嵐が去って、会社は今日も平和――たぶん。義兄妹の恋のプレリュード

夢窓(ゆめまど)

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最悪の上司

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◆「最悪な人事異動」

スコット監査官が、急に本省へ戻ることになった。
引き継ぎの朝、誰もが惜しんだ。
……もちろん、私も。

「また来る」
それだけ言って去っていった背中が、
なんだかすごく静かで、優しかった。

──問題は、その“後任”である。

発表を聞いた瞬間、私の思考は一瞬止まった。

「次の監査担当兼、部署責任者として――クリス・ハワード殿が着任します」

(……は?)

目の前で拍手が起こる中、私は心の中で凍りついた。
あのクリス? まさか、あのクリス?

扉が開き、長身の男が入ってくる。
黒いスーツ、淡々とした表情、
あの頃より少し精悍になった顔立ち。
でも、眉の角度も、声のトーンも、記憶のまま。

「初めまして。……と言っておいた方がいいか?」
「……義兄さん。」

反射的に口をついて出た。
言った瞬間、周囲の空気が止まる。
クリスの眉がぴくりと動いた。

「職場で“兄さん”とか呼ぶな。
おまえ、まだ空気読めないのか?」

(はい、変わってませんこの人!!)

彼は淡々と机の前に立ち、
まるで十年前から続いていたかのように、当たり前のように指示を出し始めた。

「まず、報告体制を整理する。
この部署、資料の提出が甘い。書式統一。
あと、机の上が散らかってるやつ、全員帰りに片づけておけ。」

(最悪だ……よりによって、あの“義兄ちゃん”が上司!?)

心の中で悲鳴を上げながらも、周囲はどこか惚けたような反応。
「あの人、すごくできるって評判よ」「厳しいけど公正らしい」
──それがさらに腹立たしい。

だって、私は知っている。
彼がどれだけ口うるさいか。
どれだけ母の前で“優しい息子”を演じていたか。
そして、どれだけ私に突っかかってきたか。

(マザコン野郎め……)

なのに、向こうは何事もなかったように淡々と仕事を進めている。


昼休み、そっと息を抜こうとしたとき――
ふと、背後から声がした。

「……相変わらず、食が細いな」

(うわ、やめてくれその言い方……!)

振り向くと、クリスがこちらを見下ろしていた。
「昨日の監査資料、訂正しておけ。内容は悪くない。
……が、表現が甘い。昔からそうだ。」

「……昔って言わないでください、上司。」
「呼び方は正しいが、態度が間違ってる。」
「はぁ!?」
「口答えすんな。上司に。」

その瞬間、思った。
──この人、ほんとに、変わってない。

そして、心の奥でひとつだけ確信した。
これからの日々、絶対に穏やかじゃない。



――優しい人が去って、うるさい人が来た。
でも、どこかで知っている。
こういう人ほど、きっとまた“守ってくれる”んだろうな、って。


◆「こいつをいじっていいのは、俺だけだ」

新しい上司、クリス・ハワード。
五年ぶりに顔を合わせた義兄は、相変わらず完璧主義で、空気を冷やす天才だった。

スコットさんが去ってから一週間。
部署は静かで、仕事は回っているけれど――どこか息苦しい。
みんな、まだ“前の穏やかさ”を探しているのだと思う。

昼前、報告書の修正を出したときのこと。
同僚のレオが、ため息混じりに言った。
「ライアーさん、またやり直し? 上司に気に入られてるねぇ。ま、昔からのお知り合いらしいし」

言い方が軽い。
周囲が「やめとけよ」って目で見ているのに、レオは気づいていない。
私はムッとして口を開こうとした――その瞬間、クリスが書類を閉じた音が響いた。

「レオ。」
呼ばれた本人がビクリとする。
「はい、部長?」

「俺は部下を“気に入る”基準を、成果でしか決めない。
──それと。」
一拍置いて、冷たい声が落ちる。

「この部署で、ライアーをいじっていいのは、俺だけだ。」

空気が凍る。
レオの口がパクパク動いたが、音にならなかった。
周囲の同僚たちが、目を丸くして互いに顔を見合わせる。

私は椅子を蹴りそうになった。
「ちょっと、なに言ってるんですか!? セクハラ発言ですよ!」
「違う。保護対象の宣言だ。」
「なおさら意味わかりません!」

クリスは相変わらずの無表情。
けれど、その目の奥には“本気で怒っている”気配が見えた。

「君は、放っておくとまた全部背負う。
前みたいに無理して倒れられると困る。だから、監視下に置く。」
「監視って言いました!? もう最悪!」

私は立ち上がってプリントを掴む。
「お言葉ですけど、私は監視されなくても仕事できます!」
「ほう? その自信は、五年前の家庭内事件以来か?」
「その話やめてくださいってば!!!」

怒りで顔が熱くなる。
レオたちは完全に息をひそめ、誰も口を挟まない。

沈黙のあと、クリスがわずかに口角を上げた。
「……よし、反論できるなら大丈夫だな。」

「……え?」
「黙って耐えるより、よほど健全だ。」

あまりに真面目な言い方に、私は返す言葉をなくした。
(こいつ……本気で私のメンタル診断でもしてんの?)

クリスは淡々と椅子に座り直し、報告書をめくる。
「午後の打合せに備えろ。……昼はちゃんと食え。」
それだけ言い残し、視線を戻した。

――ズルい。
ムカつく。
でも、たぶん少し安心した。



無骨で理屈っぽくて、言葉の選び方は最低。
それでも、不思議と胸の奥が温かくなる。

“こいつをいじっていいのは俺だけだ”

あの言葉は、たぶん宣言じゃなくて――
ひそかな、心配の仕方なんだろう。


◆ライアーの回想

クリスと出会ったのは、母を通じてだった。

あの日のレストランを、今でも覚えている。
母に「大事な人に会ってほしいの」と言われて、
少し緊張しながらついていった先。

そこに、クリスと、そのお父さんがいた。

私は十三歳。
母と二人きりの母子家庭だった。

父は、私が小さい頃に事故で亡くなった。
それからは、母と二人で、静かに生きてきた。

そんな家に訪れた“変化”。
父親と、そして、ぶっきらぼうな少年。

クリスは十六歳。
目つきが悪くて、無愛想で、口数も少ない。

母親が結婚して、
一緒に住むようになって、ある日
リビングに入った瞬間――

パンツ一枚のクリスがいた。

私は叫んで逃げた。
廊下を全力疾走した。

(無理。絶対、無理)

母は慌て、
クリスは「悪い」とも言わず、ただ舌打ちした。

勉強を教えてもらう?
一緒に食事?

どっちも思春期。
空気はぎこちなく、
家の中なのに居心地が悪かった。

やがてクリスは大学生になり、
家を出て、下宿に移った。

それからは、あまり顔を合わせなかった。

お父さんよりも、
正直に言えば――
クリスとの暮らしのほうが、ずっと気まずかった。

父親という存在は、どこか遠い。
でも、クリスは近すぎた。

同じ屋根の下、同じ廊下。
リビングでふと顔を上げれば、
そこにいるのは、自分とは違う“男の子”。

優しいところもあった。
塾の帰りに迎えに来てくれたり、
帰り道で一緒に買い食いしたり。

無愛想なのに、
ちゃんと気にかけてくれていた。

でも、家の中の何気ない瞬間――
例えば、すれ違うとき。
例えば、タオル越しの距離。

そのたびに、
「兄」ではなく、
“男の子”として意識してしまう自分がいて。

それが、居心地の悪さの正体だった。

思春期だった。
どう扱っていいのか、分からなかった。

だから、
クリスが家を出たとき、

ほっとしたのに。

――同時に、
寂しかった。

あのぶっきらぼうな背中が、
玄関から消えていくのを見たとき、
胸の奥が、きゅっとした。

あの感情の名前を、
あの頃の私は知らなかった。

休みに、クリスが家に帰ってきたことがあった。

玄関を開ける音。
足音。

リビングに顔を出したクリスは、
何も言わずに私の頭をぽん、と叩いた。

「元気か。」

それだけ言って、
何食わぬ顔でソファに座り、
母の作ったごはんを食べて、
テレビを見て、

そしてまた、何気なく帰っていった。

嫌い、とか。
好き、とか。

そんな単純な感情じゃなかった。

ただ――

友達とも違う。
本当の兄とも少し違う。

“お兄ちゃん”という距離の取り方が、
どうしてもわからなかった。

近づきすぎると変だし、
離れすぎると寂しい。

あの頃の私は、
その微妙な距離を持て余していた。

でも今なら、わかる。

あの頭をぽんと叩く仕草は、
不器用な安心の合図だったのだと。

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