神事舞

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第一部 噂

第八章 沈む声

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 夜の帳が落ちるのを、ただじっと待っていた。
 昼のあいだ、海風に晒された体の奥に、まだ塩のざらつきが残っている。
 洗っても取れない感触だ。
 机の上の録音機は、昼と同じ姿でそこにある。
 銀色のボディが、部屋の薄灯りを鈍く返す。
 どんよりとした光の中、私はようやく再生ボタンを押した。

 ノイズが走った。
 砂が擦れるような低音がしばらく続き、そのあとに波の規則音。
 七秒ごとに繰り返される揺らぎ。
 私は波形を紙の上に転写していく。
 一本の線を、丁寧に、呼吸と同期させながら。

《録音解析/No.14》
・収録時間:08:14~08:32
・波形周期:7.1~7.3秒
・基底周波数:72~75Hz
・ノイズ干渉率:低
・人声判別:なし
備考:「間(ま)」に類似した無音域あり

 耳を澄ますと、波の裏側にかすかな息づかいが混ざる。
 風ではない。
 波の合間、微かに“拍”のようなものがある。
 リズムがずれているのに、全体としてはひとつの脈動をなしていた。

 その拍が、やがて“声”へと変わった。
 最初は錯覚だと思った。
 機械の残響、電源ノイズ、あるいは耳鳴り。
 だが聞き続けていると、それが確かに語を持ちはじめる。

 ——ま、へ。

 思わず再生を止めた。
 息が浅くなる。
 昼間の帳面の文字が、頭の奥で蘇った。
 「神事舞(しんじまい)」の末尾にあった曖昧な音、“まい”と“まへ”のあいだ。
 まるで、海がそれを口ずさんでいるようだった。

 再び再生ボタンを押す。
 耳の奥に、どんよりとした低音が広がる。
 波、呼吸、沈黙、そして——ま、へ。
 同じ順番で、何度も繰り返される。
 そのたびに心臓が打つ。
 録音機と私の脈が、ゆっくり同期していくのがわかる。

《フィールドメモ》
・聴取中、鼓動と波形周期の一致を確認。
・被験者:三度哲夫。
・感覚的共鳴による錯覚の可能性。
・ただし心拍の変動(バイオリズム)は録音波形と連動。
→ 聴覚刺激ではなく、身体的同調の兆候。

 机の上に置いたペンが震えていた。
 風は吹いていない。
 私自身の手が、音に合わせてわずかに動いているのだ。
 記録しなければと思いながら、ノートの線が波形に似ていく。
 書くたびに、紙面が海のようにうねった。

 どれほど時間が経っただろう。
 録音はまだ続いていた。
 ふと、イヤホンを外すと、部屋の外から同じ音が聞こえた。
 波の音が、陸にまで這い上がってくるようだった。
 ま、へ。
 ま、へ。
 ま、へ。
 規則的な間。
 この町の呼吸だ。

 私は宿を出た。
 外気は湿って重い。
 どんよりとした街灯の下、誰も歩いていない。
 浜へ続く道の先に、光のような白い帯が揺れている。
 それは霧か、あるいは波の反射か。

 録音機を胸に抱えたまま、私は砂浜へ降りた。
 潮が満ちていた。
 昼間よりも波が高い。
 音の厚みが増している。
 空も海も一つになり、境界がない。
 まるで巨大な胸郭の中にいるようだった。

 耳ではなく、体全体で“音”を聞いていた。
 鼓動が海に吸い込まれていく。
 やがて、波の向こうに微かな光が見えた。
 灯ではない。
 揺らぐ銀の線。
 その形が、昼に見た波形と同じだった。

《観察記録/夜間》
・視覚的残像と波形パターン一致。
・感覚干渉(シナスタジア)発症。
・聴覚刺激により視覚神経活動上昇。
・原因:不明。

 私は膝をついた。
 波が足を撫でる。
 塩水が冷たいのに、肌は焼けるように熱かった。
 録音機を耳に当てる。
 音はもうノイズではない。
 誰かの声だった。
 複数の声が重なっていた。
 男も女も、老いも若きも。
 すべてが同じ言葉を繰り返す。

 ——まへ、まへ、まへ。

 その瞬間、私は理解した。
 これは呼びかけではない。
 命令だ。
 祈りでも願いでもない。
 沈め、という命令。
 この土地では、祈りが“命令形”で語られてきたのだ。
 「願ひ返す」「神に渡す」とは、
 上に向かうのではなく、下へ返す行為だった。

 ふと、昼の少年の顔が脳裏に浮かぶ。
 ——沈んだ人の声だと思う。
 あれは比喩ではなかったのだ。
 彼はほんとうに、声を聞いていた。

 波がさらに高くなる。
 録音機が砂に落ち、赤いランプが点滅する。
 私はそれを拾い上げようとして、
 そこで見た。

 砂の下から、無数の泡があがっていた。
 小さな泡が弾けるたびに、
 ま、へ、という音がした。
 それが繋がり、波となり、声となる。
 世界の表層がゆっくりと呼吸している。
 海が、土地が、声を返している。

《フィールドノート》
・「沈むほどに豊けく」文言との一致。
・音声=泡=呼吸=沈降の象徴。
・祈りは上昇ではなく下降運動。
・土地の生命観における「死=豊穣」構造。

 私は立ち上がり、息を整えようとした。
 だが肺が重く、うまく呼吸ができない。
 吸い込んだ空気が、塩水のように肺を満たす。
 胸の奥で泡が弾ける音がした。
 ——私の中にも、海が沈んでいく。

 気づくと、東の空が明るくなっていた。
 光はまだどんよりとしている。
 灰と銀の境目で、夜が海に溶けていく。
 波の音が遠ざかる。
 私は録音機を見つめた。
 ランプは消えていた。

 ノートを開き、震える手で最後の一文を書いた。

 > 「音は、神よりも正確に祈りを覚えている。」

 ペン先から落ちたインクが、
 紙の上で黒く滲んだ。
 その形は、
 泡に似ていた。
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