神事舞

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第二部 眼の底

第一章 返しの声

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 町を発つ朝、光はやはりどんよりしていた。
 宿の女将に礼を述べ、荷を背負う。
 背中に紙の重みと、鞄の底で眠る録音機の金属の冷たさ。
 止栄を離れる時刻をわざわざ告げる必要はないと思った。
 この町では、人が来て、人が去ること自体が出来事ではない。
 「留」の字が、町そのものの代わりに居場所を示す。
 人間は、そのあいだを通過するだけだ。

 バス停のベンチに腰をおろすと、靴底にまだ土の冷たさが残っていた。
 神楽殿の床と、蔵の土の温度が、身体の奥に貼り付いている。
 それらは記憶ではなく、温度という名の記録だった。
 バスが来る。ドアがひらく。
 私は一瞥だけ町に向け、乗り込んだ。
 善利の背はもう見えない。
 見目|《みめ》の姿も、ここにはない。

 峠を抜けるころ、電話が震えた。
 表示には見目の名。
 「先生、もう出ました?」
 「はい。山を越えるところです」
 「よかった。私も、今日の便で帰ります。上からの連絡があって」
 「お疲れさまです」
 「例の神事、特異……いえ、特別ってほどではない、っていう判断で。
  でも資料は整理しときます。——先生も、あんまり書きすぎないほうがいいですよ」
 「それは、警告ですか?」
 「ただの感想です」
 軽く笑って、通話は切れた。
 見目の声が、車内のどんよりした光に吸い込まれていく。
 警告でも助言でもない、温度のない音。
 私は窓に映る自分の顔を見た。
 誰の顔にも似ていない。
 ——観察者の顔。

 大学の部屋に戻ると、机の上の白がやけに明るい。
 止栄の光が灰色の膜だったせいで、都市の光が強すぎる。
 ノート、転記した紙切れ、地籍図の写し、蔵の断片。
 そして録音機。
 私は淹れたての珈琲を机の端に置き、録音機の再生ボタンを押した。
 波の音が広がる。
 低い呼吸のような周期。
 七秒の間。
 そこに、異物のような音が混じっていた。

 ——ま……え。

 私は椅子の背にもたれ、息を整えた。
 「まえ」。
 潮が岩に当たる音の重なりが、たまたま「ま」「え」に聞こえることはありうる。
 しかし、音はそれだけでは終わらなかった。
 次の周期でも、また次の周期でも、同じ位置に、同じ母音が現れる。
 偶然は、回数を重ねるごとに意志に見えてくる。

《録音解析/実験一》
・素材:止栄浜 No.14(06’17”)
・バンドパス:60–300Hz、300–1200Hz、1200–3000Hz
・結果:300–1200Hz帯にて子音様立ち上がり検出(約370Hzピーク)
・位相:周期7.2sの2.9s付近に反復発生
→ 言語的錯聴の可能性。ただし周期一致は統計的に有意(p<0.01)

 私は波形を画用紙に写し、音節に見える箇所に点を打った。
 点はほぼ直線を描き、一定の傾斜を保つ。
 誰かが呼吸を合わせている。
 それは私か、海か。
 あるいは、録音機そのものか。

 机の端で珈琲が冷めていく。
 口に含むと、苦みが弱い。
 味覚の鈍りは、聴覚の過感受に連動する。
 私はイヤホンを深く挿し、今度は夜の高波を再生した。
 闇の厚み。
 湿った空気。
 砂の泡。
 そして——

 まへ。

 はっきりと言葉になった。
 舌先の摩擦、母音の残響。
 あの夜、海の黒が繰り返した命令の音。
 私は知らぬ間に、唇を噛んでいた。
 血の味がする。
 声は録音の中にある。
 だが、耳の奥でも鳴っている。

《フィールドメモ(室内)》
・聴取者=三度。
・内的発声の可能性(サブボーカリゼーション)
・顎筋EMG微動(自己観察)
→ 私自身が発音しているのではないか?

 仮説を検証するため、次の実験をした。
 録音を流しながら、口を完全に閉ざし、喉の筋も意識して固定する。
 唇、舌、顎、咽頭——可能なかぎり、沈める。
 その状態で音を聴く。
 周期が巡る。
 波が崩れる。
 間が来る。
 そして、まへ。

 口を閉じても、声は現れた。
 私は息を吐き、椅子から少し身を浮かせた。
 身体ではない場所が、言葉を発している。
 耳か、骨か、記憶か。
 あるいは、録音という名の器官か。

《録音解析/実験二》
・安静時筋電図:顎・舌・咽頭いずれも閾値以下
・骨伝導遮断(イヤーマフ+フォーム):効果なし
・位相ズレ実験:再生スピード98%/102%——語形は追従し歪む
→ 録音内部に「言語的形状」が埋め込まれている可能性。
※注:ヒトの側に形状を投影する機構も排除できない

 メトロノームを七秒に合わせて鳴らし、録音と重ねる。
 クリック音と波の間が、ぴたりと揃う。
 私はページを繰り、「蔵の底」で写した断片を探した。
 > 願ひを返すもの、沈むほどに豊けく、渡すは身なり。
 この文節の切れ方と、音の切れ方が似ている。
 「願ひ|を|返す|もの」——この「|」が、音の無音域の位置に重なる。
 人が祈りを分節するときの呼吸が、自然音の間と共鳴している。
 逆に言えば、自然の間が、人間の言葉を組み立てている。

 時計を見ると、正午を過ぎていた。
 光は強すぎるのに、紙の白はどこか灰色に見えた。
 私は窓を半分だけ閉め、室内の音を減らした。
 再生。停止。巻き戻し。再生。
 砂の音、泡の破裂、風の擦過、波の崩壊。
 それらが均質な雑音ではなく、文のための素材のように思えてくる。
 文は、現象の方でできている。
 人間は、それを拾うだけだ。

 机の端の携帯が震えた。
 メッセージ。見目から。
 《無事到着。先生の音源、面白いですね。いずれ差分をください。
  ——人間の耳は、必要なものしか聞き取りません》
 私は短く返信した。
 《差分送ります。必要なもの、とは?》
 返事はすぐに来た。
 《“祈り”です》
 それだけ。
 画面に残る二文字分の余白が、薄く息をしているように見えた。

 夕方、研究棟の隅で小型のスピーカーに切り替え、部屋の中央で音を流した。
 イヤホンを外すと、自分の耳がどれほど言葉を作っていたかがわかる。
 スピーカーからは、波と風と砂と鳥と、遠い船の音。
 そして、どこまでも曖昧な母音。
 イヤホンで聴いたときほど、まへは「言葉」にならない。
 耳の中に住んでいた声が、部屋の空気に拡散していく。
 観察者の耳が、観察対象の容器だったのだ。

 私は椅子に深く腰を沈め、ノートに線を引いた。
 耳=容器。
 録音=鏡。
 祈り=投影。
 図式は単純だ。
 だが単純な図式ほど、現実の密度に負ける。
 止栄の土の温度、蔵の湿度、神楽殿の板の冷たさ。
 それらは図式を拒む。
 現場は、論理を湿らせる。

 音を止めた。
 沈黙が膨らむ。
 耳の奥で、まだ小さな泡が弾ける。
 それが声に変わる前に、私は立ち上がった。
 カーテンを引く。
 光を弱める。
 部屋の空気が、止栄の朝に少し似る。
 どんよりして、白く濁った光。
 私は机に戻り、録音の差分を作り始めた。

《処理メモ》
・元音源:No.14, No.22(夜)
・手順:ノイズプロファイル抽出→スペクトル減算→帯域強調(400–800Hz)
・結果:母音群の残留。子音輪郭は不明瞭。
・付記:減算のたびに海が薄くなる。倫理的違和感。

 音を削れば削るほど、海が薄くなる。
 音響処理の単純な事実が、止栄で感じた倫理に重なった。
 ——書けば、祈りは消える。
 ——削れば、海は消える。
 “明瞭”という価値が、いつも善ではない。
 私は処理を途中で止め、未処理の音源に戻した。
 そのほうが、真実に近い。
 真実は、いつも濁っている。

 ノートの端に、蔵で見つけた一行を書き写した。
 > 目のあらぬところにて、ことをおこなふ。
 見ないことが、行為の条件。
 ならば、聞かないという行為は、どこに位置するか。
 耳を塞ぐことは、祈りの形式を壊すか。
 あるいは、祈りを守るか。
 私はイヤホンを机に置き、しばらく無音で座っていた。
 無音は音よりも重い。
 重さが、胸に沈む。

 夜が始まる。
 研究棟の窓の向こうに、都市の光が広がる。
 止栄の街灯の輪と違い、こちらの光は輪郭を持っている。
 輪郭があるぶん、間が少ない。
 間が少ない場所では、祈りは息継ぎできない。
 私は録音機の停止ボタンを押し、今日の実験を終えることにした。

 そのとき、電源が入っていないはずのイヤホンから、微かな音が漏れた。
 錯覚だ。
 配線の残響。
 あるいは、鼓膜の自己騒音。
 私は何も触らず、耳を近づけた。
 ま——
 そこまで聞こえたところで、私は手を引いた。
 自分の喉が、わずかに震えたからだ。
 私が出したのか、耳が作ったのか。
 境界はすでに曖昧だ。

《覚書》
・“声”は、再生の瞬間ではなく、予期の瞬間に現れる。
・予期=祈りの構文。
・観察者の時間が、対象の時間に先行する。
→ “見る前に見られる”“聞く前に聞かれる”という倒錯。

 私は机の灯りを落とし、部屋の中央に立った。
 目を閉じ、深呼吸を三度。
 波の音を頭の中で再生する。
 七秒。
 間。
 まへ。
 ——出た。
 出たのは、私の中だ。
 止栄の海ではない。
 研究棟でもない。
 ここでもないどこかの、耳の底。
 そこに、声が沈んでいる。

 机に戻り、静かにノートを開いた。
 筆先が紙を掠める音が、やけに大きい。
 私は書いた。
 断定ではなく、推測として。
 仮説ではなく、感覚として。

声は、観察者の耳に宿る。

 書き終えると、胸の奥で小さな泡が弾けた。
 止栄の海と同じ音だった。
 私はノートを閉じ、灯りを半分だけ戻した。
 どんよりとした光が、机の上の紙をやさしく濁らせる。
 濁ったままの世界を、私は残すことにした。
 それが、いまの私にできる唯一の倫理だと信じて。
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