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想定外
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オーレンの、過去の女について思いを巡らせたことはあったが、「好きな人ができたから出ていきます」と言われることは、実のところ想定外だった。あくまでも、「約束を果たしたから」と笑って出ていくのだろうと思っていた。
いや、違うな。笑って?
注意事項を山ほど述べてから、心配そうに去る姿の方が思い浮かべやすい。だったら、出ていかなきゃいいのに。
ナジュアムがごちゃごちゃと考えていると、やがてオーレンが帰って来た。
「ただいま帰りました。ナジュアムさん?」
カタカタとかすかな物音がする。もしかして探されているのだろうかと思うが、顔を出すのはどうにも億劫だった。眠ったフリでやり過ごす。そのうち本当にうたた寝してしまったらしい。
遠慮がちのノックとともに、扉の向こうからオーレンの声が聞こえた。
「ナジュアムさん、寝てるんですか? 食事ができたんですが」
半分寝ぼけたまま「うん」と返事をしてしまったので、仕方なく起きることにする。
ナジュアムは、オーレンの方をろくに見もせずテーブルに着く。布製の鍋敷きの上に、楕円形のパイ皿がどんと乗っていた。
「これは?」
返事がないので顔をあげると、彼はわずかに首を傾げて微笑んだものの答えてはくれなかった。食べてみてのお楽しみということらしい。
別に心配していたわけではないが、オーレンの顔や袖口に、これ見よがしに口紅が付いているなどということもなかった。
なんとなくホッとして、改めて料理に目を落とす。
お酒は白ワインの炭酸割り、スープはあっさりしたコンソメ。フェンネルとオレンジのサラダ。だったら、メインは少し重めだろうか。
サクッとした生地に匙を突っ込むと、白いソースとサーモンの綺麗なピンク色が見えた。キノコと玉ネギも入っているようだ。
とろりとした濃厚な乳の甘みと、サーモンの脂が絡まって美味しい。美味しいはずだ。
けれどナジュアムの脳裏に、二人でカフェに入っていくオーレンと女性の背中がチラチラを浮かんでどうにも料理に集中できない。
「……口に合いませんでしたか?」
「あ、いや、そんなことはないよ」
「じゃあ、クッキー食べすぎちゃったんですか?」
「え?」
思いがけないことを言われて、ナジュアムは思わずオーレンを見た。ところがオーレンの方は、なにやら口を尖らせそっぽをむいている。
「作るって言ってたでしょう、今日」
「ああ、うん。一枚味見したけど、残りは全部孤児院に持ってったよ」
「俺も食べてみたかった」
オーレンはムスッとしている。何を言われたのか、ますますわからなくなって、ナジュアムは首を傾げる。
「……オーレンに食べさせるほどのものじゃないよ」
「そんなの食べてみないとわからないじゃないですか」
食に対する興味、だよな。
ナジュアムの手料理だから食べたいということではないハズだ。一瞬浮上しかけた気分がやっぱり沈んでしまう。
だって、君、今日女の人といたじゃないか。カフェで何か甘いものでもつまんできたんじゃないのか。
嫌だな。みじめたらしく、愚痴っぽいことを考えてしまった。
仕事をしよう。幸いやることはたくさんある。
あとはできるだけ普段通りに過ごす。
オーレンと交わした約束は、ヤランが置いていったあのお金を全部美味しいものに変えるというもの。最初から彼との暮らしは期限付きだったのだ。
ナジュアムはそう決意して、仕事に打ち込んだ。
実際、仕事をしている最中はよかった。忙しくて余計なことを考えている暇なんてない。
けれど帰り道には一気に足が重くなる。オーレンが待っていると知っているから、寄り道するわけでもないのだが、それでも少しずつ帰る時間は遅くなっていった。オーレンは気づいているだろうか。
そんなふうに一週間を過ごし、週末、ナジュアムは人気のない道をとぼとぼと歩いていた。
せめて晴れていれば星に見とれていたとか、言い訳のしようもあるかもしれないが、残念ながら分厚い雲が垂れ込めていた。
今にも降ってきそうだな、なんてぼんやり考えていたら、本当にポツリと落ちてきた。
雨脚は弱いから、ナジュアムは急ぐでもなくそのまま歩きつづけた。
そういえば前にオーレンが、傘を持って迎えに来てくれたことがあったっけ。
恋人にもああやって優しくするんだろうか。まだ、あの女性がオーレンの恋人と決まったわけでもないのに、そんなことばかり考えてしまう自分が嫌になる。
「ほんと、バカみたいだな、俺」
「そうですね」
思いがけず近くで返事が聞こえて、ナジュアムはギョッとする。
「ナジュアムさんって、雨に濡れる趣味でもあるんですか」
「オーレン、なんでここに!?」
「降りそうだったから、早めに迎えに来たんです。傘、持って行かなかったから」
外灯の下、心配顔のオーレンがナジュアムに傘を差しかけた。
黒い温かな瞳に覗き込まれて、ナジュアムは彼から目が離せなかった。ああ、彼が好きだ。
「ナジュアムさん?」
ナジュアムは衝動的に動いていた。
さっと近づいて、背伸びをして、彼のくちびるにキスをした。
軽く触れただけだったのだが、オーレンは大げさにのけぞった。そして、唇をぬぐうような動作をしてナジュアムから距離を取る。
傘がころころと転がっていった。
オーレンはハッとした様子でそれを追いかけて、立ち尽くすナジュアムに傘を押し付けた。体ごとそむけるように、腕だけ伸ばして。
ナジュアムがそれを受け取ると、冷たく低い声で吐き捨てた。
「こういうことは止めてください」
ハッキリとした拒絶だった。
いや、違うな。笑って?
注意事項を山ほど述べてから、心配そうに去る姿の方が思い浮かべやすい。だったら、出ていかなきゃいいのに。
ナジュアムがごちゃごちゃと考えていると、やがてオーレンが帰って来た。
「ただいま帰りました。ナジュアムさん?」
カタカタとかすかな物音がする。もしかして探されているのだろうかと思うが、顔を出すのはどうにも億劫だった。眠ったフリでやり過ごす。そのうち本当にうたた寝してしまったらしい。
遠慮がちのノックとともに、扉の向こうからオーレンの声が聞こえた。
「ナジュアムさん、寝てるんですか? 食事ができたんですが」
半分寝ぼけたまま「うん」と返事をしてしまったので、仕方なく起きることにする。
ナジュアムは、オーレンの方をろくに見もせずテーブルに着く。布製の鍋敷きの上に、楕円形のパイ皿がどんと乗っていた。
「これは?」
返事がないので顔をあげると、彼はわずかに首を傾げて微笑んだものの答えてはくれなかった。食べてみてのお楽しみということらしい。
別に心配していたわけではないが、オーレンの顔や袖口に、これ見よがしに口紅が付いているなどということもなかった。
なんとなくホッとして、改めて料理に目を落とす。
お酒は白ワインの炭酸割り、スープはあっさりしたコンソメ。フェンネルとオレンジのサラダ。だったら、メインは少し重めだろうか。
サクッとした生地に匙を突っ込むと、白いソースとサーモンの綺麗なピンク色が見えた。キノコと玉ネギも入っているようだ。
とろりとした濃厚な乳の甘みと、サーモンの脂が絡まって美味しい。美味しいはずだ。
けれどナジュアムの脳裏に、二人でカフェに入っていくオーレンと女性の背中がチラチラを浮かんでどうにも料理に集中できない。
「……口に合いませんでしたか?」
「あ、いや、そんなことはないよ」
「じゃあ、クッキー食べすぎちゃったんですか?」
「え?」
思いがけないことを言われて、ナジュアムは思わずオーレンを見た。ところがオーレンの方は、なにやら口を尖らせそっぽをむいている。
「作るって言ってたでしょう、今日」
「ああ、うん。一枚味見したけど、残りは全部孤児院に持ってったよ」
「俺も食べてみたかった」
オーレンはムスッとしている。何を言われたのか、ますますわからなくなって、ナジュアムは首を傾げる。
「……オーレンに食べさせるほどのものじゃないよ」
「そんなの食べてみないとわからないじゃないですか」
食に対する興味、だよな。
ナジュアムの手料理だから食べたいということではないハズだ。一瞬浮上しかけた気分がやっぱり沈んでしまう。
だって、君、今日女の人といたじゃないか。カフェで何か甘いものでもつまんできたんじゃないのか。
嫌だな。みじめたらしく、愚痴っぽいことを考えてしまった。
仕事をしよう。幸いやることはたくさんある。
あとはできるだけ普段通りに過ごす。
オーレンと交わした約束は、ヤランが置いていったあのお金を全部美味しいものに変えるというもの。最初から彼との暮らしは期限付きだったのだ。
ナジュアムはそう決意して、仕事に打ち込んだ。
実際、仕事をしている最中はよかった。忙しくて余計なことを考えている暇なんてない。
けれど帰り道には一気に足が重くなる。オーレンが待っていると知っているから、寄り道するわけでもないのだが、それでも少しずつ帰る時間は遅くなっていった。オーレンは気づいているだろうか。
そんなふうに一週間を過ごし、週末、ナジュアムは人気のない道をとぼとぼと歩いていた。
せめて晴れていれば星に見とれていたとか、言い訳のしようもあるかもしれないが、残念ながら分厚い雲が垂れ込めていた。
今にも降ってきそうだな、なんてぼんやり考えていたら、本当にポツリと落ちてきた。
雨脚は弱いから、ナジュアムは急ぐでもなくそのまま歩きつづけた。
そういえば前にオーレンが、傘を持って迎えに来てくれたことがあったっけ。
恋人にもああやって優しくするんだろうか。まだ、あの女性がオーレンの恋人と決まったわけでもないのに、そんなことばかり考えてしまう自分が嫌になる。
「ほんと、バカみたいだな、俺」
「そうですね」
思いがけず近くで返事が聞こえて、ナジュアムはギョッとする。
「ナジュアムさんって、雨に濡れる趣味でもあるんですか」
「オーレン、なんでここに!?」
「降りそうだったから、早めに迎えに来たんです。傘、持って行かなかったから」
外灯の下、心配顔のオーレンがナジュアムに傘を差しかけた。
黒い温かな瞳に覗き込まれて、ナジュアムは彼から目が離せなかった。ああ、彼が好きだ。
「ナジュアムさん?」
ナジュアムは衝動的に動いていた。
さっと近づいて、背伸びをして、彼のくちびるにキスをした。
軽く触れただけだったのだが、オーレンは大げさにのけぞった。そして、唇をぬぐうような動作をしてナジュアムから距離を取る。
傘がころころと転がっていった。
オーレンはハッとした様子でそれを追いかけて、立ち尽くすナジュアムに傘を押し付けた。体ごとそむけるように、腕だけ伸ばして。
ナジュアムがそれを受け取ると、冷たく低い声で吐き捨てた。
「こういうことは止めてください」
ハッキリとした拒絶だった。
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