神事舞

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第一部 噂

第十章 蔵の底

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 昼の光はどんよりしていた。
 灰色の膜が空に張りつき、家の輪郭をやわらげる。
 海宮|《かいみや》の屋敷は谷の折れ目にあり、二棟の母屋の背後に、漆喰塗りの二階建ての蔵が寄り添うように立っている。
 近づくと、漆喰の肌にひびが走り、瓦はところどころ剥がれて、棟木の端が露出していた。
 雨がまともに降れば、一階の壁は水を吸うだろう。
 つまり、半ば崩壊の途上にある。

 「勝手に見ればよい」
 そう言ったのは、海宮善利だった。
 背だけ軽くこちらに向け、顔をほとんど向けない。
 許可とも拒絶とも判じがたい言い草。
 だが、彼の言葉はこの土地では鍵にあたる。
 私は一礼して、重い引き戸に手をかけた。

 戸は、鳴いた。
 軋みではない。
 長く吸い込まれていた湿気が空へ吐き出される音。
 蔵の中は薄暗く、光は埃の形をして漂っている。
 足を踏み入れると、床板がわずかに沈む。
 この“沈む”感触は、止栄町のすべてに共通していた。

《観察記録/蔵一階》
・光量:極端に低い(北側小窓からの散光のみ)。
・湿度:高。漆喰面に黒斑。
・匂い:古紙+藁+塩気(海風の逆流)。
・危険:床の梁の一部が痩せ、踏み抜きリスクあり。

 右の壁に棚。簀の子の上に木箱。
 箱の蓋は割れ、藁縄だけが生きている。
 箱の側面に墨書で「扇」「鈴」「太鼓皮」。
 どれも、見慣れた語。
 私は一つ一つの箱を横目でなぞりながら、正面へ進んだ。

 蔵の中央に、四角く切られた床板があった。
 枠だけが新しく、板は古い。
 上から釘が打たれているが、五本のうち二本は浅い。
 ——ここが口だ。
 床下へ降りるための、静かな裂け目。

 懐中電灯を取り出す。
 光は弱く、しかし十分だった。
 埃が粒となって光り、数を増やす。
 私は釘を、素手で一本ずつ引き抜いた。
 釘の腹に潮が噛んでいる。
 爪に塩が触れて、舌の奥が痺れた。

 板をずらす。
 冷たい気流が頬に当たる。
 穴の縁に膝をつき、片脚ずつ降ろした。
 土の地面に靴が触れる。
 わずかに沈む。
 光を押し込むと、床下の空間は思ったよりも広く、梁の腹が間近に見えた。
 梁に白い紙がいくつも貼られている。
 返/沈/渡。
 神楽殿の床下で見た紙と同じ序列。
 ただし、こちらは油の滲みが濃い。

《フィールドメモ》
・床下:土壌に塩分。指先で味覚確認(微量)。
・紙片:油脂性の滲み。人の手脂/魚油/蝋の疑い。
・語:返/沈/渡——空間封印の語順。

 梁の影、土の胸に、盛り上がりがあった。
 小さな塚のような膨らみ。
 表面は泥と藁屑が混じり、場所によっては紙の繊維が露出している。
 私は手袋を嵌め、指でそっと土を崩した。
 紙が出てきた。
 紙は土に半ば溶け、泥の水分で膨潤していた。
 外側は朽ち、中心ほど固い。
 埋められていたのではなく、沈んでいったのだ。
 床上の湿り、漏れた水、空気、時間。
 あらゆるものがこの束を下へ引いた。

 ついに一塊を持ち上げると、紙束の底から朱の小さな斑点が現れた。
 印か、血か、判じがたい色。
 光を寄せ、呼吸を浅くする。
 紙は層になっている。
 表紙にあたる一枚は、墨がほとんど飛んでいる。
 かろうじて読めたのは、中央の二文字。
 留里。
 神楽殿の名と一致する。

 私は床下の冷気の中で、そっと頁を開いた。
 湿気で指が滑り、紙が吸い付く。
 捲るたびに、遠い音がした。
 ——海の底で紙を捲っている気分だ。

《原本読解/第一葉~第六葉》
・筆致:癖強く、刷り込み多。
・仮名:変体仮名混在。
・語彙:願ひ、返す、沈む、渡す、遊ぶ(あそぶ)など。
・空白:広い。行間に意図的な“間”。

 ところどころ、写本とは異なる語順が現れた。
 写本では列挙だった語が、ここでは文になっている。
 たとえば、写本の「願ひ返す」「沈むほどに豊けく」「神に渡す」。
 原本にはこう記されていた。

 > 願ひを返すもの、沈むほどに豊けく、渡すは身なり。

 私はそこで息を吸い直した。
 「願い」は、誰のものか。
 写本では主語が消えていた。
 原本には、主語がある。
 もの、身。
 人か、神か。
 それとも、土地そのものか。
 読むほどに、文は私の側へ寄ってきた。
 私は、文に読まれている。

 頁を送る。
 「夜のあそび」という語があった。
 神楽の語源に近い。
 誰と誰が遊ぶのか。
 ここでも主語はぼかされ、空白が目立つ。
 空白は、儀礼にとって息継ぎである。
 だが、これはあまりに長い。
 読む者が、息を止めるほどに長い。

《原本読解/第七葉~第十葉》
・「あそび」の主語欠落。
・「女」「扇」「眼」の文字が散発的に出現。
・「眼」の字は点が濃く、他に比して筆圧が異常。
・「眼」直後の行、広い空白。
→ “見てはならない”を、空白で教える書式。

 頁の下に指を滑らせたとき、紙がひどく冷たかった。
 泥の水分が指先を奪っていく。
 この束は、土の温度で保存されてきた。
 人の手で乾かすのではなく、土で濡らし続ける保存。
 読もうとする意志を、湿気で削ぐ保存。
 私はしばらく頁を閉ざし、膝を立てて呼吸を整えた。

 床上から、軒の鳴る音が落ちてきた。
 風が方向を変え、蔵の隙間をなでる。
 海の匂いが薄い。
 代わりに、土の匂いが強くなる。
 音は、沈む。
 匂いも、沈む。
 光さえ、沈む。

 私は再び頁を開いた。
 筆が急に荒れる箇所があり、墨溜まりが黒い湖を作っている。
 視線を絞る。
 その周囲に、薄い朱の粒。
 誰かの指が、朱に触れたまま頁を押さえたのではないか。
 「印」ではなく、「触」。
 その“触れた”行の端に、異国風の綴りが挟まれていた。
 イチリョウ。
 写本で見た語だ。
 原本では、少し字体が違う。
 「市」か「一」か、揺れている。
 あるいは、名前ではないのかもしれない。
 「一両(ひとつら)」の語に似せた何か。
 翻訳不能な“外”の記号。

《注記/イチリョウ》
・外部起源の印。
・人名と断定不可。
・「一」「市」「異」の連想場。
・教へ賜る/渡し給ふ——与授の反復。

 紙束をさらに解く。
 泥に接していた側は、文字がほとんど抜けている。
 だが、抜けたはずの頁に、音が残っている気がした。
 視覚ではなく、指先の皮膚で読む音。
 紙の凹凸が、言葉の跡を触覚に置き換えている。
 ——読まれぬための文字。
 書かれたものの、最も頑固な形。

 私は筆記具を出し、転記を始めた。
 筆圧を抑え、線を薄く。
 書くたびに、記憶が削られる。
 記録とは、他所へ移すことだ。
 移した先が生き、元の場所が冷える。
 冷えた場所は、沈む。

《転記/原文断片》

願ひを返すもの、沈むほどに豊けく、渡すは身なり。
夜のあそびは、目のないところにて。
女、扇にて風を喰らひ、風を返す。
返せば、沈む。
沈めば、渡る。
渡せば、みなり。

 「みなり」
 ——身なり、御なり、水なり。
 どれだ。
 この曖昧さは、故意のものだ。
 いずれに転んでも、身体と水と尊称が絡み合う。
 この文が伝えたいのは、語義ではなく、絡まりそのものだ。

 床上で、乾いた音がした。
 小さな崩落か、獣の足か。
 顔を上げるが、誰もいない。
 蔵の梁が鳴っただけだ。
 それでも私は、声を潜めた。
 読むことは、必ず誰かに聞かれている。

 もう一束、土から解く。
 紙の中心に、薄い裂け目。
 そこだけ、泥ではなく塩が白く噛んでいた。
 指で触れると、舌の奥に電気のような刺激。
 紙の繊維が、塩を抱いている。
 願いの塩。
 祓いの塩。
 保存の塩。
 そのすべてが、ここで混じる。

《観察記録/物性》
・原本紙:楮系、長繊維。
・含有:塩分(可視結晶)、油脂、微生物痕。
・手当:乾燥不可(崩壊の恐れ)。
→ ここで読む以外に、方法なし。

 私はそこで手を止めた。
 ——ここで読む以外に、方法がない。
 言葉にした瞬間、胸の奥に、薄い痛みが走った。
 この場所で読むことは、この場所から何かを奪うことだ。
 蔵の底で読む声が、蔵の底を乾かす。
 乾かせば、崩れる。
 残したければ、濡らすしかない。
 だが、私は書く。
 残すために。
 そして、戻らなくするために。

 上階へ上がる梯子は、片側が腐っていた。
 私は躊躇したが、視線だけ二階の闇へ上げた。
 隙間から、灰色の光が斜めに差す。
 細い梁の上に、布に包まれた長物が横たわっている。
 扇だ。
 骨が黒く、布が白く。
 骨の先に、薄く赤がついている。
 朱か、錆か、血か。
 遠目には判別できない。
 これ以上登れば、足を滑らせる。
 私は諦めて、床下へ戻った。

 最後に、もう一度だけ、原本の中心へ。
 頁の限界に立つ言葉があった。
 墨が尽き、筆が震え、紙が崩れてもなお残った最終行。
 それは、呼吸の残像のように薄かった。
 だが、読めた。

 > 目のあらぬところにて、
 > ことを

 行ふではなく、おこなふと振られている。
 ——目のないところ。
 昨夜、能面の女の焦点のない目が、そこで蘇った。
 目の穴の向こうに、誰の目もない。
 そこで行う。
 見られないために。
 見ないために。
 行為だけが残る。

 私は紙束を元の泥に戻した。
 土を被せ、軽く押さえ、床下の空気を吸った。
 塩と、紙と、藁の匂い。
 胸の奥で、泡がひとつ弾けた気がした。
 ——沈め。
 あの海の音が、言葉に変わるまで、あと一瞬。

《フィールドノート/蔵・退去前》
・原本:床下埋蔵。土中保存。
・断片転記済。
・要再訪:乾燥不可につき、読解は短時間分割。
・危険:構造劣化(踏み抜き・落下の恐れ)。
・心理:読む行為=場所の水分を奪う。倫理的負荷。

 床上へ戻り、蓋板を戻す。
 釘は打たない。
 代わりに、端を強く押さえ、息を吐いた。
 蔵を出ると、空の灰色はさっきより濃く、光もまたどんよりしている。
 風は山から海へ向かい、屋敷の庭の榊がわずかに震えていた。
 私は振り返り、漆喰の白を見た。
 白は塩の色。
 乾いた塩の色だ。
 この蔵は、長い時間をかけて乾いていく海なのかもしれない。

 屋敷の前で、善利に会った。
 彼は立ち止まりもせず、横を向いただけで言った。
 「見たんか」
 「はい」
 「残すんか」
 「……残してしまうでしょう」
 「ほな、戻らん」
 それだけ言って、善利は歩き去った。
 私は返す言葉を見つけられなかった。
 口の中に塩の味が広がる。
 人の言葉が、舌の上で塩になる。

 宿に戻る道、霧が低く降りてきた。
 遠くで海が鳴る。
 録音機は鞄の底で沈黙している。
 私は部屋へ入り、机の上にノートを広げ、転記した断片を静かに並べた。
 字は震え、行は乱れ、行間はひらく。
 それでも書く。
 書きながら、私は思う。
 書くことが祈りを殺すのではない。
 祈りの代わりに書くから、祈りが消えるのだ。
 私が消している。
 私が、戻らなくしている。

《記録/2015-0527》
・海宮家蔵内にて原本確認。
・主要断片を転記(欠落多)。
・語義よりも語勢(命令形)優勢。
・「目のあらぬところにて、おこなふ」——視線の不在を条件とする行為。
・倫理:記録行為による“乾燥”効果の自覚。記述の中断を要検討。

 筆をしばらく止め、窓の外の光を見た。
 街灯の輪郭が昼でもぼんやり滲んでいる。
 どんよりした光は、紙の白に似る。
 紙は、光を濁らせる。
 濁った光の中で、私はもう一度だけ書いた。

 気味が悪くなった。ここでいったん筆を止める。

 ノートを閉じた瞬間、部屋の空気がひとつ沈み、
 床板が、わずかに鳴いた。
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