神事舞

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第一部 噂

第一章 止栄行き(抜粋)

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2015年5月8日。
 午前の研究室は、いつものとおり蛍光灯の白さが紙の目を立たせるだけで、季節を運んでこない。机の端に置いたICレコーダーは、講義の雑音をまだ吐き続けている。私は再生を止め、卒論生から預かった草稿を閉じ、次のフォルダに「止栄(とまる)町」と打ち込んだ。

研究記録 2015-0508
身分:博士後期課程・研究員(民俗儀礼)
件名:止栄町の五十年祭(神事舞)聞き取り
情報源:K氏(民俗音楽・非常勤)より口頭情報。「京都と福井の県境の海辺—山間部に、五十年に一度の舞が『復活』する」と。舞は一族のみで執り行われ、能面の女が扇を持って舞い、背後で同族の演奏者が伴奏する。派手さはなく「極めて地味」。家は海宮家(うみみやけ)。町人の認識は「昔からやっている」「この家がやるもの」。
課題:公開性・秘儀性の境界/伝承の変質/近代以降の制度化不在(文化財指定なし)

 五十年、という数字は、研究者を呼ぶ。生涯の一度だけが許される所作というものは、個人の時間を儀礼へ貸し与える契約に等しい。契約が続くのは、筋があるからだ。筋を探すのが、私の仕事だ。

 K氏は、「今年がその年にあたる」と言った。資料に照らせば、昭和四十年(1965)に小規模な奉納があったらしい。つまり、ちょうど五十年で辻褄が合う。私は手帳の月間ページに“止栄—下見”と書いた。教授にあたる人からの返事は「行ってこい。どうせ君は現地に行かないと書けないタイプだ」だった。いつもどおりの皮肉と、いつもどおりの許可だ。

 京都駅から北へ向かう在来線は、観光パンフレットの写真ほど華やかではない。車窓のブルーグレーの海は、はにかみながら寄せてくる。渚の色は薄く、山がすぐ背にある。海辺で山間部、というK氏の曖昧な地口が、ようやく腑に落ちる。風は潮と土を混ぜ、あまり深く吸い込むと古い井戸の匂いを思い出す。

フィールドノート 2015-0512
目的:止栄町・海宮家の事前聞き取り、留里(とまり)神社の確認。
背景:留里神社には「社(やしろ)がなく神楽殿のみ」との情報。神職は海宮家が世襲。三百年継続。
メモ:町は高齢化と過疎の傾向。だが住民は「栄えている」と語る傾向あり(K氏談)。

 駅前のバスは本数が少なく、時刻表の白地に並ぶ黒字は容赦がない。私は一本逃すことの精神的な損失をだいぶ前に受け入れる術を覚えた。待ち時間に、止栄町の簡単な地図をスケッチする。海へ向かって谷が開き、背後に低い尾根がつづく。その懐に、留里神社の神楽殿があるという。社殿のない神社というのは、できごころのようでいて、実は筋が通っている。舞台が先で、神はその都度降りるという考え方だ。箱ではなく、口。神楽殿は、神が降りる“口”として作られる。

 バス停のベンチには、買い物帰りの女性がひとり。籠の中には乾物と、少しの野菜。私は会釈し、「止栄町へ行くのですが、神楽殿はバス停から近いですか」と尋ねた。女性は、すこし眩しげに顔を上げる。

「近いよ。あんた、祭りで来はった? 五十年のやつ、今年やろ」

「ええ、見学に。舞をされるのは——」

「海宮さんや。昔からのことやし。うちらは見るだけ。ありがたいことやで。生きてるだけでも」

 生きているだけでも。私は手帳に小さく丸をつける。感謝のハードルを下げる言い回しは、共同体の呼吸を長くする。肺活量が小さくなった町ほど、息の仕方を忘れまいとする。ありがたみの単位は、時に呼吸数と連動するのだ。

 バスの車体は小さく、揺れは車内の会話を自然に区切る。運転手の肩越しに見える海は、近づくほどに色が浅く、遠のくほどに深い。山がふたたび迫り、道は谷の腹をなぞるように曲がる。止栄の停留所は、古い日付のままのポスターを掲げていた。クマの注意喚起、献血の告知、そして小さな紙に**「神事舞・準備のため関係者以外立入禁止(神楽殿裏)」**と手書きである。日付は空欄のまま、乾いている。

研究記録 2015-0512-午後
留里神社(神楽殿)外観:拝所は開放、舞台前方は砂利。大きな社殿なし。裏手に楽屋のような小屋。
掲示:町内会掲示板に「五十年祭」の言い回し見当たらず。語の選好:「奉納」「舞」「準備」など。
海宮家:参道脇の古い家並の一角。表札あり。

 参道には誰もいない。砂利の音は、都会よりも高く聞こえる。私は神楽殿の床板に手を触れ、乾き具合を確かめる癖を抑えた。こういうとき、触れるという行為は私のなかで「余計な観測」にあたる。観測は、儀礼の寿命を縮めることがある。私は靴の砂利だけを鳴らし、海宮家の門前に立った。

 応対に出たのは、年配の男性だった。痩せているが骨太で、目尻に深い折り目がある。私が名刺を差し出すと、氏は名刺ではなく私の顔を先に見た。顔を先に見る者は、言葉より早くこちらの呼吸を測る者だ。

「京都の…大学の方。遠いところを。——舞は見学で?」

「ええ、もし許されるなら。事前に少し、お話を伺えればと」

「地味ですよ。見どころ、というようなものは、ありません。うちは派手なことはせんので」

 地味。K氏の言葉と重なる。地味というのは、派手ではないという意味だけではない。外に向けて増幅する意志を持たないということだ。内に閉じる意志の強度は、時に派手さよりも頑丈だ。

 座敷に通され、麦茶をいただいた。床の間に置かれた箱に、布が掛けられている。目立たない、だが動線の中心にある位置。私は目線を落ち着かせた。

「舞われるのは——」

「娘です。うちの者だけでやります。面と扇、音はうちで。昔からそうです」

「能面を…?」

「ええ。受け継ぎの。古いものです」

 箱の布の折り目は、最近めくられた気配を伝える。埃は薄い。指でなぞる癖をまたも抑えた。私は代わりに、母屋の梁の煤の具合を見た。煤は、行為の履歴を裏切らない。

フィールドノート 2015-0512-聞き取り
・舞手=女性(同族)/伴奏=同族(囃子)/観客=町民(外部者なしではないが、関係者が主)
・公開と非公開の境界は「演目(詞章)の不在」によって担保(=見ても意味が読み取れないようにできている)
・面と扇は世襲、他家へ貸与なし。

「何か、由来を書いた紙や帳面など、拝見できるものは——」

 男性は、少し視線を泳がせてから頷き、立ち上がる。廊下の先で古い戸を開ける音がした。戻ってきた彼の手には、黄ばみの強い帳面があった。表紙に墨で「留里神楽 覚(おぼえ)」と走り書きがある。頁を繰ると、箇条の式で、道具、役割、時間帯、禁忌が並ぶ。由来の段では、文字が少し崩れ、ある語が繰り返し出てきた。

 「願解(ねがいほどき)」「願返(ねがいがえし)」。
 願いは、叶えるだけではない。ほどくものでも、返すものでもある。私は指を止めた。願いを返す、ということは、願いがつねに負債を孕むことを知っている家の文法だ。

「いつ頃から、この舞は?」

「三百年と聞いてます。先々代の話や、覚にもそう書いてあります」

「この町の方は、皆さんご覧になる?」

「ええ。ありがたいことやと。——生きておれますからな」

 「生きておれますからな」という言い回しに、同じベンチの女の人の声が重なった。この町には、生の単位を小さく刻んで受け取るための祈りがある。祈りは大きく叶えられなくても、生の刻みを小さくすれば達成率が上がる。「ありがたみ」は、それで増幅できる。

 帳面の末尾に、細い筆で、地名のような人名のような文字があった。「市」の字と、「亮」の字の間に、墨が薄くなる。私は読み取る自信が持てず、問うのをやめた。**観測には順序がある。**ここで問うべきでないことは、わかっている。

研究メモ
・公開儀礼でありながら、意味の不在(詞章の欠落)によって内側が保たれる構造。
・願いの語彙:「ほどく/返す」=負債の処理。
・五十年=個人生のほぼ一度。「家」に対する「人」の従属度が高い。
・文化財指定の回避=行政的関与の低さ=家系の独占性の温存。

 夕方の光は、海の上で拡散し、山の稜が輪郭を失くす。海宮家を辞して神楽殿の前に立つと、板のきしみだけが早く夜になる。私はレコーダーの赤い点を見て、録音が続いていることを確認した。砂利の音は、さきほどより低くなっている。夜は、音からやって来る。

 宿に戻って、ノートを開き、今日の語句を箇条書きにする。「地味」「家だけ」「願いを返す」「生きているだけでも」「五十年」。語句の列は、それ自体で一種の詩になる。詩は、論文の裏面だ。眠れない夜、私は詩のほうをよく読む。
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