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ピンポンの音
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結婚して、まだ一か月。
部屋には、まだ新しい生活の匂いが残っていた。
今日は妻の遙が仕事に出ている。
俺は休みだったから、掃除をして、ゴミを出して、
洗濯機を回したところだった。
窓の外では、春の風がカーテンを揺らしていた。
――ピンポン。
インターホンが鳴った。
出てみると、画面の前に母と姉、そして姪の愛美が立っていた。
「近くまで来たから、ちょっと寄ってみたの」
母が笑いながら言い、
その後ろで、姉が「お邪魔しまーす」と軽く手を振った。
俺はとっさに言った。
「カフェでも行こうか。新婚の部屋、散らかってるから」
けれど、母も姉も顔を見合わせて笑った。
「何言ってるの、ちょっとくらい見せてよ。ねえ、愛美」
「うん、見たい~!」
ごねる二人を押し切ることもできず、
俺はドアを開けた。
仕方なく――ただ、それだけだった。
あの日の俺は、
その小さな妥協が、
すべてを壊す始まりになるなんて、思いもしなかった。
⸻
「まあ、いい部屋ねえ」
母は玄関から入るなり、靴を脱いで勝手にリビングへ上がった。
新品のソファに腰を下ろすと、背もたれを軽く叩きながら満足げにうなずく。
姉はすぐにクッションを手に取ってひっくり返した。
「これ、かわいい柄ね。遙さんの趣味? センスいいじゃない」
その間に、愛美はきゃっきゃと笑いながら部屋の中を走り回る。
棚の上の小物や写真立てをいじって、楽しそうに声を上げていた。
「ちょっと、やめてくれよ」
俺が言っても、返ってくるのはお決まりの言葉だった。
「いいじゃない、家族なんだから」
母は笑いながらキッチンの方へ進み、
棚を開けて中をのぞき込んだ。
「わあ、いい調味料使ってるじゃない。遙さん、料理上手なのね」
姉もそれに加わるようにして言う。
「化粧品も高そう。すごいねえ、嫁に来たら格が上がるわ」
俺は苦笑して、軽く制した。
「触るなって。遙のものなんだから」
母は曖昧に笑ったまま、返事をしなかった。
そして――そのとき、愛美の高い声が響いた。
「これ、かわいい!」
振り向くと、愛美の小さな手に、白地に淡い桜模様の茶碗があった。
「それはだめ。遙のだ」
俺はすぐに言った。
「えー、欲しい! 愛美の!」
「だめだって」
姉がくすくす笑って言った。
「見る目あるねえ。かわいい茶碗だね。ね、母さん」
「ほんと。愛美が欲しがってるなら、もらってもいいんじゃない?」
「だめだ」
俺はもう一度、きっぱり言った。
けれど母は、まるで聞いていないように言葉を重ねた。
「お嫁さんの物だって、家族の物でしょう?
愛美、ばあばがもらってあげるから、持って帰ろうね」
「やったー!」
俺が止める間もなく、
母は紙袋を取り出して、茶碗を新聞紙で包み始めた。
姉はその横でスマホを構えて、笑いながら写真を撮っている。
その光景を見て、
俺はただ、深くため息をついた。
お菓子を出して、お茶をいれて、
三人は楽しそうに談笑したあと、
「また来るわね」と言い残して、ごきげんで帰っていった。
玄関のドアが閉まったあと、
部屋の中には、母たちの笑い声の余韻だけが残った。
テーブルの上には食べかけのクッキー、
ソファの上には、ひしゃげたクッション。
空気が少しだけ、乱れているように感じた。
片づけを終えて、
俺はテレビをつけ、ソファに寝転んだ。
流れてくるバラエティの笑い声を聞きながら、
さっきのことなんて、すぐに頭の片隅に追いやった。
――あのときの俺には、
それが何を意味する出来事なのか、
まだわかっていなかった。
⸻
玄関の音で、目が覚めた。
「ただいま」
遙の声だった。
少し疲れているような、でもいつもの調子。
俺はソファに寝転がったまま、返事もせず天井を見ていた。
鞄を置く音、髪を結い直す音。
いつもと同じ、帰宅の気配。
「着替えてくるね」
そう言って、遙は自分の部屋に向かった。
そのあと、
一瞬の静けさが訪れた。
ドアの向こうから、
衣擦れの音がして、
それから――何かが止まった。
息を呑むような、長い沈黙。叫び声。
次の瞬間、遙の声が低く響いた。
「……なんで、私の部屋、荒らされてるの?」
俺は、のそのそと起き上がった。
「え?」
遙の部屋をのぞくと、
そこは、まるで小さな嵐が通り過ぎた後のようだった。
ベッドカバーは半分剥がれ、
クッションが床に落ちている。
化粧台の引き出しは開け放たれ、
スキンケアの瓶や小物が転がっていた。
クローゼットの扉も開きっぱなしで、
中の箱がいくつも引きずり出されている。
服の袖が床に垂れ、
薄い布の上には、汚れたものが
箱の中は、引きずり出されて、倒れて、
中からいくつか茶碗が転がっていた。
遙の作品たちだった。
白地に、淡い桜模様の繊細な陶器
あの、愛美が欲しがっていた茶碗も、ここから出したと、わかった。
床に転がったそれは、光を受けて、
まるで壊れる前の一瞬のように、静かに輝いていた。
俺は頭をかきながら言った。
「……あー、姪っ子が来てたんだ。母さんと姉貴と一緒に」
遙がこちらを見た。
何も言わない。
ただ、目だけが俺をまっすぐに射抜いていた。
「ごめん、悪かった。片づけ手伝うわ」
口から出たその声が、
自分でも驚くほど軽かった。
けれど、その軽さの裏に、
何も考えていない自分がいた。
遙はゆっくりと息を吸い、
そのまま何も言わず、背を向けた。
部屋の中に、
冷たい空気が流れ込んできた。
窓も開けていないのに、
風の音が聞こえた気がした。
部屋には、まだ新しい生活の匂いが残っていた。
今日は妻の遙が仕事に出ている。
俺は休みだったから、掃除をして、ゴミを出して、
洗濯機を回したところだった。
窓の外では、春の風がカーテンを揺らしていた。
――ピンポン。
インターホンが鳴った。
出てみると、画面の前に母と姉、そして姪の愛美が立っていた。
「近くまで来たから、ちょっと寄ってみたの」
母が笑いながら言い、
その後ろで、姉が「お邪魔しまーす」と軽く手を振った。
俺はとっさに言った。
「カフェでも行こうか。新婚の部屋、散らかってるから」
けれど、母も姉も顔を見合わせて笑った。
「何言ってるの、ちょっとくらい見せてよ。ねえ、愛美」
「うん、見たい~!」
ごねる二人を押し切ることもできず、
俺はドアを開けた。
仕方なく――ただ、それだけだった。
あの日の俺は、
その小さな妥協が、
すべてを壊す始まりになるなんて、思いもしなかった。
⸻
「まあ、いい部屋ねえ」
母は玄関から入るなり、靴を脱いで勝手にリビングへ上がった。
新品のソファに腰を下ろすと、背もたれを軽く叩きながら満足げにうなずく。
姉はすぐにクッションを手に取ってひっくり返した。
「これ、かわいい柄ね。遙さんの趣味? センスいいじゃない」
その間に、愛美はきゃっきゃと笑いながら部屋の中を走り回る。
棚の上の小物や写真立てをいじって、楽しそうに声を上げていた。
「ちょっと、やめてくれよ」
俺が言っても、返ってくるのはお決まりの言葉だった。
「いいじゃない、家族なんだから」
母は笑いながらキッチンの方へ進み、
棚を開けて中をのぞき込んだ。
「わあ、いい調味料使ってるじゃない。遙さん、料理上手なのね」
姉もそれに加わるようにして言う。
「化粧品も高そう。すごいねえ、嫁に来たら格が上がるわ」
俺は苦笑して、軽く制した。
「触るなって。遙のものなんだから」
母は曖昧に笑ったまま、返事をしなかった。
そして――そのとき、愛美の高い声が響いた。
「これ、かわいい!」
振り向くと、愛美の小さな手に、白地に淡い桜模様の茶碗があった。
「それはだめ。遙のだ」
俺はすぐに言った。
「えー、欲しい! 愛美の!」
「だめだって」
姉がくすくす笑って言った。
「見る目あるねえ。かわいい茶碗だね。ね、母さん」
「ほんと。愛美が欲しがってるなら、もらってもいいんじゃない?」
「だめだ」
俺はもう一度、きっぱり言った。
けれど母は、まるで聞いていないように言葉を重ねた。
「お嫁さんの物だって、家族の物でしょう?
愛美、ばあばがもらってあげるから、持って帰ろうね」
「やったー!」
俺が止める間もなく、
母は紙袋を取り出して、茶碗を新聞紙で包み始めた。
姉はその横でスマホを構えて、笑いながら写真を撮っている。
その光景を見て、
俺はただ、深くため息をついた。
お菓子を出して、お茶をいれて、
三人は楽しそうに談笑したあと、
「また来るわね」と言い残して、ごきげんで帰っていった。
玄関のドアが閉まったあと、
部屋の中には、母たちの笑い声の余韻だけが残った。
テーブルの上には食べかけのクッキー、
ソファの上には、ひしゃげたクッション。
空気が少しだけ、乱れているように感じた。
片づけを終えて、
俺はテレビをつけ、ソファに寝転んだ。
流れてくるバラエティの笑い声を聞きながら、
さっきのことなんて、すぐに頭の片隅に追いやった。
――あのときの俺には、
それが何を意味する出来事なのか、
まだわかっていなかった。
⸻
玄関の音で、目が覚めた。
「ただいま」
遙の声だった。
少し疲れているような、でもいつもの調子。
俺はソファに寝転がったまま、返事もせず天井を見ていた。
鞄を置く音、髪を結い直す音。
いつもと同じ、帰宅の気配。
「着替えてくるね」
そう言って、遙は自分の部屋に向かった。
そのあと、
一瞬の静けさが訪れた。
ドアの向こうから、
衣擦れの音がして、
それから――何かが止まった。
息を呑むような、長い沈黙。叫び声。
次の瞬間、遙の声が低く響いた。
「……なんで、私の部屋、荒らされてるの?」
俺は、のそのそと起き上がった。
「え?」
遙の部屋をのぞくと、
そこは、まるで小さな嵐が通り過ぎた後のようだった。
ベッドカバーは半分剥がれ、
クッションが床に落ちている。
化粧台の引き出しは開け放たれ、
スキンケアの瓶や小物が転がっていた。
クローゼットの扉も開きっぱなしで、
中の箱がいくつも引きずり出されている。
服の袖が床に垂れ、
薄い布の上には、汚れたものが
箱の中は、引きずり出されて、倒れて、
中からいくつか茶碗が転がっていた。
遙の作品たちだった。
白地に、淡い桜模様の繊細な陶器
あの、愛美が欲しがっていた茶碗も、ここから出したと、わかった。
床に転がったそれは、光を受けて、
まるで壊れる前の一瞬のように、静かに輝いていた。
俺は頭をかきながら言った。
「……あー、姪っ子が来てたんだ。母さんと姉貴と一緒に」
遙がこちらを見た。
何も言わない。
ただ、目だけが俺をまっすぐに射抜いていた。
「ごめん、悪かった。片づけ手伝うわ」
口から出たその声が、
自分でも驚くほど軽かった。
けれど、その軽さの裏に、
何も考えていない自分がいた。
遙はゆっくりと息を吸い、
そのまま何も言わず、背を向けた。
部屋の中に、
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風の音が聞こえた気がした。
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