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丸いサイコロ6
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12.それがいわゆるお気に入り
夜が更けたし、この辺りでは、今日、この時間になれば、走るバスも無いので、泊っていくことになった。食料などは、数日分用意されているらしい。用意がいいというよりも、やはり、彼女が住んでいるのか。
まつりは当然のように、一番広い部屋を選んだ。
二番目の部屋はコウカさんが使っているし、ぼくは考えた末に、四番目の部屋を選んだ。ケイガちゃんは、三番目の部屋になった。鍵室からそれぞれの部屋の鍵をもらって、分かれる。四番目の鍵は、なぜだか、予備のものしかなかったので、少し不思議に思う。──誰かが借りている?
考えても仕方ないので、ぼくはとりあえず、自分の部屋を開けようと鍵を差し込んで回した。しかし、ドアノブが回らない。不思議に思って、もう一度鍵を差し込むと、開いた。
「ん──鍵が、かかって、なかった?」
何でだろう、と思っていると、ドアが僅かに開き、隙間から、何かに頬を引っ張られた。
「いたたた」
棒読み。きゃー! とか、うわー! みたいに言えないが、これでも、ふざけているわけじゃないのだ。
驚いている。
中から妙にテンションの高い声がするかと思えば、ドアを完全に開け、中から出てきたのは、兄だった。
「やっと来たのかー、待ちくたびれたよ、なぁちゃん!」
くたびれるほど待ってたのか。服装は、ラフな黒いTシャツ。特筆することもない感じ。
元気いっぱい、と見える。
「な、なんで。だって、変装は……」
──というか、ぼくはどこの部屋で寝ればいいんだ。相部屋はやめてくれ。
他の部屋の鍵を取りに行けってことだな。どいてくれ。
「変装? 何いってんの? おれは、お前を連れ戻しに来たんだよ。それで、ここに泊ってた。昼間も、映画館で、会ったろ?」
「映画館?」
うーん。会っただろうか。何度考えてみても、それらしき人物がいた記憶がない。だいたい、暗くて、辺りがよくわからなかったのだ。
「えー、ひーどーい。カノミヤさんは、あの中でちゃんと見つけてくれたのにな」
「まつりが……見つけてた?」
「んで、お前にも見つかっちゃう、と思って、すぐ、あわてて椅子の背もたれに隠れたけど、もうバレてると思ってたよー。あー、なんだ、せっかくのサプライズの機会を逃したかー」
どうやら、この人は、あいつを知っているようなことを言った。
──では、まつりも、こいつを知ってる?
「で、いいから離せ。ぼくは行く!」
と、兄を押しやっていたときだった。
わざとらしいほどの足音が響いて、左後ろのドアから、まつりが出てきた。服を、新しくて似たようなシャツに着替えていて、そしてただただ、無表情だった。
「──やっぱり、来てると、思ってたよ」
まつりはそう言って、兄を見据えた。
「やあ。きみは、ちゃんと見えていたんだろ? ひどいなあ、どうして、ずっと、ガン無視だったの?」
「……さあね? 腹が立ってたからじゃないかな。ただでさえ眠かったのに、車内で、わ・ざ・と、電話をかけてくるような、嫌なやつだからな。おかげで眠れやしなかったし」
「言いがかりだね。っていうか俺は関係ないだろ? あの娘がドライブモードにでもしておけば良かったじゃないか。そもそも俺は、お前らがいつ、どこで何をしてるかわかるわけないだろうし」
「よーくいうよー、だ。車内にカメラが、少なくとも2つ、あったぞ。あんな分かりやすいの、気が付かないと思ってたのか?」
ぼくは、ぽかんと、二人を見ていた。何にも気が付いていなかった。勘違いも、いくつかあったようだ。 (だが、そうなるとあの手紙は?)
「ナナトは、たまに、どこからの、誰からの声なのかが、聞き分けられないみたいだから。ちょっと面白い勘違いになってたな。頭の中で、些細な違和感も完全修正しちゃうみたいだ」
急にふられて、びっくりした。あわてて返す。
「ええっと……わかってたのに、言わなかったのかよ!」
《兄》が車内で運転しているせいで、兄からかかってくるなんて、思いもよらなかったし、ケイガちゃんの電話からの声だ、というのも気が付かなかった。(というか、なぜ彼女の電話から?)
内容は聞こえているはずなのに、誰の声なのかは、ときどきわからない。声への違和感を、脳内修正が、簡単に上回ってしまうのだ。
ぼくは《どんなことを言っていたか》を記憶し始めると、同時に、《誰が、それを言ったか》を、ときどき置き去りにしてしまうらしい。(しかし、言葉遣いや、喋ってる人の違いが、ぼくの強烈な自己暗示や脳内修正だとしても、にや、とケイガちゃんが笑ったのを見たのは、間違いなかったが)
「混乱してる方が、可愛らしいかなって思って」
まつりは、悪びれたりせずに言った。適当なやつだ。
「あー、そういうやつだったよ、お前」
たとえば、ぼくが部屋で課題をしていても、暇潰しにパズルを解いていても、横から、全く違うことをそれらしく吹き込んで楽しむようなやつだ。
「そういうやつ……」
まつりはそれだけを、噛みしめるように、嬉しそうに、視線を僅かに反らした。そして、ゆっくり通路の壁にもたれたが、ちょっと指先が浮いている。
「──で、こいつと知り合いなのか?」
何かに驚いたような顔で固まっている兄を示しながらまつりに聞いてみた。
まつりは答えず、兄に質問した。そういえばもう、敬語ではないみたいだ。
「──それより、ナナトを連れ戻しに来たって、聞こえたけど、どういうことかな?」
「きみが言った、目撃者を───以下略。っての、やっぱり気が変わっちゃったんだ。なぁちゃんだけは、保存しとこっかなって。──でも、何か、関係あるの? カノミヤさんに」
「関係が、ある……」
「どんな関係? どういう関係? 俺らは兄弟だけど、きみは、部外者だ。裏切者側だろう?」
「兄弟。部外者……裏切者……関係……関係……?」
まつりは視線を左右に揺らした。不安そうに、焦りを隠そうとしているように、誰にも目を合わせることなく、ぱくぱくと、虚ろに口だけを動かしている。思わず、ぼくはその腕を掴んだ。なんで、そんなことをしたんだろう。わからない。何も映さない目に、とりあえずぼくを映してほしかったのかもしれない。
まつりは、それを強く振り払った。震えた肩は、怯えを示していた。
「あ……」
「で、だ。なぁちゃん、俺と帰ろうぜ」
兄は何事もなかったかのように、まつりを放って、ぼくに詰め寄る。腹の傷が疼き出したと主張するように、そのまま、まつりはしゃがみこんだ。
「触るな、触るな、触るな触るな、触るな。視界に……視界に入るな!」
そして、拒絶の言葉をひたすらに吐いていた。
それは、ひどく悲痛な叫びで、とても懐かしかった。
そしてそのまま、まつりは部屋に戻ってしまった。何を思っていたのかは想像がつかない。
が、とにかく一人になりたかったのは確かだろう。触るな、と寄るな、を言い残し、閉じこもってしまった。せめて病院に診てもらいに行ったほうが良いと言ってみたが、うるさい、の一喝で、終わった。
「気を取り直したように、兄が会話を再開する。
「……まあさ、俺が本当に連れ戻しに来たのは、お前じゃないんだよ」
だったらなんでそんなことを言ったんだよ、とつっこみたかったが、まつりを下がらせたかったのだろうか。案外何も考えていないのかもしれない。
「ケイガちゃん?」
なんとなくで、浮かんだ相手の名前を聞くと、兄は怪訝な顔でこちらを見た。
「――なんだそれ。俺が言ってるのは、ちっちゃい女の子で」
「だから、ケイガちゃんだろ? あの、やけに威勢のいい」
「……ケイガ? いやいや、それは、あそこの双子メイドの、母親の名前だろ。なになに、なぁちゃんも、知ってんの? 可愛いよなあ。一家揃っての美人メイドさん。母さんたちには内緒で俺、こっそり二階の窓からよく眺めてたんだけど」
ああ、そうか、うちは、二階建てだったのか。よく些細なことで追い出されて、玄関と、庭が定位置だったぼくには、二階が作り物じゃなかったことに、現実感がなかった。さすがに、空気を体験することがあまりなかった場所のことは、印象が薄い。 いつも二階を隠す、レースのカーテンは覚えているが。
「じゃあ、あの子は」
「ヒビキちゃん。お前が《いなくなったとき》父さんが代わりに《佳ノ宮家から、見つかるまで預かった》子だ。結構、昔、俺になついてくれてたよ」
いろいろと含めて、そういうことが平気で行われる日常だった。
「すっごい小さくてさ、ほとんど赤ちゃんで、まだ、やっと歩けるくらいだったかなあ」
ぼくは、ふと、頭に浮かんだことを口にしてみた。
「なあ、兄」
「なんだ弟」
兄は興味津々というふうにぼくを見ていた。まっすぐな、冷えた瞳で。
過去のことなんて、何もなかったみたいに。それは、ぼくにとって、ひどく、気持ちがわるいことだった。
「ぼくとまつりが二人でここに来た日の、前日とかにこの館に、入ったか?」
「あー、そんなことがあったな。でも、入ったかは知らん。そんな昔のこといちいち覚えてたらおかしいだろ?」
「……うん。そうだよな」
それは、そうだろう。
「だいたい、なんでそんなことを聞くんだよ? なんか関係あんの?」
ぼくは、ポケットに手を入れ、それを取り出した。ウサギさんのついたヘアゴムの片割れ。
「──ここに、これが落ちててさ、これ、本当にずいぶん前、実家で見たような気がするんだ」
そこに落ちていたから、そこにあるものだと思い込みそうだったが、ぼくが激しく恐怖に見舞われた原因は、単にそれが弾力性のあるゴムだったからではなかった。
現物そのものが、顔に飛んできたことや、それで首をしめられそうになったことが、過去、実際に、確かにあった。
フラッシュバック。激しい動揺で、ただ恐怖だけが脳内を埋めつくした。
ぼくは、そしてそれをそのまま、見ていないことにしたのだと……思う。
それでは無いと、言い聞かせていたが。
「あー、あー、あー、すごい懐かしい!」
兄は、予想通りに、懐かしむ顔をした。誰のものだとか、そんなのはぼくも知らない。彼の趣味ではないだろう。ただ、見つけたマトに当てて遊ぶというのは、幼い彼の楽しみの内だったように思うから、持ち歩いていて、ここに落としたのでは、と思った。
「これ持って、中に入ったんだろ?」
「だから、知らないって。昔のことなんて」
ここで、さっきから聞いていたらしいケイガちゃん……いや、ヒビキちゃんが、部屋から出てきた。水色の子どもらしいパジャマ姿で、枕を握りしめていた。どうやら眠るところだったらしい。今は、何時なんだろう。
今更ながら、廊下で話すと声が響く、ということに意識がいっていなかったらしい。
「……悪かったな、だますような真似をして」
淡々と謝りながら、ドアから出てきた彼女のその目は、ただならぬ殺意をはらんでいた。さっきまでの話を聞いていたというのは、つまりそういうことだろう。
ぼくは、一言が出てこなかった。陽気な挨拶をするのも、突然土下座に走るのも、この場では間違いなのだろうから、その反応は、マシな選択だったのかもしれない。
「貴様、だったんだな」
ぼくは、何も答えない。この場合、根本的には誰が悪い? 悪くない?
そもそも、良いと悪いの違いも、主観の違いでしかないだろうと思う。違う。今そんなのどうでもいいじゃないか。
「……貴様が、お姉ちゃんを、裏切った」
「裏切った……」
「逃げ出したんだろ、あの家から。勝手に。せっかくお姉ちゃんが助けてやったのに、匿った部屋から勝手に逃げたから──お姉ちゃんは、ずっとずっと探していた。私にも、探してくれって言った。大罪を犯す覚悟で匿ったやつが、どこにいるかもわからなくなった状況で、追い詰められた」
ぼくが、逃げた。
ぼくが逃げたから、彼女は追い詰められた。
追い詰められて、どうなっているのか聞く勇気はなかった。彼女の状態の良し悪しは、今関係ない。追い詰められた事実は、変わらない。
「貴様は、覚えいてなかったんだろ? 些細なことだものな。敵に情けをかけられて、むしろ、安いプライドが傷付いた、というところか? 簡単に、見捨ててしまえたことだろう」
「見捨てて? ぼくが──」
カチ、カチ、カチ、カチ。昔はなかったはずの、誰かの趣味のアンティーク風壁掛け時計が遠くで音を立てていたのが、そのときになって、やけに、耳についた。
「あ……あのとき」
──そうだ。
ぼくは、しばらく匿ってもらったのだ。彼女に、あの屋敷内に。
でも、なぜだか、それを、ぼんやりとしか、思い出せないため、居心地が悪い頭痛がしてくる。後々から、聞かされることで、実感が沸いてくるまで《無いもの》にしようとしていた。
「ぼくは──これを、言い訳にするつもりはないけど怖かったんだ。閉じ込められるのが、怖かった……迷惑をかけるのが、つらかった」
優しい扱いをされたことが、今まで生きてきたすべてを、根こそぎ否定されたように感じた。当然のような待遇すべてに、息が詰まりそうだった。確かに、快適で、安全ではあったが、一時的なものに過ぎない。
結局、何も気にせずに眠れることは、なかった。
存在を知られてはいけないので、うかつに、庭に出てはいけない。誰かが出入りしそうなたびに、耳をそば立てるのは、ストレスが溜まる。
──そもそも、ぼくは家に帰るのが嫌なわけではなかった。好きではなかったけれど、慣れてしまえばどうということはない。しかも、すぐそこにあるのだ。
もしかしたら家族が心配しているかもしれないなとか、すぐに帰らないとひどく怒られるかもしれない、とか、勝手にここに来たことを咎められてしまうなとかが、一度考えると、たくさん浮かんできて、余計に帰りたくなった。
──こういう状況のときばかり、変な、現実味がないことにまで、期待がわいてくるのは、なぜなんだろう?
そのとき、ぼくは強く、会いたいと思っていた。まつりに、家族に。匿われた一週間ほどの間、小学校にも顔を出していないはずだ。
ある日。ぼくは、黙って逃げ出した。口で告げれば、またあのもやもやした気持ちになるからこそ、決意を固めてすぐに。
「……一言くらい、告げればすんだだろう」
だが、それは彼女から見れば、身勝手な行動になるのだろう。
「そう、だな」
ふと、まつりを思い出した。あいつは今どうなっているだろうか。本当なら、入るのはよくないかもしれないが、気にせずにいられない。
「……ああ、そうだ」
彼女も、まつりを気にしているのか、ちらりとその部屋を見た。
もしかしたらあのことを思い出したのかもしれない。憂鬱な顔だった。
──そこで、その会話は終了した。
『終わったことをいくら責めても、どうしようもなかったな』と、急に彼女が言い出して。
沈黙が出来て、ぼくが階段を降りようとしているところで、兄がヒビキちゃんに声をかける。
「久しぶり。迎えに来たよ~」
「……ああ。というか貴様最近、ウチの会社に出入りしているみたいじゃないか。久しぶりもなにも、よく見かけるが」
「……出入りって、先生に頼まれた要件の為に、ちょこちょこ顔を出してるんだよ。まったく、いつの間にそんな言葉づかいになったんだ? あの頃は可愛かったのになあ」
興味がないので、ぼくは飛び火(?)する前にそっと、階段を降りた。
13.嫌いになりたい、と好きになれない、の違い
一階、鍵室に行き、《予備》で、まつりの部屋の鍵を開けようとしたが、ドアの内側からの、入っていいよ、によって、その必要がなくなった。
ぼくはためらわずに中に入った。
そこそこ良い値段のホテルみたいな部屋。面白味もなにもない、小綺麗な、ベッドやユニットバスのついた部屋。一言ではつまり、ゲスト用の宿泊施設だ。
まつりは、ロッキングチェアで、ゆらゆら揺れながらどうかした、と聞いた。
穏やかな表情からは、何もうかがえない。
「騙されるとこだったよ。糊まで使うなんて、なかなか手が込んでたじゃないか」
「――ああ、バレてた?」
「もちろん。ツメが甘いな」
「騙されるところだったんだろう?」
何でもないことのように、まつりは答えた。そこまで、怪我自体には、深いこだわりがなかったのかもしれない。そう思うほど、あっさり。
「……一瞬だけな。びっくりしたよ。そのときのやり方とかは、まあ、どうでもいいけどさ。そもそも小さな女の子にあんな役をやらせるなんてのは、本当はお前、好きじゃないだろ? お前が正面から受けて、まったく避けてないのも、疑問だった」
「……買いかぶりだね」
「別に、お前の優しさについて言いたいんじゃない。むしろそれは後付けだ。そうじゃなくともバレバレ。ツメが甘かったな」
「ふふ、面白いね。一応、興味がないけど聞いとくよ。なんで?」
「あんまりそれらしく固まってなかったとか、血の飛びかたが不自然だとか、いろいろあるんだけどさ……」
腹を怪我してるのに、平然としゃがんでいた、というのも付け加えようかと思ったが、いろいろと気まずいことを思い出して、やめた。
「あっはははは! 《夏々都くん》は、面白い。本当に面白いなー! で、それで、どうして、わざわざたずねて来たんだよ?」
まつりは、シャツを僅かに上げて、こちらに肌を見せた。傷ひとつなかった。
《手当て》の跡さえも、なんにも。
「聞きたい。コウカさんまで、巻き込んで、お前は、なにを――示したいんだ?」
すれすれ避けて、しかし、傷を付けたと思わせたことに、何か意味が?
「――実験自体は、もうだいたい終わったよ。知りたかったことも、だいたいわかってきた。あとは、組み立てと推測の証明かな」
「おい」
ぼくが、手を伸ばしたわけではなかったが、ぼくが触れるより先に、まつりは、ぼくの右腕を掴んだ。
強く、赤くなるくらいに掴んで、それから言う。
ゾッとするほど優しい笑顔だった。
「んー、ふふふ。わざわざ聞きに来るんだから、推論のひとつくらいは、聞けるのかな? だよね?――じゃなきゃ、言うことはひとつだよん。わかるでしょ」
自分で考えろ。
その通りだ。
ぼくは数秒、考えた。
そして、口を開く。
「――お前は、あそこに匿ってもらったときから、ぼくの場所に気付いていて、エイカさんとも親しくて、それで、こっそり、野菜とか、食事に持たせてくれてて……でも、ぼくに会うとまずいから、気を付けてて、えっと……その辺を《ぼくを誘導して逃がした》って話に持ってきて、ケイガちゃんを怒らせて……それで。あ、ヒビキちゃんなんだっけ。あの刃物は彼女が最初から持ってたやつで……」
まつりは、愉快そうに聞いていた。
なんだか、やはり、うまくまとまらない。ひとつひとつに、筋道が立てられない。
にやにやと微笑したままのまつりは、ロッキングチェアから降りて、床に、乱暴に方膝を立てて座って、言った。
「だめだなあ。相変わらず順序が飛んでるなあ。まず、目的は?」
「ぼくの記憶の、曖昧な部分、そしてお前の記憶の繋がらない部分を補正すること?」
「まさかあ! 違うよ違うよ、それは、一石の方じゃなくて、二鳥のうちの一羽かな。ついでだよ、ついで」
「えっと、一石……っていうと」
「今日の出会いそのものを、組み合わせたことだ。たまたま、条件が揃ったからね」
「条件?」
「――遠い昔、お城の地下で迷子になってたお姉さん。数年後の、お姉さん連れ去り事件。今になってそのお姉さんを探す、身元のわからない小さな女の子。あの事件とは別に起きた、事件の真相の鍵になるとは思わないか? トリガーくんとしては、そこら辺、いかがかな」
「……あの手紙。結局、あの手紙は、なんだったんだ」
「……ふーん。反らすね。あの手紙の要求なら、もう済んでるじゃないか」
「でも、お姉さん」
あ、とぼくが漏らした声に、まつりは、ははははと乾いた笑い声を立てた。
「……どこからが、嘘だと思う?」
□
もし、手紙の内容が、過去のものだったとしたら、現在においては、嘘でもなんでもないということになる。
役に立たない紙切れ、それだけ。どうして、それにすぐ思い至らなかったんだろう。そりゃあ、ここに日没になっても迎えも来ないわけだった。
小さな彼女は、それを、どこかで見つけたのかもしれないし、送られてきたのかもしれない。
……いや、でも、そんなことをする必要性がよくわからない。それに人に頼んでまで、そんなことをするんだろうか?
まつりは、《彼女》はメッセージを残していなくなった、とも言っていた。連れ去られた彼女は、その後、どこに行ったんだろう。
メッセージを残していなくなって……そういえばメッセージって、なんのことなのか、聞いてないな。
まつりと会う約束をしていて、連れ去られて、それさえも忘れ去られた彼女は……?
いや、しかし、そのときに、残してあったメッセージに気付いたということは、メッセージについてだけは、まつりは覚えているということだが。
部屋に居座るのもなんだかつまらなくて、ぼくは廊下に出ることにした。しかし、突然、変わった向きのクレーンゲームみたいに、背中をつままれて、それをやめた。ドアから手を離して向き直る。
「なんだよ」
「待ちなよーん。ちょっと待つだけで、面白いことになるからさ」
なんのことだ、とは聞かなかった。面白いこと、と言われるときは、大抵が、面白くない。
突然、何か、弾け跳んだような、乾いた音がした。まつりの目線が、ドアの外に注がれて、ぼくもそちらを見た。僅かにドアが揺れた。数回、乾いた音が続いた。誰かが呻くのを聞いた。女性だろうか?
「ちっなみにー、運動会じゃ、ないよ」
「面白くねぇよ」
はははは、とまつりは笑っていた。その笑顔は、やっぱり違和感があった。
だけど、それがどうして、そう思えるのかは、わからなかった。
僅かに、煙のにおいがした。焦げた何かのにおいがした。頭に、ズンと重く痺れるようなにおいがした。
それからはもう、あの不快な音は、しなかった。
「終わったか」
壁に張り付いたまま聞いてみると、まつりはベッドで跳び跳ねながら、笑っていた。
「……ふふふふ、ふふふふ、はははは! まだ、終わるわけ、ないだろ? あはははは、はははは」
「何、どういうことだよ」
「ちょっと、時間を稼ぎ過ぎちゃったね。もう、来ないのかと思っちゃった」
「――お前、何を呼んだんだ」
「招待状は出したけど、あくまで任意だよ」
<font size="4">14.本当みたいな嘘は、信じやすい</font>
「う、嘘だ、お姉ちゃんが……お姉ちゃんが、お母さん……」
──聞くつもりはなかったが、ある日私は、母様の話を聞いてしまった。
それは、よく、私の耳に届いた。電話というのはなかなか、声を張り上げていることにも、意識が回らないものなのかもしれないと、最初は思った。
『なんとかならない? あの子、私の手に余るのよね……もともと、実の子じゃないし、その、なんていうか。いい子なんだけどさ……』
『えー? ああ、ときどき、家に来てた、あの双子んとこの片方だよ。そんなにも、娘が可愛いんだねぇ……』
まだ記憶も、ほとんどない、幼い頃私が住んでいたのは、別の場所だった。
そこを実質上買収したのが、あの一家。
何のつもりだったのか、使用人として母は雇われ、娘は、ある家に引き取られたらしい。
筒抜けになる会話に、あまりのショックで、我を忘れかけた私は、ガタガタ震えた。
私を冷静にしてくれたのは、それからまた数日後、部屋に閉じ籠ってひそかに泣いていたとき、開けっ放しの窓から届いた一通の手紙だった。
それには、日付と、電話番号の書かれたメモも、同封されていた。手紙の内容を見て、私は何かを悟った。
携帯電話を握りしめ、記してある電話番号にかける。すでに、迷いはなかった。
□
佳ノ宮まつりはベッドに寝転んで、話を始めた。退屈なのかもしれなかった。
「数年前――上の人が、何か、彼女の身寄りとなっていた場所を買収したらしい。それからすぐ、あの屋敷に仕えたいという《彼女》の願いが快諾された」
そのとき、双子の片方には娘がいた。それがヒビキちゃんだった。彼女は、ヒビキちゃんに時間をかけることが出来なくなった。
まだ幼かった彼女を、別の家に預けたのだそうだ。
「メイドさんになりながらも、情報をいろんな場所にばらまいてたコウカを始末する理由は、まあ――なんでも良かったんだろう。まさか、家が自ら手をかけるわけにはいかないし……もし、都合が良く《外部からの侵入者》でもやってきて、誘拐でも起こったら、足取りが掴めません、終了! って考えたんだろうね」
「あれ? でも、それ、おかしくないか。エイカさんなんだろ、母親は。コウカさんは、ここにいる」
「念のために、入れかわってたのさ。ここにいるのはコウカって名前のエイカで、居なくなったままなのは、エイカって名前の、コウカだ」
「わけがわからない……何のため? それに、やってたのは一人だろ? どうして、コウカさんも、エイカさんも、両方が、連れ去られたみたいなこと……片方を脅しにすれば、充分じゃないのか」
「……んー、片方は、上の指示で誘拐されて、もう片方は、こちらでこっそり保護されたんだよ。まあそれも、形は誘拐そのものだったみたいだけど」
上の考えが気にくわないやつは、結構いたみたいだからな。と、付け加えた後、なんにしろ、目で見たことじゃないから、推測は、断定的に語れない。と。
まつりは楽しくなさそうに、ぼくの質問に答えてくれた。一番ぼくを覚えていた時期だったなら、考えられないほど機嫌が良い。
一時期は、うっかり楽しくない話題を振ろうものならぼくはけちょんけちょんにされていた。しかし今は、自分からそれを振るくらいだ。それが何を意味するか、ぼくは気付かないわけじゃない。でも、今は追及しない。
「──さて、外に出ますか」
話に飽きた、といったしぐさで、ベッドから降りたまつりは言った。楽しそうに。嬉しそうに。ぼくはドアをゆっくり開けた。
廊下は、前にも増して静まっているように感じた。
とりあえず、目の前には何もない。恐る恐る、部屋から出る。
なぜだか、足が震えた。ゆっくり、音がしたと思う方へ歩く。ぼくは、どこに向かっているのだろう、と思ったが、どうやら、コウカさんの部屋に向かっている。コウカさんは、大丈夫だろうか。
「──ちなみに、音がしたのは、あっちだよ」
「えっ」
……反対方向だった。
上着の背中をつままれる。つまむのが好きなのか?
にしてもおかしいなあ。確かに、こっちから聞こえたと思ったんだけど。
まつりは無表情で、あっち、と倉庫がある側を指差した。ちなみにそちら側にも、階段がある。
「……早く言ってくれたら嬉しい」
「なにしてるんだろう、って、考えてしまったんだよ」
「……なあ、まつり」
「ん?」
「昨晩食べようと思って冷蔵庫に入れてた『シフォンケーキ』が『たまご豆腐』に変わってた話について、どう思う?」
「さあ。たまご豆腐を、シフォンケーキだと思っていたんじゃないかなあ? あなたが見ているものが、真実とは限らない、みたいな?」
「いーや、違う。ぼくの認識じゃ、間違いなく、その前の晩まであれはシフォンケーキだったんだ。まあ、だから今回は生クリームを軽く塗って、チェリーを乗せた段階で、早々気が付いたんだよ。まったく……危ない危ない。あやうく、認識を改めずにそのまま食べてしまうところだった。さすがに、ぼくの味覚までは誤魔化せないからね。ハッハッハ! 悪魔の手には乗らないぞ!」
得意気に言うぼくに、まつりは不思議そうに首を傾げた。
「見た目だけならプリンアラモードっぽいかも」
それからすぐに差し掛かった倉庫のそばに、誰か、知らない女の人が立っていたので、びっくりした。
髪はボブに近く、短めだ。キラキラしたピンクのベルトが目立つ短いジーンズで、黒い木綿系の半袖シャツを纏った、スタイルの良い人だった。
少しコウカさん(でいいのかわからなくなってきたぞ)に似ている気がする。
「あ。久しぶりだね」
まつりは、無表情でそう言って、彼女に挨拶した。彼女の方は、けらけら大笑いしだした。妙に明るい。
「わあー、久しぶりってやつやつー!? まつりん元気にしとった?」
やつやつってなんだ、と思ったが、聞かないことにする。
「んー、なんかよくわかんないけど、元気元気」
まつりは、すごく適当に答えた。彼女は気にしていないようで、笑い続けている。疲れないのかなあ。ぼくも一度くらい、盛大に笑えたらいいのだが。
「もー、まつりんー! 相変わらず冷たいなあ? もーっとほっかほかで行こーやあ! な?」
「ふーん。来たんだね」
「来たんは来たけどさあ!まつりん、もっとおはようの挨拶とかないん?」
どちらかといえば、おやすみの時間かなと、個人的には思った。まつりはやはり聞いていないのか聞き流しているのか、一方的に感想を述べる。
もしかしたらあのテンションに合わせて上げていけるだけの気力がないのかもしれない。
「ちょっと、来ないかとも思ってたのに、よく逃げれたな」
「……うっふふっふ! なんかね、流されたっていう情報のなかで、一番でかかったやつの、それ自体の隠蔽やら撹乱かなんか、外で手伝ってくれた人がおったみたいで……んー、なんだったかいなあ。それの、その人の、なんかやった際の条件で、解放してくれたっていうかんじなんかな……一番それに困っとったみたいだから。いやー、早いもんで、二年? は経っててびっくりだわ」
「……なんにしろ、はいじゃあね! ってあいつらが逃がすわけがない。刺される前に、さっさと逃げて来たんだろ?」
「まあね」
くすくす、と彼女は笑った。ジーンズのポケットに、意味ありげに手を突っ込む。少し、カチャカチャ音がした。
違和感なく、当然という感じで、彼女はまつりの後について歩いてくる。
三人で倉庫をすぎて、廊下を進むと、掃除用具入れや、使ってない部屋が見えてきた。
「……あ、ちょっと、二人で先いってて」
その辺りになって、まつりは突然、そんなことを言って、一人逆に進み始めた。
にこにこしていて、こいつそういえば、こんなに、こんなに……にこにこ笑うことは、なかったぞ、と気が付く。
「あれ……」
考えれば考えるほど、おかしいと思えてきた。楽しそうな顔はしていても、あからさまに笑うなんて、なかったはずなのだ。たまに、嬉しいことがあった瞬間だけならともかく、淡泊というか、感情の切り替えが早く、始終にこにこしないやつだった。今までは。
まるで、そう表現することを、自らに課しているみたいに、今日のまつりは、不自然だ。
ぼくは、なんだか、不安になった。まつりが、このままいなくなってしまうような気がして、少し怖かった。
「どこに、行くんだよ……」
思わず、聞いていた。普段のぼくは、こんなこと、聞いたりしなかったのに。
「やっだなあー、プライベートなことは、聞かないでよっ!」
語尾に、星でも付きそうな可愛らしさでおどけられて、ちょっと黙ってしまった。
そんなこんなで。
二人きりになってしまったと思ったとたんに、彼女は、それを切り出す合図のように口を開いた。
「さて……」
「はい」
ぼくに向けられたものなのか、判断し難かったが、思わず返事してしまう。
果たして彼女は何を考えているのだろうか。
「きみは……ああ、そう、きみは、あの子か。きみは、変わっとらんのね」
「そう、なんですか。……お久しぶりです。あなたは、昔、お会いしたときは、銀縁の眼鏡だった気がしますが」
変な顔をされた。そして、すぐに、表情を戻して、答えてくれる。
「あー、あれはね、やめたんよ……なんかね、イメチェン?」
「あ……! そういえば、言葉遣いも、変わりましたね」
なんだか、変な感じだ。懐かしいのに、違うみたいな、気味が悪い感じ。内心では、いつ《本題》を切り出されるのかと、ぼくは焦っていた。
焦っていたからこそ、話を引き延ばしたくて、精一杯笑う。廊下も、出来るだけゆっくり歩くことにした。
何か話題がないかと考えていると、ふと、頭に閃くものがあった。
「ん、なに? なんか思い出したん」
顔に出ていたのか、彼女が聞いてくる。
「いや。そ、そういえば、……歌うチョコレートケーキ、ってあの映画だったんですね?」
彼女は数秒固まった。その後、怪訝な顔で聞いた。
「ナニ、ソレ?」
「ほら、前に、好きな小説の一節だって、おっしゃってたじゃないですか?」
……やってしまった。
会話の順序を間違えてしまった。脈絡をすっ飛ばしたどころじゃない。
自分が痛々しいのは自覚しているつもりだが、改めて沈みたい。
「え、えーっと、それで、もうすぐ映画化されるんだ、って話を、してくれましたよね? それ、この前観てきたんですけど」
あいつは、これも計算していたのかな。まさかな。いくらなんでも。
「……そう、なん? それ、いつの話」
「ぼくが小学生のときだったかな……えーっと、確か、好きなことは何、って話になったりして――」
「覚えて、ないな……」
「えーと、春で、5月になるくらいだったと……あ、いや、えっと、やっぱりいいです、すみません変なこと言って!」
たぶん、ぼくの被害妄想だが、心なしか、引かれたような気がした。ちょっと、落ち込みそうだ。気が付けば、えーと、を言い訳みたいに使っている。相手が覚えてもいないことを、確かにこうだった!
と、断言するのは、ちょっとどうなのかと思ってのことだった。確かめようがないのに断言したところで、ほとんど無意味だ。もちろん、ごまかすように考えるふりをしたって、無意味だが……要は気持ちの問題である。
胸を張っては言えないが、ぼくだってもちろん、視界に映る範囲の、覚えていることしか、覚えてない。
間違えたり、自分の認識だけでは、あまり確実や正確じゃないこともあるし、正直、余計なハードル(?)を上げる気はなかった。
そういえば昔、門限関係の、ちょっとした事情で、母に、その日より昨日か、少し前のことを聞かれ、『この時間にはこれをしていた』などと言った時間が、実際の時間と違っていたことがある。
『違うじゃないか、嘘をつくな!』
と、当時はいた父に指摘され、こっぴどい怒られ方をしたものだったが、家の玄関に置いてあった小さめの置き時計(やや進み気味だった)の時間を覚えていただけであり、ぼくがテレビなどはほとんど見ないので、その日(休日)も特にいちいち確かめていなかった、というのが、ぼくの中での真相だ。
時計自体も、気になるときしか見ない。
昔は有り余るくらい、変なところで正直だったぼくは、あとで、そのことを言ってみたが『時間が違っている時計を使った、見苦しい言い訳だ! だいたい、他の時計を見ろ!』とかなんとかで、全く聞いてはもらえなかった。
信じられないかもしれないが、つまり、間違った時計を、しばらくの間、気がつかずに、何も疑わず、確実なものである、と信頼していたのである。最近気付いたが、どうも、慣れている場所か、最初に視界に入れた時計(最初に慣れる)でしか時間を確認しない傾向があるみたいだ。しかもあまり不便もなかったので、(むしろ、遅刻が減っていた)しばらく直さないままだった。
なぜ時間が進んでいたかについては、兄がそれより前に、目覚まし機能を使ったとき、戻していなかったらしいが。もしこのときが、そういうミステリーだったら、たぶんぼくは、最初にあっさり騙され、追い込まれて死ぬ役だったろう。うっかり、また話をそらしてしまったが、なによりまだ心配はあって、ある程度の《執着的な好意があるからこそ、ここまで覚えている、みたいに思われる》んじゃないだろうか、ということだ。
(むしろもう、おそいのかもしれない)
もしかして将来、下手に誰かについて詳しくしゃべったらストーカーに疑われる可能性がある……?
説明すればするほど、何やってるんだろう、と悲しくなりそうなので、切り替えることにした。
と、いうところで――
「……なんだ、これ」
ぼくたちの足は、止まった。
倉庫から抜けて、使われない部屋を少し行ったところで《それ》を見たからだ。何かが乱射されたらしい現場は、いつか出合うような気はしていたのだが、でも、だからこそ、驚くことも出来なかった。
「……ケイガ、いや、ヒビキ、ちゃん……?」
いろいろな、なにかよくわからないが砕けた物に紛れて、小さな体躯が、ぐったりと転がっていた。赤い色に染まって、倒れている。
「どうして……」
彼女は、うっすら、笑った。わからない。どうして、笑うのだろう?しかし、なんとかまだ、息はあるらしい。病院に電話をかけようと思ったが、ぼくは、相変わらず、携帯電話を携帯していなかった。
しかし、ここには、公衆電話があったはずだ。上着の中に、コインケースがあったのを思いだして、確認した。ちゃんと、中身も入っている。藍色の、和風なもので、修学旅行のお土産だったものだ。
深く考えずに外に出る。星が輝いていて、そういえば、今何時だろう、と思った。
気配を感じると思ったら、黒いシャツの彼女が後ろから付いてきていた。
そういえば、そうだった。
しかし、話をする暇も惜しい。背を向けて、10円を入れ、番号を迷いなく押した。
このボックスは、ちなみになぜか、薄いピンクだ。
□
――実は、そこから一定時間、記憶が無い。
ぼくは、また夢を見ていた。
夢。ぼくはなんで寝ていたんだろうか?
□
それは、あの部屋の中の、懐かしい光景だった。
だけど、それを、懐かしいと思うことは、その夢の中では、無かった。
『──どうして抵抗、しないんだ。 なあ、どうして』
聞き慣れた台詞が、聞きなれた言い方で、降ってくる。
でも、景色がどうなっているかはよくわからない。
その場に、倒れているのだろうか。まるでレンズ越しでブレたみたいだ。
「お前は、いつも、へらへら笑ってて、何があってもへらへら笑って──俺のこと、ばかにしてたんだろ? なあ!」
そんなことはしない。
何の意味もない。
許したふりが出来ても、それがまたいつか、自分を苦しめる。少なくとも、ぼくは、ほとんど覚えている、と思っている。だからこそ、考えないことを、ぼくは選んだだけなのだ。
(……抗うことからさえ、逃げたんだ、ぼくは)
無理にでも、すべて好きになることで、すべて許す努力をしていた。そうして、いつも笑っていなければ、やりきれなくて。
癖のようになっていた。
はたからみれば、それは、傷付いたりしない、作り物みたいな、ただ、人の姿をした何かに見えたのかもしれない。
『母さんも、言ってたぞ。お前が変なことばっかり覚えてるから、近所にも気味がられてるって』
──兄の冷たい声が、こだまする。
足が、ぼくを潰そうとしている。ぼくは、ふいに、そこで、もがきたくなった。悪い夢だ、悪い夢だ悪い夢だ悪い夢だ悪い夢だ。
唱え続けて気が付くと、電話ボックスの中で寝ていたみたいだった。
ぼくは慌てて体を起こす。頭がひどくいたい。心なしか、舌がヒリヒリする。喉が、渇いたかもしれない。
そこで改めて、ボックスの中を見て、それから外を見渡した。
変わっているところ、変わってないところ。誰かの意識の違い。自分の意識のずれ。少し目を閉じて、頭で再現、構成する。
――そして、いくらかのことについて、再確認した。ゆっくりと、息を吸い込んだら、冷たくて、むせる。夜明けが近いみたいだ。いろいろ考えていると、どこか、気が抜けたような、そんな気分になった。諦めみたいなものかもしれない。
「……あーあ」
きっと、そうじゃないな。ぼくは、いつも見ていたのに、あの日になって急に、そんなことを言い出すなんて、と、言葉にならない疑問を感じていた。優しさじみたものに、ただの優しさ、ではない何かを感じていたからこそ、気味が悪かった。伝わることが、なかった。それだけじゃないか。
本当に正義感が溢れていたのなら、あの場面で、他に――なんでもない。
<font size="4">15.順番ずれの事実</font>
設立記念碑には、ちゃんとおじさまの名前が書いてある。ぼくの父とも、それなりに仲が良かった、彼の名前が、父の隣に。
そういえば、ぼくの記憶と、まつりが最初に、混ぜたのは、おじさまだった。おじさま、とは、まつりのところの親戚の一人で、ここを建てることを、最初に計画した人である。会ったことはないが、少しぼくに、似ていた、らしい。
そして、おそらくヒビキちゃんの父親。今は存在しない会社の、元トップだかなんだか。
たとえ、事実がどんなに変わらなくても、事実に対する解釈なら、いくらでも変えられるのだ。
自分の中でなら、嘘つきな正直者になれる。
「バカだよなあ……、でも、それでも、何があっても、誰も責めたくない。みんなが好き。ぼくは、それで、いいんだ……そうが、いい」
一人でも責めれば、生まれてから許してきたすべてをまた、憎むことになってしまう。
電話ボックスを出ると、やっぱりちょっと寒かった。果たして、電話はかかったのだろうか?
ガチャガチャと、少し受話器を構ったりしたが……お金は返って来ない。
後ろに彼女がいたはずだから、なんとかしてくれたのかもしれない。
気が付いたら手のひらに持っていた手紙を畳む。
昔懐かしい電話帳が置いてあると思ったら、わかりやすく、手紙が挟まれていたのだ。
「……私が追い詰められたのは『あなた』が逃げたことによって、私が連れさっていたことも、私たちの関係も、あの作戦も、バレてしまい、そのうち公になってしまうと、焦ったから、か」
さきほど、眠気を覚ますために、ざっと読んだのだが、またしても唐突じゃないか? と、さすがに、不思議な感じはする。
そもそも、名前は無いのだし、ぼくにあてていたと言い切れはしないが。
しかし、追い詰められた、がもつ意味は読み取ることが出来なかった。
あの作戦、もわからない。
綺麗に畳まれていて、ヒビキちゃんの広げた便箋と同じ紙のものだった。
あの中に入っていたのかな。
「……まあ優しさなんて、案外、こんなもんだよな……誰かの考えって本当に、わからないや。それなら最初から、しなきゃいいのに?」
他人事なので言えるが、そうできないのが、人間だろう。そんなことは、わかっている。
『私をさらったのは、佳ノ宮家を敵対する会社の人たちで、保護する代わりにと、私に協力を迫ってきた。保護なんていっても、私がやったのと同じね。『あなた』の気持ち、少しわかった気がする』
息を吐いた。少し、首の辺りが温かい気がした。
胸の辺りが、むずむずする。切り替えるべく、頭を振って、とりあえず、中に入ることにした。
<font size="4">16.丸いサイコロ</font>
――大切なものを、また何か、無くした気がする。
ときどき思う、こと。
覚える違和感。
でも、佳ノ宮まつりには、それがなにかわからない。
不安なときは、別のことを覚えることにしている。いつもより、難しいことを考えることにしている。
それにも疲れたら、楽しいいたずらや、遊びを考える。
周りは忙しい大人ばかりなので、もちろん一人で。
さらにその頃はとくに、何かの取引の履歴が外部に漏れただの、いろいろと、厄介事が重なったらしくて、皆、増して忙しく、誰もまつりの相手をする暇などなかったのだ。
まつりは、決して一人も嫌いではなかった。ぼんやり、外を見たり、ぼんやり、あらゆるものを刻んだり、見つけた木の実を潰したり、そういう遊びを主にしていた。
が、次第に飽きていく。どっちにも付かない、不安定な気分へのやり場に悩む日々を過ごすことが増えた。
新たな遊びを見つけたのは、その頃だ。
壁に思い切りボールをぶつけることに、夢中になった。
屋敷の壁は、ちゃんと、返してくれる。適当な返事であしらう人間とは違う。
機嫌をうかがわれることも、うかがう必要も、相手を覚えてなくて、機嫌を損ねられることもない。
いつものように外に出ようとしたある日、長い廊下の床に、丸いサイコロみたいなものを見つけた。とはいっても、まさか真丸ではないけれど、なかなか転がる、手のひらサイズのサイコロだった。
点の他には、下の方に小さくAなどと掘ってあるから、Aさんのものなのだろうと、まつりは、ぼんやり思っていた。
持ち主に返す機会があるかはわからないが、この屋敷に出入りする者など知れている。一応、まつりは持っておくことにした。それは、知っているものと違うので、興味をそそられたのもある。何気なく、振ってみると、中に、微かだが、球体以外になにかあるのにも気付いたし、赤い点の部分は、いつか、どこかでみたセンサーランプに似ているのにも、気付く。
もしかしたら、と思っていると、最近、新しく屋敷に出入りするようになった女のひとりが、後ろからやってきた。
ひどく慌てた様子で、地面を必死に見つめていた。ツルツルした廊下の床に、女の困った顔が映る。片手にモップを抱えながら、何か、探しているようだった。それも、相当困るものに見える。
「ない、ない……どうしたんだろう!」
「なにか、探しているんですか?」
太い石柱の横から、そっと声をかけると、女は一瞬、ひい、と怯えた顔をし、すぐに表情を取り繕った。なんでもございません。
「それなら、いいけど」
それを見た瞬間、まつりは、急に腑にいろいろと落ちた気分になった。彼女が探しているものがわかった。今、手のひらに握ったこれだ。
いきなり現れたことで、探し物に関する疑いをかけられるのでは、と少し心配したが、彼女は、まつりにはすぐ見向きもしなくなり、床掃除を始めた。
案外、子どもとは、なにも知らないと思われているもので、とりあえず今は、彼女に警戒されていないようだ。
彼女の様子から、まつりは一時安心した。何かのネタになるかもしれないと、こっそり、思っていたからだ。
正直に、これでしょ、と渡すことも考えてみたが、案外、可愛げがないものより、無邪気さで探りを入れるほうが、あるいは得策では、と考えた。使えそうなものは取っておく性質なのだ。
――その数週間後、まつりは、一人の少年に出会った。
未だに、サイコロの正体に触れる話を彼や、彼女らにしたことはない。
<font size="4">17.サイコロの少年</font>
ぼくは、とりあえず、手紙を上着に突っ込んで、中に戻ることにした。まだ少し、倦怠感が残る体を無理矢理動かして、ドアを開ける。
――今は、何時なのだろうか。何時間経っただろう。体がわりと真面目に冷えている。とりあえず、トイレに向かった。入り口入ってすぐ右だ。
分岐点みたいなところには、彫刻のある縁の、でかい鏡がある。固定してあって、倒れそうだが倒れたりしないのだ。さすがに、ぐらぐら掴んでみたくなる好奇心に負けるほどに、幼くはない。
――ふと、全身を映してみた。1・5メートル先からだと鏡ギリギリの168センチが映る。ひょろひょろしてる。寝癖でぼさっとした髪に、眠そうな目。
わずかに膨らんだ茶色の上着の中身は、ヘアゴムと、手紙と……なんだっけ? 財布と、ガム、かな。あんまり確認しなくてもいいか。冒険に出かけるわけじゃない。
顔には傷が7つ以上。
まっすぐに伸びた、細かくて、既にもう、薄くなっているものが5つと、一番大きい傷、それにバツ印みたいにかかった短い傷で、7つが、左側に集中していた。
純粋に、軽い切り傷やひっかき傷であり、ひきつったり、肌色が変わったりするほどではなかったのが幸いだろうか。
身体にあった打撲痕は、ほとんど消えているが、引っ掻き傷か切り傷の治りは、深いものもあり、遅いらしい。一番大きいのは、額付近から、鼻をかすって、うっすら頬まで続いている。
これが出来た際、痛みを感じなかったようだから、いつ出来たのかは、定かじゃないが。時間がずいぶん経って、ある日鏡を見るまで、こんなことになってるとは思わなかった。鏡は、あまり見ない。
「んー、意外に、目立つんだなあ」
見る人には、さぞ痛々しく映るのだろう。残念ながら、当時、目立つところに傷があったって、誰もぼくの事情を気にかけたりしなかった。それより忙しいことは溢れているし、そんなに大事にされたことなどない。
ぼく自身が気にしていないのもあるかもしれないが、ぼくが、もともと変わり者と言われていたこともあるし、近所から不審がられたり、何か言われたりもしない。
気づいたところで、育ち盛りだから、駆け回って転んだくらいにしか、思われなかったのだ。兄も兄で、外面が極めて良かった。
少しして、手を洗って戻ってくると、景色が見違えたような気がした。だが、これはきっと、眠気が少しなくなっただけなのだろう。
階段をあがろうとしてなんとなくやめた。まっすぐ、食堂へ向かう。楽譜みたいなのが書かれた薄暗い廊下を歩く。
なぜ、そうしたのだろう。どうせ、何もないはずなのに、漠然と、そうしないといけないような気がしている。みんなは、恐らく、上にいるのだろうし、ぼくが食堂を目指す理由なんて、見つからないのに。
ためらいなく扉を開ける。やっぱり、誰もいない。灯は消え、真っ暗だ。
「んー、と……」
することが、ない。やっぱり、みんなの元へ戻ろう、と思った。でも、落ち着く。わずかに残る倦怠感もあり、ずっとここでぼんやりしていたいような感覚にとらわれる。真っ暗で、誰もいない。
(──ああ、懐かしいなあ)
あの頃みたいで、少し、嬉しくなってきた。
「……あの子、大丈夫かな」
少女を思い浮かべる。別れる直前、小さく笑っていた。彼女の血や、傷口を見た。でも、やっぱり、何を思えばいいのかわからない。思わなくてもいいとまでは言わないが。
ただ『懐かしい』という感情だけが沸いていた。怪我をしたまつりを見たときより、更に強く。小さな子ども、というのが引っ掛かるのだろうか?
少なからず、ぼくは興奮している。もちろん性的なものではないが。
ぼくの記憶の中の《あるはずの何か》を、それがぐしゃぐしゃに掻き回す。頭の中に、何かが溢れる。生地にダマが出来た感じ、とか、そんなことを思った。
誰にも言えやしない。こんなの、おかしい。
もしかしたら少し、パニックになっているのかもしれない。こんな感覚は、あるはずがないのだ。
気持ちが鎮まるまで、もう少しだけ、ここにいよう。
暗闇の中、手探りで、テーブルに、手のひらをつく。
そういえば、ここで、食事をしたとき、いつもと、何かが、違ったような。不自然なはずな何かを、自然に行ってしまったような気がするのだが、ひっかかりはするものの、よくわからない。
まあ、気のせいだろう。
もともと、自分のことは、よくわからない。
フォークが床に転がった。うわ、とびっくりして、拾おうと思うが、場所がわからない。音からこの辺、というのがよく掴めないのだ。
目がなれてからにしよう、と落ち着きなおして、ぼくらが結局、なにしにここに来てるのかを考えることにした。
最初に考えるべきだった気もするが。
ぼんやりしていると、頭の中に、意図せずいろんな台詞が浮かんでくる。ずっと、これが苦手だった。でも、耳をふさぐことも、出来ない。
聞き慣れた音楽のように、ぐるぐると回り続ける。
不思議なもので、一度こんな体験をした、と思っていても、少ししてからある日、ふと違う視点からその記憶を起こせることに気付く。違う視点からは、全く違う解釈があり、良くも悪くも、結果が、当初思っていたものと正反対のことがある。
場合によっては、当時に関わっていた誰のことも、恐ろしくなり、信じられなくなってしまい、知り合いに会うたびに内心怯えることもあった。
事実はひとつ。でも、解釈は考えるたびに変わっていく。
昔見た映画や、小説を、再び読んだって、誰かの言葉や、自身の気づきで、昔とは印象が変わってしまう。
『その子……』
中に入ったとき、コウカさんは言った。ケイガちゃん(またはヒビキちゃん)は、びくついてまつりの後ろに隠れていて、まつりは表情を変えないで、説明した。
『……ふたごの姉を探してる、って言って、ある日、メールをくれました』
『――探してたのは、エイカなのね。私ではなくて』
どういう意味だろう、とぼくは思った。まつりは、冷たい目で、ぼくに聞いた。
『……うん、覚えて、ないかい?』
『そうだねぇ、何年前になるのかな?』
そう言って少し首を傾げる。後ろにいるケイガちゃんは、ぼんやりと床の敷石を見ていた。コウカさんは、堂々と、立っていた。
『――外にいた男の子がね、向かいにあるお屋敷から外に出ていたメイドさんを見つけて、何かを言われて、ついて行くんだ。メイドさんは、突然その子をさらったそうだ』
そして、メイドの彼女の心配そうな台詞が浮かぶ。
頭の中に、またしても芝生の庭が見えてきて、もういいよ、と言いたくなった。今は見たくない、あの家が見える。
『その子は、そのまましばらく家に帰らなかった。その子の親は激怒した。お屋敷の主人が、健康な男の子に恵まれなかったからと、跡を継ぐ者に悩んでいたのを、知っていたから、よりいっそう怪しんだ』
まつりは、そう解釈していた。しかし、それは、表向きの理由だ。
帰らなかったのは、確かにぼくの意思だ。いつだって抜け出せたのに、どうして、数日、留まっていたんだろう。居心地が良かっただろうか。
『逃げなさい。こんなところにいちゃ、だめよ』
こんなところ。あんな家。――彼女は、あの家自体が、嫌い?
『ここに隠れていたのは、あなたが、苦しんでいるからじゃないの?』
やめろ、ぼくは、苦しくなんかない。
『……いろいろ、あったからね』
『やめて! その人は……その人は、本当は、エイカを追い詰めた人物じゃない!』
『……エイカって、誰? 本当は、エイカっていうの? 《双子のお姉ちゃん》。ねぇ、《双子のお姉ちゃん》はどこ? あなた、双子のお姉ちゃんの妹?』
彼女がまだ、保育園にいるくらいのとき、エイカさんのことを、双子のお姉ちゃん、と慕っていた。
――その頃、コウカさんは囚われたり、いろいろとあったから、詳しくわからない?
――それが、何を意味する?
まつりは、それで何か手がかりが掴めるんなら、こんな役くらい請け負っても、安いと思っている。
それは、どんな情報だろう。
考えようとしていると、誰かの気配がして、ふと気を取られた。高速回想はいきなり終了する。
「――ここにいたんだね」
廊下の灯りがつく。
部屋がほんのり照らされ、突然、はっきりした声がぼくを呼んだ。なにかに納得するような言い方だった。
振り向くこともなく、ただ、正面で、机を挟んで向き合うようにして、ぼくと、その人は対面する。好奇心に輝く瞳は、ぼくを、これまでの知人として見ていないと、証明していた。
「まつり――」
「あは、呼び捨てにされるのは、久しぶりだ」
「……久し、ぶり?」
いや、さっきまで呼んでたぞ。
「――うんうん。きみを、探していたよ。まつりは、どうやら、きみを閉じ込めた人に、気付いていた。その人と会うために、ここに来ようとして、そして」
「ち、ちょっと待て、いきなり、そんなぺらぺら言われても」
「――この男が、そのとき、まつりを見つけたようでね」
くい、と親指で指されたのは、もう帰ったと思っていた、兄だった。まつりの背後で横たわっている。
服装は、Tシャツでも、派手な服でもなく、スーツ姿。なぜだか、縄で縛られて、眠らされている。抱えて来たのかと思ったが、廊下の方を見ると、奥に荷台が見えた。
「兄ちゃん……」
幼いときの言い方で思わず呼んでしまった。びっくりした。どうしたのかと聞こうとしたが、そんな雰囲気ではなかった。まつりは、うっすら笑って、吐き捨てるように言った。
「あーあ、過去のことを探っていたら、今のことが、わからなくなってきた。そして、とうとうこれだ。怖れていた事態なのに、いざなってみれば、情けないだけだな。
同じ失敗ばかりする。自分が間抜けだよ、本当に。よく考えたら、こんな風に、過去の自分しかしらないことも、あったのに。最初から人に頼りきりなのがよくなかったのかな。きみと、当初はどれだけ親密だったのか知らないが――」
何か、強いられているような、無理をしているような口調が辛そうで、一旦、呼吸を置いてもらおうと口を挟む。
「まつり、えっと……落ち着け、落ち着いて」
「なんだ、冷静だよ。笑えるくらいに、冷静だろ」
声がだんだん弱々しく震えていく。こんなことは、初めてで、どうしていいかわからない。
推測でしかないが、まつりが、誰かに会うと記憶が混ざっていくのは、その人との間の過去が自身の、記憶を結び付ける何らかに、関わるからだと思う。
昔のことを思い出したり、昔の人に関わるだけで、自身の記憶がさかのぼってしまうと、今までの経験から、思わなかったわけではないだろう。
考えていてもなお、知りたい、必要なことだった。だからこそ、まつりなりに、他にさまざまな予防線を張って、出来る限りの努力をしてきたのだと思う。
そしてきっとそれに、自信があった。
「忘れるのが、怖かった。今までは、こんなに、怖いと思ったことが、なかった。少しずつだったから、なかなか気付かなかった。気付いても少しなら大丈夫だと誤魔化した。でも――」
しゃがみこんだ背中はやけに小さく見える。後ろの兄は眠ったままで、それが際立った。
ぼくは、ただ突っ立って、なかなか、かける言葉もなく、ぼんやり、震えるそいつを見た。しばらく、互いに無言だった。
今の関係はただ、知り合いでありながら、ほとんど知らない人なのか?
以前の関係なら、何か気のきいたことが言えただろうか。
言葉じゃなくとも、どうにかする手段はぼくには浮かばなかった。
まつりは、弱っているときに関わられ、触れられるのが、特に嫌いだ。相手にそんなつもりがなくても、危害が加えられると思ってしまう。その性質だけは、今も変わらないと思われる。
そういえば、あの場所もそんな環境だった。落とされたら負けで、漬け込まれたら終わり。
大人や、周囲の触れ合いが示すのは、ほとんどが、警告、敵意、偽善のどれかだった。
もし今、ぼくに何かできるとするなら、ただ、淡白に切り替えることだけ。
「……ぼくを、探していたのは、なんで?」
「……ああ」
ぼくとは違い、求められれば一瞬で思考を切り替えられるまつりは、ぱっと顔を上げると、そうだったよね、と返事をして、すこし間を空け、考えた。
「……んー」
数秒後。
話は頭のなかで、まとめられたようだが切り出しかたに迷っているのか、まつりはやっぱりなかなか口を開かない。
どうかしたのかと、声をかけようとしていたら、立ち上がり、机のそばを回り、とたとたとこちら側に近寄ってきた。
「……んーとぉ」
そして、やっぱり考えた顔のまま(人によっては無表情に見えるかもしれない)、ぼくの頬に手を伸ばす。
「な、なに」
近い。やっぱり綺麗な目をしているが、何を考えているかは読めない。伸びてきた髪はふわふわと頬に当たる。痛い。今度切らせよう。
むに、と左手でぼくの口を摘まみ、それから、両手で、頬を引っ張り、すごく嫌そうなぼくの顔を2分ほど堪能すると、やっぱり少し納得したような顔をした。何に?
「きず」
ぺた、と首筋に左の手のひらが当たる。ぞわ、と恐怖でいっぱいになったが、必死に堪えた。
「あ、あの、痛いんですが……」
「んー……」
どうしても、とはいわないが、ぼくもまた、触れられるのは、どんな人にであれ、あまり楽しいものではなかった。
弱ったとき、無防備なときに触られるのは、卑怯だと、怖いと、思いたくなくても、思ってしまう。たぶん、これは、どうにもならない、本能的なものなのだ。
『彼』が居たこともあり、過去の出来事に、過敏になっているのも重なっているらしい。
顔が一瞬、外からはほとんど見えないくらいで、ひきつったが、紛らわそうと、とりあえず喋る。
「……傷、が、どうかしたか?」
「たしか、ここに、傷があった」
「……ああ、あの頃、罠かなんかに引っ掛かってさ、針金で首を擦ったことはあったっけ。傷になってたのかなあ」
「違う。狭い通路の」
「ああ、あのときの裏道か。そうそう、あのあと、枝が引っ掛かって、なかなか進めないし、血が出て止まんないから服が汚れるしで、大変だった」
ほかに何か言いかけて、やめた。代わりに、思い出だけを口にした。
「……ぼくは、あの日も、同じように、あの場所に、隠れていたっけ」
狭い壁を抜けたり、庭の植え込みをくぐり抜けたりする、今となると、若いから潜れたような道だ。狭いし、枝もあり、ぼんやりしていると、避けきれずに首を引っ掻くことがある。
まつりの家と、ぼくの家を繋いでいる中間地点。普段は、バレないため(植え込みを切られるわけにいかない)に、あまり使わないようにしていたが、隠れたいときや、近道したいときに使っていたと思う。放課後とかに。鞄を持って入れないので、家に置いてきていた。
「あの場所は、知ってる。たまに、きみがあの場所から来たときは、葉っぱがついていたり、首に傷を作っていた。そして、それを使う日の、大半に、あの男が、関わっていた」
手が離れ、やっと息がつける。くい、とまつりが視線を寄越したその男は、ただぐったり眠ったままだ。
「やっぱり知ってたんだ」
「……聞かない方が、いいと思って」
「うん。まあ。ありがとな」
素直に言ってみたが、まつりは俯いて、少しの間、ぼくから顔を逸らしていた。
<font size="4">18.答えあわせの問題</font>
──その、きず、について、先に言っておくけれど、と言って、その後一旦、まつりは、視線をぼくに戻した。
「いくら近いとはいえ、 通るたびに傷を作るような道を懲りずに使って来るのは、まつりには、とても不可解だったし、そういう日は、違う傷もあることが多かった。細かい変化にも、気付いてしまうし、なにより、わざとみたいに、すごく寒い日以外、真夏のような薄いシャツで歩いていたから、見易くてね。顔以外は服にギリギリ隠れる、なんて思っていたかもしれないが、そんなこともなかった」
「──で、なにが言いたい」
フォークをひろって置き直そうとしたぼくから、まつりがそれを奪い取る。
消毒しなおさないと、置いてはダメ、ということらしい。
「昔、ここに来たらしいその日、外に出て、会った彼に、うちの弟を知らない? と言われて、ああ、きみが恐れるのはこの人か、と納得がいったんだ。あの傷についてもいろいろ聞こうとしたんだ。でも、一旦、やめておいた。知らないというと、彼は言ったよ。『弟と、どんな関係なの?』って」
「うん、それで?」
「その言葉が……なぜだかひどく、恐ろしくて。そうだ、昔から、それが恐ろしいんだ……考えていくほど、わけが、わからなくなっていった。まつりは、あの家では、家族と言っても、少し……特殊な位置で、家族が、家族じゃないと知っているし、作られたものだと知っているから、えっと……」
「改めて考えてみると、情報が膨大で把握しきれないんじゃないのか?」
佳ノ宮まつりは、関係性、というのが嫌いだ。
ただ存在すれば良くて、見掛けならいくらでも、作れるのだという。
はたからみれば、それの存在のみ大事で、当事者以外にその真偽は見分けにくいともいった。
まつりに言わせれば、愛情でも、友情でも、ただ、その関係性を得る目的にばかり拘る人が多いらしい。
少なくとも、まつりの周囲はそうでしかなかった。
関係とは、権力にも武器にもなり、誰かを陥れる凶器になる。それが、まつりにとっての、関係性の醜さ。自ら、それを壊し続けるほどの、そう思わせる人間関係や、思い出が、あったのかもしれない。
「うん、それで、家族がよくわからなくなって……普通なら、きみの方を忘れるかと思ったのに、どうやら、家族の方が、混ざってしまった。きみのことを、それだけ、確かめたかったのかな、わからない」
「それで、一旦、家に? 」
ぼくが、詳しく語られなかった部分を、補足しておこうと、聞くと、まつりは、遠くを見るような目で言った。
「よく、わからない。……これはあの軟禁から、しばらく経ってからだったな」
視線が、合わない。
まつりは、なにかを思い出したのか、付け加えた。
「ああ、そうだ……そのときに、別れ際、あのヘアゴムをもらったよ。『ちょっと前にあの館に行ったときに見つけたものだけど、きみにあげる』って。なんであんなところに用があったのか、わからないが、とにかくパニックで、ひとまずポケットに収めて帰ったっけ。経緯はよく覚えてないが、チャラかったなあ」
うふふふ、と笑いだすが、ぼくには全く笑えやしない。
「……じゃあ、あそこに落としたのは、まつり?」
しかし、そうすると、部屋の中にも、既に落ちていたのはなぜだ?
「あの日持ってきていたのは、片方だけだよ。もらったのも、片方だ」
「片方ね……」
「その辺りも聞いておこうと、この男を引っ張ってきたわけだが、なぜ入ろうとしていたかは、聞けなかった。しかし防犯システムが働いてる感じだったから、中に入らなかったらしい。庭に落ちていたのを拾っただけだという」
「……なあ、そうだ、それだよ、兄は、大丈夫か?」
「ああ……大丈夫じゃないかな。ちょっと気絶してるだけだ。さて、入ってくれ」
まつりがふいに、ドアの向こう、ここからは見えない廊下に声をかけた。そこから、二つぶんの足音が聞こえ、コウカさんが入ってきた。
「えっと……」
色以外、全くおんなじ服装の……コウカさん、が、二人。
「ふた、二人……!? ドッペル……」
「いやー、疲れた疲れた!生きてるて思わせんの、難しいな」
水色のワンピースの彼女は高らかに笑う。
「ち、ちょっと、コウカ、静かに!」
白色のワンピースの彼女は、慌てたように隣の彼女をなだめる。しかし、彼女は聞かなかった。
「……エイカの役するの、結構難儀だったあー。でも、なかなか名演技だったろまつりん?」
「全ー然。記憶が浅かった彼女と、あまり人の違いがわからない彼じゃなかったら、とっくにツッコミを入れられてるよ」
うぐ、と、水色のワンピースのコウカさんは俯いた。まつりは表情を変えない。冷めた目は、どこか、呆れたようでもあった。
「あの……」
「私、コウカ」
「私もコウカ!」
二人が自己紹介する。同じ格好で並ばれると、似すぎて、はた目には違いがわからない。──っていうか、何でこのタイミングで告白するのだろう?
「でも漢字が違うのよ」
「だけど漢字が違うんで!」
同時に言われるが、どうしていいかわからず、目をぱちぱちと動かすぼくに、まつりだけは、やっぱり冷静に、彼女たちは双子で、さらに二人には、姉がいる。と告げた。
「あれは、エイカの自業自得なところも多かったし、きみには、結構、迷惑かけたね……」
「ああ! こいつもう、起きとるんじゃない?」
元気な方のコウカさんはぺしぺしと兄の頬を叩いた。よくみたら、腕が縛られている。
彼は、少しずつ目を開いた。良かった、無事らしい。……しかし、また目を閉じてしまった。眠いのかな。
「ぼくは……結局」
「あそこに、きみを入れれば、まつりが自然と、その辺りに誰も入らせないように配慮するだろう。きみだけは、なにか、贔屓していたようだしね」
まつりは、他人事のように言った。自分の行動も、感情も、今では実感がないように見える。
「そして、役目が終わったら、自然と解放するつもりだったのに、いつの間にか、逃げてしまったと知り、エイカは、それによって、様々なことが露見することを、恐れたの」
白いワンピースのコウカさんが言った。
「サイコロのこと、とかね」
まつりが、付け足す。
二人は、聞いてないというように、顔を見合せる。
「……サイコロ?」
「まつりがきみに、あげたんだろう? これ」
まつりが、自らのシャツのポケットから、まるっこいサイコロを取り出した。それは、懐かしい形だった。
「それ――いつも、部屋に置いてたけど……おまえのものじゃ、なかったのか?」
「違うよ」
「あ、あなた、そんなの、いつ――」
「やっぱり、あんたら、これが何か、知ってるんだ?」
「……まざー」
水色の彼女が、白い彼女を見る。彼女は首を傾けて苦笑する。
「知らない……」
視線が泳いでいた。
だがもう片方の彼女は、本当に知らないようだった。
「なあ……それが、これに、どう繋がるん?」
サイコロを顎でしゃくるようにして、水色の、ワンピースを着た方のコウカさんが聞く。(そういえば、同じような服が、どこにあったんだろう? そしてどうして、いつの間に着替えたんだろうか……)
不満を顔で表している。
「……彼女が、指示していたってことかな」
まつりの手元でサイコロが、跳ねる。感情のわからない声音だった。
「そうね」
彼女らのどちらかが、または、どちらもが答えた。まつりは、ぱちくりと目を見開いてみせただけだった。それから首を傾げた。
「ふうん……難しいな」
理解出来ない、と寂しそうな声だった。ふいに、ぼくに視線を向けられた。観察していたのがバレたのか、はたまた、さっきから何も言わないので、気にされたのか。
何か言うべきなのだろうか。
「……えっと」
と、言っても急には何も出てこない。
思わず顔に手をやると、傷に、ざら、と触れた。あまり良い感触ではない。鈍い音は、いつも、傷の記憶を呼び起こす。
「……どうした? なにか、辛いのか」
僅かな変化だったはずなのに、ぼくの顔色に気付いたまつりが、不安そうに聞いてきた。
「いや、そうだな……彼女が指示したと、ヒビキちゃんは、知ってるのかな」
「なぜ、それが気になる?」
答えなかった。
答えられなかった。
彼女の笑った顔を思い出した。彼女の怒った顔も、思い出した。
それから、なにか……
「なんで、かな」
ぼくは、ただそう呟いた。
<font size="5">19.審判の食卓</font>
彼、夏々都くんと、やけに元気がいい彼女が下に降りて居なくなってから、まつりは、残った方の私に会いに来た。部屋がノックされたと思ったらこれだ。そして冷たく、呼び掛けたのだった。
「──さて、と。やっと二人きりになれたね、コウカ」
──と。
それは、甘美なものではなく、むしろ、脅迫的な怖さを感じさせて、逃れても無駄という気がした。そういえば廊下ではすごい音がしていたが、あれは、なんだったのだろう?
──いろいろと考えながらも、私は出来るだけ平静を装って挨拶し、迎え入れる。
所詮は、子どもなのだから、びくびくするのはみっともないようで、しかし本音を言えば、怖かった。
「あら、そうね、ゆっくりお話する? いつかの、出来損ないのおちびさん。久しぶり」
なぜだか、不安で、仕方がない。それこそ大人げないことだったが、小バカにするように、笑ってやった。半ば当て付けだ。しかし、本人は、そういうものには既に慣れてしまっていたらしい。眉ひとつ動かさずに、ただ、微かに笑って応えてから、言った。
「──なるほどね。非常識で失礼な人間だという認識と事実を、今後のために受け取っておくよ」
冷静な対応だ。そういう人はいるよね、とでも言いそうな、冷めた態度。
いったい、なんなのだ、この子は。
「──あはははっ、それは結構だわ。素敵素敵。どうやら私、今まであなたを、見くびっていたみたい。お屋敷の隅っこで、いつも、血にまみれた気味の悪い遊びをしていた、ただのガキだと思っていたもの」
「ふふふ、そう。気が合うね! こそこそと、百恵おばあさまの動向を探っていたストーカーが言うことは、やっぱり説得力が違うよ」
互いに穏やかな笑顔だったが、場の空気はギリギリまで緊張していて、いつ、どちらかがキレてもおかしくないようだった。しかし、その点でもまた、先に出た方が負けだと、たぶん、互いが理解出来ている。
──だから、私もなるべく押さえていたはずだったのに。早くも耐えられなくなり、つい、叫んでしまった。
「言うじゃない。気に入らない、気に入らない、気に入らない!」
思わず、しまった、という顔をした私に、まつりは気分を良くしたのか、にこにこと笑いかけた。
「ふうん。でもまつりは、あなたのそういうところが気に入ったんだぁ。だから、遊んであげてるんだし」
信じられない。楽しそうに、上着の裾を握りしめて、私にそんなことを言う。
「遊ぶ? ふざけないで。怒るわよ。人をおもちゃみたいに」
おもちゃみたいに。
──そう言ったら、なんだか、本当にそれがしっくりくるように、思えてきた。
本人には、本当にそうだったのかもしれない。悪気なく、人を、私を、周りを。そうでしか見られなかったのではないか。きっと『生きるためには愛されなければならない』とか、そういったものの意味を、どこかで踏み違えてきたのだ。
だから、好意も、悪意も、ただ利用し、遊ぶためには、ちょうどいい、都合のいい感情で、何か現象のごまかしでしかない。しかしそれは同時に、飽きれば無意味で、さっさと断ち切る。そうだ、きっと、そういう風に考えるような子なのだ。
──そう、思って、いたいのに。
今度は返事に少し、間があって、なにかを抑え、平静を保つような声が紡がれた。
「……ふざけないなんて、不可能だよ。こうして生きていられること自体が、まつりにとっては、もう悪ふざけみたいなんだから」
(──あれ。今、一度だけ目を、伏せた)
どこか、自虐的な、寂しいような感情が、一瞬見え隠れしたようで、ほんのわずかだけ、動揺してしまう。
──だが、やはり面白がるための罠かもしれないし……そう、これは冷酷な、ただの、化け物なんだから、落ち着かなくては。
「そうだ、私が、幸せなところに送ってあげようか?」
優しく、聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「お客様が向こうでたくさん待機してるから、変な動きはやめた方がいいよ」
なんだ、気のせいかと、安心する。そう、安心……私は、なぜ、安心なんてしているんだろう?
──同じ、人間なのだと、考えるのが、怖い?
こんな風に、育ってしまった子どもが。
「あら、ご忠告ありがとう」
私の精一杯の皮肉を、いえいえ、と、適当にかわしてから、まつりは言った。
まるで、遠くを見るように。
「……コウカは、一人で充分なんだ。だから、選んでるんだよ。やっぱり本物を呼んできたら、偽物には不都合だったかなぁ? でも、本物のコウカは、本気で同じ名前の人だと思ってるから、安心していいよ。きみの本当の目的は、彼女にはバレないはずだ。主人のためなら嘘でも信じちゃうからね。可愛いでしょ」
「……安心? あなたがやることに、安心なんてあった?」
「彼女は、冤罪ーってことで、小屋から出してもらっているんだ。その時点でまつりを信用しているし、きみは、彼女に《ちゃんと》似ているし、双子を演じられたら、代わりに偽物を、本人だよって、渡す話を無理矢理通してきているから、絶対にその通りに仲良くしてくれるよ。そこは大丈夫」
「待って、偽物って……あなたまさか!」
思わず聞いたが、佳ノ宮まつりは薄く笑っただけで、忙しいから、と部屋を出ていったのだった。
□
すっかり、時刻は昼になり始めていた。軽く朝食を取り、食堂に倒れている男を、ぼくはじっと見ている。
ここまでを振り返ってみれば、突然眠くなって、起きて戻ってきて……あれ?
なにかが、抜けている気もするけど、とにかく食堂に行ったらまつりと兄に出会って、二人のコウカさんに会って、という流れだ。
彼は一度起きたのだが、また眠ってしまっていた。
「──ん……」
水の入ったグラスを持って、見下ろしていたら、倒れた男が、ふと身動きしたので、グラスを差し出す。
「ああ、水か……悪い」
ぼくから水を受けとった兄は、何も躊躇わずにそれを口に含んでいた。よく、まあ信頼されていたものだと思う。
それとも、ぼくが何も入れたりしないと、侮っているか、油断しているのか。──過去を持ち出しても、良いことは何一つないのだと、それだけは確かだが。ちなみに、渡したグラスは、夕飯のときから出してあった、手付かずのものだ。水はさっき入れた。
「なぁちゃん、大きくなったな」
廊下に横たわったままの兄は、グラスを床に置くと、そう言って、微笑んだ。
「──また、偽者?」
ぼくは、当然わかっている、というように冷たく聞いた。
スーツなんて、らしくないものを着て。きっとやっぱり、こいつも、偽者だ。
だって、そうじゃないと──
「ああ、お前、やっぱり、まだ、人を、判別出来ないんだな」
納得したような顔をされて、ぼくは戸惑う。
「偽者だろ? そうだろ、みんなして、からかってるんだろ?」
「……俺が、お前の兄じゃないって、思うか?」
「わからないよ……」
優しい目をしていた。
だから、わからない。最初、車に乗っていた《あの彼》と同じ目をしている。人は変わる。
だからこそ、一番最初に作った自己基準に、いつまでもしがみついているぼくには――その変化に気付けない。
数年前の教科書にしか載って無いような――終わったことなのだと、認められない。
それが、変わる?今さら、揺るがないと、思っていたのに。常に変わらない、空気みたいな立場に、間違った安心を抱くようになっていたぼくは、こいつに敵と見なされて生きるのだと、信じていたのに。裏切られた、気分だった。
「――わからない、わからないよ、お前は、誰だよ!」
「なぁちゃん……ナナト。お前は、朝からずっと……何をそんなに怒ってるんだ? 俺が、何かしたのか。実験のことか? あれは、ちょっとやりすぎたやつもあったけどさ、そんな今更」
「――あ、ようやく起きたようだね」
足音がして、振り返ると、まつりが後ろから歩いてきていた。手に持っているのは、2メートルはある、細い縄だった。なぜ、縄なのだろう?
ちなみにコウカさんたちは、二人で話したいことがあるようで、ただいまどこかに行っている。
「……目の前で、縄なんか持ってきて、すまない」
まつりがそう言って、ぼくを見た。だから、少しだけ、それにほっとする。
「……いや……えっと、何するんだ?」
「決まってるだろ、昔のようにあの日《この場所》で待っていたこいつが、やったことを、懺悔させてやるんだ」
パッと話が繋がらない。
ぼくは目をぱちぱちと動かして、それから、兄を見た。笑っていた。馬鹿じゃないか、とでも言いたげだった。
「ははっ、馬鹿じゃないの。証拠があるのか?」
兄は、余裕の表情で、聞いた。
「ああ、証拠ね、ちょっと、調べてもらうのに時間がかかったけど、手紙の指紋が、あなたと一致した。調査報告書のコピーがこれだ」
まつりは、眉ひとつ動かさなかった。カーディガンの内ポケットから、無表情で、畳んだ紙を見せた。まるで、使命が終わるまで、とでもいうように。冷たい目をして。
「それから今、少し出ているが、証言者もいる。当時、彼女のことを知って、あなたを止めに、あそこに来ていたようだね」
「ふーん、で?」
「これが、ここで出てくるんだ。ちょっと捻ってから、コードを、繋げる……」
いつの間にか、足元に置かれていたパソコンとサイコロとを繋ぎ、まつりがカタカタと、少しキーボードを操作する。
夜が更けたし、この辺りでは、今日、この時間になれば、走るバスも無いので、泊っていくことになった。食料などは、数日分用意されているらしい。用意がいいというよりも、やはり、彼女が住んでいるのか。
まつりは当然のように、一番広い部屋を選んだ。
二番目の部屋はコウカさんが使っているし、ぼくは考えた末に、四番目の部屋を選んだ。ケイガちゃんは、三番目の部屋になった。鍵室からそれぞれの部屋の鍵をもらって、分かれる。四番目の鍵は、なぜだか、予備のものしかなかったので、少し不思議に思う。──誰かが借りている?
考えても仕方ないので、ぼくはとりあえず、自分の部屋を開けようと鍵を差し込んで回した。しかし、ドアノブが回らない。不思議に思って、もう一度鍵を差し込むと、開いた。
「ん──鍵が、かかって、なかった?」
何でだろう、と思っていると、ドアが僅かに開き、隙間から、何かに頬を引っ張られた。
「いたたた」
棒読み。きゃー! とか、うわー! みたいに言えないが、これでも、ふざけているわけじゃないのだ。
驚いている。
中から妙にテンションの高い声がするかと思えば、ドアを完全に開け、中から出てきたのは、兄だった。
「やっと来たのかー、待ちくたびれたよ、なぁちゃん!」
くたびれるほど待ってたのか。服装は、ラフな黒いTシャツ。特筆することもない感じ。
元気いっぱい、と見える。
「な、なんで。だって、変装は……」
──というか、ぼくはどこの部屋で寝ればいいんだ。相部屋はやめてくれ。
他の部屋の鍵を取りに行けってことだな。どいてくれ。
「変装? 何いってんの? おれは、お前を連れ戻しに来たんだよ。それで、ここに泊ってた。昼間も、映画館で、会ったろ?」
「映画館?」
うーん。会っただろうか。何度考えてみても、それらしき人物がいた記憶がない。だいたい、暗くて、辺りがよくわからなかったのだ。
「えー、ひーどーい。カノミヤさんは、あの中でちゃんと見つけてくれたのにな」
「まつりが……見つけてた?」
「んで、お前にも見つかっちゃう、と思って、すぐ、あわてて椅子の背もたれに隠れたけど、もうバレてると思ってたよー。あー、なんだ、せっかくのサプライズの機会を逃したかー」
どうやら、この人は、あいつを知っているようなことを言った。
──では、まつりも、こいつを知ってる?
「で、いいから離せ。ぼくは行く!」
と、兄を押しやっていたときだった。
わざとらしいほどの足音が響いて、左後ろのドアから、まつりが出てきた。服を、新しくて似たようなシャツに着替えていて、そしてただただ、無表情だった。
「──やっぱり、来てると、思ってたよ」
まつりはそう言って、兄を見据えた。
「やあ。きみは、ちゃんと見えていたんだろ? ひどいなあ、どうして、ずっと、ガン無視だったの?」
「……さあね? 腹が立ってたからじゃないかな。ただでさえ眠かったのに、車内で、わ・ざ・と、電話をかけてくるような、嫌なやつだからな。おかげで眠れやしなかったし」
「言いがかりだね。っていうか俺は関係ないだろ? あの娘がドライブモードにでもしておけば良かったじゃないか。そもそも俺は、お前らがいつ、どこで何をしてるかわかるわけないだろうし」
「よーくいうよー、だ。車内にカメラが、少なくとも2つ、あったぞ。あんな分かりやすいの、気が付かないと思ってたのか?」
ぼくは、ぽかんと、二人を見ていた。何にも気が付いていなかった。勘違いも、いくつかあったようだ。 (だが、そうなるとあの手紙は?)
「ナナトは、たまに、どこからの、誰からの声なのかが、聞き分けられないみたいだから。ちょっと面白い勘違いになってたな。頭の中で、些細な違和感も完全修正しちゃうみたいだ」
急にふられて、びっくりした。あわてて返す。
「ええっと……わかってたのに、言わなかったのかよ!」
《兄》が車内で運転しているせいで、兄からかかってくるなんて、思いもよらなかったし、ケイガちゃんの電話からの声だ、というのも気が付かなかった。(というか、なぜ彼女の電話から?)
内容は聞こえているはずなのに、誰の声なのかは、ときどきわからない。声への違和感を、脳内修正が、簡単に上回ってしまうのだ。
ぼくは《どんなことを言っていたか》を記憶し始めると、同時に、《誰が、それを言ったか》を、ときどき置き去りにしてしまうらしい。(しかし、言葉遣いや、喋ってる人の違いが、ぼくの強烈な自己暗示や脳内修正だとしても、にや、とケイガちゃんが笑ったのを見たのは、間違いなかったが)
「混乱してる方が、可愛らしいかなって思って」
まつりは、悪びれたりせずに言った。適当なやつだ。
「あー、そういうやつだったよ、お前」
たとえば、ぼくが部屋で課題をしていても、暇潰しにパズルを解いていても、横から、全く違うことをそれらしく吹き込んで楽しむようなやつだ。
「そういうやつ……」
まつりはそれだけを、噛みしめるように、嬉しそうに、視線を僅かに反らした。そして、ゆっくり通路の壁にもたれたが、ちょっと指先が浮いている。
「──で、こいつと知り合いなのか?」
何かに驚いたような顔で固まっている兄を示しながらまつりに聞いてみた。
まつりは答えず、兄に質問した。そういえばもう、敬語ではないみたいだ。
「──それより、ナナトを連れ戻しに来たって、聞こえたけど、どういうことかな?」
「きみが言った、目撃者を───以下略。っての、やっぱり気が変わっちゃったんだ。なぁちゃんだけは、保存しとこっかなって。──でも、何か、関係あるの? カノミヤさんに」
「関係が、ある……」
「どんな関係? どういう関係? 俺らは兄弟だけど、きみは、部外者だ。裏切者側だろう?」
「兄弟。部外者……裏切者……関係……関係……?」
まつりは視線を左右に揺らした。不安そうに、焦りを隠そうとしているように、誰にも目を合わせることなく、ぱくぱくと、虚ろに口だけを動かしている。思わず、ぼくはその腕を掴んだ。なんで、そんなことをしたんだろう。わからない。何も映さない目に、とりあえずぼくを映してほしかったのかもしれない。
まつりは、それを強く振り払った。震えた肩は、怯えを示していた。
「あ……」
「で、だ。なぁちゃん、俺と帰ろうぜ」
兄は何事もなかったかのように、まつりを放って、ぼくに詰め寄る。腹の傷が疼き出したと主張するように、そのまま、まつりはしゃがみこんだ。
「触るな、触るな、触るな触るな、触るな。視界に……視界に入るな!」
そして、拒絶の言葉をひたすらに吐いていた。
それは、ひどく悲痛な叫びで、とても懐かしかった。
そしてそのまま、まつりは部屋に戻ってしまった。何を思っていたのかは想像がつかない。
が、とにかく一人になりたかったのは確かだろう。触るな、と寄るな、を言い残し、閉じこもってしまった。せめて病院に診てもらいに行ったほうが良いと言ってみたが、うるさい、の一喝で、終わった。
「気を取り直したように、兄が会話を再開する。
「……まあさ、俺が本当に連れ戻しに来たのは、お前じゃないんだよ」
だったらなんでそんなことを言ったんだよ、とつっこみたかったが、まつりを下がらせたかったのだろうか。案外何も考えていないのかもしれない。
「ケイガちゃん?」
なんとなくで、浮かんだ相手の名前を聞くと、兄は怪訝な顔でこちらを見た。
「――なんだそれ。俺が言ってるのは、ちっちゃい女の子で」
「だから、ケイガちゃんだろ? あの、やけに威勢のいい」
「……ケイガ? いやいや、それは、あそこの双子メイドの、母親の名前だろ。なになに、なぁちゃんも、知ってんの? 可愛いよなあ。一家揃っての美人メイドさん。母さんたちには内緒で俺、こっそり二階の窓からよく眺めてたんだけど」
ああ、そうか、うちは、二階建てだったのか。よく些細なことで追い出されて、玄関と、庭が定位置だったぼくには、二階が作り物じゃなかったことに、現実感がなかった。さすがに、空気を体験することがあまりなかった場所のことは、印象が薄い。 いつも二階を隠す、レースのカーテンは覚えているが。
「じゃあ、あの子は」
「ヒビキちゃん。お前が《いなくなったとき》父さんが代わりに《佳ノ宮家から、見つかるまで預かった》子だ。結構、昔、俺になついてくれてたよ」
いろいろと含めて、そういうことが平気で行われる日常だった。
「すっごい小さくてさ、ほとんど赤ちゃんで、まだ、やっと歩けるくらいだったかなあ」
ぼくは、ふと、頭に浮かんだことを口にしてみた。
「なあ、兄」
「なんだ弟」
兄は興味津々というふうにぼくを見ていた。まっすぐな、冷えた瞳で。
過去のことなんて、何もなかったみたいに。それは、ぼくにとって、ひどく、気持ちがわるいことだった。
「ぼくとまつりが二人でここに来た日の、前日とかにこの館に、入ったか?」
「あー、そんなことがあったな。でも、入ったかは知らん。そんな昔のこといちいち覚えてたらおかしいだろ?」
「……うん。そうだよな」
それは、そうだろう。
「だいたい、なんでそんなことを聞くんだよ? なんか関係あんの?」
ぼくは、ポケットに手を入れ、それを取り出した。ウサギさんのついたヘアゴムの片割れ。
「──ここに、これが落ちててさ、これ、本当にずいぶん前、実家で見たような気がするんだ」
そこに落ちていたから、そこにあるものだと思い込みそうだったが、ぼくが激しく恐怖に見舞われた原因は、単にそれが弾力性のあるゴムだったからではなかった。
現物そのものが、顔に飛んできたことや、それで首をしめられそうになったことが、過去、実際に、確かにあった。
フラッシュバック。激しい動揺で、ただ恐怖だけが脳内を埋めつくした。
ぼくは、そしてそれをそのまま、見ていないことにしたのだと……思う。
それでは無いと、言い聞かせていたが。
「あー、あー、あー、すごい懐かしい!」
兄は、予想通りに、懐かしむ顔をした。誰のものだとか、そんなのはぼくも知らない。彼の趣味ではないだろう。ただ、見つけたマトに当てて遊ぶというのは、幼い彼の楽しみの内だったように思うから、持ち歩いていて、ここに落としたのでは、と思った。
「これ持って、中に入ったんだろ?」
「だから、知らないって。昔のことなんて」
ここで、さっきから聞いていたらしいケイガちゃん……いや、ヒビキちゃんが、部屋から出てきた。水色の子どもらしいパジャマ姿で、枕を握りしめていた。どうやら眠るところだったらしい。今は、何時なんだろう。
今更ながら、廊下で話すと声が響く、ということに意識がいっていなかったらしい。
「……悪かったな、だますような真似をして」
淡々と謝りながら、ドアから出てきた彼女のその目は、ただならぬ殺意をはらんでいた。さっきまでの話を聞いていたというのは、つまりそういうことだろう。
ぼくは、一言が出てこなかった。陽気な挨拶をするのも、突然土下座に走るのも、この場では間違いなのだろうから、その反応は、マシな選択だったのかもしれない。
「貴様、だったんだな」
ぼくは、何も答えない。この場合、根本的には誰が悪い? 悪くない?
そもそも、良いと悪いの違いも、主観の違いでしかないだろうと思う。違う。今そんなのどうでもいいじゃないか。
「……貴様が、お姉ちゃんを、裏切った」
「裏切った……」
「逃げ出したんだろ、あの家から。勝手に。せっかくお姉ちゃんが助けてやったのに、匿った部屋から勝手に逃げたから──お姉ちゃんは、ずっとずっと探していた。私にも、探してくれって言った。大罪を犯す覚悟で匿ったやつが、どこにいるかもわからなくなった状況で、追い詰められた」
ぼくが、逃げた。
ぼくが逃げたから、彼女は追い詰められた。
追い詰められて、どうなっているのか聞く勇気はなかった。彼女の状態の良し悪しは、今関係ない。追い詰められた事実は、変わらない。
「貴様は、覚えいてなかったんだろ? 些細なことだものな。敵に情けをかけられて、むしろ、安いプライドが傷付いた、というところか? 簡単に、見捨ててしまえたことだろう」
「見捨てて? ぼくが──」
カチ、カチ、カチ、カチ。昔はなかったはずの、誰かの趣味のアンティーク風壁掛け時計が遠くで音を立てていたのが、そのときになって、やけに、耳についた。
「あ……あのとき」
──そうだ。
ぼくは、しばらく匿ってもらったのだ。彼女に、あの屋敷内に。
でも、なぜだか、それを、ぼんやりとしか、思い出せないため、居心地が悪い頭痛がしてくる。後々から、聞かされることで、実感が沸いてくるまで《無いもの》にしようとしていた。
「ぼくは──これを、言い訳にするつもりはないけど怖かったんだ。閉じ込められるのが、怖かった……迷惑をかけるのが、つらかった」
優しい扱いをされたことが、今まで生きてきたすべてを、根こそぎ否定されたように感じた。当然のような待遇すべてに、息が詰まりそうだった。確かに、快適で、安全ではあったが、一時的なものに過ぎない。
結局、何も気にせずに眠れることは、なかった。
存在を知られてはいけないので、うかつに、庭に出てはいけない。誰かが出入りしそうなたびに、耳をそば立てるのは、ストレスが溜まる。
──そもそも、ぼくは家に帰るのが嫌なわけではなかった。好きではなかったけれど、慣れてしまえばどうということはない。しかも、すぐそこにあるのだ。
もしかしたら家族が心配しているかもしれないなとか、すぐに帰らないとひどく怒られるかもしれない、とか、勝手にここに来たことを咎められてしまうなとかが、一度考えると、たくさん浮かんできて、余計に帰りたくなった。
──こういう状況のときばかり、変な、現実味がないことにまで、期待がわいてくるのは、なぜなんだろう?
そのとき、ぼくは強く、会いたいと思っていた。まつりに、家族に。匿われた一週間ほどの間、小学校にも顔を出していないはずだ。
ある日。ぼくは、黙って逃げ出した。口で告げれば、またあのもやもやした気持ちになるからこそ、決意を固めてすぐに。
「……一言くらい、告げればすんだだろう」
だが、それは彼女から見れば、身勝手な行動になるのだろう。
「そう、だな」
ふと、まつりを思い出した。あいつは今どうなっているだろうか。本当なら、入るのはよくないかもしれないが、気にせずにいられない。
「……ああ、そうだ」
彼女も、まつりを気にしているのか、ちらりとその部屋を見た。
もしかしたらあのことを思い出したのかもしれない。憂鬱な顔だった。
──そこで、その会話は終了した。
『終わったことをいくら責めても、どうしようもなかったな』と、急に彼女が言い出して。
沈黙が出来て、ぼくが階段を降りようとしているところで、兄がヒビキちゃんに声をかける。
「久しぶり。迎えに来たよ~」
「……ああ。というか貴様最近、ウチの会社に出入りしているみたいじゃないか。久しぶりもなにも、よく見かけるが」
「……出入りって、先生に頼まれた要件の為に、ちょこちょこ顔を出してるんだよ。まったく、いつの間にそんな言葉づかいになったんだ? あの頃は可愛かったのになあ」
興味がないので、ぼくは飛び火(?)する前にそっと、階段を降りた。
13.嫌いになりたい、と好きになれない、の違い
一階、鍵室に行き、《予備》で、まつりの部屋の鍵を開けようとしたが、ドアの内側からの、入っていいよ、によって、その必要がなくなった。
ぼくはためらわずに中に入った。
そこそこ良い値段のホテルみたいな部屋。面白味もなにもない、小綺麗な、ベッドやユニットバスのついた部屋。一言ではつまり、ゲスト用の宿泊施設だ。
まつりは、ロッキングチェアで、ゆらゆら揺れながらどうかした、と聞いた。
穏やかな表情からは、何もうかがえない。
「騙されるとこだったよ。糊まで使うなんて、なかなか手が込んでたじゃないか」
「――ああ、バレてた?」
「もちろん。ツメが甘いな」
「騙されるところだったんだろう?」
何でもないことのように、まつりは答えた。そこまで、怪我自体には、深いこだわりがなかったのかもしれない。そう思うほど、あっさり。
「……一瞬だけな。びっくりしたよ。そのときのやり方とかは、まあ、どうでもいいけどさ。そもそも小さな女の子にあんな役をやらせるなんてのは、本当はお前、好きじゃないだろ? お前が正面から受けて、まったく避けてないのも、疑問だった」
「……買いかぶりだね」
「別に、お前の優しさについて言いたいんじゃない。むしろそれは後付けだ。そうじゃなくともバレバレ。ツメが甘かったな」
「ふふ、面白いね。一応、興味がないけど聞いとくよ。なんで?」
「あんまりそれらしく固まってなかったとか、血の飛びかたが不自然だとか、いろいろあるんだけどさ……」
腹を怪我してるのに、平然としゃがんでいた、というのも付け加えようかと思ったが、いろいろと気まずいことを思い出して、やめた。
「あっはははは! 《夏々都くん》は、面白い。本当に面白いなー! で、それで、どうして、わざわざたずねて来たんだよ?」
まつりは、シャツを僅かに上げて、こちらに肌を見せた。傷ひとつなかった。
《手当て》の跡さえも、なんにも。
「聞きたい。コウカさんまで、巻き込んで、お前は、なにを――示したいんだ?」
すれすれ避けて、しかし、傷を付けたと思わせたことに、何か意味が?
「――実験自体は、もうだいたい終わったよ。知りたかったことも、だいたいわかってきた。あとは、組み立てと推測の証明かな」
「おい」
ぼくが、手を伸ばしたわけではなかったが、ぼくが触れるより先に、まつりは、ぼくの右腕を掴んだ。
強く、赤くなるくらいに掴んで、それから言う。
ゾッとするほど優しい笑顔だった。
「んー、ふふふ。わざわざ聞きに来るんだから、推論のひとつくらいは、聞けるのかな? だよね?――じゃなきゃ、言うことはひとつだよん。わかるでしょ」
自分で考えろ。
その通りだ。
ぼくは数秒、考えた。
そして、口を開く。
「――お前は、あそこに匿ってもらったときから、ぼくの場所に気付いていて、エイカさんとも親しくて、それで、こっそり、野菜とか、食事に持たせてくれてて……でも、ぼくに会うとまずいから、気を付けてて、えっと……その辺を《ぼくを誘導して逃がした》って話に持ってきて、ケイガちゃんを怒らせて……それで。あ、ヒビキちゃんなんだっけ。あの刃物は彼女が最初から持ってたやつで……」
まつりは、愉快そうに聞いていた。
なんだか、やはり、うまくまとまらない。ひとつひとつに、筋道が立てられない。
にやにやと微笑したままのまつりは、ロッキングチェアから降りて、床に、乱暴に方膝を立てて座って、言った。
「だめだなあ。相変わらず順序が飛んでるなあ。まず、目的は?」
「ぼくの記憶の、曖昧な部分、そしてお前の記憶の繋がらない部分を補正すること?」
「まさかあ! 違うよ違うよ、それは、一石の方じゃなくて、二鳥のうちの一羽かな。ついでだよ、ついで」
「えっと、一石……っていうと」
「今日の出会いそのものを、組み合わせたことだ。たまたま、条件が揃ったからね」
「条件?」
「――遠い昔、お城の地下で迷子になってたお姉さん。数年後の、お姉さん連れ去り事件。今になってそのお姉さんを探す、身元のわからない小さな女の子。あの事件とは別に起きた、事件の真相の鍵になるとは思わないか? トリガーくんとしては、そこら辺、いかがかな」
「……あの手紙。結局、あの手紙は、なんだったんだ」
「……ふーん。反らすね。あの手紙の要求なら、もう済んでるじゃないか」
「でも、お姉さん」
あ、とぼくが漏らした声に、まつりは、ははははと乾いた笑い声を立てた。
「……どこからが、嘘だと思う?」
□
もし、手紙の内容が、過去のものだったとしたら、現在においては、嘘でもなんでもないということになる。
役に立たない紙切れ、それだけ。どうして、それにすぐ思い至らなかったんだろう。そりゃあ、ここに日没になっても迎えも来ないわけだった。
小さな彼女は、それを、どこかで見つけたのかもしれないし、送られてきたのかもしれない。
……いや、でも、そんなことをする必要性がよくわからない。それに人に頼んでまで、そんなことをするんだろうか?
まつりは、《彼女》はメッセージを残していなくなった、とも言っていた。連れ去られた彼女は、その後、どこに行ったんだろう。
メッセージを残していなくなって……そういえばメッセージって、なんのことなのか、聞いてないな。
まつりと会う約束をしていて、連れ去られて、それさえも忘れ去られた彼女は……?
いや、しかし、そのときに、残してあったメッセージに気付いたということは、メッセージについてだけは、まつりは覚えているということだが。
部屋に居座るのもなんだかつまらなくて、ぼくは廊下に出ることにした。しかし、突然、変わった向きのクレーンゲームみたいに、背中をつままれて、それをやめた。ドアから手を離して向き直る。
「なんだよ」
「待ちなよーん。ちょっと待つだけで、面白いことになるからさ」
なんのことだ、とは聞かなかった。面白いこと、と言われるときは、大抵が、面白くない。
突然、何か、弾け跳んだような、乾いた音がした。まつりの目線が、ドアの外に注がれて、ぼくもそちらを見た。僅かにドアが揺れた。数回、乾いた音が続いた。誰かが呻くのを聞いた。女性だろうか?
「ちっなみにー、運動会じゃ、ないよ」
「面白くねぇよ」
はははは、とまつりは笑っていた。その笑顔は、やっぱり違和感があった。
だけど、それがどうして、そう思えるのかは、わからなかった。
僅かに、煙のにおいがした。焦げた何かのにおいがした。頭に、ズンと重く痺れるようなにおいがした。
それからはもう、あの不快な音は、しなかった。
「終わったか」
壁に張り付いたまま聞いてみると、まつりはベッドで跳び跳ねながら、笑っていた。
「……ふふふふ、ふふふふ、はははは! まだ、終わるわけ、ないだろ? あはははは、はははは」
「何、どういうことだよ」
「ちょっと、時間を稼ぎ過ぎちゃったね。もう、来ないのかと思っちゃった」
「――お前、何を呼んだんだ」
「招待状は出したけど、あくまで任意だよ」
<font size="4">14.本当みたいな嘘は、信じやすい</font>
「う、嘘だ、お姉ちゃんが……お姉ちゃんが、お母さん……」
──聞くつもりはなかったが、ある日私は、母様の話を聞いてしまった。
それは、よく、私の耳に届いた。電話というのはなかなか、声を張り上げていることにも、意識が回らないものなのかもしれないと、最初は思った。
『なんとかならない? あの子、私の手に余るのよね……もともと、実の子じゃないし、その、なんていうか。いい子なんだけどさ……』
『えー? ああ、ときどき、家に来てた、あの双子んとこの片方だよ。そんなにも、娘が可愛いんだねぇ……』
まだ記憶も、ほとんどない、幼い頃私が住んでいたのは、別の場所だった。
そこを実質上買収したのが、あの一家。
何のつもりだったのか、使用人として母は雇われ、娘は、ある家に引き取られたらしい。
筒抜けになる会話に、あまりのショックで、我を忘れかけた私は、ガタガタ震えた。
私を冷静にしてくれたのは、それからまた数日後、部屋に閉じ籠ってひそかに泣いていたとき、開けっ放しの窓から届いた一通の手紙だった。
それには、日付と、電話番号の書かれたメモも、同封されていた。手紙の内容を見て、私は何かを悟った。
携帯電話を握りしめ、記してある電話番号にかける。すでに、迷いはなかった。
□
佳ノ宮まつりはベッドに寝転んで、話を始めた。退屈なのかもしれなかった。
「数年前――上の人が、何か、彼女の身寄りとなっていた場所を買収したらしい。それからすぐ、あの屋敷に仕えたいという《彼女》の願いが快諾された」
そのとき、双子の片方には娘がいた。それがヒビキちゃんだった。彼女は、ヒビキちゃんに時間をかけることが出来なくなった。
まだ幼かった彼女を、別の家に預けたのだそうだ。
「メイドさんになりながらも、情報をいろんな場所にばらまいてたコウカを始末する理由は、まあ――なんでも良かったんだろう。まさか、家が自ら手をかけるわけにはいかないし……もし、都合が良く《外部からの侵入者》でもやってきて、誘拐でも起こったら、足取りが掴めません、終了! って考えたんだろうね」
「あれ? でも、それ、おかしくないか。エイカさんなんだろ、母親は。コウカさんは、ここにいる」
「念のために、入れかわってたのさ。ここにいるのはコウカって名前のエイカで、居なくなったままなのは、エイカって名前の、コウカだ」
「わけがわからない……何のため? それに、やってたのは一人だろ? どうして、コウカさんも、エイカさんも、両方が、連れ去られたみたいなこと……片方を脅しにすれば、充分じゃないのか」
「……んー、片方は、上の指示で誘拐されて、もう片方は、こちらでこっそり保護されたんだよ。まあそれも、形は誘拐そのものだったみたいだけど」
上の考えが気にくわないやつは、結構いたみたいだからな。と、付け加えた後、なんにしろ、目で見たことじゃないから、推測は、断定的に語れない。と。
まつりは楽しくなさそうに、ぼくの質問に答えてくれた。一番ぼくを覚えていた時期だったなら、考えられないほど機嫌が良い。
一時期は、うっかり楽しくない話題を振ろうものならぼくはけちょんけちょんにされていた。しかし今は、自分からそれを振るくらいだ。それが何を意味するか、ぼくは気付かないわけじゃない。でも、今は追及しない。
「──さて、外に出ますか」
話に飽きた、といったしぐさで、ベッドから降りたまつりは言った。楽しそうに。嬉しそうに。ぼくはドアをゆっくり開けた。
廊下は、前にも増して静まっているように感じた。
とりあえず、目の前には何もない。恐る恐る、部屋から出る。
なぜだか、足が震えた。ゆっくり、音がしたと思う方へ歩く。ぼくは、どこに向かっているのだろう、と思ったが、どうやら、コウカさんの部屋に向かっている。コウカさんは、大丈夫だろうか。
「──ちなみに、音がしたのは、あっちだよ」
「えっ」
……反対方向だった。
上着の背中をつままれる。つまむのが好きなのか?
にしてもおかしいなあ。確かに、こっちから聞こえたと思ったんだけど。
まつりは無表情で、あっち、と倉庫がある側を指差した。ちなみにそちら側にも、階段がある。
「……早く言ってくれたら嬉しい」
「なにしてるんだろう、って、考えてしまったんだよ」
「……なあ、まつり」
「ん?」
「昨晩食べようと思って冷蔵庫に入れてた『シフォンケーキ』が『たまご豆腐』に変わってた話について、どう思う?」
「さあ。たまご豆腐を、シフォンケーキだと思っていたんじゃないかなあ? あなたが見ているものが、真実とは限らない、みたいな?」
「いーや、違う。ぼくの認識じゃ、間違いなく、その前の晩まであれはシフォンケーキだったんだ。まあ、だから今回は生クリームを軽く塗って、チェリーを乗せた段階で、早々気が付いたんだよ。まったく……危ない危ない。あやうく、認識を改めずにそのまま食べてしまうところだった。さすがに、ぼくの味覚までは誤魔化せないからね。ハッハッハ! 悪魔の手には乗らないぞ!」
得意気に言うぼくに、まつりは不思議そうに首を傾げた。
「見た目だけならプリンアラモードっぽいかも」
それからすぐに差し掛かった倉庫のそばに、誰か、知らない女の人が立っていたので、びっくりした。
髪はボブに近く、短めだ。キラキラしたピンクのベルトが目立つ短いジーンズで、黒い木綿系の半袖シャツを纏った、スタイルの良い人だった。
少しコウカさん(でいいのかわからなくなってきたぞ)に似ている気がする。
「あ。久しぶりだね」
まつりは、無表情でそう言って、彼女に挨拶した。彼女の方は、けらけら大笑いしだした。妙に明るい。
「わあー、久しぶりってやつやつー!? まつりん元気にしとった?」
やつやつってなんだ、と思ったが、聞かないことにする。
「んー、なんかよくわかんないけど、元気元気」
まつりは、すごく適当に答えた。彼女は気にしていないようで、笑い続けている。疲れないのかなあ。ぼくも一度くらい、盛大に笑えたらいいのだが。
「もー、まつりんー! 相変わらず冷たいなあ? もーっとほっかほかで行こーやあ! な?」
「ふーん。来たんだね」
「来たんは来たけどさあ!まつりん、もっとおはようの挨拶とかないん?」
どちらかといえば、おやすみの時間かなと、個人的には思った。まつりはやはり聞いていないのか聞き流しているのか、一方的に感想を述べる。
もしかしたらあのテンションに合わせて上げていけるだけの気力がないのかもしれない。
「ちょっと、来ないかとも思ってたのに、よく逃げれたな」
「……うっふふっふ! なんかね、流されたっていう情報のなかで、一番でかかったやつの、それ自体の隠蔽やら撹乱かなんか、外で手伝ってくれた人がおったみたいで……んー、なんだったかいなあ。それの、その人の、なんかやった際の条件で、解放してくれたっていうかんじなんかな……一番それに困っとったみたいだから。いやー、早いもんで、二年? は経っててびっくりだわ」
「……なんにしろ、はいじゃあね! ってあいつらが逃がすわけがない。刺される前に、さっさと逃げて来たんだろ?」
「まあね」
くすくす、と彼女は笑った。ジーンズのポケットに、意味ありげに手を突っ込む。少し、カチャカチャ音がした。
違和感なく、当然という感じで、彼女はまつりの後について歩いてくる。
三人で倉庫をすぎて、廊下を進むと、掃除用具入れや、使ってない部屋が見えてきた。
「……あ、ちょっと、二人で先いってて」
その辺りになって、まつりは突然、そんなことを言って、一人逆に進み始めた。
にこにこしていて、こいつそういえば、こんなに、こんなに……にこにこ笑うことは、なかったぞ、と気が付く。
「あれ……」
考えれば考えるほど、おかしいと思えてきた。楽しそうな顔はしていても、あからさまに笑うなんて、なかったはずなのだ。たまに、嬉しいことがあった瞬間だけならともかく、淡泊というか、感情の切り替えが早く、始終にこにこしないやつだった。今までは。
まるで、そう表現することを、自らに課しているみたいに、今日のまつりは、不自然だ。
ぼくは、なんだか、不安になった。まつりが、このままいなくなってしまうような気がして、少し怖かった。
「どこに、行くんだよ……」
思わず、聞いていた。普段のぼくは、こんなこと、聞いたりしなかったのに。
「やっだなあー、プライベートなことは、聞かないでよっ!」
語尾に、星でも付きそうな可愛らしさでおどけられて、ちょっと黙ってしまった。
そんなこんなで。
二人きりになってしまったと思ったとたんに、彼女は、それを切り出す合図のように口を開いた。
「さて……」
「はい」
ぼくに向けられたものなのか、判断し難かったが、思わず返事してしまう。
果たして彼女は何を考えているのだろうか。
「きみは……ああ、そう、きみは、あの子か。きみは、変わっとらんのね」
「そう、なんですか。……お久しぶりです。あなたは、昔、お会いしたときは、銀縁の眼鏡だった気がしますが」
変な顔をされた。そして、すぐに、表情を戻して、答えてくれる。
「あー、あれはね、やめたんよ……なんかね、イメチェン?」
「あ……! そういえば、言葉遣いも、変わりましたね」
なんだか、変な感じだ。懐かしいのに、違うみたいな、気味が悪い感じ。内心では、いつ《本題》を切り出されるのかと、ぼくは焦っていた。
焦っていたからこそ、話を引き延ばしたくて、精一杯笑う。廊下も、出来るだけゆっくり歩くことにした。
何か話題がないかと考えていると、ふと、頭に閃くものがあった。
「ん、なに? なんか思い出したん」
顔に出ていたのか、彼女が聞いてくる。
「いや。そ、そういえば、……歌うチョコレートケーキ、ってあの映画だったんですね?」
彼女は数秒固まった。その後、怪訝な顔で聞いた。
「ナニ、ソレ?」
「ほら、前に、好きな小説の一節だって、おっしゃってたじゃないですか?」
……やってしまった。
会話の順序を間違えてしまった。脈絡をすっ飛ばしたどころじゃない。
自分が痛々しいのは自覚しているつもりだが、改めて沈みたい。
「え、えーっと、それで、もうすぐ映画化されるんだ、って話を、してくれましたよね? それ、この前観てきたんですけど」
あいつは、これも計算していたのかな。まさかな。いくらなんでも。
「……そう、なん? それ、いつの話」
「ぼくが小学生のときだったかな……えーっと、確か、好きなことは何、って話になったりして――」
「覚えて、ないな……」
「えーと、春で、5月になるくらいだったと……あ、いや、えっと、やっぱりいいです、すみません変なこと言って!」
たぶん、ぼくの被害妄想だが、心なしか、引かれたような気がした。ちょっと、落ち込みそうだ。気が付けば、えーと、を言い訳みたいに使っている。相手が覚えてもいないことを、確かにこうだった!
と、断言するのは、ちょっとどうなのかと思ってのことだった。確かめようがないのに断言したところで、ほとんど無意味だ。もちろん、ごまかすように考えるふりをしたって、無意味だが……要は気持ちの問題である。
胸を張っては言えないが、ぼくだってもちろん、視界に映る範囲の、覚えていることしか、覚えてない。
間違えたり、自分の認識だけでは、あまり確実や正確じゃないこともあるし、正直、余計なハードル(?)を上げる気はなかった。
そういえば昔、門限関係の、ちょっとした事情で、母に、その日より昨日か、少し前のことを聞かれ、『この時間にはこれをしていた』などと言った時間が、実際の時間と違っていたことがある。
『違うじゃないか、嘘をつくな!』
と、当時はいた父に指摘され、こっぴどい怒られ方をしたものだったが、家の玄関に置いてあった小さめの置き時計(やや進み気味だった)の時間を覚えていただけであり、ぼくがテレビなどはほとんど見ないので、その日(休日)も特にいちいち確かめていなかった、というのが、ぼくの中での真相だ。
時計自体も、気になるときしか見ない。
昔は有り余るくらい、変なところで正直だったぼくは、あとで、そのことを言ってみたが『時間が違っている時計を使った、見苦しい言い訳だ! だいたい、他の時計を見ろ!』とかなんとかで、全く聞いてはもらえなかった。
信じられないかもしれないが、つまり、間違った時計を、しばらくの間、気がつかずに、何も疑わず、確実なものである、と信頼していたのである。最近気付いたが、どうも、慣れている場所か、最初に視界に入れた時計(最初に慣れる)でしか時間を確認しない傾向があるみたいだ。しかもあまり不便もなかったので、(むしろ、遅刻が減っていた)しばらく直さないままだった。
なぜ時間が進んでいたかについては、兄がそれより前に、目覚まし機能を使ったとき、戻していなかったらしいが。もしこのときが、そういうミステリーだったら、たぶんぼくは、最初にあっさり騙され、追い込まれて死ぬ役だったろう。うっかり、また話をそらしてしまったが、なによりまだ心配はあって、ある程度の《執着的な好意があるからこそ、ここまで覚えている、みたいに思われる》んじゃないだろうか、ということだ。
(むしろもう、おそいのかもしれない)
もしかして将来、下手に誰かについて詳しくしゃべったらストーカーに疑われる可能性がある……?
説明すればするほど、何やってるんだろう、と悲しくなりそうなので、切り替えることにした。
と、いうところで――
「……なんだ、これ」
ぼくたちの足は、止まった。
倉庫から抜けて、使われない部屋を少し行ったところで《それ》を見たからだ。何かが乱射されたらしい現場は、いつか出合うような気はしていたのだが、でも、だからこそ、驚くことも出来なかった。
「……ケイガ、いや、ヒビキ、ちゃん……?」
いろいろな、なにかよくわからないが砕けた物に紛れて、小さな体躯が、ぐったりと転がっていた。赤い色に染まって、倒れている。
「どうして……」
彼女は、うっすら、笑った。わからない。どうして、笑うのだろう?しかし、なんとかまだ、息はあるらしい。病院に電話をかけようと思ったが、ぼくは、相変わらず、携帯電話を携帯していなかった。
しかし、ここには、公衆電話があったはずだ。上着の中に、コインケースがあったのを思いだして、確認した。ちゃんと、中身も入っている。藍色の、和風なもので、修学旅行のお土産だったものだ。
深く考えずに外に出る。星が輝いていて、そういえば、今何時だろう、と思った。
気配を感じると思ったら、黒いシャツの彼女が後ろから付いてきていた。
そういえば、そうだった。
しかし、話をする暇も惜しい。背を向けて、10円を入れ、番号を迷いなく押した。
このボックスは、ちなみになぜか、薄いピンクだ。
□
――実は、そこから一定時間、記憶が無い。
ぼくは、また夢を見ていた。
夢。ぼくはなんで寝ていたんだろうか?
□
それは、あの部屋の中の、懐かしい光景だった。
だけど、それを、懐かしいと思うことは、その夢の中では、無かった。
『──どうして抵抗、しないんだ。 なあ、どうして』
聞き慣れた台詞が、聞きなれた言い方で、降ってくる。
でも、景色がどうなっているかはよくわからない。
その場に、倒れているのだろうか。まるでレンズ越しでブレたみたいだ。
「お前は、いつも、へらへら笑ってて、何があってもへらへら笑って──俺のこと、ばかにしてたんだろ? なあ!」
そんなことはしない。
何の意味もない。
許したふりが出来ても、それがまたいつか、自分を苦しめる。少なくとも、ぼくは、ほとんど覚えている、と思っている。だからこそ、考えないことを、ぼくは選んだだけなのだ。
(……抗うことからさえ、逃げたんだ、ぼくは)
無理にでも、すべて好きになることで、すべて許す努力をしていた。そうして、いつも笑っていなければ、やりきれなくて。
癖のようになっていた。
はたからみれば、それは、傷付いたりしない、作り物みたいな、ただ、人の姿をした何かに見えたのかもしれない。
『母さんも、言ってたぞ。お前が変なことばっかり覚えてるから、近所にも気味がられてるって』
──兄の冷たい声が、こだまする。
足が、ぼくを潰そうとしている。ぼくは、ふいに、そこで、もがきたくなった。悪い夢だ、悪い夢だ悪い夢だ悪い夢だ悪い夢だ。
唱え続けて気が付くと、電話ボックスの中で寝ていたみたいだった。
ぼくは慌てて体を起こす。頭がひどくいたい。心なしか、舌がヒリヒリする。喉が、渇いたかもしれない。
そこで改めて、ボックスの中を見て、それから外を見渡した。
変わっているところ、変わってないところ。誰かの意識の違い。自分の意識のずれ。少し目を閉じて、頭で再現、構成する。
――そして、いくらかのことについて、再確認した。ゆっくりと、息を吸い込んだら、冷たくて、むせる。夜明けが近いみたいだ。いろいろ考えていると、どこか、気が抜けたような、そんな気分になった。諦めみたいなものかもしれない。
「……あーあ」
きっと、そうじゃないな。ぼくは、いつも見ていたのに、あの日になって急に、そんなことを言い出すなんて、と、言葉にならない疑問を感じていた。優しさじみたものに、ただの優しさ、ではない何かを感じていたからこそ、気味が悪かった。伝わることが、なかった。それだけじゃないか。
本当に正義感が溢れていたのなら、あの場面で、他に――なんでもない。
<font size="4">15.順番ずれの事実</font>
設立記念碑には、ちゃんとおじさまの名前が書いてある。ぼくの父とも、それなりに仲が良かった、彼の名前が、父の隣に。
そういえば、ぼくの記憶と、まつりが最初に、混ぜたのは、おじさまだった。おじさま、とは、まつりのところの親戚の一人で、ここを建てることを、最初に計画した人である。会ったことはないが、少しぼくに、似ていた、らしい。
そして、おそらくヒビキちゃんの父親。今は存在しない会社の、元トップだかなんだか。
たとえ、事実がどんなに変わらなくても、事実に対する解釈なら、いくらでも変えられるのだ。
自分の中でなら、嘘つきな正直者になれる。
「バカだよなあ……、でも、それでも、何があっても、誰も責めたくない。みんなが好き。ぼくは、それで、いいんだ……そうが、いい」
一人でも責めれば、生まれてから許してきたすべてをまた、憎むことになってしまう。
電話ボックスを出ると、やっぱりちょっと寒かった。果たして、電話はかかったのだろうか?
ガチャガチャと、少し受話器を構ったりしたが……お金は返って来ない。
後ろに彼女がいたはずだから、なんとかしてくれたのかもしれない。
気が付いたら手のひらに持っていた手紙を畳む。
昔懐かしい電話帳が置いてあると思ったら、わかりやすく、手紙が挟まれていたのだ。
「……私が追い詰められたのは『あなた』が逃げたことによって、私が連れさっていたことも、私たちの関係も、あの作戦も、バレてしまい、そのうち公になってしまうと、焦ったから、か」
さきほど、眠気を覚ますために、ざっと読んだのだが、またしても唐突じゃないか? と、さすがに、不思議な感じはする。
そもそも、名前は無いのだし、ぼくにあてていたと言い切れはしないが。
しかし、追い詰められた、がもつ意味は読み取ることが出来なかった。
あの作戦、もわからない。
綺麗に畳まれていて、ヒビキちゃんの広げた便箋と同じ紙のものだった。
あの中に入っていたのかな。
「……まあ優しさなんて、案外、こんなもんだよな……誰かの考えって本当に、わからないや。それなら最初から、しなきゃいいのに?」
他人事なので言えるが、そうできないのが、人間だろう。そんなことは、わかっている。
『私をさらったのは、佳ノ宮家を敵対する会社の人たちで、保護する代わりにと、私に協力を迫ってきた。保護なんていっても、私がやったのと同じね。『あなた』の気持ち、少しわかった気がする』
息を吐いた。少し、首の辺りが温かい気がした。
胸の辺りが、むずむずする。切り替えるべく、頭を振って、とりあえず、中に入ることにした。
<font size="4">16.丸いサイコロ</font>
――大切なものを、また何か、無くした気がする。
ときどき思う、こと。
覚える違和感。
でも、佳ノ宮まつりには、それがなにかわからない。
不安なときは、別のことを覚えることにしている。いつもより、難しいことを考えることにしている。
それにも疲れたら、楽しいいたずらや、遊びを考える。
周りは忙しい大人ばかりなので、もちろん一人で。
さらにその頃はとくに、何かの取引の履歴が外部に漏れただの、いろいろと、厄介事が重なったらしくて、皆、増して忙しく、誰もまつりの相手をする暇などなかったのだ。
まつりは、決して一人も嫌いではなかった。ぼんやり、外を見たり、ぼんやり、あらゆるものを刻んだり、見つけた木の実を潰したり、そういう遊びを主にしていた。
が、次第に飽きていく。どっちにも付かない、不安定な気分へのやり場に悩む日々を過ごすことが増えた。
新たな遊びを見つけたのは、その頃だ。
壁に思い切りボールをぶつけることに、夢中になった。
屋敷の壁は、ちゃんと、返してくれる。適当な返事であしらう人間とは違う。
機嫌をうかがわれることも、うかがう必要も、相手を覚えてなくて、機嫌を損ねられることもない。
いつものように外に出ようとしたある日、長い廊下の床に、丸いサイコロみたいなものを見つけた。とはいっても、まさか真丸ではないけれど、なかなか転がる、手のひらサイズのサイコロだった。
点の他には、下の方に小さくAなどと掘ってあるから、Aさんのものなのだろうと、まつりは、ぼんやり思っていた。
持ち主に返す機会があるかはわからないが、この屋敷に出入りする者など知れている。一応、まつりは持っておくことにした。それは、知っているものと違うので、興味をそそられたのもある。何気なく、振ってみると、中に、微かだが、球体以外になにかあるのにも気付いたし、赤い点の部分は、いつか、どこかでみたセンサーランプに似ているのにも、気付く。
もしかしたら、と思っていると、最近、新しく屋敷に出入りするようになった女のひとりが、後ろからやってきた。
ひどく慌てた様子で、地面を必死に見つめていた。ツルツルした廊下の床に、女の困った顔が映る。片手にモップを抱えながら、何か、探しているようだった。それも、相当困るものに見える。
「ない、ない……どうしたんだろう!」
「なにか、探しているんですか?」
太い石柱の横から、そっと声をかけると、女は一瞬、ひい、と怯えた顔をし、すぐに表情を取り繕った。なんでもございません。
「それなら、いいけど」
それを見た瞬間、まつりは、急に腑にいろいろと落ちた気分になった。彼女が探しているものがわかった。今、手のひらに握ったこれだ。
いきなり現れたことで、探し物に関する疑いをかけられるのでは、と少し心配したが、彼女は、まつりにはすぐ見向きもしなくなり、床掃除を始めた。
案外、子どもとは、なにも知らないと思われているもので、とりあえず今は、彼女に警戒されていないようだ。
彼女の様子から、まつりは一時安心した。何かのネタになるかもしれないと、こっそり、思っていたからだ。
正直に、これでしょ、と渡すことも考えてみたが、案外、可愛げがないものより、無邪気さで探りを入れるほうが、あるいは得策では、と考えた。使えそうなものは取っておく性質なのだ。
――その数週間後、まつりは、一人の少年に出会った。
未だに、サイコロの正体に触れる話を彼や、彼女らにしたことはない。
<font size="4">17.サイコロの少年</font>
ぼくは、とりあえず、手紙を上着に突っ込んで、中に戻ることにした。まだ少し、倦怠感が残る体を無理矢理動かして、ドアを開ける。
――今は、何時なのだろうか。何時間経っただろう。体がわりと真面目に冷えている。とりあえず、トイレに向かった。入り口入ってすぐ右だ。
分岐点みたいなところには、彫刻のある縁の、でかい鏡がある。固定してあって、倒れそうだが倒れたりしないのだ。さすがに、ぐらぐら掴んでみたくなる好奇心に負けるほどに、幼くはない。
――ふと、全身を映してみた。1・5メートル先からだと鏡ギリギリの168センチが映る。ひょろひょろしてる。寝癖でぼさっとした髪に、眠そうな目。
わずかに膨らんだ茶色の上着の中身は、ヘアゴムと、手紙と……なんだっけ? 財布と、ガム、かな。あんまり確認しなくてもいいか。冒険に出かけるわけじゃない。
顔には傷が7つ以上。
まっすぐに伸びた、細かくて、既にもう、薄くなっているものが5つと、一番大きい傷、それにバツ印みたいにかかった短い傷で、7つが、左側に集中していた。
純粋に、軽い切り傷やひっかき傷であり、ひきつったり、肌色が変わったりするほどではなかったのが幸いだろうか。
身体にあった打撲痕は、ほとんど消えているが、引っ掻き傷か切り傷の治りは、深いものもあり、遅いらしい。一番大きいのは、額付近から、鼻をかすって、うっすら頬まで続いている。
これが出来た際、痛みを感じなかったようだから、いつ出来たのかは、定かじゃないが。時間がずいぶん経って、ある日鏡を見るまで、こんなことになってるとは思わなかった。鏡は、あまり見ない。
「んー、意外に、目立つんだなあ」
見る人には、さぞ痛々しく映るのだろう。残念ながら、当時、目立つところに傷があったって、誰もぼくの事情を気にかけたりしなかった。それより忙しいことは溢れているし、そんなに大事にされたことなどない。
ぼく自身が気にしていないのもあるかもしれないが、ぼくが、もともと変わり者と言われていたこともあるし、近所から不審がられたり、何か言われたりもしない。
気づいたところで、育ち盛りだから、駆け回って転んだくらいにしか、思われなかったのだ。兄も兄で、外面が極めて良かった。
少しして、手を洗って戻ってくると、景色が見違えたような気がした。だが、これはきっと、眠気が少しなくなっただけなのだろう。
階段をあがろうとしてなんとなくやめた。まっすぐ、食堂へ向かう。楽譜みたいなのが書かれた薄暗い廊下を歩く。
なぜ、そうしたのだろう。どうせ、何もないはずなのに、漠然と、そうしないといけないような気がしている。みんなは、恐らく、上にいるのだろうし、ぼくが食堂を目指す理由なんて、見つからないのに。
ためらいなく扉を開ける。やっぱり、誰もいない。灯は消え、真っ暗だ。
「んー、と……」
することが、ない。やっぱり、みんなの元へ戻ろう、と思った。でも、落ち着く。わずかに残る倦怠感もあり、ずっとここでぼんやりしていたいような感覚にとらわれる。真っ暗で、誰もいない。
(──ああ、懐かしいなあ)
あの頃みたいで、少し、嬉しくなってきた。
「……あの子、大丈夫かな」
少女を思い浮かべる。別れる直前、小さく笑っていた。彼女の血や、傷口を見た。でも、やっぱり、何を思えばいいのかわからない。思わなくてもいいとまでは言わないが。
ただ『懐かしい』という感情だけが沸いていた。怪我をしたまつりを見たときより、更に強く。小さな子ども、というのが引っ掛かるのだろうか?
少なからず、ぼくは興奮している。もちろん性的なものではないが。
ぼくの記憶の中の《あるはずの何か》を、それがぐしゃぐしゃに掻き回す。頭の中に、何かが溢れる。生地にダマが出来た感じ、とか、そんなことを思った。
誰にも言えやしない。こんなの、おかしい。
もしかしたら少し、パニックになっているのかもしれない。こんな感覚は、あるはずがないのだ。
気持ちが鎮まるまで、もう少しだけ、ここにいよう。
暗闇の中、手探りで、テーブルに、手のひらをつく。
そういえば、ここで、食事をしたとき、いつもと、何かが、違ったような。不自然なはずな何かを、自然に行ってしまったような気がするのだが、ひっかかりはするものの、よくわからない。
まあ、気のせいだろう。
もともと、自分のことは、よくわからない。
フォークが床に転がった。うわ、とびっくりして、拾おうと思うが、場所がわからない。音からこの辺、というのがよく掴めないのだ。
目がなれてからにしよう、と落ち着きなおして、ぼくらが結局、なにしにここに来てるのかを考えることにした。
最初に考えるべきだった気もするが。
ぼんやりしていると、頭の中に、意図せずいろんな台詞が浮かんでくる。ずっと、これが苦手だった。でも、耳をふさぐことも、出来ない。
聞き慣れた音楽のように、ぐるぐると回り続ける。
不思議なもので、一度こんな体験をした、と思っていても、少ししてからある日、ふと違う視点からその記憶を起こせることに気付く。違う視点からは、全く違う解釈があり、良くも悪くも、結果が、当初思っていたものと正反対のことがある。
場合によっては、当時に関わっていた誰のことも、恐ろしくなり、信じられなくなってしまい、知り合いに会うたびに内心怯えることもあった。
事実はひとつ。でも、解釈は考えるたびに変わっていく。
昔見た映画や、小説を、再び読んだって、誰かの言葉や、自身の気づきで、昔とは印象が変わってしまう。
『その子……』
中に入ったとき、コウカさんは言った。ケイガちゃん(またはヒビキちゃん)は、びくついてまつりの後ろに隠れていて、まつりは表情を変えないで、説明した。
『……ふたごの姉を探してる、って言って、ある日、メールをくれました』
『――探してたのは、エイカなのね。私ではなくて』
どういう意味だろう、とぼくは思った。まつりは、冷たい目で、ぼくに聞いた。
『……うん、覚えて、ないかい?』
『そうだねぇ、何年前になるのかな?』
そう言って少し首を傾げる。後ろにいるケイガちゃんは、ぼんやりと床の敷石を見ていた。コウカさんは、堂々と、立っていた。
『――外にいた男の子がね、向かいにあるお屋敷から外に出ていたメイドさんを見つけて、何かを言われて、ついて行くんだ。メイドさんは、突然その子をさらったそうだ』
そして、メイドの彼女の心配そうな台詞が浮かぶ。
頭の中に、またしても芝生の庭が見えてきて、もういいよ、と言いたくなった。今は見たくない、あの家が見える。
『その子は、そのまましばらく家に帰らなかった。その子の親は激怒した。お屋敷の主人が、健康な男の子に恵まれなかったからと、跡を継ぐ者に悩んでいたのを、知っていたから、よりいっそう怪しんだ』
まつりは、そう解釈していた。しかし、それは、表向きの理由だ。
帰らなかったのは、確かにぼくの意思だ。いつだって抜け出せたのに、どうして、数日、留まっていたんだろう。居心地が良かっただろうか。
『逃げなさい。こんなところにいちゃ、だめよ』
こんなところ。あんな家。――彼女は、あの家自体が、嫌い?
『ここに隠れていたのは、あなたが、苦しんでいるからじゃないの?』
やめろ、ぼくは、苦しくなんかない。
『……いろいろ、あったからね』
『やめて! その人は……その人は、本当は、エイカを追い詰めた人物じゃない!』
『……エイカって、誰? 本当は、エイカっていうの? 《双子のお姉ちゃん》。ねぇ、《双子のお姉ちゃん》はどこ? あなた、双子のお姉ちゃんの妹?』
彼女がまだ、保育園にいるくらいのとき、エイカさんのことを、双子のお姉ちゃん、と慕っていた。
――その頃、コウカさんは囚われたり、いろいろとあったから、詳しくわからない?
――それが、何を意味する?
まつりは、それで何か手がかりが掴めるんなら、こんな役くらい請け負っても、安いと思っている。
それは、どんな情報だろう。
考えようとしていると、誰かの気配がして、ふと気を取られた。高速回想はいきなり終了する。
「――ここにいたんだね」
廊下の灯りがつく。
部屋がほんのり照らされ、突然、はっきりした声がぼくを呼んだ。なにかに納得するような言い方だった。
振り向くこともなく、ただ、正面で、机を挟んで向き合うようにして、ぼくと、その人は対面する。好奇心に輝く瞳は、ぼくを、これまでの知人として見ていないと、証明していた。
「まつり――」
「あは、呼び捨てにされるのは、久しぶりだ」
「……久し、ぶり?」
いや、さっきまで呼んでたぞ。
「――うんうん。きみを、探していたよ。まつりは、どうやら、きみを閉じ込めた人に、気付いていた。その人と会うために、ここに来ようとして、そして」
「ち、ちょっと待て、いきなり、そんなぺらぺら言われても」
「――この男が、そのとき、まつりを見つけたようでね」
くい、と親指で指されたのは、もう帰ったと思っていた、兄だった。まつりの背後で横たわっている。
服装は、Tシャツでも、派手な服でもなく、スーツ姿。なぜだか、縄で縛られて、眠らされている。抱えて来たのかと思ったが、廊下の方を見ると、奥に荷台が見えた。
「兄ちゃん……」
幼いときの言い方で思わず呼んでしまった。びっくりした。どうしたのかと聞こうとしたが、そんな雰囲気ではなかった。まつりは、うっすら笑って、吐き捨てるように言った。
「あーあ、過去のことを探っていたら、今のことが、わからなくなってきた。そして、とうとうこれだ。怖れていた事態なのに、いざなってみれば、情けないだけだな。
同じ失敗ばかりする。自分が間抜けだよ、本当に。よく考えたら、こんな風に、過去の自分しかしらないことも、あったのに。最初から人に頼りきりなのがよくなかったのかな。きみと、当初はどれだけ親密だったのか知らないが――」
何か、強いられているような、無理をしているような口調が辛そうで、一旦、呼吸を置いてもらおうと口を挟む。
「まつり、えっと……落ち着け、落ち着いて」
「なんだ、冷静だよ。笑えるくらいに、冷静だろ」
声がだんだん弱々しく震えていく。こんなことは、初めてで、どうしていいかわからない。
推測でしかないが、まつりが、誰かに会うと記憶が混ざっていくのは、その人との間の過去が自身の、記憶を結び付ける何らかに、関わるからだと思う。
昔のことを思い出したり、昔の人に関わるだけで、自身の記憶がさかのぼってしまうと、今までの経験から、思わなかったわけではないだろう。
考えていてもなお、知りたい、必要なことだった。だからこそ、まつりなりに、他にさまざまな予防線を張って、出来る限りの努力をしてきたのだと思う。
そしてきっとそれに、自信があった。
「忘れるのが、怖かった。今までは、こんなに、怖いと思ったことが、なかった。少しずつだったから、なかなか気付かなかった。気付いても少しなら大丈夫だと誤魔化した。でも――」
しゃがみこんだ背中はやけに小さく見える。後ろの兄は眠ったままで、それが際立った。
ぼくは、ただ突っ立って、なかなか、かける言葉もなく、ぼんやり、震えるそいつを見た。しばらく、互いに無言だった。
今の関係はただ、知り合いでありながら、ほとんど知らない人なのか?
以前の関係なら、何か気のきいたことが言えただろうか。
言葉じゃなくとも、どうにかする手段はぼくには浮かばなかった。
まつりは、弱っているときに関わられ、触れられるのが、特に嫌いだ。相手にそんなつもりがなくても、危害が加えられると思ってしまう。その性質だけは、今も変わらないと思われる。
そういえば、あの場所もそんな環境だった。落とされたら負けで、漬け込まれたら終わり。
大人や、周囲の触れ合いが示すのは、ほとんどが、警告、敵意、偽善のどれかだった。
もし今、ぼくに何かできるとするなら、ただ、淡白に切り替えることだけ。
「……ぼくを、探していたのは、なんで?」
「……ああ」
ぼくとは違い、求められれば一瞬で思考を切り替えられるまつりは、ぱっと顔を上げると、そうだったよね、と返事をして、すこし間を空け、考えた。
「……んー」
数秒後。
話は頭のなかで、まとめられたようだが切り出しかたに迷っているのか、まつりはやっぱりなかなか口を開かない。
どうかしたのかと、声をかけようとしていたら、立ち上がり、机のそばを回り、とたとたとこちら側に近寄ってきた。
「……んーとぉ」
そして、やっぱり考えた顔のまま(人によっては無表情に見えるかもしれない)、ぼくの頬に手を伸ばす。
「な、なに」
近い。やっぱり綺麗な目をしているが、何を考えているかは読めない。伸びてきた髪はふわふわと頬に当たる。痛い。今度切らせよう。
むに、と左手でぼくの口を摘まみ、それから、両手で、頬を引っ張り、すごく嫌そうなぼくの顔を2分ほど堪能すると、やっぱり少し納得したような顔をした。何に?
「きず」
ぺた、と首筋に左の手のひらが当たる。ぞわ、と恐怖でいっぱいになったが、必死に堪えた。
「あ、あの、痛いんですが……」
「んー……」
どうしても、とはいわないが、ぼくもまた、触れられるのは、どんな人にであれ、あまり楽しいものではなかった。
弱ったとき、無防備なときに触られるのは、卑怯だと、怖いと、思いたくなくても、思ってしまう。たぶん、これは、どうにもならない、本能的なものなのだ。
『彼』が居たこともあり、過去の出来事に、過敏になっているのも重なっているらしい。
顔が一瞬、外からはほとんど見えないくらいで、ひきつったが、紛らわそうと、とりあえず喋る。
「……傷、が、どうかしたか?」
「たしか、ここに、傷があった」
「……ああ、あの頃、罠かなんかに引っ掛かってさ、針金で首を擦ったことはあったっけ。傷になってたのかなあ」
「違う。狭い通路の」
「ああ、あのときの裏道か。そうそう、あのあと、枝が引っ掛かって、なかなか進めないし、血が出て止まんないから服が汚れるしで、大変だった」
ほかに何か言いかけて、やめた。代わりに、思い出だけを口にした。
「……ぼくは、あの日も、同じように、あの場所に、隠れていたっけ」
狭い壁を抜けたり、庭の植え込みをくぐり抜けたりする、今となると、若いから潜れたような道だ。狭いし、枝もあり、ぼんやりしていると、避けきれずに首を引っ掻くことがある。
まつりの家と、ぼくの家を繋いでいる中間地点。普段は、バレないため(植え込みを切られるわけにいかない)に、あまり使わないようにしていたが、隠れたいときや、近道したいときに使っていたと思う。放課後とかに。鞄を持って入れないので、家に置いてきていた。
「あの場所は、知ってる。たまに、きみがあの場所から来たときは、葉っぱがついていたり、首に傷を作っていた。そして、それを使う日の、大半に、あの男が、関わっていた」
手が離れ、やっと息がつける。くい、とまつりが視線を寄越したその男は、ただぐったり眠ったままだ。
「やっぱり知ってたんだ」
「……聞かない方が、いいと思って」
「うん。まあ。ありがとな」
素直に言ってみたが、まつりは俯いて、少しの間、ぼくから顔を逸らしていた。
<font size="4">18.答えあわせの問題</font>
──その、きず、について、先に言っておくけれど、と言って、その後一旦、まつりは、視線をぼくに戻した。
「いくら近いとはいえ、 通るたびに傷を作るような道を懲りずに使って来るのは、まつりには、とても不可解だったし、そういう日は、違う傷もあることが多かった。細かい変化にも、気付いてしまうし、なにより、わざとみたいに、すごく寒い日以外、真夏のような薄いシャツで歩いていたから、見易くてね。顔以外は服にギリギリ隠れる、なんて思っていたかもしれないが、そんなこともなかった」
「──で、なにが言いたい」
フォークをひろって置き直そうとしたぼくから、まつりがそれを奪い取る。
消毒しなおさないと、置いてはダメ、ということらしい。
「昔、ここに来たらしいその日、外に出て、会った彼に、うちの弟を知らない? と言われて、ああ、きみが恐れるのはこの人か、と納得がいったんだ。あの傷についてもいろいろ聞こうとしたんだ。でも、一旦、やめておいた。知らないというと、彼は言ったよ。『弟と、どんな関係なの?』って」
「うん、それで?」
「その言葉が……なぜだかひどく、恐ろしくて。そうだ、昔から、それが恐ろしいんだ……考えていくほど、わけが、わからなくなっていった。まつりは、あの家では、家族と言っても、少し……特殊な位置で、家族が、家族じゃないと知っているし、作られたものだと知っているから、えっと……」
「改めて考えてみると、情報が膨大で把握しきれないんじゃないのか?」
佳ノ宮まつりは、関係性、というのが嫌いだ。
ただ存在すれば良くて、見掛けならいくらでも、作れるのだという。
はたからみれば、それの存在のみ大事で、当事者以外にその真偽は見分けにくいともいった。
まつりに言わせれば、愛情でも、友情でも、ただ、その関係性を得る目的にばかり拘る人が多いらしい。
少なくとも、まつりの周囲はそうでしかなかった。
関係とは、権力にも武器にもなり、誰かを陥れる凶器になる。それが、まつりにとっての、関係性の醜さ。自ら、それを壊し続けるほどの、そう思わせる人間関係や、思い出が、あったのかもしれない。
「うん、それで、家族がよくわからなくなって……普通なら、きみの方を忘れるかと思ったのに、どうやら、家族の方が、混ざってしまった。きみのことを、それだけ、確かめたかったのかな、わからない」
「それで、一旦、家に? 」
ぼくが、詳しく語られなかった部分を、補足しておこうと、聞くと、まつりは、遠くを見るような目で言った。
「よく、わからない。……これはあの軟禁から、しばらく経ってからだったな」
視線が、合わない。
まつりは、なにかを思い出したのか、付け加えた。
「ああ、そうだ……そのときに、別れ際、あのヘアゴムをもらったよ。『ちょっと前にあの館に行ったときに見つけたものだけど、きみにあげる』って。なんであんなところに用があったのか、わからないが、とにかくパニックで、ひとまずポケットに収めて帰ったっけ。経緯はよく覚えてないが、チャラかったなあ」
うふふふ、と笑いだすが、ぼくには全く笑えやしない。
「……じゃあ、あそこに落としたのは、まつり?」
しかし、そうすると、部屋の中にも、既に落ちていたのはなぜだ?
「あの日持ってきていたのは、片方だけだよ。もらったのも、片方だ」
「片方ね……」
「その辺りも聞いておこうと、この男を引っ張ってきたわけだが、なぜ入ろうとしていたかは、聞けなかった。しかし防犯システムが働いてる感じだったから、中に入らなかったらしい。庭に落ちていたのを拾っただけだという」
「……なあ、そうだ、それだよ、兄は、大丈夫か?」
「ああ……大丈夫じゃないかな。ちょっと気絶してるだけだ。さて、入ってくれ」
まつりがふいに、ドアの向こう、ここからは見えない廊下に声をかけた。そこから、二つぶんの足音が聞こえ、コウカさんが入ってきた。
「えっと……」
色以外、全くおんなじ服装の……コウカさん、が、二人。
「ふた、二人……!? ドッペル……」
「いやー、疲れた疲れた!生きてるて思わせんの、難しいな」
水色のワンピースの彼女は高らかに笑う。
「ち、ちょっと、コウカ、静かに!」
白色のワンピースの彼女は、慌てたように隣の彼女をなだめる。しかし、彼女は聞かなかった。
「……エイカの役するの、結構難儀だったあー。でも、なかなか名演技だったろまつりん?」
「全ー然。記憶が浅かった彼女と、あまり人の違いがわからない彼じゃなかったら、とっくにツッコミを入れられてるよ」
うぐ、と、水色のワンピースのコウカさんは俯いた。まつりは表情を変えない。冷めた目は、どこか、呆れたようでもあった。
「あの……」
「私、コウカ」
「私もコウカ!」
二人が自己紹介する。同じ格好で並ばれると、似すぎて、はた目には違いがわからない。──っていうか、何でこのタイミングで告白するのだろう?
「でも漢字が違うのよ」
「だけど漢字が違うんで!」
同時に言われるが、どうしていいかわからず、目をぱちぱちと動かすぼくに、まつりだけは、やっぱり冷静に、彼女たちは双子で、さらに二人には、姉がいる。と告げた。
「あれは、エイカの自業自得なところも多かったし、きみには、結構、迷惑かけたね……」
「ああ! こいつもう、起きとるんじゃない?」
元気な方のコウカさんはぺしぺしと兄の頬を叩いた。よくみたら、腕が縛られている。
彼は、少しずつ目を開いた。良かった、無事らしい。……しかし、また目を閉じてしまった。眠いのかな。
「ぼくは……結局」
「あそこに、きみを入れれば、まつりが自然と、その辺りに誰も入らせないように配慮するだろう。きみだけは、なにか、贔屓していたようだしね」
まつりは、他人事のように言った。自分の行動も、感情も、今では実感がないように見える。
「そして、役目が終わったら、自然と解放するつもりだったのに、いつの間にか、逃げてしまったと知り、エイカは、それによって、様々なことが露見することを、恐れたの」
白いワンピースのコウカさんが言った。
「サイコロのこと、とかね」
まつりが、付け足す。
二人は、聞いてないというように、顔を見合せる。
「……サイコロ?」
「まつりがきみに、あげたんだろう? これ」
まつりが、自らのシャツのポケットから、まるっこいサイコロを取り出した。それは、懐かしい形だった。
「それ――いつも、部屋に置いてたけど……おまえのものじゃ、なかったのか?」
「違うよ」
「あ、あなた、そんなの、いつ――」
「やっぱり、あんたら、これが何か、知ってるんだ?」
「……まざー」
水色の彼女が、白い彼女を見る。彼女は首を傾けて苦笑する。
「知らない……」
視線が泳いでいた。
だがもう片方の彼女は、本当に知らないようだった。
「なあ……それが、これに、どう繋がるん?」
サイコロを顎でしゃくるようにして、水色の、ワンピースを着た方のコウカさんが聞く。(そういえば、同じような服が、どこにあったんだろう? そしてどうして、いつの間に着替えたんだろうか……)
不満を顔で表している。
「……彼女が、指示していたってことかな」
まつりの手元でサイコロが、跳ねる。感情のわからない声音だった。
「そうね」
彼女らのどちらかが、または、どちらもが答えた。まつりは、ぱちくりと目を見開いてみせただけだった。それから首を傾げた。
「ふうん……難しいな」
理解出来ない、と寂しそうな声だった。ふいに、ぼくに視線を向けられた。観察していたのがバレたのか、はたまた、さっきから何も言わないので、気にされたのか。
何か言うべきなのだろうか。
「……えっと」
と、言っても急には何も出てこない。
思わず顔に手をやると、傷に、ざら、と触れた。あまり良い感触ではない。鈍い音は、いつも、傷の記憶を呼び起こす。
「……どうした? なにか、辛いのか」
僅かな変化だったはずなのに、ぼくの顔色に気付いたまつりが、不安そうに聞いてきた。
「いや、そうだな……彼女が指示したと、ヒビキちゃんは、知ってるのかな」
「なぜ、それが気になる?」
答えなかった。
答えられなかった。
彼女の笑った顔を思い出した。彼女の怒った顔も、思い出した。
それから、なにか……
「なんで、かな」
ぼくは、ただそう呟いた。
<font size="5">19.審判の食卓</font>
彼、夏々都くんと、やけに元気がいい彼女が下に降りて居なくなってから、まつりは、残った方の私に会いに来た。部屋がノックされたと思ったらこれだ。そして冷たく、呼び掛けたのだった。
「──さて、と。やっと二人きりになれたね、コウカ」
──と。
それは、甘美なものではなく、むしろ、脅迫的な怖さを感じさせて、逃れても無駄という気がした。そういえば廊下ではすごい音がしていたが、あれは、なんだったのだろう?
──いろいろと考えながらも、私は出来るだけ平静を装って挨拶し、迎え入れる。
所詮は、子どもなのだから、びくびくするのはみっともないようで、しかし本音を言えば、怖かった。
「あら、そうね、ゆっくりお話する? いつかの、出来損ないのおちびさん。久しぶり」
なぜだか、不安で、仕方がない。それこそ大人げないことだったが、小バカにするように、笑ってやった。半ば当て付けだ。しかし、本人は、そういうものには既に慣れてしまっていたらしい。眉ひとつ動かさずに、ただ、微かに笑って応えてから、言った。
「──なるほどね。非常識で失礼な人間だという認識と事実を、今後のために受け取っておくよ」
冷静な対応だ。そういう人はいるよね、とでも言いそうな、冷めた態度。
いったい、なんなのだ、この子は。
「──あはははっ、それは結構だわ。素敵素敵。どうやら私、今まであなたを、見くびっていたみたい。お屋敷の隅っこで、いつも、血にまみれた気味の悪い遊びをしていた、ただのガキだと思っていたもの」
「ふふふ、そう。気が合うね! こそこそと、百恵おばあさまの動向を探っていたストーカーが言うことは、やっぱり説得力が違うよ」
互いに穏やかな笑顔だったが、場の空気はギリギリまで緊張していて、いつ、どちらかがキレてもおかしくないようだった。しかし、その点でもまた、先に出た方が負けだと、たぶん、互いが理解出来ている。
──だから、私もなるべく押さえていたはずだったのに。早くも耐えられなくなり、つい、叫んでしまった。
「言うじゃない。気に入らない、気に入らない、気に入らない!」
思わず、しまった、という顔をした私に、まつりは気分を良くしたのか、にこにこと笑いかけた。
「ふうん。でもまつりは、あなたのそういうところが気に入ったんだぁ。だから、遊んであげてるんだし」
信じられない。楽しそうに、上着の裾を握りしめて、私にそんなことを言う。
「遊ぶ? ふざけないで。怒るわよ。人をおもちゃみたいに」
おもちゃみたいに。
──そう言ったら、なんだか、本当にそれがしっくりくるように、思えてきた。
本人には、本当にそうだったのかもしれない。悪気なく、人を、私を、周りを。そうでしか見られなかったのではないか。きっと『生きるためには愛されなければならない』とか、そういったものの意味を、どこかで踏み違えてきたのだ。
だから、好意も、悪意も、ただ利用し、遊ぶためには、ちょうどいい、都合のいい感情で、何か現象のごまかしでしかない。しかしそれは同時に、飽きれば無意味で、さっさと断ち切る。そうだ、きっと、そういう風に考えるような子なのだ。
──そう、思って、いたいのに。
今度は返事に少し、間があって、なにかを抑え、平静を保つような声が紡がれた。
「……ふざけないなんて、不可能だよ。こうして生きていられること自体が、まつりにとっては、もう悪ふざけみたいなんだから」
(──あれ。今、一度だけ目を、伏せた)
どこか、自虐的な、寂しいような感情が、一瞬見え隠れしたようで、ほんのわずかだけ、動揺してしまう。
──だが、やはり面白がるための罠かもしれないし……そう、これは冷酷な、ただの、化け物なんだから、落ち着かなくては。
「そうだ、私が、幸せなところに送ってあげようか?」
優しく、聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「お客様が向こうでたくさん待機してるから、変な動きはやめた方がいいよ」
なんだ、気のせいかと、安心する。そう、安心……私は、なぜ、安心なんてしているんだろう?
──同じ、人間なのだと、考えるのが、怖い?
こんな風に、育ってしまった子どもが。
「あら、ご忠告ありがとう」
私の精一杯の皮肉を、いえいえ、と、適当にかわしてから、まつりは言った。
まるで、遠くを見るように。
「……コウカは、一人で充分なんだ。だから、選んでるんだよ。やっぱり本物を呼んできたら、偽物には不都合だったかなぁ? でも、本物のコウカは、本気で同じ名前の人だと思ってるから、安心していいよ。きみの本当の目的は、彼女にはバレないはずだ。主人のためなら嘘でも信じちゃうからね。可愛いでしょ」
「……安心? あなたがやることに、安心なんてあった?」
「彼女は、冤罪ーってことで、小屋から出してもらっているんだ。その時点でまつりを信用しているし、きみは、彼女に《ちゃんと》似ているし、双子を演じられたら、代わりに偽物を、本人だよって、渡す話を無理矢理通してきているから、絶対にその通りに仲良くしてくれるよ。そこは大丈夫」
「待って、偽物って……あなたまさか!」
思わず聞いたが、佳ノ宮まつりは薄く笑っただけで、忙しいから、と部屋を出ていったのだった。
□
すっかり、時刻は昼になり始めていた。軽く朝食を取り、食堂に倒れている男を、ぼくはじっと見ている。
ここまでを振り返ってみれば、突然眠くなって、起きて戻ってきて……あれ?
なにかが、抜けている気もするけど、とにかく食堂に行ったらまつりと兄に出会って、二人のコウカさんに会って、という流れだ。
彼は一度起きたのだが、また眠ってしまっていた。
「──ん……」
水の入ったグラスを持って、見下ろしていたら、倒れた男が、ふと身動きしたので、グラスを差し出す。
「ああ、水か……悪い」
ぼくから水を受けとった兄は、何も躊躇わずにそれを口に含んでいた。よく、まあ信頼されていたものだと思う。
それとも、ぼくが何も入れたりしないと、侮っているか、油断しているのか。──過去を持ち出しても、良いことは何一つないのだと、それだけは確かだが。ちなみに、渡したグラスは、夕飯のときから出してあった、手付かずのものだ。水はさっき入れた。
「なぁちゃん、大きくなったな」
廊下に横たわったままの兄は、グラスを床に置くと、そう言って、微笑んだ。
「──また、偽者?」
ぼくは、当然わかっている、というように冷たく聞いた。
スーツなんて、らしくないものを着て。きっとやっぱり、こいつも、偽者だ。
だって、そうじゃないと──
「ああ、お前、やっぱり、まだ、人を、判別出来ないんだな」
納得したような顔をされて、ぼくは戸惑う。
「偽者だろ? そうだろ、みんなして、からかってるんだろ?」
「……俺が、お前の兄じゃないって、思うか?」
「わからないよ……」
優しい目をしていた。
だから、わからない。最初、車に乗っていた《あの彼》と同じ目をしている。人は変わる。
だからこそ、一番最初に作った自己基準に、いつまでもしがみついているぼくには――その変化に気付けない。
数年前の教科書にしか載って無いような――終わったことなのだと、認められない。
それが、変わる?今さら、揺るがないと、思っていたのに。常に変わらない、空気みたいな立場に、間違った安心を抱くようになっていたぼくは、こいつに敵と見なされて生きるのだと、信じていたのに。裏切られた、気分だった。
「――わからない、わからないよ、お前は、誰だよ!」
「なぁちゃん……ナナト。お前は、朝からずっと……何をそんなに怒ってるんだ? 俺が、何かしたのか。実験のことか? あれは、ちょっとやりすぎたやつもあったけどさ、そんな今更」
「――あ、ようやく起きたようだね」
足音がして、振り返ると、まつりが後ろから歩いてきていた。手に持っているのは、2メートルはある、細い縄だった。なぜ、縄なのだろう?
ちなみにコウカさんたちは、二人で話したいことがあるようで、ただいまどこかに行っている。
「……目の前で、縄なんか持ってきて、すまない」
まつりがそう言って、ぼくを見た。だから、少しだけ、それにほっとする。
「……いや……えっと、何するんだ?」
「決まってるだろ、昔のようにあの日《この場所》で待っていたこいつが、やったことを、懺悔させてやるんだ」
パッと話が繋がらない。
ぼくは目をぱちぱちと動かして、それから、兄を見た。笑っていた。馬鹿じゃないか、とでも言いたげだった。
「ははっ、馬鹿じゃないの。証拠があるのか?」
兄は、余裕の表情で、聞いた。
「ああ、証拠ね、ちょっと、調べてもらうのに時間がかかったけど、手紙の指紋が、あなたと一致した。調査報告書のコピーがこれだ」
まつりは、眉ひとつ動かさなかった。カーディガンの内ポケットから、無表情で、畳んだ紙を見せた。まるで、使命が終わるまで、とでもいうように。冷たい目をして。
「それから今、少し出ているが、証言者もいる。当時、彼女のことを知って、あなたを止めに、あそこに来ていたようだね」
「ふーん、で?」
「これが、ここで出てくるんだ。ちょっと捻ってから、コードを、繋げる……」
いつの間にか、足元に置かれていたパソコンとサイコロとを繋ぎ、まつりがカタカタと、少しキーボードを操作する。
0
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