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10章 前時代を生きた記憶

106 俺はその為にここへ戻ってきたんだ

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 マーテルが重いため息を吐き出した。

「ハイド様も、あそこまでやる必要があるのかしら」

 憔悴しょうすいした赤黒い瞳が見据えるのは、山の中腹に建つ魔王の城だ。
 徐々に鮮明になる悲惨さに、俺は思わず顔を引きつらせる。庭に面した壁がきれいさっぱり抜けていて、部屋の中まで見えてしまう程だ。

 俺の部屋も歓迎会をしてもらった広間も崩れた南側に面していて、中での記憶を思い出すと全身がゾワリと恐怖を沸き立たせる。

「大丈夫、マーテルが戻してくれるさ」
「本当に? あれを直せるんですか?」

 壊れたおもちゃでも直すような口ぶりのゼストに、マーテルは整った眉をスッとひそめて、「全く同じにはならないわよ」と呟く。

「修復師は壊れたものの声を聞くっていうよ。城がそのままでいたいっていうなら戻らないんじゃないかな」
「そういう事ね」
「でしょ? もしかしたら、黒じゃなくて白い壁がいいとか言い出すかもね」
「そりゃいいや」

 噴き出すゼストにマーテルは苦笑して、溜息を繰り返すばかりだ。
 冗談まがいのヒルドの言葉に何故か納得するような空気が流れているが、やっぱり俺には擬人化した城が「仕方ねぇな、直ってやるぜ」という図しか浮かんでこなかった。
 けれど方法はともかく、あの壊滅的な状況から再生させることができるのなら、それは神業だなとマーテルを尊敬してしまう。

「ところで。ハイド様がクラウに聖剣を抜かせたくてこんなことになったってとこまでは分かったけど、ハイド様に抗議する奴は出てこないのか?」
「そりゃあいるわよ。死人さえ出ていないけれど、怪我人はたくさんいるもの。ハイド様の道楽だって話してる人もいたわ」
「けど、あの爺さんはそういうの全く聞き入れようとしねぇからな」

 マーテルはゼストの言葉にうなずくと、城から視線を返し「それに」と桜色の唇をキュッと噛み締めた。

「クラウ様が聖剣を抜けないことは、見過ごすことのできない話なの」
「聖剣を抜くことがそんなに大事なら、もっと早く試せばよかったんじゃないのか? 魔王になって10年以上も経って、今更っていうか……」

「アレは魔王ですら不用意に抜いていいもんじゃねぇんだよ。有事ゆうじの時と、祭の時だけな。数か月前に祭りの準備が始まって、その時初めてクラウ様は剣に触れた。その結果がこれだよ。言っただろ? もしこのまま抜けなかったら俺たち一緒に旅にでも出るって」
「じゃあ、その時は僕の居る町へおいでよ。僕の家はチルチルにあるんだ」

 チルチルは、海の側にある大きな町だと前に聞いたことがある。
 ゼストが「そりゃいいな」と海側へ顔を向けた。ここから水の色は見えなかったが、マーテルも「そうね」と少しだけ笑顔を見せる。

 まっすぐに伸びる坂の先に、ボロボロの門が見えた。
 塀も所々が落ちていて、もうその役目は果たしていないが、いつも通り門の両側には兵が立っている。
 敬礼する兵たちの間を通り抜け、少し入ったところで「ここでいいかな」とヒルドがトードを制止させた。門の中は慌ただしく、バタバタと人が行き交っている。
 荷台から降りると、駆け寄ってきた二人の兵士が俺たちに敬礼して、トード車を移動させていった。

 城の北側は所々崩れているところもあったが、そこまでの被害は見受けられなかった。
 俺は南側を目にする時のショックを少しでも緩和させようと胸に手を置いて、歩きだすマーテルについていく。

 城の西側を通って庭の方角へ歩いていくと、徐々に損壊そんかいの状況がひどくなっていった。
 城の影を抜けたところで、俺は目の前に広がった状況に立ちすくんでしまう。

 花が咲き乱れるとクラウが自慢した庭が、跡形もなく消えていた。地面に崩れた木々と散乱する葉っぱで、そこが庭だったんだなと思えるくらいだ。

 斜めに崩れ落ちた壁が視界の隅にあって、その壊滅的な光景を受け入れるには勇気がいった。
 「あぁ……」とゼストの悲痛な声が耳に届いて、俺は胸に当てた手に力を込めて、半分諦めの気分で首を回す。

「ひどい……」

 その言葉を呟くのがやっとだった。
 ムードメーカーのヒルドでさえ、「こんなの見せられたら悲しくなっちゃうね」と傷心気味だ。
 魔王が剣を抜けないだけで、どうしてこんなことになってしまったんだろうか。異世界人の俺には訳が分からなかった。

 けれど未来さえ悲観してしまうような状況で、行き交う人々は思った以上にハツラツとしている。
 庭の片づけをする者、城の中を片付ける者、食事を配る者、それぞれが前向きに笑顔さえ見せている。

「どうして……」
「佑くん?」

 それは突然だった。
 その声が俺の耳に届いて、俺は思わず泣いてしまった。
 俺の感動を無視して、「おぉ、及川」と声を掛けるゼスト。「良かったね、ユースケ」とハンカチを差し出してくれたのはヒルドだ。
 俺はそれを受け取ってゴシゴシと涙を拭い、改まって声の方へ身体を向けた。

 最初に赤い布が目に飛び込んできて、急に恥ずかしくなる。
 目が合った瞬間に、花を咲かせたようにパッと広がる笑顔が俺を迎えた。
 俺はこの世界を知る前、ずっとそれが当たり前のことだと思っていた。
 けれどそれは全然そうじゃないことを思い知らされた。
 彼女の笑顔が愛おしくて、たまらない。

「美緒……」

 どこも怪我している様子はなく無事を確認すると、また涙が出てきてしまう。
 嬉しくて、心が締め付けられるような再会だった。

 「良かった」と微笑む彼女に、俺は「お前もな」とぐしゃぐしゃの笑顔を返した。
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