嵐が去って、会社は今日も平和――たぶん。義兄妹の恋のプレリュード

夢窓(ゆめまど)

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残業の日

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夜の工房。
薬草の香りが、昼よりも濃く漂っていた。
みんな帰ったあと、書類と瓶だけが静かに残っている。

(あと少し。ここまでやったら終わりにしよう)

ランプの光の中、ライアーは指先でインクを乾かしながら書類をまとめていた。
ふと時計を見ると、すでに十時を回っている。
冷たい風が隙間から入り込み、肩をすくめる。

「……早く帰らないと、また明日眠いかな」

と、その時。
扉がノックもなしに開いた。

「……やっぱり、残ってたか。」

声で分かった。クリスだ。
仕事帰りの外套姿、少し乱れた前髪。
手には紙袋をひとつぶら下げている。

「帰るぞ。」
「まだ終わってません。」
「終わってなくても帰る。終わらせるのは月曜日以降だ。」
「上司の許可、降りてませんけど?」
「俺が上司だ。」

(くっ、論破が早い……!)

「大丈夫ですって。もう慣れてますから」
「慣れるな。あの頃のままだな、おまえは。」
「“あの頃”って職場で言わないでください。」

クリスはため息をついて、机の上の書類をざっと拾い上げる。
「ここの分、俺が見る。帰るぞ。」
「それ、上司が部下の書類勝手に持ち出していいんですか!?」
「監査権限で一時押収。」
「ずるい言い方やめてください!」

ライアーが慌てて追いかけようとすると、
クリスが立ち止まり、ふと振り返った。

「……腹、減ってるだろ。」
「は?」

紙袋を差し出す。中にはまだ温かいパンと、小瓶に入ったスープ。
「食え。食ったら帰る。」
「それ……自分で?」
「買っただけだ。」
「……ですよね。」

ライアーは思わず笑ってしまった。
クリスが少しだけ眉を動かす。
「笑うな。」
「だって、優しいじゃないですか。びっくりしました。」
「優しさじゃない。……監督責任だ。」
もそもそ、差し入れありがたくいただく、
お腹が空いていたから、助かった。

「帰るぞ!」

彼は、短く答えて、外套を翻す。
会社出口で、振り向いた。

「夜の街は危ない。送っていく。」
「いりません。子どもじゃないんで。」
「子どもの頃から、おまえの“平気”は信用してない。」

その言い方に、胸が少しだけ詰まった。
彼がこうして付き合ってくれるのは、たぶん昔と同じ――
不器用な心配。

「……じゃあ、途中まで。」
「最初から最後までだ。」

(ああ、もう。ほんとにめんどくさい人だ)

二人は並んで廊下を歩く。
魔導ランプの光が、床に長い影を落とす。
沈黙が続いたあと、ライアーがぽつりと言った。

「クリス。……ありがと。」
「何が。」
「助けてくれたから。」
「……おまえは、昔から礼が早い。」
「どういう意味ですか、それ。」
「“助けられた”と思ってる間は、まだ途中だ。
 自分で立てた時に、初めて礼を言え。」

ライアーは立ち止まり、横顔を見上げた。
街灯の下、クリスの顔が一瞬だけ柔らかく見えた気がした。

「……やっぱり、優しいですね。」
「……うるさい。」

それだけ言って、歩き出す。
彼の背中は少し早足で、でも不思議と頼もしかった。



――きっと、あの人はいつもこうなんだ。
口では突き放しても、背中で支えてくれる。
その優しさに、今日もまた、救われてしまう。


◆「ただの送迎、のはずだった」

家の灯りがまだついていた。
玄関の窓越しに、リビングの光がこぼれている。
時計はすでに夜の9時半。

「……あれ、まだ起きてる。」
ライアーが小声でつぶやく。
クリスはハンドルの上で指を組みながら言った。

「心配して待ってたんだろ。」
「だから帰りたくなかったんですよ。」
「放置して帰ると、あとで面倒になる。」
「……分かってるけど。」

車を降りると、夜風がひやりと肌を撫でた。
玄関に近づくと、案の定、ドアが開いた。

「ライアー! おかえり!」
母の声。
その後ろから父も顔を出す。
「おっ、帰ったか。って、あれ……」

玄関灯の下に並ぶ二人を見て、父の眉が上がった。

「クリスじゃないか!」
「お久しぶりです。お邪魔します。」

一礼したクリスに、母の顔がぱっと輝いた。
「まぁ! 本当に久しぶりね! 入って入って!」

(待って、いや、彼は帰るでしょう――!)

「ちょ、ちょっと! もう遅いですし!」
「なに言ってるの、せっかく送ってくれたのよ? 上がっていきなさい!」
母に背中を押され、私は半ば強制的にリビングへ。



食卓には、まだ温かいシチューの鍋があった。
母が慌ててお皿を出す。
「残り物だけど、食べて行って。クリスも、座って座って!」

「いえ、自分は……」
「いいから! どうせ食べてないでしょ!」

クリスは苦笑を浮かべ、観念したように椅子に腰を下ろした。

父は早々に酒瓶を持ち出す。
「ほら、祝いだ。久々にみんなそろったんだしな!」

「父さん、何の祝いですか……」
「なんとなくだ!」
「それでは、お邪魔します。」
「もう“お邪魔します”じゃないでしょ? あなた、この家の子なんだから!」

(……そうだった。そういう扱い、まだ続いてたんだった)

「母さん、もう遅いし、クリスも帰るよね?」
「酒飲んだから、泊まっていくよ。」
「え、なんで即答!?」

母が嬉しそうに手を叩く。
「そうそう! あなたの部屋、ちゃんと片づけてあるのよ! 久しぶりに使って!」
「ありがとうございます。助かります。」

(“助かります”とか言ってんじゃないよ……!)



夕食後。
父は酒を手に気分上々、母は笑顔が止まらない。
ライアーは食器を片付けながら、ため息をつく。

「ほんとに泊まる気なんですか?」

「泊まる気も何も、俺の家で俺の部屋だ。」

「もう私の物置になってると思いました。」

「今日から取り戻す。」

「やめてください、勝手に縄張り宣言しないで!」

父が笑って割って入る。
「おまえら、昔から変わらんなぁ。
 でもいい、家が賑やかで嬉しい。」

母も頷く。
「ねぇ、明日はお休みなんでしょ? 朝はゆっくりしなさいね。
 私、パン焼くから。」

(……なんで私が実家に帰省したみたいな空気になってんの)



夜。
廊下の先、クリスの部屋から灯りが漏れていた。
通りすがりにちらりと覗くと、机の上には昔の写真立てがある。
若い頃のクリスの母と、少年のクリス。
それを見つめる彼の横顔は、昼の職場とはまるで違う穏やかさだった。

気配に気づいたのか、クリスが振り向く。
「……何か用か。」
「別に。ただ、懐かしい顔してたから。」
「懐かしいというより、……変わらないなと思ってた。」
「父さん、母さんのこと?」
「ああ。歳を取っても、昔のままだ。」

言葉が静かに落ちる。
少しの沈黙。
やがてクリスが、窓の外に目を向けた。

「俺が出て行ってから、よくこの家守ってたな。」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる。」

少し照れくさそうに笑って、立ち上がる。
「もう寝ろ。母さんに叱られるぞ。」
「子ども扱いしないでください。」
「“妹”扱いだ。」
「……それもやめてください。」

互いに顔をそらして、それぞれの部屋へ。
廊下には家の匂いと、静かな安心感が漂っていた。



――眠れない夜だった。
でも、不思議と、孤独ではなかった。
彼の部屋の明かりが、
同じ屋根の下で、ずっと灯っているのが見えて。


◆朝のキッチン

朝。

クリスはコーヒーを飲みながら、新聞を広げていた。
窓から入る光が、テーブルをやわらかく照らしている。

ライアーがリビングに入ると、
クリスは何も言わずに立ち上がった。

トースターにパンを入れる。
コーヒーをライアーに一杯、淹れる。

焼ける音。
カチン、とレバーが上がる。

「……懐かしいな。」

「何が?」

「ジュニアハイのとき。
 いつもお前にパン焼いてたから。」

「へっ?」

ライアーが固まる。

「知らなかったのか?」

クリスは当然のように続ける。

「朝、二階からバタバタ音がしてただろ。
 あれ聞いたら、パン焼き始めてた。

 焼けたらバター塗って、皿に置く。

 そしたら、すごい形相のライアーがリビングに入ってきて、
 パンくわえて、スクールバス乗り場に全力疾走。」

「うへーー!」

顔を覆うライアー。

「それで、バスが来るまでにパン食って、
 ぎりぎりで乗り込むの、いつも見てた。」

「見てたんですか!?」

「1秒の無駄もなかったな。」

クリスがふっと笑う。

「大人になって、ちょっとは余裕できたか?」

ライアーは目をぱちぱちさせる。

「……いつも、パン焼いてくれてたんですか?」

「そうだよ。」

バターをたっぷり塗る。
ナイフの動きは、丁寧だ。

「バター多めでな。」

ライアーは、くすっと笑った。

「全然気づいてませんでした。」

「だろうな。」

何でもない顔で、
皿を差し出すクリス。

「ほら。食え。バスは来ないけどな。」

ライアーはパンを受け取り、
小さくかじる。

あの日と同じ味がした。

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