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五章 人々ではない無意識の争い
1話 祈鐘の国は聖女の戦
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フェドル国。
その王都に立つ者なら、どこにいても必ず耳に届く――
祈りの大鐘は、雲をも振るわせるように鳴り響き渡っていた。
魔王討伐から、およそ三十年。
脅威は去り、確かな平和が大地を満たし、人々の数はかつてないほどに増えていた。
新しく建てられた家々が城壁の外へとせり出し、街道では往来が絶えることがない。
今や、国民の多くが“勇者教”の旗のもとに西方との争いへ身を投じている。
それを疑問視する声は――不思議なほど、ひとつとして上がらなかった。
ヘッター王子は執務室の椅子にもたれ、ひと息ついていた。
目の前――執務机の上には、妻エリザが腰を下ろしている。
彼女のすらりとした足は、当然のように夫の膝へと伸ばされていた。
王子はその足の重みを受けながら、微笑をこぼす。
二人きりの時だけ許される、静かな午後だった。
「エリザ――久しぶりだね。西方から戻っていたなんて知らなかったよ。どうだい、隣でゆっくり話を聞かせてくれるかい?」
ヘッターは笑みを浮かべ、膝にかけられた妻の足を軽く撫でた。
だがエリザは、その手をすっと取り、自分の頬へ添えさせた。
「……あなた、本当に。どうしていつも“最悪だけ”を選ぶのかしら?」
静かだが、叱るような声音だった。
「東の山は“丁寧に扱いなさい”と、わたし言ったはずよ? 頼んだのは、ただ“荷物を届けること”だけ。――どうして、こうなるのかしら?」
窓の外へ視線を向けさせる。
王都から遠く離れたはずの東の山が、いまでは肉眼でもわかった。
暗雲は空へぽっかり開いた“黒い井戸”のようで、吸い込まれるような深さを湛えていた。
「しかも――戦士さんがいなくなった? はぁ?」
エリザはぐいとヘッターの顔を正面に向け、鋭い眼差しを突きつけた。
「い、いや……君だって、あの男は嫌っていただろ? その……獣退治には、ちょうどいいと思って……」
言い訳は弱々しく、エリザに押さえられた視線はどこにも逃げられなかった。
「“言うこと聞かない嫌な奴”とは言ったわよ……」
エリザは一度ヘッターから手を離し、こめかみを押さえるようにして――
「……だ、け、ど……」
深く息を吐いた。
その吐息には、ほのかな香りと呆れの気配が混じっていた。
「次はしっかりやるよ……だから、さ――」
「次なんてないのよ。 わざわざ帰ってきた理由、まだわからないの?」
エリザはヘッターの手を握ったまま、じわりと力を込めていく。
“そこにあるのは、わたしの目。潰すのは――あなたの手”
エリザの沈黙がそう語っているようだった。
「エ、エリザ……? ちょ、ま、待っ――そ、それは……やめて、くれ……!」
ヘッターの力では振りほどけない。
徐々に指先から伝わる。
生涯に一度も味わったことのない柔らかさと確かな抵抗だった。
悲鳴も上げられず、ヘッターの身体は椅子に押しつけられたまま逃げられない。
美しい妻の瞳から流れ落ちる血が、ぽたり、と自分の胸元に落ちてくる。
エリザはかすかに微笑んだまま言った。
「いつも言ってるでしょ。あなたが見てない場所では、“こう言うことが普通に起きてる”ことなのよ。だからもっと気をつけてほしいの。私がいないところでは――特に、ね?」
「あ、あああ……っ」
鉄の匂いが、滴り落ちた血とともにヘッターの鼻腔を満たしていく。
エリザはヘッターの手をようやく離し、血で濡れた自分の顔にそっと触れた。
「なんなら――“また”、あなたのナイフで私のお腹を裂きましょうか?」
「や、やめてくれ……っ。二度と……絶対にしない。だから、エリザ……はやく、自分に治癒魔法を……!」
「私も忙しいから、これでやめてあげるわ。それに――私たちにはもう“娘”がいるのだから。
もう、ああいうことに私を誘わないでほしいの」
言い終えると、エリザは指先を軽く振った。
淡い光が彼女の片目を包み込む。
飛び散った血の粒までもが空中から逆流するようにして戻っていく。
まるで“傷ついたこと自体”がなかったかのように。
ヘッターはその光景を茫然と見つめるしかなかった。
エリザの治癒の光が消える。
少しだけ息を整えて、何でもないように言った。
「じゃあ、私はまた西へ行ってくるわ。どうやら二か国ほど参戦しそうなの」
アセルがかつて胸を焦がしたあの頃――
とまでは言えないが、実際の年齢を忘れさせるほどに美しい微笑みだった。
「もう、あの山に近づかなくていいわ。ただし――様子が変わったらすぐに連絡してちょうだい」
「……ああ。監視だけだな。毎日、報告を送るよ」
「ありがとう、ダーリン」
その一言に、ヘッターは子どものように素直に嬉しくなった。
――どれほど脅されても、結局こうして一言で転がされてしまう。
幼い頃、魔物に喰われかけた自分の手を掴んで救ってくれたのが、ほかでもない妻――
プリーストのエリザだった。
エリザはそのまま私室へ戻った。
「あ、ママ~!」
無垢な笑顔を向けられ、エリザの口元にかすかな微笑みが灯った。
「また大陸を統一しに行くわよ。あなたのために」
勢いよく娘のロロリーが飛びついてくる。
小さな腕でぎゅっと抱きつきながら、ぱっと顔を上げて笑った。
「ママぁ! えへへ、ありがとう!」
「荷物も持たずに帰ってきちゃったから、もう行きましょうか」
「もうご用事おわり? ロロ、ね……ほんとはね、勇者さんにも会いたかったの」
つま先で床をこつん、と蹴りながら、恥ずかしそうに言う。
エリザはその様子に目を細め、娘の頬をそっと撫でた。
「勇者くんには、また今度ね。ロロが渡したかったプレゼント、ちゃんと届いたと思うわ。きっと、『わぁ、ロロちゃんからだ!』って嬉しがってるわよ」
「ほんとに?」
ロロリーの大きな瞳が、星を溶かしたみたいにきらりと光った。
「じゃあ……はやく西の宮殿いこう! ロロ、あそこキラキラしてて大好きなの!」
「はいはい、わかってるわよ」
エリザは娘の小さな手を優しく握ると、そのまま軽やかに馬車へと導いた。
ロロリーはスカートを揺らしながら楽しげに乗り込む。
母娘を乗せた馬車は白い大門をくぐり、祈りの鐘の余韻が薄れる方へ――
まるで白銀のペガサスに引かれるかのように、軽やかに王都を離れていった。
その王都に立つ者なら、どこにいても必ず耳に届く――
祈りの大鐘は、雲をも振るわせるように鳴り響き渡っていた。
魔王討伐から、およそ三十年。
脅威は去り、確かな平和が大地を満たし、人々の数はかつてないほどに増えていた。
新しく建てられた家々が城壁の外へとせり出し、街道では往来が絶えることがない。
今や、国民の多くが“勇者教”の旗のもとに西方との争いへ身を投じている。
それを疑問視する声は――不思議なほど、ひとつとして上がらなかった。
ヘッター王子は執務室の椅子にもたれ、ひと息ついていた。
目の前――執務机の上には、妻エリザが腰を下ろしている。
彼女のすらりとした足は、当然のように夫の膝へと伸ばされていた。
王子はその足の重みを受けながら、微笑をこぼす。
二人きりの時だけ許される、静かな午後だった。
「エリザ――久しぶりだね。西方から戻っていたなんて知らなかったよ。どうだい、隣でゆっくり話を聞かせてくれるかい?」
ヘッターは笑みを浮かべ、膝にかけられた妻の足を軽く撫でた。
だがエリザは、その手をすっと取り、自分の頬へ添えさせた。
「……あなた、本当に。どうしていつも“最悪だけ”を選ぶのかしら?」
静かだが、叱るような声音だった。
「東の山は“丁寧に扱いなさい”と、わたし言ったはずよ? 頼んだのは、ただ“荷物を届けること”だけ。――どうして、こうなるのかしら?」
窓の外へ視線を向けさせる。
王都から遠く離れたはずの東の山が、いまでは肉眼でもわかった。
暗雲は空へぽっかり開いた“黒い井戸”のようで、吸い込まれるような深さを湛えていた。
「しかも――戦士さんがいなくなった? はぁ?」
エリザはぐいとヘッターの顔を正面に向け、鋭い眼差しを突きつけた。
「い、いや……君だって、あの男は嫌っていただろ? その……獣退治には、ちょうどいいと思って……」
言い訳は弱々しく、エリザに押さえられた視線はどこにも逃げられなかった。
「“言うこと聞かない嫌な奴”とは言ったわよ……」
エリザは一度ヘッターから手を離し、こめかみを押さえるようにして――
「……だ、け、ど……」
深く息を吐いた。
その吐息には、ほのかな香りと呆れの気配が混じっていた。
「次はしっかりやるよ……だから、さ――」
「次なんてないのよ。 わざわざ帰ってきた理由、まだわからないの?」
エリザはヘッターの手を握ったまま、じわりと力を込めていく。
“そこにあるのは、わたしの目。潰すのは――あなたの手”
エリザの沈黙がそう語っているようだった。
「エ、エリザ……? ちょ、ま、待っ――そ、それは……やめて、くれ……!」
ヘッターの力では振りほどけない。
徐々に指先から伝わる。
生涯に一度も味わったことのない柔らかさと確かな抵抗だった。
悲鳴も上げられず、ヘッターの身体は椅子に押しつけられたまま逃げられない。
美しい妻の瞳から流れ落ちる血が、ぽたり、と自分の胸元に落ちてくる。
エリザはかすかに微笑んだまま言った。
「いつも言ってるでしょ。あなたが見てない場所では、“こう言うことが普通に起きてる”ことなのよ。だからもっと気をつけてほしいの。私がいないところでは――特に、ね?」
「あ、あああ……っ」
鉄の匂いが、滴り落ちた血とともにヘッターの鼻腔を満たしていく。
エリザはヘッターの手をようやく離し、血で濡れた自分の顔にそっと触れた。
「なんなら――“また”、あなたのナイフで私のお腹を裂きましょうか?」
「や、やめてくれ……っ。二度と……絶対にしない。だから、エリザ……はやく、自分に治癒魔法を……!」
「私も忙しいから、これでやめてあげるわ。それに――私たちにはもう“娘”がいるのだから。
もう、ああいうことに私を誘わないでほしいの」
言い終えると、エリザは指先を軽く振った。
淡い光が彼女の片目を包み込む。
飛び散った血の粒までもが空中から逆流するようにして戻っていく。
まるで“傷ついたこと自体”がなかったかのように。
ヘッターはその光景を茫然と見つめるしかなかった。
エリザの治癒の光が消える。
少しだけ息を整えて、何でもないように言った。
「じゃあ、私はまた西へ行ってくるわ。どうやら二か国ほど参戦しそうなの」
アセルがかつて胸を焦がしたあの頃――
とまでは言えないが、実際の年齢を忘れさせるほどに美しい微笑みだった。
「もう、あの山に近づかなくていいわ。ただし――様子が変わったらすぐに連絡してちょうだい」
「……ああ。監視だけだな。毎日、報告を送るよ」
「ありがとう、ダーリン」
その一言に、ヘッターは子どものように素直に嬉しくなった。
――どれほど脅されても、結局こうして一言で転がされてしまう。
幼い頃、魔物に喰われかけた自分の手を掴んで救ってくれたのが、ほかでもない妻――
プリーストのエリザだった。
エリザはそのまま私室へ戻った。
「あ、ママ~!」
無垢な笑顔を向けられ、エリザの口元にかすかな微笑みが灯った。
「また大陸を統一しに行くわよ。あなたのために」
勢いよく娘のロロリーが飛びついてくる。
小さな腕でぎゅっと抱きつきながら、ぱっと顔を上げて笑った。
「ママぁ! えへへ、ありがとう!」
「荷物も持たずに帰ってきちゃったから、もう行きましょうか」
「もうご用事おわり? ロロ、ね……ほんとはね、勇者さんにも会いたかったの」
つま先で床をこつん、と蹴りながら、恥ずかしそうに言う。
エリザはその様子に目を細め、娘の頬をそっと撫でた。
「勇者くんには、また今度ね。ロロが渡したかったプレゼント、ちゃんと届いたと思うわ。きっと、『わぁ、ロロちゃんからだ!』って嬉しがってるわよ」
「ほんとに?」
ロロリーの大きな瞳が、星を溶かしたみたいにきらりと光った。
「じゃあ……はやく西の宮殿いこう! ロロ、あそこキラキラしてて大好きなの!」
「はいはい、わかってるわよ」
エリザは娘の小さな手を優しく握ると、そのまま軽やかに馬車へと導いた。
ロロリーはスカートを揺らしながら楽しげに乗り込む。
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