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居酒屋〈大漁亭〉の外。静かな夕方の通り。
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ざわめきの名残が、引き戸の向こうに遠ざかっていく。
海風に吹かれながら、アレクサンダーとジェイクは、肩を並べて港へと歩いていた。
どちらも、口を開かない。
ただ、石畳を踏む革靴の音だけが、夕暮れの町に、乾いた調べを奏でていた。
視界の先、海に面した小さなパブ。
木の看板が、錆びた鎖に吊られて、風にゆらゆら揺れていた。
「……ここで、いいでしょう」
ジェイクの低い声。
それだけ言って、彼は無言で木扉を押し開けた。
店内は薄暗く、ランプの灯りが、ところどころに点っている。
夜には少し早い時間帯のためか、客は数えるほどしかいない。
古びたカウンター。油の染みついた床。
港町の、何の変哲もない酒場。
ふたりは無言で、カウンターの端に並んで腰を下ろした。
ジェイクが指を二本、静かに立てる。
店主がうなずき、間もなく、よく冷えたジョッキが運ばれてきた。
「……」
グラスが、木のカウンターに“キン”と音を立てて置かれる。
泡立つ黄金色の液体が、表面に儚い霧をまとっていた。
乾杯はない。
言葉もないまま、アレクサンダーが静かに口をつける。
重たい沈黙が落ちる。
時間が、ぬるりと通り過ぎる。
そして――
ようやく、アレクサンダーが口を開いた。
「……子供が、自分の子だとは……思わなかった」
静かで、どこか擦れた声だった。
ジェイクは驚かなかった。
ただ、手元のジョッキに視線を落としたまま、何も言わなかった。
「若い頃、病を患った。その後、医師に言われたんだ。……子をなすのは、難しいかもしれないと」
カラン、と氷が音を立てたわけではない。
けれど、その言葉に空気がぴたりと凍った。
「結婚の前に……彼女に打ち明けるべきだった。
でも、それを言うのが怖かった。
彼女を失うのが怖くて……いや――
結局は、自分が傷つきたくなかっただけだ」
アレクサンダーの指が、無意識にジョッキの取っ手をきつく握る。
関節が白くなっているのに、自分でも気づいていない。
「……だから、信じられなかった。
テオを身籠ったと聞いたとき……嬉しさよりも、疑念のほうが先に来た」
ジェイクが、そっと目を伏せた。
「俺の子じゃないと……そう、決めつけてしまった。
ルシンダは、誰よりも俺を見てくれていたのに。
誰にも目を向けず、ただ、俺だけを愛していたのに……」
ジョッキの中身が、わずかに波打つ。
「疑って、責めて……そして、逃げた」
その声には、すでに怒りも悔しさもなかった。
あるのは、後悔という名の灰色だけ。
「……あの子の顔を見たとき、目が合ったとき、やっと理解した。
どうして、もっと早く気づけなかったのか……
いや、気づいても、見ようとしなかった。
疑うほうが、楽だったんだ」
言葉が続かない。
アレクサンダーはゆっくりとビールを飲み干し、目を閉じた。
その喉の奥に落ちていったのは、冷たい麦酒と――苦い悔恨。
「……私は、愚かだった」
ぽつりと漏らしたその言葉には、男の、どうしようもない弱さが滲んでいた。
ジェイクは、しばし黙ったまま、彼の横顔を見ていた。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、そこにいて、受け止めるように。
その沈黙が、アレクサンダーには痛かった。
何か言葉を投げかけてくれた方が、まだましだった。
(……彼は、俺の代わりに、家族を守ってきたんだ)
家族という言葉に、アレクサンダーの喉が詰まった。
自分のものだったはずの未来が、そこには確かにあったのに――
それを掴むことなく、自ら手放した。
ジェイクが、ようやく口を開いた。
「……テオは、いい子ですよ」
そのたった一言に、アレクサンダーの胸が、ぐっと締めつけられた。
それ以上の言葉はなかった。
でも、それで十分だった。
たしかに、今のその子の“父”は、自分ではないのだと。
そして――
彼が守りたかったものは、もう、別の男の手の中にあるのだと。
アレクサンダーは、静かにうなずいた。
その首の動きが、まるで降伏のように、見えた
ざわめきの名残が、引き戸の向こうに遠ざかっていく。
海風に吹かれながら、アレクサンダーとジェイクは、肩を並べて港へと歩いていた。
どちらも、口を開かない。
ただ、石畳を踏む革靴の音だけが、夕暮れの町に、乾いた調べを奏でていた。
視界の先、海に面した小さなパブ。
木の看板が、錆びた鎖に吊られて、風にゆらゆら揺れていた。
「……ここで、いいでしょう」
ジェイクの低い声。
それだけ言って、彼は無言で木扉を押し開けた。
店内は薄暗く、ランプの灯りが、ところどころに点っている。
夜には少し早い時間帯のためか、客は数えるほどしかいない。
古びたカウンター。油の染みついた床。
港町の、何の変哲もない酒場。
ふたりは無言で、カウンターの端に並んで腰を下ろした。
ジェイクが指を二本、静かに立てる。
店主がうなずき、間もなく、よく冷えたジョッキが運ばれてきた。
「……」
グラスが、木のカウンターに“キン”と音を立てて置かれる。
泡立つ黄金色の液体が、表面に儚い霧をまとっていた。
乾杯はない。
言葉もないまま、アレクサンダーが静かに口をつける。
重たい沈黙が落ちる。
時間が、ぬるりと通り過ぎる。
そして――
ようやく、アレクサンダーが口を開いた。
「……子供が、自分の子だとは……思わなかった」
静かで、どこか擦れた声だった。
ジェイクは驚かなかった。
ただ、手元のジョッキに視線を落としたまま、何も言わなかった。
「若い頃、病を患った。その後、医師に言われたんだ。……子をなすのは、難しいかもしれないと」
カラン、と氷が音を立てたわけではない。
けれど、その言葉に空気がぴたりと凍った。
「結婚の前に……彼女に打ち明けるべきだった。
でも、それを言うのが怖かった。
彼女を失うのが怖くて……いや――
結局は、自分が傷つきたくなかっただけだ」
アレクサンダーの指が、無意識にジョッキの取っ手をきつく握る。
関節が白くなっているのに、自分でも気づいていない。
「……だから、信じられなかった。
テオを身籠ったと聞いたとき……嬉しさよりも、疑念のほうが先に来た」
ジェイクが、そっと目を伏せた。
「俺の子じゃないと……そう、決めつけてしまった。
ルシンダは、誰よりも俺を見てくれていたのに。
誰にも目を向けず、ただ、俺だけを愛していたのに……」
ジョッキの中身が、わずかに波打つ。
「疑って、責めて……そして、逃げた」
その声には、すでに怒りも悔しさもなかった。
あるのは、後悔という名の灰色だけ。
「……あの子の顔を見たとき、目が合ったとき、やっと理解した。
どうして、もっと早く気づけなかったのか……
いや、気づいても、見ようとしなかった。
疑うほうが、楽だったんだ」
言葉が続かない。
アレクサンダーはゆっくりとビールを飲み干し、目を閉じた。
その喉の奥に落ちていったのは、冷たい麦酒と――苦い悔恨。
「……私は、愚かだった」
ぽつりと漏らしたその言葉には、男の、どうしようもない弱さが滲んでいた。
ジェイクは、しばし黙ったまま、彼の横顔を見ていた。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、そこにいて、受け止めるように。
その沈黙が、アレクサンダーには痛かった。
何か言葉を投げかけてくれた方が、まだましだった。
(……彼は、俺の代わりに、家族を守ってきたんだ)
家族という言葉に、アレクサンダーの喉が詰まった。
自分のものだったはずの未来が、そこには確かにあったのに――
それを掴むことなく、自ら手放した。
ジェイクが、ようやく口を開いた。
「……テオは、いい子ですよ」
そのたった一言に、アレクサンダーの胸が、ぐっと締めつけられた。
それ以上の言葉はなかった。
でも、それで十分だった。
たしかに、今のその子の“父”は、自分ではないのだと。
そして――
彼が守りたかったものは、もう、別の男の手の中にあるのだと。
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その首の動きが、まるで降伏のように、見えた
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