14 / 22
新しい関係
しおりを挟む窓の外は、やわらかな朝の光。
鳥の声と、湯気の立つティーポットの香りが漂っていた。
「お目覚めか」
マシュウが新聞を片手に、
椅子から顔を上げた。
「昨日は、暴れて大変だったな」
マルグリットは顔を覆って、
「……すいません。お世話かけました」と小さく言った。
「いやいや、良いストレス発散だったろう。
皿は割れるが、心は割れん。
大抵の夫婦よりマシだ」
「……夫婦じゃありませんけどね」
マシュウは笑った。
⸻
朝食のテーブルには、
焼きたてのパンと、フルーツ、
そして香り高い紅茶。
マルグリットはゆっくり席につき、
温かいカップを両手で包む。
「……なんだか、久しぶりに落ち着きました」
「良いことだ。
焦って家を決めるより、まず心を休ませろ。
戦地帰りの兵と同じだよ。
感情の爆発のあとに来るのは、“空白”だからな」
「……確かに、ちょっと空っぽです」
マシュウは紅茶をすすり、
新聞をたたんだ。
「とりあえず、家をゆっくり探します。
それから、新しいこと考えます」
「それがいい。
人は、住む場所が変わると、気持ちも変わるものだ」
⸻
静かな沈黙。
マルグリットが窓の外を見つめていると、
マシュウがふと、穏やかな声で言った。
「……甥っ子のこと、許してくれないかな?」
マルグリットは、しばらく考えてから、
軽く首をかしげた。
「うーん……」
「うーん?」
「会ったことない人なので、
好きも、嫌いも、ないんですよね」
マシュウが思わず吹き出す。
「……ははは! なるほど、それは痛快だ」
「怒る元も、思い出も、もう薄れてきた気がします。
たぶん、“知らない人に怒ってた”んでしょうね」
「ま、そう思えたなら、もう一歩進んだ証拠だ」
⸻
紅茶の香りがふわりと立ち上る。
カップの中で、金色の光がゆらめいた。
マルグリットは微笑んだ。
「……叔父様の紅茶、おいしいですね」
「ワインも得意だが、紅茶も判決が出る味だろ?」
「判決?」
「“人生、まだ続行中”だ」
マルグリットは思わず笑った。
心のどこかで、ようやく冬が溶けていくような気がした。
◾️夫婦の部屋、スザンヌ
スザンヌは寝室の窓から、
中庭をのぞきこんでいた。
朝日がやわらかく差し込み、
下のテラスではマシュウとマルグリットが
ゆっくり朝食をとっている。
パンの湯気、
紅茶の香り、
そして――笑い声。
「……焦りすぎたわね」
スザンヌはカーテンの影から、
ふっと息をついた。
「私もだけど。
なんせ、こういうこと、経験ないわ」
鏡越しに自分へ呟く。
「普通、経験ないのよ。
あの愚鈍な甥っ子みたいなことする男なんて」
⸻
ちょうどそのとき、
背後のドアが軽くノックされた。
「おや、監視中か?」
「監視じゃなくて観察よ」
マシュウが書類を片手に、
にやりと笑いながら入ってきた。
「ほう。俺は“温かく見守る”と言いたいがね」
「温かい? あなたが?
昨日“尋問”しておいてよく言うわ」
「尋問ではない。“啓発指導”だ」
「裁判官って便利ね、言い換え上手で」
⸻
スザンヌは窓辺に戻り、
紅茶を飲んで、召使いに笑うマルグリットを眺めながら言った。
「……でも、あの子、少し顔が柔らかくなったわね」
「酒と睡眠の効能だ。
泣かせて笑わせる――あれが一番効く」
「あなた、女泣かせの才能あるわね」
「そりゃ、結婚して二十年も続いてるのは誰のおかげだ?」
「わたしの寛大さのおかげよ」
「異議あり」
ふたりの軽口が、朝の空気に溶ける。
⸻
少し沈黙があって、
スザンヌが小さく呟いた。
「……マルグリットが、また歩き出せたらいいわね」
「きっと歩くさ。
ただ、道の途中に“誰か”がまた立っていたら――
それはそれで運命だろう」
スザンヌは眉を上げた。
「まさか甥っ子のこと言ってるんじゃないでしょうね」
「……裁判は終わっていない」
「判決は出てるのよ。無期懲役」
マシュウは笑って肩をすくめた。
「減刑の余地は?」
「ないわ」
⸻
二人は同時に笑った。
スザンヌはカーテンを閉じ、
「……まあ、あの子の“春”が来るまで、見届けましょう」と
小さく言った。
マシュウが彼女の肩に手を置く。
「了解。“夫婦観察官”の任務、続行だな」
「ええ、ただし報告書はあなたが書くのよ」
「異議なし」
スザンヌの家は、温かさが家中に満ちていた。
靴音だけが高く響く静かな屋敷ではない。
人の声がして、光があって、どこか“安心していい場所”の匂いがする。
スザンヌが言う。
「今日から暫くここにいなさい。……異論は認めないわ」
マルグリットは小さく頷くしかなかった。
お昼から業者も来て、
「さ、脱ぎなさい。肩のラインから全部やり直すわよ」
部屋の真ん中で、侍女がメジャーを持って待っている。
スザンヌは腕を組んだまま、厳しい目で彼女を見る。
「こんな痩せた子に、まともなドレスも着せてなかったなんて……信じられないわね。
テオドールのやめた侍女たち、全員“取り調べ”必要ね」
マルグリットは目をそらす。
誰かに採寸されるなんて、子どもの頃以来だ。
侍女の手が背中に触れると、マルグリットはびくりと肩を跳ねさせた。
「大丈夫よ、怖くないわ」
スザンヌが背後からそっと言う。
「……こんなふうに、丁寧に触られたこと……ないから」
ぽつりと言った言葉に、スザンヌは目を細めた。
「いい? うちではね、あなたは“お客さん”でも“居候”でもないの。
マシュウの娘で、私の娘よ。
だから、甘えればいいのよ」
その言葉に、胸がぎゅっと疼いた。
夕食のテーブルには、温かい皿がずらりと並んでいた。
スープの湯気、焼きたてパンの香り、柔らかい肉の香草焼き。
マルグリットは呆然とした。
「……これ、全部、温かい……」
「当たり前でしょ?」
スザンヌが椅子を引いてやる。
恐る恐るスプーンを取るマルグリット。
「このスープ、何の味かしら?」
スザンヌが尋ねる。
「……わからない……。名前、誰も教えてくれなかったから……」
スザンヌの眉がぴくりと上がった。
「あなた、どうやって三年も生きたの?」
「……床に置かれた皿を、冷めたまま……食べてたから……
料理が何かなんて、誰も教えてくれなくて、考えたことなくて」
その言葉に、スザンヌは静かに深呼吸した。
「今日からは全部教えるわ。
料理名も、名前も、味わい方も。
あなたは、とても遅れたところから“取り戻す”の」
マルグリットの瞳が少し潤む。
■夜の会話
夜、暖炉の前で二人きり。
スザンヌが毛布を肩にかけてやる。
「今日ね……採寸の時、怖がった顔したでしょう?」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいわ。
むしろ教えて。あなたに何があったのか」
マルグリットはしばらく黙った。
「……母が死んだあと、義母が来て……
私は居ないものとして扱われて……
誰も私に、何もしてくれなくて……
結婚の支度金も、全部奪われて……」
便箋を握りつぶすように、胸元の布を握る。
「結婚してからも……
誰も話しかけなくて……
侍女たちは私の服や下着を捨てて……
“身分だけの妻”って笑われて……
夫は戦場、連絡はゼロ……
三年、私は……
ただ居るだけの、“空気”みたいで」
スザンヌはそっと彼女の手を取った。
「……あなた、よく生きてきたわね」
「……愛された記憶がないの。
母が死んでから、一度も……」
ぽたり、と涙が落ちた。
スザンヌは抱きしめてくる。
「これから作ればいいのよ。ゆっくり。
あなたは私の娘。
だから、もうひとりで泣かせない」
マルグリットは声を殺して泣いた。
ーーーーーーーーー
人々の笑い声。
冬の風の中に、少しだけ春の匂いが混じっていた。
「……俺に、次の嫁は来ない」
テオドールはぽつりと呟く。
それは誰に向けた言葉でもなく、
自分への確認のようだった。
「だったら――彼女にチャレンジしてみても、いいのでは?」
自分で言って、苦笑した。
⸻
「薄氷の上をスケートするか……」
足元を見れば、
凍った水たまりが一枚。
試しに靴先で蹴ると、
パリッと音がして、割れた。
「……ほらな、こうなる」
彼はため息をつき、
それでも口の端を上げた。
「次は、絶対殴られるけど」
その言葉に、
通りがかった子どもが不思議そうに振り返る。
「おじさん、誰と話してるの?」
「自分の人生と、だ」
「ふーん、負けそうだね」
「かもな」
⸻
小さな笑いが残る。
けれど、胸の奥には
なぜかあたたかいものが灯っていた。
彼は空を見上げる。
白い雲の向こうに、
“まだ終わっていない何か”がある気がした。
「……さて。
薄氷でも、滑ってみなきゃ景色は見えないか」
ポケットに手を突っ込んで、
テオドールは歩き出した。
3,515
あなたにおすすめの小説
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
見た目の良すぎる双子の兄を持った妹は、引きこもっている理由を不細工だからと勘違いされていましたが、身内にも誤解されていたようです
珠宮さくら
恋愛
ルベロン国の第1王女として生まれたシャルレーヌは、引きこもっていた。
その理由は、見目の良い両親と双子の兄に劣るどころか。他の腹違いの弟妹たちより、不細工な顔をしているからだと噂されていたが、実際のところは全然違っていたのだが、そんな片割れを心配して、外に出そうとした兄は自分を頼ると思っていた。
それが、全く頼らないことになるどころか。自分の方が残念になってしまう結末になるとは思っていなかった。
【完結】初めて嫁ぎ先に行ってみたら、私と同名の妻と嫡男がいました。さて、どうしましょうか?
との
恋愛
「なんかさぁ、おかしな噂聞いたんだけど」
結婚式の時から一度もあった事のない私の夫には、最近子供が産まれたらしい。
夫のストマック辺境伯から領地には来るなと言われていたアナベルだが、流石に放っておくわけにもいかず訪ねてみると、
えっ? アナベルって奥様がここに住んでる。
どう言う事? しかも私が毎月支援していたお金はどこに?
ーーーーーー
完結、予約投稿済みです。
R15は、今回も念の為
旦那様から彼女が身籠る間の妻でいて欲しいと言われたのでそうします。
クロユキ
恋愛
「君には悪いけど、彼女が身籠る間の妻でいて欲しい」
平民育ちのセリーヌは母親と二人で住んでいた。
セリーヌは、毎日花売りをしていた…そんなセリーヌの前に毎日花を買う一人の貴族の男性がセリーヌに求婚した。
結婚後の初夜には夫は部屋には来なかった…屋敷内に夫はいるがセリーヌは会えないまま数日が経っていた。
夫から呼び出されたセリーヌは式を上げて久しぶりに夫の顔を見たが隣には知らない女性が一緒にいた。
セリーヌは、この時初めて夫から聞かされた。
夫には愛人がいた。
愛人が身籠ればセリーヌは離婚を言い渡される…
誤字脱字があります。更新が不定期ですが読んで貰えましたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
おさななじみの次期公爵に「あなたを愛するつもりはない」と言われるままにしたら挙動不審です
ワイちゃん
恋愛
伯爵令嬢セリアは、侯爵に嫁いだ姉にマウントをとられる日々。会えなくなった幼馴染とのあたたかい日々を心に過ごしていた。ある日、婚活のための夜会に参加し、得意のピアノを披露すると、幼馴染と再会し、次の日には公爵の幼馴染に求婚されることに。しかし、幼馴染には「あなたを愛するつもりはない」と言われ、相手の提示するルーティーンをただただこなす日々が始まり……?
教養が足りない、ですって
たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。
【完結】「あなたは強いから大丈夫よね」、無自覚に人生を奪う姉
恋せよ恋
恋愛
「セリーヌは強いから、一人でも大丈夫よね?」
婚約破棄され「可哀想なヒロイン」となった姉カトリーヌ。
無自覚で優しい姉を気遣う両親と『私の』婚約者クロード。
私の世界は反転した。
十歳から五年間、努力で守ってきた「次期後継者」の座も。
自分に誂えた「ドレス」も……。「婚約者」さえも……。
両親は微笑んで言う。
「姉様が傷ついているの強いお前が譲ってあげなさい」と。
泣いて縋れば誰かが助けてくれると思っているお姉様。
あとはお一人で頑張ってくださいませ。
私は、私を必要としてくれる場所へ――。
家族と婚約者を見限った、妹・セリーヌの物語。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる