神事舞

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第一部 噂

第九章 願いの地形

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朝の光は相変わらずどんよりとしていた。
 灰色の膜が空一面に張って、町の輪郭を柔らかくしている。
 宿の前に立つ丸ポストの赤が、やけに古びて見えた。
 ポストの口はひび割れ、投函口の金属は白く退色していた。
 この町の赤色は、いつも“古い血”の色をしている。

 私は海辺ではなく、今日は陸へ向かうことにした。
 音に引き寄せられすぎると、観察者の耳は“聞くもの”に吸われる。
 距離をとる必要がある。
 あくまで記録として、この土地の**地形(テリトリー)と言葉(コード)**の対応を見ておきたい。

 文化館へ向かう途中、空き地に「留」と刻まれた石があった。
 石は胸の高さほどで、表面が海風で磨かれている。
 昨日見かけた祠の紙札と同じ、留の字。
 足元には雑草が生え、誰かが最近ちぎったのだろう、千切り跡から青い匂いが立った。
 石はただの境界標かもしれない。だが、境界は儀礼を呼ぶ。
 儀礼は境界に巣くう。
 この町の「留」は、地形の縫い目に打ち込まれている。

《フィールドメモ》
・地名と記号:各所に「留」の石。
・地形=海と山のせめぎ合い(狭小な谷)。
・境界儀礼の痕跡:石・紙・縄の反復。
→ “流れを止める”という共同体の反射。

 文化館(元小学校)に着くと、昇降口の掲示板に運動会の写真が褪せたまま残っていた。
 子どもが紅白帽を被って砂ぼこりの中で走っている。
 写真の端に、海宮の苗字が小さく貼られているのが見えた。
 この町の過去は、いつも誰かの姓と一緒に保存される。

 資料室を開けると、見目|《みめ》がイヤホンを片方外して指先で挨拶をした。
 「今日も来られたんですね」
 「地籍図があれば見たいのですが」
 「地籍図……ああ、ありますけど、写しですよ。古いのは保管庫で。取りに行くの面倒なんで、写しでいいですか」
 彼女は立ち上がらず、引き出しから薄いファイルを出して机に滑らせた。
 「面倒なんで」と言いながら、渡す手は丁寧だった。
 私は礼を言い、台紙に綴じられた地籍図に目を落とした。

 谷が細い。
 谷筋を中心に田が並び、その端が海に舌のように伸びている。
 地番の角に小さな印。
 よく見ると、そのいくつかに薄い鉛筆で「留」と書き込まれている。
 公的な図面の上に、私的な記号が増殖している。
 “誰か”が、地図の上でも土地を縫い止めようとしていた。

《地図観察》
・地籍図(写):昭和三十年代改製。
・私的追記:「留」の文字が複数地点に確認。
・位置:川合流点、浜の張り出し、谷の喉(狭窄部)、神楽殿床下直下の等高線上。
→ 水の“溜まり”と“抜け”の結節点。

 「見目さん、この『留』の印、誰が書いたかわかりますか」
 「うーん、たぶんうちの前の担当。町史の人です。もう辞めちゃいましたけど」
 「町史?」
「編纂係。予算ないから止まってるけど。あの人、神社の下に紙貼ってるのもメモしてましたよ」
 私は顔を上げた。
 「床下の紙ですか」
 「そう。『返』『沈』『渡』って、あれ。剥がすと怒られるから、見なかったことにしてって言われました」
 見目はそこで笑って、机に肘をついた。
 「先生、あれ何の意味があるんですか。怖いんですよね、ああいうの」
 「意味を問うのは難しいですね。意味は後から生まれることもありますから」
 「じゃあ最初は意味なかったってことですか?」
 「“最初”を誰も覚えていないのだと思います」
 「ふうん」
 彼女は納得したのかしないのか、イヤホンをもう一度耳に戻し、画面に視線を落とした。
 無関心ではあるが、鈍くはない。
 それが、むしろ私には怖かった。

 地図を辿るうちに、神楽殿から浜までを結ぶ細い道が浮かび上がる。
 「留」の印は、その線上に点々と打たれていた。
 舞台と海を結ぶ一本の糸。
 舞は陸で踊られる。だが、願いは海に返すのかもしれない。
 地図を閉じ、私は外へ出ることにした。
 地形は紙の上で完全には読めない。足に映す必要がある。

 午前の光が少しだけ白くなってきた。
 文化館から南へ、谷の喉を渡る。
 水は少なく、石礫が白く乾いている。
 川幅は狭いが、石の並び方が不穏だった。
 浮石が少ない。ということは、**水が時折“全てを持っていく”**のだ。
 この谷は、忘れた頃に大きく流れる。
 だから人は、留を置く。
 “持っていかれない”ように。

《フィールドメモ》
・谷:普段は渇水。痕跡から見て突発的な出水あり。
・砂の層に黒い筋(有機物)=過去の氾濫線。
・境界の石=流路の縫合。
→ 「留」は水理の記憶装置。

 川を渡ると、棚田が二段ほど続いた。
 田の縁は崩れ、草に覆われている。
 畦に腰かけて煙草を吸う老人がいた。
 声をかけると、老人は細い目でこちらを見た。
 「神楽殿はどちらへ?」と訊ねると、
 「上や。みな上見とれ」と指で示す。
 見上げると、樹々の切れ目に、神楽殿の屋根の縁が見えた。
 その屋根の錆が、朝の白い光を濁して返している。
 私は礼を言い、斜面を登った。

 殿の前は人気がなく、昨日の紙片が同じ位置で風に揺れていた。
 床下の暗がりから湿り気の匂い。
 板の上に座り、靴を脱いで足裏を板にあてる。
 木の温度は土地の温度だ。
 冷たい。だが、底に微かな体温が残っている。
 昨夜、誰かがここに座っていたのだろう。
 音のない場所に耳を澄ます。
 聞こえるのは、間だけ。
 音と音のあいだの、無の帯。
 それが、私の脳のどこかを撫でる。

《記録》
・床板温:掌で感じて体温以下。
・湿度:高。鼻腔で冷たさを感じる。
・聴覚:無音域に“輪郭化”の感覚。→ 間の触覚化。

 板から降りると、殿の裏手で白い布を干しているのが見えた。
 若い女が二人、布を張りながら何か話している。
 声は小さく、内容は聞き取れない。
 布の端に、扇を包むための細い袋がいくつも重ねてある。
 扇はすべて同じ大きさで、柄だけが違う。
 扇の柄は家の記号なのだろう。
 ここでもまた、信仰は家の単位で保存されていた。

 ふいに、足元の砂利が小さく弾けた。
 振り返ると、少年が立っていた。
 昨日、浜で会った海宮の孫である。
 「先生」
 「もう学校は?」
 「今日は休みです。おじいちゃんが神さんのごはん作るって言うから、手伝い」
 「神さんのごはん?」
 「米と塩。あとは海藻。おじいちゃんは、神さんはあんまり食べんって言います」
 少年はそれを当たり前のことのように言った。
 **神が“食べない”**という理解は、**供物を“返す”**思想に繋がる。
 ——渡して、戻す。
 願いを出して、返す。
 食べずに、沈める。

 少年は足で砂を掘り、丸い穴を作った。
 「ここに塩を入れると、音がします」
 「音?」
 「しゅうって」
 私は笑って頷いた。
 科学的には、湿った砂と高濃度の塩の相互作用、あるいは砂中の微生物の活動音。
 だが少年にとっては、それが**“神さんが食べる音”**なのだ。
 世界はいつも、意味のほうを先に選ぶ。

《フィールドメモ》
・供物=“残るもの”ではなく“消えるもの”。
・消失の音=信仰の保証。
・食べる音/沈む音/泡の音——音の一族。

 昼前、海宮|《かいみや》善利が姿を見せた。
 昨日と同じように、杖は持たない。
 私を見ているのかどうか判じがたく、視線はどこか遠い。
 善利は殿の前に立つと、ひと呼吸してから短く言った。
 「よう降る」
 空を見上げると、雲は薄かった。
 雨の気配はない。
 それでも善利の言葉は、この土地では天気予報より有効だ。
 ——降るのは、雨ではなく、音かもしれない。

 善利は私に背を向け、殿の床に手を触れた。
 その手つきは、家の者が生き物に触れるように優しかった。
 「紙は触らんといて」
 背を向けたまま、彼は言った。
 「はい。記録だけにします」
 しばらく沈黙があり、善利は床から手を離した。
 「書くんか」
 「ええ、できる限り」
 「書くと、残る」
 「……そうですね」
 「残ると、戻らん」
 善利はそれだけ言って、ゆっくりと去った。
 残る/戻らん。
 願い返すの逆が、ここで語られた。
 私はノートの余白に、大きくその二語を書いた。

《記録》
・語彙:残る/戻らん(善利)。
・返す文化=戻す筋。記録=“留める(残す)”反文化。
→ 研究=共同体への逆流。

 午後、文化館に戻る前に、地図の「留」印を確かめるため、谷と浜の中間にある小さな広場へ降りた。
 草に埋もれた石が二つ、半分だけ顔を出している。
 石の間に白い紙片。
 文字は消えている。
 だが、紙の繊維が海風で毛羽立ち、そこに塩の粒が白く溜まっている。
 舌で触れたくなる衝動を抑えて、見た。
 見ることは触ることに近い。
 触らない代わりに、よく見る。
 それが観察者の倫理だ。
 そして、罪でもある。

 文化館へ戻ると、見目が机に突っ伏すようにしてスマートフォンをいじっていた。
 「先生、雨、降りそうです」
 「善利さんもそう言っていました」
 「当たるんだ、あの人」
 「よく当たるのかもしれません」
 見目は笑って肩を竦めた。
 「地図、どうでした?」
 「とても有益でした。——見目さん、ひとつだけ」
 「はい?」
 「この『留』の印をつけた前任の編纂係、連絡は取れませんか」
 見目は画面を見ながら首を横に振る。
 「異動で遠く行っちゃいました。連絡先は、ここには置いてないです」
 「そうですか」
 「でも、蔵はありますよ」
 彼女は何気ない調子で言った。
 「蔵?」
 「民家の蔵。ほら、原本があるって前に言いましたよね。鍵は家の人が持ってますけど。……まあ、そのうち見れるかもしれないですね」
 その言葉に、胸の奥が微かに熱くなった。
 ——原本。
 「そのうち」が、いつなのかは誰にも分からない。
 けれど、**“ある”**という事実だけで十分だった。
 意味は後から生まれる。
 私はそのために、ここにいる。

 外に出ると、空気が重くなっていた。
 浜のほうから白い幕がかかる。
 雨ではなく、霧が降りている。
 音はまだ遠い。
 だが、耳の奥に間が増えていく。
 間が増えると、人は自分の声を聞く。
 それが、いちばん怖い。
 自分の中にも、留があるのかもしれない。
 戻らないものを、私は書いているのかもしれない。

《フィールドノート/2015-0526》
・地籍図(写)に私的記号「留」。結節点=水理と一致。
・神楽殿床下:温度・湿度・無音域。間の触覚化。
・善利の語彙:残る/戻らん。
・少年の言:神さんは食べない(供物の消失)。
・蔵=原本の存在示唆。

 宿へ戻る坂道で、濃い霧が一度だけ切れた。
 遠くで海が光り、白い水平線が一瞬だけ現れた。
 その線は、扇の骨のようにまっすぐだった。
 私は立ち止まり、深く息をした。
 塩の匂いが強い。
 肺の奥が少しだけ痺れる。
 ——この町の祈りは、上へではなく、下へ流れる。
 留は、流れを止めるための記号。
 舞は、止めた流れに間を与えるための行為。
 書くことは、その全てを戻らなくするかもしれない。

 部屋に戻り、ノートの最後に記した。

覚書
・「留」は、止めるために置かれた願いの釘である。
・地形・記号・行為の三点で、共同体は“沈む”ことを学習する。
・私の記録は“留”にあたるのか。それとも逆流なのか。
・残ることの罪と、戻らんことの恐怖。

 書きながら、ふと窓の外を見た。
 街灯の輪がまた滲んでいる。
 光はどんよりと、少しだけ赤かった。
 ポストの赤と同じ、古い血の色。
 この町では、赤がゆっくり褪せていく。
 褪せる速度で、人は生きているのだろう。

 インクが切れかけていた。
 新しいカートリッジを差し込み、最下段に一行だけ足した。

ここでいったん筆を置く。
“原本”が、私を呼ぶ音がする。
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