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8章 刻一刻と迫る危機
71 俺が元の世界に帰るということは
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雨上がりの匂いがする夜の庭で、俺は彼女の涙と柔らかい感触を抱き締めていた。それはとてつもなく長い時間に感じられたが、実はほんの一分くらいだったのかもしれない。
「ユースケー!」
建物の中からヒルドの声がして、美緒がハッと俺の胸から顔を上げた。恥ずかしそうに戸惑う表情に「大丈夫だよ」と声を掛けると、美緒は両手を目に押し当てながらそっと俺の腕を離れる。
「ユースケー」と今度は足音が混じって、俺は「ヒルド」と声の方向に振り向いた。
駆け足の音が大きくなりバタリと側の扉が開くと、爽やかな笑顔のヒルドが現れた。
「ここに居たのか」と何故か俺じゃなく美緒に話しかけるヒルド。
「デザートが来るからミオを呼んできてって言われてさ。もちろん、ユースケの事もだよ? ミオ、僕はヒルド。絵描きで剣師でユースケの戦友さ」
「戦友?」
決めポーズをかましながら、さりげなく自己紹介するヒルドに怪しげな視線を向けながら、美緒は俺にそっと身を寄せた。
「そう。僕とユースケは一心同体なのさ」
「いや、それは違うだろ」
「ふふん。そのくらい近い存在だってことだよ」
掌を自分の胸に当てながら、ヒルドは勝手にそんなアピールをした。
美緒も疑いの眼差しで俺をチラ見し、「そうなんですか」と鵜呑みにしてしまう。俺が「そうじゃないから」と弁解しても微妙な空気が漂ってしまった。
「よろしくお願いします」
「うん、よろしく。じゃあ、先に行くから早めに来て」
片手を上げたポーズを取り、ヒルドはそのまま来た道を戻っていった。その背を見送る美緒は、何度も瞬きをしながら呆然と立ち尽くしている。
「絵描きさん、なの?」
ようやく俺を振り向いて、放った言葉がそれだ。同時に俺は、俺の部屋に飾られてしまったヤツの自画像を思い出して、深い溜息をついた。
「まぁな。うまいっちゃ上手いんだろうけど。個性が強いというかなんというか」
「そうなんだ。凄い人なんだね」
目を丸くして頷いた美緒が、今度は話し辛そうに俺から視線を外す。
「えっと。あのね、佑くん」
美緒は赤いチャイナドレスの胸元をギュッと握り締めた。
「いいよ、別に。言いたくないなら無理しなくても。言いたくなってから言えばいいし。ただ、俺はまだこの世界に残っていいのか? それだけははっきり言って欲しい」
それが俺の一番聞きたかったことだ。
美緒は、少し考える素振りを見せた後に「いいよ」とか細い声で答え、こくりと頷いた。だから、俺はそれをポジティブに受け止めようと思う。
「分かった」
美緒はもう一度、今度ははっきりと分かるくらいに大きく頷いて、「先、行くね」と走り去っていった。
一人残された俺はというと、夜の肌寒さに両肩を抱えたところで、
「ユースケ」
また別の声に呼ばれた。
ちょっと低めで、可愛さよりも艶のある大人の女性。
声の主はすぐに察することが出来たが、姿が見当たらず、俺はきょろきょろと辺りを見回した。
そして、すぐ真上にある誰もいなかった筈のバルコニーに、乗り出すように頬杖をつく彼女を見つける。
「マーテルさんだよな?」
暗くてはっきりは見えなかったが、風になびいた長い髪が明るい事は良くわかる。
いつからそこに居たのだろうか。
一階の天井がさほど高くないのと静けさのせいで声も良く届き、この距離でも普通に話すことが出来た。
俺はバルコニーの端まで近付いて、大きくマーテルを仰ぎ見た。
「聞いてたのか?」
「そうね、大体ね」
暗闇に浮き出た彼女の唇がにっこりと笑みを模るのが見えて、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
俺は美緒を抱いた……というか、抱き締めてしまった。別れ際意識していなかったのに、今になって悶々と湧いてくるその情景に、顔がカーッと熱くなった。
「なら、聞いていいか?」
典型的な『穴があったら入りたい』感情を抑えつけて俺が意を決して尋ねると、マーテルは「なぁに」と手を振ってくる。
「俺は、元の世界に帰った方がいいと思うか?」
「どうかしら。好きなようにすればいいんじゃない? 転生者が向こうに戻ったとしても、貴方は私と会ったあの場所から今までの記憶を失うだけ。だから、貴方にとってはマイナスにはならないと思うけど」
転生者は、元の世界に戻ると、この世界での記憶を消される。
そうか――忘れていた。
この世界の『旅の記録』は抹消されてしまうのだ。
「それは、嫌だ」
「そう思うのも門を潜るまでの話だけどね。悩んでたことも忘れるわよ。なぁに? ミオを連れ帰る手はずでもついたの?」
俺は大きく横に頭を振った。
「だったら、貴方は向こうの世界でまたミオを探すことになるのね」
「保管者のまま戻るってことか?」
「ミオと一緒に帰らないのならね」
最悪の展開だ。
あの日に戻るなんて、悪夢としか言いようがない。
もうマーテルは、俺の前に現れてはくれないんだろう――?
「ミオが何を考えて貴方と距離を置いてるのかなんて私には分からないけれど。ミオにとって貴方はわがまま言える相手ってことなんだから、胸張っていいと思うわよ?」
「そう……なのかな」
「私と貴方が色々考えたって仕方のない事でしょう? 帰りたかったら帰りなさい。クラウ様に言えば、そうさせてもらえるはずよ」
そう言い残して、マーテルは建物の中へと戻って行ってしまった。
この世界に来たばかりの俺は、美緒に会うためにこの城へ来ることばかりを考えていた。
それが何の努力もなしに連れて来られて、美緒の心も掴めずにいる。
自分のすべきことを失いかけた俺は、とりあえず初心に帰ろうと思った。時間がかかってもいいから、美緒と一緒にあの世界へ戻れたらいい。
「それでいいんだよな?」
虚空に投げかけた疑問符は、ひゅうと吹いた風にさらわれて暗い夜に散っていった。
「ユースケー!」
建物の中からヒルドの声がして、美緒がハッと俺の胸から顔を上げた。恥ずかしそうに戸惑う表情に「大丈夫だよ」と声を掛けると、美緒は両手を目に押し当てながらそっと俺の腕を離れる。
「ユースケー」と今度は足音が混じって、俺は「ヒルド」と声の方向に振り向いた。
駆け足の音が大きくなりバタリと側の扉が開くと、爽やかな笑顔のヒルドが現れた。
「ここに居たのか」と何故か俺じゃなく美緒に話しかけるヒルド。
「デザートが来るからミオを呼んできてって言われてさ。もちろん、ユースケの事もだよ? ミオ、僕はヒルド。絵描きで剣師でユースケの戦友さ」
「戦友?」
決めポーズをかましながら、さりげなく自己紹介するヒルドに怪しげな視線を向けながら、美緒は俺にそっと身を寄せた。
「そう。僕とユースケは一心同体なのさ」
「いや、それは違うだろ」
「ふふん。そのくらい近い存在だってことだよ」
掌を自分の胸に当てながら、ヒルドは勝手にそんなアピールをした。
美緒も疑いの眼差しで俺をチラ見し、「そうなんですか」と鵜呑みにしてしまう。俺が「そうじゃないから」と弁解しても微妙な空気が漂ってしまった。
「よろしくお願いします」
「うん、よろしく。じゃあ、先に行くから早めに来て」
片手を上げたポーズを取り、ヒルドはそのまま来た道を戻っていった。その背を見送る美緒は、何度も瞬きをしながら呆然と立ち尽くしている。
「絵描きさん、なの?」
ようやく俺を振り向いて、放った言葉がそれだ。同時に俺は、俺の部屋に飾られてしまったヤツの自画像を思い出して、深い溜息をついた。
「まぁな。うまいっちゃ上手いんだろうけど。個性が強いというかなんというか」
「そうなんだ。凄い人なんだね」
目を丸くして頷いた美緒が、今度は話し辛そうに俺から視線を外す。
「えっと。あのね、佑くん」
美緒は赤いチャイナドレスの胸元をギュッと握り締めた。
「いいよ、別に。言いたくないなら無理しなくても。言いたくなってから言えばいいし。ただ、俺はまだこの世界に残っていいのか? それだけははっきり言って欲しい」
それが俺の一番聞きたかったことだ。
美緒は、少し考える素振りを見せた後に「いいよ」とか細い声で答え、こくりと頷いた。だから、俺はそれをポジティブに受け止めようと思う。
「分かった」
美緒はもう一度、今度ははっきりと分かるくらいに大きく頷いて、「先、行くね」と走り去っていった。
一人残された俺はというと、夜の肌寒さに両肩を抱えたところで、
「ユースケ」
また別の声に呼ばれた。
ちょっと低めで、可愛さよりも艶のある大人の女性。
声の主はすぐに察することが出来たが、姿が見当たらず、俺はきょろきょろと辺りを見回した。
そして、すぐ真上にある誰もいなかった筈のバルコニーに、乗り出すように頬杖をつく彼女を見つける。
「マーテルさんだよな?」
暗くてはっきりは見えなかったが、風になびいた長い髪が明るい事は良くわかる。
いつからそこに居たのだろうか。
一階の天井がさほど高くないのと静けさのせいで声も良く届き、この距離でも普通に話すことが出来た。
俺はバルコニーの端まで近付いて、大きくマーテルを仰ぎ見た。
「聞いてたのか?」
「そうね、大体ね」
暗闇に浮き出た彼女の唇がにっこりと笑みを模るのが見えて、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
俺は美緒を抱いた……というか、抱き締めてしまった。別れ際意識していなかったのに、今になって悶々と湧いてくるその情景に、顔がカーッと熱くなった。
「なら、聞いていいか?」
典型的な『穴があったら入りたい』感情を抑えつけて俺が意を決して尋ねると、マーテルは「なぁに」と手を振ってくる。
「俺は、元の世界に帰った方がいいと思うか?」
「どうかしら。好きなようにすればいいんじゃない? 転生者が向こうに戻ったとしても、貴方は私と会ったあの場所から今までの記憶を失うだけ。だから、貴方にとってはマイナスにはならないと思うけど」
転生者は、元の世界に戻ると、この世界での記憶を消される。
そうか――忘れていた。
この世界の『旅の記録』は抹消されてしまうのだ。
「それは、嫌だ」
「そう思うのも門を潜るまでの話だけどね。悩んでたことも忘れるわよ。なぁに? ミオを連れ帰る手はずでもついたの?」
俺は大きく横に頭を振った。
「だったら、貴方は向こうの世界でまたミオを探すことになるのね」
「保管者のまま戻るってことか?」
「ミオと一緒に帰らないのならね」
最悪の展開だ。
あの日に戻るなんて、悪夢としか言いようがない。
もうマーテルは、俺の前に現れてはくれないんだろう――?
「ミオが何を考えて貴方と距離を置いてるのかなんて私には分からないけれど。ミオにとって貴方はわがまま言える相手ってことなんだから、胸張っていいと思うわよ?」
「そう……なのかな」
「私と貴方が色々考えたって仕方のない事でしょう? 帰りたかったら帰りなさい。クラウ様に言えば、そうさせてもらえるはずよ」
そう言い残して、マーテルは建物の中へと戻って行ってしまった。
この世界に来たばかりの俺は、美緒に会うためにこの城へ来ることばかりを考えていた。
それが何の努力もなしに連れて来られて、美緒の心も掴めずにいる。
自分のすべきことを失いかけた俺は、とりあえず初心に帰ろうと思った。時間がかかってもいいから、美緒と一緒にあの世界へ戻れたらいい。
「それでいいんだよな?」
虚空に投げかけた疑問符は、ひゅうと吹いた風にさらわれて暗い夜に散っていった。
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