神事舞

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第三部 土の声

第六章 息の底

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──三度哲夫・現地記録

止栄町に滞在して二十五日目。
この土地の空気は、日に日に濃くなっている気がする。
朝、窓を開けると、風がぬるい。
潮と土と、煤のような匂いが混じって、肺の奥に貼りつく。
深く息を吸うと、胸が重くなる。
呼吸の速度が遅い。
まるで空気の方が先に動きを決めているかのようだった。

1 呼吸の記録

ここ数日、寝起きに軽い眩暈を感じるようになった。
心拍には異常がない。
ただ、呼吸のリズムが妙だ。
ふと、以前の音声記録を再生しながら、自分の呼吸と同期していることに気づいた。
再生音に合わせて、自然と呼吸が遅くなる。
試しに録音中の自分の息の間隔を測ると、約1.47秒。
——あの舞の終わりの沈黙と同じだ。

私はこれを「呼吸同調現象」と仮称した。
観測者が記録媒体に影響される例は、民族音楽学ではしばしば報告がある。
ただしそれは能動的な“模倣”だ。
今回のように、身体が先に変化するのは初めてだった。

《観察メモ》
・呼吸周期:1.47秒
・拍呼吸型(吸息=拍の頭)
・再生停止後も同調維持(最長14分)
・意識的制御による解除不可

理論的には、長期聴取による自律神経の同調現象とも考えられる。
しかし、どこか説明しきれない“他者性”があった。
私の呼吸ではなく、“誰かの呼吸”を続けているような感覚。

2 声なき伴奏

昼過ぎ、文化館で資料の整理をしていると、
見目がコーヒーを差し入れてくれた。
「顔色悪いですよ」
「少し寝不足で」
「先生、いつも録音してる音、あれ……静かすぎて怖いです」
彼女はそう言って去った。
静かすぎて怖い——それは的を射ていた。
沈黙そのものが、いまや“音”のように感じられる。

机の上でレコーダーを回す。
録音ボタンを押すたび、空気が一段沈む。
何も喋らず、息だけが入る。
その呼吸音が、以前のテープと同じテンポで刻まれている。
偶然ではなく、規則だった。
呼吸がリズムを知っている。

《記録》
・録音者呼吸音=過去録音の拍子と一致。
・“沈黙の音圧”が呼吸に干渉。
・記録者自身が再生媒体化。

3 海の底のような夢

夜、夢を見た。
暗い海の底に立っている。
水はなく、ただ灰色の空気が波のように揺れている。
どこかで拍子木が鳴る。
息をするたびに、砂が肺に入る。
遠くで、能面をつけた女がゆっくりと扇を開いた。
扇の表には、見たことのある墨の線——舞譜の曲線が描かれていた。
その線が揺れるたび、私の胸もわずかに動いた。
——呼吸が、絵の一部になっていた。

目を覚ますと、部屋の中が静まり返っていた。
時計の針が止まっている。
外からは、夜の海の音。
低く、深く、沈んでいく音。

4 祈りの転移

翌日、体調を記録した。
呼吸回数は安定しているが、空気の取り込み量が減っている。
吸息が浅く、吐息が長い。
再生を止めてからもしばらくは“拍”が体内に残る。
分析の結果、呼吸リズムは舞譜の末尾曲線と一致していた。
私はそこに、“祈りの転移”という仮説を立てた。

信仰は、模倣によって伝達される。
模倣が繰り返されると、それは信仰そのものになる。
私の呼吸が、海宮家の祈りを模倣しているのだとしたら——
すでに私は、祈りの一部だ。

この仮説は危うい。
観測者が対象に飲み込まれることを、学問は認めない。
だが私は、その境界線の上に立っていた。

5 夜の音

夜、文化館を出て、神社のほうへ歩いた。
風が湿っていて、海鳴りが山にこだまする。
遠くで笛の音がした。
だが、旋律ではなく、風が通る管のような音。
自然音にすぎない。
けれど、拍を数えてみると、あの“1.47秒”に一致していた。

——この土地全体が、呼吸している。

その瞬間、理解した。
祈りとは、特定の儀式ではなく、
空気そのものの周期的な運動のことなのだ。
舞、音、呼吸、波。
それらはすべて、同じ拍で動いている。
人の意志は関係ない。
信仰は環境の生理現象なのだ。

6 結語

宿に戻り、机に向かう。
ペン先が震えている。
私はゆっくりと呼吸を合わせ、最後の記録を書いた。

《記録・2015-0607》
・呼吸周期1.47秒の定着を確認。
・聴取・再生を問わず同調維持。
・自律的ではなく、外的周期の介入。
・“呼吸”=“祈り”の最終形。

そして最後に一行、こう書き添えた。

私の呼吸が続く限り、この祈りも続く。
息を止めた瞬間、すべてが終わる。

筆を置く。
静寂。
時計は止まったままだった。
ただ、空気だけが動いていた。
深く、ゆっくりと。
——まるで誰かが、私の代わりに息をしているように。
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