なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め

イニシ原

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五章 人々ではない無意識の争い

4話 振り向かなかった道

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 暗雲が立ち込め、雨が乱れ舞う東の山付近は――
 すでに濁流となった洪水に遮られ、誰も近づけなくなっていた。

 影響を受けたのは、周辺の住民だけではない。
 南方領主司ヴァルター侯爵家も、その領地の半分が水没したと言ってよかった。

 だが、ある時。
 帝都の空気そのものを震わせるほどの、巨大な音が鳴り響いた。
 それは、デーモンロードの地獄から放たれた咆哮のようだった。



「ヘッター王子、大変です! 大変なのです!」
 ノックとほぼ同時に、執務室の扉が開いた。
 大臣は転げ込むように中へ入り、そのまま息を切らしている。

「ボケル大臣、おぬしはいつも、あれほどの晴天を見ただけで、そこまで慌てるのか」
 ヘッター王子はそう言いながらも、窓辺に立っている。
 そのまま、望遠鏡越しに東の山々から視線を外そうとしなかった。

「いえ、そうではありません。何かしらの強大な“音”によって嵐そのものが吹き飛ばされるなど、暗黒時代の記録以来でございますぞ。直ちに、調査におもむかなければなりません」
 せっつくように、一息で言い切る。
 ボケル大臣の声には、隠しきれない焦燥が滲んでいた。

「調査など、勝手に行け」
 いつもなら、そう言って終わりだった。
 だが今は、そうもいかない。

 数日前に、エリザと約束したばかりだ。
 勇者教の者は使えない。
 いまさら、あの不気味な山へ行きたがる者も少ないだろう。

 どうするか。

 しばし思案した末、
 ヘッターは結論に至った。
 前回、あの地へ赴いた者。
 その名を、口にした。



 エレンスは、嵐に覆われた南東部の土地を調査していた。

 水害を受けた農地や畑が、まず気にかかった。
 だが実際に見て回ると、被害らしい被害は見当たらない。
 普段より少し強い雨を受けた、それだけのようにすら見えた。

 あるはずの水は、どこにもない。
 流れ着いたはずの泥や瓦礫も、跡形がなかった。

 それらはすべて、
 あの咆哮とともに、空へ消えていった――
 そんな印象だけが、現地に残されていた。

 その夜は、手紙が届く予定の日だった。
 だからエレンスは、宿舎へ戻っていた。
 軽くブランデーをあおりながら、報告書を書いている。

 ――ガチャ。

 ん?
 配達人が、ベルも鳴らさずに入って来るはずがない。

「誰だ?」
 狭い小屋だ。
 部屋は、隣とここしかない。
 開け放したままの扉の向こうから顔を見せたのは、デルタだった。
「何をしに来た」

「ほら、手紙だ」
 デルタは机の上に、数枚の封書を置いた。

 ……だが。
 デルタが、このためだけに来るはずがない。
 ブランデーを差し出し、何を言い出すのかと、俺は黙って待った。

「また、“あの山”に行くことになった。ははは、運がいいぞ。俺たちは」

「あの不気味な山に登るのが、そんなに嬉しいのか?」

「お前だって、西の争いに行きたいわけじゃないだろう。だからといって、田舎でつまらん仕事をしていたいわけでもない。俺はな、冒険の匂いが好きなんだよ」

「それで、俺を巻き込むつもりか。一人で行ってくればいいだろう」
 エレンスは、あきれたように言った。

「それじゃ、誰が俺の背中を守るんだよ」
 デルタは肩をすくめる。

「とにかく、明日の朝だ。ここは代わりを頼んでおく。準備だけは、しておいてくれ」

 ……。

「なっ、頼んだぞ」
 そう言い残すと、デルタはブランデーのグラスを置き、足早に小屋を出ていった。

 エレンスは、興味がないわけではなかった。
 若い頃には、胸の躍る冒険もした。
 辺境の村だったカルド周辺で、腕を試したこともある。
 だが今は、表立って冒険には出られない世間だ。

 ……まあ、
 あの山にさえ近づかなければ、平気だろう。
 そう考えてしまうのは、酒のせいか――
 それとも、まだ冒険者の血が流れているせいか。

「……寝るか」
 明かりを落とし、ベッドに潜り込む。
 そのまま深い眠りに落ちた。



 朝霧が、まだ晴れない朝早くにデルタはやってきた。
 小屋をで朝霧が、まだ晴れきらない早朝。
 デルタは、すでに小屋の前に来ていた。

 外へ出ると、そこには二頭の馬。
 いい具合に体が温まっているのか、口元から白い息が立ち上っている。

「なんだよ、この荷物の量は。馬まで用意して、どこまで行くつもりだ?」

「とにかく、ついて来てくれ」

 それだけ聞くと、エレンスは鞍にまたがった。
 二人は馬を走らせ、朝霧の残る草原へと駆け出していった。

 しばらく、無言のまま走った。
 どうやら、カルドの町へ向かっているわけではなさそうだ。
 太陽が高くなったところで、馬を休ませるために足を止める。
 それに合わせて、簡単な食事を取った。

 そして、その最中。
 エレンスは、ついに口を開いた。
「で、俺たちはどこへ向かってるんだ」

「お前が山は嫌だって言うもんでな。南を回って、西の紛争地へ行こうと思ってる」
 エレンスの顔も見ず、デルタはパンを頬張りながら、淡々と続けた。

「なんだよ、それは。そんな場所へ行って、どうする気だ」
 訳が分からず、エレンスは声を荒げる。

「お前だって知ってるだろ。今や敵は三か国だ。それでも、わが軍は優勢だ。……なあ、なぜだと思う? まさか、勇者教のおかげってわけじゃないだろう」

「それは、あの女王が凄いんだろ。そう聞いている」

「だとしてもだ。ここまで情報を統制する必要はない」
 デルタは肩をすくめる。

「そういう意味じゃ、勇者教は大したもんだ。犬一匹、通さないんだからな」

「……はあ」
 エレンスは、ため息まじりに言った。
「つまり、山で行方不明になった体で、こっそり見に行くってわけか」

「その実、俺は勇者教で世界が統一されるなんて御免なんだ。魔王のいない世界で戦争をするのも、正直しっくりこない。この世界を自分の目で見るのが、俺たち冒険者だろ。エレンス――来てくれるよな?」

「ああ。十代の頃を思い出したよ。お前は、本当に変わってないな」

「よし、決まりだ。親友は、持つもんだな」

 そうしてエレンスとデルタは、気持ちも装備も整え、西へと向かう。
 その時、もし振り向いていたら――
 山あいの向こうに、青緑の要塞が見えていたはずだ。

 そしてきっと。
 西へ進むと言う選択を、諦めたかもしれなかった。
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