神事舞

M712

文字の大きさ
4 / 25
第一部 噂

第四章 古帳面

しおりを挟む
 止栄町に滞在して三日目。夜の舞を見てから、まだ半日ほどしか経っていないというのに、時の流れがひどく鈍って感じられる。
 人の営みがゆっくりとしているのではなく、私の中で時間が摩耗しているのだ。
 それでも、観察者として筆を取る責務だけは失いたくなかった。

 朝、宿の窓を開けると、風が灰色だった。湿気の中に塩気が混じる。
 今日は郷土資料を閲覧するため、かつて小学校だった建物に向かう。
 今は「止栄文化館」として利用されているが、廊下の長さと黒ずんだ床板の艶が、まだ子どもの足音を記憶しているようだった。
 校庭にはサビついたジャングルジムがある。
 あれを片づける予算も、この町にはもうないのだろう。

 資料室は、昇降口の奥にあった。
 扉を開けると、室内は思ったよりも明るい。
 窓際の机に、若い女性がひとり座っていた。
 肩までの黒髪、ノートパソコンの画面を覗き込んだまま、イヤホンをしている。
 その指がときどきリズムを刻むのを見て、私は音楽ではなく、ゲームだと気づいた。

 「すみません、資料を拝見したいのですが」
 声をかけると、彼女はようやくこちらを見た。
 「えっと、見目|《みめ》です。いま、管理担当してます。どのへんですか?」
 「留里神社に関する文献を、できれば原本に近い形で」
 「原本は民家にあるらしいんですよ。今ここにあるのは写本ですね」
 彼女は机の上のノートを閉じ、引き出しから鍵束を取り出す。
 「こっちです。あ、でも撮影とかはご遠慮くださいね」
 「筆記は構いませんか」
 「別にいいです。書いても誰も読まないし」

 その言葉に、思わず笑ってしまいそうになった。
 見目の声には皮肉も嘲りもなく、ただの“無関心”があった。
 ——記録の無意味さを信じる者と、記録の意味を信じようとする者。
 文化を伝える立場にいるのは、いつもこの二人だ。

 案内された資料室は、理科室を改装したような造りだった。
 棚の上には段ボール箱が積まれ、ラベルの文字は薄れている。
 古い紙の匂いが、ほこりと油を混ぜたように鼻を刺す。
 壁の時計は止まっていた。

 私は指定された机に腰を下ろし、目の前に置かれた一冊を開いた。
 『留里神社関係帳面(写)』と、表紙に墨で書かれている。
 紙は後世の奉書紙で、筆跡は過剰に整っており、読みやすいはずなのに読めない。
 線の流れが美しすぎるせいで、意味が滑ってしまうのだ。

 数頁めくったところで、薄い墨の行が目にとまった。
  「願ひ返す」
  「沈むほどに豊けく」
  「神に渡す」
 この三行が、どのような文脈で書かれたのかはわからない。
 だが、祝詞にしてはあまりに平板で、節もない。
 祈りというより、命令文のように響く。

 ——「願いを返す」とは何か。
 人が神に祈るとき、願いは天に向かう。
 ならば返すとは、下へ戻すことだ。
 「沈むほどに豊けく」は、その動きを補強している。
 沈み=死、豊けく=肥える。
 まるで死によって肥やされることを、喜びとして受け入れる文だ。
 筆者はそれを当然のように書いている。

 さらに読み進めると、
 「異人イチリョウより教へ賜る」という記述があった。
 それは本文の終わり近くに小さく添えられており、まるで署名のようでもあり、出典のようでもあった。
 私は思わず、その箇所をノートに転記する。
 誰かがどこかから、この舞を“教わった”という事実。
 それは伝統が自生的ではなく、導入されたものだったことを意味する。

《フィールドメモ》
「イチリョウ」という語、明確な人物名と断定できず。
「一条」や「市領」との混同も考えられる。
ただし「異人」という表現の併記が示すのは、外来的起源。
地域的には、明治初期の移入儀礼の可能性がある。

 私はしばらくペンを置き、頭を冷やした。
 資料室の窓から差し込む午後の光が、頁の上に淡く滲んでいる。
 外では風が強くなり、古い校舎の屋根を鳴らしていた。
 その音がまるで、遠い太鼓のように聞こえた。

 ページの隅には、薄く朱が残っていた。
 印か、それとも血の色か。
 墨の下にうっすらと透けるその朱を見ていると、
 舞の最後に見た、面の女の瞳が頭をよぎった。
 ——あの目も、光を吸っていた。

 私は首を振り、思考を切り替えた。
 調査者として、感情に傾くのは禁物だ。
 だが、筆を進める手がどうしても重くなる。
 「神事舞」という語が、この帳面の随所に記されていた。
 文字は「神」「事」「舞」と整っているが、読み仮名が不明確だ。
 地元では「しんじまい」と呼ばれている。
 けれど、帳面の筆致では「まい」と「まへ」の中間のように見える。
 発音を思い出すと、あの夜も終盤になるほど、言葉がぼやけていた。
 ——「しんじまい」とは、果たしてどこまでが“音”で、どこからが“意味”なのか。

《記録》
神事舞(しんじまい)
・語の響きに微かな曖昧さ。
・方言・訛音による変化の可能性。
・「まい/まへ」いずれも古語では動作を示す語尾。
・ただし「まへ」は命令・勧誘に近い。
→ 「しんじまへ」の発音が、民俗的転訛として生じた可能性。

 言葉を分析することは、世界を解剖することに似ている。
 だが、どんなに解体しても、あの夜の“間”は書き起こせない。
 音も、動きも、時間さえも、紙の上では別のものになる。
 記述は信仰の死を意味するのかもしれない。
 書けば書くほど、あの舞が遠ざかる。

 見目が再び資料室に入ってきた。
 「そろそろ閉めますね」
 彼女は軽く言い、机の端に置いたスマートフォンを見た。
 画面の中では、誰かが笑っている。
 「神事舞って、そんなに有名なんですか?」と聞くと、
 彼女は肩をすくめた。
 「さあ、うちの県では知らないですね。テレビとかにも出ないし」
 そう言って、また画面に視線を戻した。

 私は帳面を閉じ、ノートを仕舞った。
 ページの間に、うっすらと墨の粉が残っている。
 光を浴びると、それが銀のように光った。
 その瞬間、なぜか心臓が一拍、遅れた。

 帰り道、風が冷たく、背中を押した。
 海の音が遠くで響く。
 まるで町そのものが、潮の呼吸をしているようだった。

《フィールドノート/2015-0524》
・廃校文化館にて『留里神社関係帳面(写)』閲覧。
・記載に「願ひ返す」「沈むほどに豊けく」「神に渡す」「異人イチリョウより教へ賜る」あり。
・「神事舞」発音に揺らぎ。方言の影響と推測。
・舞の“間”の再現不可。
・記述行為が現象を殺す感覚。

 筆を置いたあと、私はしばらく手を見つめた。
 インクの匂いが、昨夜の油と同じように思えた。
 この土地では、すべての匂いが同じ方向を向いている。
 沈むほうへ。

 書いていて、ふいに気味が悪くなった。
 ここで筆を止める。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

【1分読書】意味が分かると怖いおとぎばなし

響ぴあの
ホラー
【1分読書】 意味が分かるとこわいおとぎ話。 意外な事実や知らなかった裏話。 浦島太郎は神になった。桃太郎の闇。本当に怖いかちかち山。かぐや姫は宇宙人。白雪姫の王子の誤算。舌切りすずめは三角関係の話。早く人間になりたい人魚姫。本当は怖い眠り姫、シンデレラ、さるかに合戦、はなさかじいさん、犬の呪いなどなど面白い雑学と創作短編をお楽しみください。 どこから読んでも大丈夫です。1話完結ショートショート。

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

処理中です...