エーテルの騎士

リュカ

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第一章

8 地下水路 4

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 息が苦しくなって、汗で服がじっとり濡れて、足元がふらつきだしても、おれはまだ走り続けた。

「離して……」

 ソフィアはおれに抱えられたまま、まだぐずっていた。ノクスたちを振り切ることには成功したが、今止まってしまったら絶望感に飲み込まれそうで怖かった。

「離してってば!」

 ソフィアが腕の中で暴れたため、おれはバランスを崩してその場に倒れこんだ。何度か深く呼吸をして唾を飲み込む。行きましょう、おれはソフィアの手を取ってまた走ろうとした。

「触らないで! もう、私のことなんか、ほうっておいて、あなただって私のことずっと疎ましく思ってたんでしょう」

 ソフィアはおれの腕を振りほどき、膝を抱えて座り込んだ「私が死んでればよかった」うつむいたまま、そう呟く。
 おれは掛ける言葉を探した。今どうやったら彼女のことを安心させてやれるのか。でも気の利いた言葉は何も見つからなかった。なんてこたあない、いつものおれだ。
 水路はずっと同じ景色で、もしかしたらさっきのことは全部夢で、振り返ったらルドマンが居るかもしれないとも、一瞬だけ思ったが、リュックの重さと、汗で湿った服がすぐに現実を教えてくれた。

「ルドマンも私も、皆ソフィア様のことを愛しております」

 おれはソフィアの隣に座り、そっと肩を抱いた。ソフィアは無言でおれの手を払いのけると、汚い言葉でおれを罵り、まためそめそと泣きはじめた。いったいどこで覚えたんだそんな言葉。

「そんなに悲しいなら、一生そこで泣いてろ!」

 悲劇のお姫様気取りを見て、つい怒鳴ってしまった。実際のところ本当に悲劇のお姫様なんだろうが、横着な態度を目の当たりにして、無性に腹が立った。甘やかしてやろうという気分なんて消え去った。しかし怒りと同時に活力が沸いてきたのも事実だった。
 実際冷静になってみると、男を侮辱する表現方法に関しては、場末の娼婦のほうが数段上だ。おれも今まで何回も煮え湯を飲まされてきた。(主に支払いの前後に)それに比べれば、このくらいへでもない。

「おれは前へ進むぞ、ルドマンの死を無駄にしたくないからな。もう何もかも嫌だっていうんなら、いっそのこと水路にでも飛び込んだらいかがでしょうか」

 おれはソフィアを置いて、どんどん歩を進める。どうせすぐ怖くなって、いつものようにおれの裾をひっぱって、リュカ、私を置いていかないでなんて泣きついてくるに違いない。市街に出かけるときも、ソフィアは絶対おれの側を離れようとしなかった。多少駄々をこねても、おれが帰ると言えば結局最後は付いてきた。今日だってそれと同じだ。


 しかし――まあ、今日は随分粘っているほうだということは認めよう。だが長期戦ならおれも得意とするところだ。

 おれはなるべくゆっくりと、時間をかけて歩くことにした。2歩進んでは、リュックを担ぎなおし、大きめに呼吸をする。これを5回ほど繰り返したところで、ドボンと何かが水に落ちる音がした。

 まさか! 焦りに任せて振り返っても、ソフィアが落ちたわけではなかった。しかしその毛髪を結っていた金のバレッタやピンの類も、それを隠していたキャップも、全てなくなっていた。ほどけた髪はウェーブ掛かった琥珀色を、胸の辺りで揺らしている。
 おれが黙って見ていると、ソフィアは両手の腕飾りも水路に放り込んだ。唇をきつく結び、大きな瞳に涙を浮かべておれを睨みつけている。
 次はいよいよ靴を脱ぎ捨て、それを水路に向かって投げ込もうとした。

「もういいからやめろ!」

 おれはソフィアの元に走りよって、靴を取り上げると、履きなおさせた。

「いったいなんだって言うんだよ!」
「次は水路に飛び込むわ」

 瞬きと同時に、涙袋がそれを支えきれなくなって、ソフィアの瞳から大きな雫がこぼれ落ちた。涙は頬を伝って地面を濡らす。もう片方の雫はおれが拭ってやった。

「そんなことさせない」
「さっきは飛び込めって言ったくせに!」
「言葉のあやってやつだ」

 おれはソフィアがこれ以上馬鹿なことをしないように、そっと手首を掴んだ。ソフィアはまた悲しみの波が襲ってきたのか、嗚咽を漏らした。

「でも、私と一緒に居ると、きっと不幸になるわ」
「不幸かどうかはおれが決める」

 ソフィアは鼻をすすって、呼吸を整えようとしていた。おれはその間、何も言わずに待っていた。

「リュカは、怖くないの? 私は怖いわ。それにルドマンだって……あんなのって、あんまりよ」

 もちろんおれだって怖いし、あんな死に方はごめんだ。だがテルムの男は女が怖がっているときは、強がってなくちゃいけない決まりがあった。

「大丈夫。おれはこのくらいの修羅場なら、何回も潜り抜けてきたんですよ。その度に知識と、機転と、小さじ一杯くらいの運で乗り切ってきたんだ。だから今回も必ず上手くいく。おれに任せてください」

 おれはソフィアと、自分自身を安心させるために言い聞かせた。へまをしたら次死ぬのはおれの番だろうが、それでもソフィアに順番が回ってくるよりはずっとマシだった。場合によっては、ソフィアはもっと惨たらしい最期を向かえてもおかしくない、それこそ陵辱の限りを尽くされ失意の中で殺されるような。少なくとも、おれが先に死ねばそんな姿は見なくて済む。

「それにルドマンが死んだのは、ソフィア様のせいではありません。そのことで気に病む必要は一切ありませんよ」

 ソフィアは無言でうつむいたままだ。

 でもまあ、たまに思い出してやるくらいなら罰は当たらない、いつまでも忘れずに覚えていてやることこそが、死者への唯一の弔いなんだ。おれがそんな類のことを言うと、ソフィアはまた無言で、でも今度はコクリと小さく頷いた。


 かくしておれたちはまた歩き出した。途中には追手対策の仕掛けがいくつかあった。鍵を掛けられる鉄格子の扉や、先ほどのような渡し橋など、そしてそれらを越えるたびに、ルドマンやノクスのことを思い起こしては、僅かばかりの不安と焦燥に心犯されそうになる。
 ソフィアの体力を鑑みて、何度か休憩を入れたりしたが、それでもなるべく歩みは止めたくなかった。ここは逃げ場も限られてしまうし、空気も悪い。早いとこ外に出たかった。

 数時間ほど歩いたと思う、水路は相変わらずだったが、ここにきてひとつ大きな変化が見られていた。それは水の中に等間隔で仕掛けられた、青い光のアーティファクトが無くなったことだ。
 それによって地下水路はまた暗闇に包まれたが、暗闇は吉報も運んできてくれた。

 カンテラを灯して奥に目をやると、水路の幅は急に狭くなり始めていて、どこからか吹く風は、雨が降ったあとに感じる、水の混じった土の匂いを運んできた。出口は近いと感じた。

 進むほど水の流れ込む音が大きくなっていき、お互いの声も聞こえなくなっていく。離れ離れにならないように、しっかり手を繋いだまま進む。
 この地下水路の水源はとっくにばれていて、外に出たとたん、敵軍に捕らえられる可能性は考えないようにした。今はとにかく外の空気に包まれて、思いっきり深呼吸がしたかった。自分の愚かさについて議論するのはそれからでも遅くはないはずだ。
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