかないません。さすがに温厚な婦人も頭に血が上り、警察を呼ぼうと電話に手を伸ばしました。

 その時、プツンっ! と頭の中で何が科切れたような音が響き渡りました。婦人は受話器を握りしめたままで倒れこみました。その反動で、台の上に載せていた電話機も一緒に床に落ちて激しい音を響かせましたが、婦人はもうこの音を聞くことはありませんでした。

     *   *   *

 翌日、家政婦たちがやってきて、井戸の横に出来た小汚いほったて小屋と、居間で受話器を握りしめたままで倒れ、すでにこと切れた婦人を発見しました。

 婦人の遺産は、身寄りもないため、国が没収することになりましたが、町の住人たちが、事実上の同居人だった乞食が受け取るべきではないかと言いだしました。それから様々な過程を経て――婦人の莫大な遺産はこの乞食が受け取ることになりました。どうせ国庫に収まる金だからだと、婦人の遺産を積極的に守ろうとする者はいなかったのです。

 こうして乞食は大金持ちになりましたとさ。

 ――めでたしめでたし。

 と、町の人たちは考えました。

     *   *   *
 
 それから数日後。

 町のある住人の家に乞食がやって来て云いました。

「申し訳ありませんが水を一杯恵んでいただけませんか? あと、玄関先でご飯を食べさせてもらませんか?」
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