ピアノはまだ悲しみを弾いている

夢窓(ゆめまど)

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第1章:ピアノは孤独の中に

第2話 冷たい婚約者、ノア

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ノア・ヴァン=グランディスは、冷たい人間だとよく言われる。
 無表情、無愛想、必要最低限の言葉しかしゃべらない――
 だがそれでも、彼は学園では常に一目置かれる存在だった。

 公爵家の嫡男。
 最終学年で主席。
 魔法の制御も剣の技も、貴族としての教養もすべてが「完璧」。

 けれど、それらが彼の心の奥まで語っているわけではない。

 ノアの机の上には、試験問題と答案用紙がきれいに並んでいた。
 だが、彼の視線は――それを越えた先、庭の向こうの別邸に注がれていた。

「また、弾いてるのか……」

 昼下がり。リゼルのピアノが静かに聞こえる。
 音は美しく、感情に満ちている。
 その旋律が、彼の中の何かを、静かに揺らす。

 けれど彼は、それを言葉にはしない。

 誰よりも彼女の音を聴いているのに、
 誰よりも彼女のそばにいるはずなのに。

 不器用で、近づき方を知らなかった。

 ◇ ◇ ◇ 

「お姉さま、またピアノを弾いてるの? ほんと、うるさいわよねぇ」

 セリアが勢いよくリゼルの部屋に踏み込んできた。
 義妹。継母の連れ子で、父の庇護を受けて育てられた。
 金髪に碧眼、くるくると変わる表情と、わがままな口調。
 誰の許可も取らずに扉を開けるその奔放さは、リゼルには真似できないものだった。

「ノア様の勉強の邪魔になるんじゃなくて?」

 リゼルは微笑むでもなく、ただ静かにピアノの蓋を閉じた。
 冷たくも優しくもない、何もない表情だった。

「ノア様? あの人、気にしないわよ。ずっと無表情だし。どこ見てるのかもわかんないし」

 セリアはふふっと笑って、鏡の前で自分の髪を整える。
 リゼルは、その姿を見ながらカップに口をつけた。
 香るカモミール。静かに、自分を保つ香り。

 けれど――ノアは、すでにその“騒がしさ”に気づいていた。

 ◇ ◇ ◇ 

 「……セリアの声、また聞こえるな」

 そう思っても、ノアは立ち上がらない。
 黙って書を閉じ、窓に目をやるだけ。
 別邸の二階、リゼルの部屋の窓が半開きになっている。

 あの部屋の緑のカーテン。
 静かな雰囲気。
 弾かれたばかりのピアノの残響。

 心だけが、彼女のそばへと歩いていく。

「……リゼル」

 小さく呟く声が、机の上に落ちる。
 だが彼女にそれは届かない。
 冷たく見える彼の目の奥に、彼女だけの名前が静かに揺れていることなど――
 リゼルは、まだ知らなかった。
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