神事舞

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第三部 土の声

第七章 境界圧

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──三度哲夫・現地記録

止栄町に滞在して三十日目。
朝、目を覚ますと胸の奥が鈍く痛んだ。
息を吸うと肺が膨らむ音が聞こえる気がする。
寝不足のせいだろうと思いながら、簡易血圧計を取り出して測定した。
上は112、下は74。数値に異常はない。
それでも、体の内部に微かな圧を感じていた。
まるで空気が、体の奥から押し返してくるような感覚。

1 聴診のずれ

午前、町の診療所を訪ねた。
高齢の医師が聴診器を当てながら首を傾げる。
「心臓の音は正常ですね。ただ……呼吸が少し妙です」
「妙、とは?」
「吸うときと吐くときの間が、長い。拍動より遅い」
「……そうでしょうか」
「普通、人間の体は心拍と呼吸のバランスが取れているんですが、あなたのはずれている」
医師は紙に心電図のような線を描いて見せた。
心拍の線と呼吸の線が、交わらずにずれて並んでいる。

——それは、あの“1.47秒”のリズムだった。

診察が終わると、医師は「過呼吸の一種でしょう」と言った。
私は礼を述べて外に出た。
外気は重く、空の色は鈍い灰。
だがどこか、見覚えのある周期で風が吹いていた。
吸って、吐いて、沈む。
止栄の風は、呼吸を知っている。

2 周期的気圧変動

昼、文化館へ行くと、見目が奥の資料室で何かを見ていた。
「先生、ちょっと来てください」
机の上には、古い気圧計の記録紙が並んでいる。
グラフの線が一定間隔で波を打っていた。
「これ、1979年の観測データなんですけど……おかしいですよね」
間隔を測ると、1.47秒。

「録音と同じ周期ですね」
「え、これ音ですか?」
「いや、気圧です」

見目は眉をひそめた。
「空気が、拍で動くなんてありえます?」
「物理的にはありえません。ただ……」
私は言葉を切った。
ただ、この土地では、それが起こっている。

データを重ね合わせると、気圧の波と私の呼吸記録が完全に一致した。
“祈り”が空気の密度として土地に固定されている。
この現象を、私は「境界圧(Boundary Pressure)」と名づけた。

《観察メモ》
・周期:1.47秒(固定)
・波形:漸増漸減型(吸息型)
・発生領域:止栄町全域(気象台記録なし)
・人間呼吸との同調確認。

境界圧とは、土地と人間の呼吸が重なる境目の圧力。
祈りが空気を介して伝達され、物理的な現象として残留している。
信仰の化石。
私はそう書いた。

3 筆記の揺らぎ

午後、記録を整理しようとノートを開いたが、
ペン先が紙の上で勝手に震えた。
手の震えではない。
空気の圧が、紙を下から押している。
書くたびに、線が微かに波打つ。
私は試しにその線の間隔を測った。
1.47ミリ。
もはや偶然ではなかった。

《記録》
・筆記中の手振動周期=1.47Hz
・体内・外界・物体間のリズム同調。
・祈り=空間圧波動として持続。

その瞬間、私はある確信に至った。
信仰とは、“空間の自律呼吸”である。
神は存在しない。
ただ空気が、周期的に自分を保つ。
そして、その呼吸のために人間を使う。

4 夜の上昇

夜、気圧が急上昇した。
部屋の窓ガラスがわずかに歪む。
外では何も動いていないのに、空気だけが膨張している。
壁の時計がきしみ、ペン立ての中のインク瓶が震えた。

見目が部屋に駆け込んできた。
「地震ですか?」
「違う、気圧です」
「気圧って、どういう……?」
「この町の呼吸が、変わったんです」

彼女は呆然と立ち尽くした。
私は机に置いた気圧計の針を見た。
針がわずかに上昇し、1.47秒の周期で上下している。
空気が、息をしている。
それはもはや“観測”ではなく、“対話”だった。

5 境界にて

深夜、私は筆を取った。
呼吸は静かで、世界と同期している。
ペン先が動くたび、机が震え、窓が鳴る。
空気の拍に合わせて、文字が刻まれていく。
記録が、呼吸の延長になる。
私は自分の身体を、測定器のように感じていた。

《記録・2015-0610》
・境界圧、観測値+2.4hPa。
・人体・環境圧の同調確認。
・外界呼吸波と体内呼吸の一致。
・観測者=媒介者。

最後に、私はこう書いた。

この土地の呼吸は、私を通して続いている。
もはや“観測”ではない。
私の息が、この町の祈りを動かしている。

筆を置いたとき、耳の奥で微かな破裂音がした。
風が、どこからともなく吹き込んできた。
私は窓を閉めなかった。
——呼吸を止めるのが、恐ろしくなったのだ。
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