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Episode1 京子

30 はやく帰りたい

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 微睡まどろんだ意識が、ハンマーでなぐられたような痛みに叩き起こされる。

「痛ったい……」

 突然の覚醒に、京子は視界を塞ぐ氷嚢ひょうのうを除けた。最初に見えたのは、オレンジ色の光に包まれた暗い天井だ。
 掛けられた毛布の温もりに安堵あんどし、ズキリと痛む米神を抑えながら起き上がる。

「もう少し、寝てたほうがいいぞ」

 人の気配に気付くのと同時に声を掛けられた。
 声の主が水割りの入ったグラスを手に、カウンターの椅子からこちらを見下ろしている。怒りと困惑の入り混じる表情に、京子は躊躇ためらいながら尋ねた。

「平野さん……私、どうして」

 店の前で倒れた所までは覚えている。見知らぬ女性に声を掛けられ、次に目覚めた時には彼の店のソファで寝かされていた。
 他に客の姿はなく、支部へ行った綾斗もいない。無音の店内に、平野と二人きりだ。
 
「まだ熱が下がりきってねぇから、立つと倒れるぞ」

 心がいて彼に駆け寄ろうとするが、立ち上がった途端目眩めまいを感じた。
 慌ててソファの背を掴み、再び腰を落とす。

「姉ちゃん、いつからいたんだ?」
「朝です。九時前からずっとそこにいました」

 真面目に答える京子に、平野は頬杖ほおづえをついていたひじをずるりと滑らせ、「馬鹿か」とののしった。

「一緒に来たガキはどうした。キーダーってのは、そんなこともしなきゃなんねぇのか?」
「彼も一緒です。ただ、用事で支部へ行ってもらっています」

 時計を確認すると八時を回った所だった。綾斗と別れてから一時間ほど過ぎている。ここから支部への往復時間を考えると、心配を掛けてしまっているかもしれない。

「美佐子が居なかったら凍死してたぞ。後で礼言っとくんだな」
「美佐子さん……あの女の人が……」
「隣の店の女将おかみだよ。俺の客がぶっ倒れてるって電話してきやがった」
「そう……ですか。ありがとうございます」

 京子は恐縮して頭を下げる。

「俺は何もしてねぇよ。今日もここに来る気はなかったしな。姉ちゃんの勝ちってことか」

 結果、平野に会うことができた。良かったと胸を撫で下ろすが代償は大きく、頭痛と全身を襲う倦怠感に、座っているのがやっとだった。

「寝てていいからな」

 平野はカウンターの奥へ行き、京子の所へ戻ってくる。
 側にある丸テーブルに持ってきたトレーを置き、テーブルごとソファへ寄せた。
 湯気の立つ中華まんと湯飲みが乗っている。

「アンタがぶら下げてたのをあっためただけだぞ。それと熱いの飲んどきゃ明日には治るだろ」

 綾斗が買ってきてくれた中華まんらしい。湯気で少し柔らかくなってしまっているが、数時間振りの温かい食事にほっとする。
 肉まんかと思っていたが、中身は予想外にあんこだった。
 そして湯飲みから立ち上る湯気の香りに、京子は眉を上げる。

「嫌いじゃねぇんだろ? ガキに止められるくれぇだからな」

 鼻を刺激してくるのはアルコール臭だ。少し喜んだ気持ちを言い当てられて、恥ずかしさに下を向く。
 平野は「はっは」と笑って再びカウンターへ戻り、水割りのグラスを手に取った。

「アンタ俺に、トールってのになれって説得しに来たんだろう? でも、二晩考えたけどまだこの力を手離す気にはなれねぇんだよ」

 能力者はその力を捨てることができる。力を縛られた元能力者は『トール』と呼ばれた。
 京子は日本酒の熱に寒気が和らいでいく感覚にホッとしながら、少しずつ湯飲みを口に運んだ。

「平野さんは山梨で力を撃って気持ち良かったですか?」
「あれは、何回やってもやめられねぇな」

 満足気に笑う平野。京子は左手首に掛かるそでをまくり、銀環ぎんかんでる。

「キーダーは、銀環で力を制御されています。本来の半分以下まで抑えられてるらしいけど、実際の所は分かりません。これを付けたまま平野さんと同じことをすれば、半径五十メートルくらいの穴は開けられると思います」
「まぁまぁってところだな」

「けど私たちは撃つ訓練を殆どしないんです。キーダーは趙馬刀ちょうばとうという剣のつかを携帯して、力で刃を生成して戦います。二十五年前の隕石の落下を防いで、キーダーはそれなりの地位を得ることができたけど、根本は何も変わらない。力を持たないノーマルにとってキーダーは恐怖なんです。だから撃つことは好まれない。訓練は肉弾戦が基本です」

 アルガスの上層部にキーダーはいない。ノーマルとキーダーの力関係は明白だ。

「結局キーダーってのは国に飼われてるんだろ? くつがえそうって奴はいねぇのか? 力があればアルガスを掌握しょうあくして国を制することだってできるんじゃねぇのか」
「……それをやったところで、得るものは少ないですよ」

 力を誇示こじして国を得ようなんて野心家は、今のキーダーに居るだろうか。
 銀環をしていても、扱われ方が荒くても、力を備えてこの国に生まれ、キーダーという居場所を提供されることは自分にとって都合がいい。
 程度の問題はあるが、利害はきっと一致している。

「平野さんのようにバスクが人里離れた所で力を撃つ事は良くあるんです。私も撃つと気持ちいいし、それはキーダーの本能なのかもしれない。だから、貴方の気持ちは分かります」
「でも、規則だから仕方ねぇっていうんだろ。気にくわねぇ」

 水割りをあおり、平野は横にあった黒い瓶を傾けグラスに黄昏色の液体を満たす。京子はすっかり火照った身体から毛布を外し、手でパタパタと顔を扇いだ。

「私だってキーダーとして強い信念をもってるわけじゃないんです。ただ、自分のやれることをやってるだけで」
「別にそれでいいんじゃないのか? 俺はキーダーを特別なヒーローだなんて思っちゃいねぇよ」

 ニヤリと笑った平野につられて、京子も笑みを零す。

 アルコールが回ってきたせいか、暫く考えないようにしていた桃也の顔が頭に浮かんだ。
 もう東京を離れて五日目。仕事に集中するという理由で電話もしていない日々は、仕事を早く終えるための願掛けのようだ。
 そろそろ彼に会いたいと思う。

 京子は湯飲みを手に立ち上がると、足をフラつかせながらカウンターへ移動し、平野の向かいにどんと座った。
 平野は京子の顔色を伺いながら、湯飲みの酒を継ぎ足す。

「大丈夫か? 最初からキーダーだってのも大変なんだな」
「私の事はいいんです。平野さんがどうするかを決めていただけますか? 私だって連行なんてしたくありませんから」

 「そうだな」と黙る平野に、京子は酔った勢いのまま思わず本音を漏らす。

「私は、早く東京に帰りたいんです」

 きっぱりと言い切ると、平野は京子の手元を見て「フン」と鼻を鳴らした。

「男に会いたいんだろ」

 試すように言った彼に真意を突かれて、京子はぐっと息を飲み込んだ。けれど勢いはそれを留めてはおかない。

「そうです」

 京子は桃也に貰った指輪に顔を落として、吐き出した返事に後悔する。売り言葉に買い言葉とはいえ、ちょっと酔いすぎだと反省した。

「面白い女だな」

 平野は呆気あっけにとられながら、「まぁ飲めるなら飲めよ」と半分面白がって再び京子の湯のみに酒を足す。

「ちょっと、そんなに飲めませんよ」

 京子は淵まで継がれた酒を一気に流し込み、グラつく目で平野を睨んだ。

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