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しおりを挟む大抵はこんな愚痴を聞いても、そうだよなというよりは、何様としか感じないだろうから。と彼女は笑うしかなさそうらしかった。
いまだ、この国にも身分が違うならなんでも捧げる文化は残っていたのかという気持ちにもなる。
「まだ、何かあった? ヒントにもなるかもしれないから」
僕が言うと苦々しそうに顔を歪めた。
「友人が……同じバイト先の人に絡まれていたと。
私の方でも、絡まれたというわけじゃないけれど、不自然な会話があったりして。辞めたくはないけれど正直かなりストレスで」
「どんな?」
「若い、新入りの方です。本が好きだとかいきなり言い出すんです」
「よくあるじゃないか」
「ケーキ屋には無関係です。本屋ならともかく」
「それで」
「その話をしたと思えば、何歳なのか、付き合っている人が居るか、結婚するのか、出身はどこかと、会う度に質問が来て」
「それで」
「特に結婚の辺りにはしつこく付いてきては、居る?居ない? と。
こんな人、今まで居なかったからこれだけでもわからなかったけど」
「会話は得意でないのか」
「ええ……いい切り返しもうまくいかず、かといって丁寧に語って聞かせるわけにもいかなくて」
「それはいつから」
「盗作がどうとか明らかに変な噂を流されて少ししたときからです」
「一番何が嫌なんだ?」
「ささやいてくる」
「囁く?」
「まるで妖精みたいだね、まるで○○だね、と私がよくつかうモチーフを台詞として先回りするように、何かがあるごとにわざわざ言うんですが、気持ち悪くて」
「まぁ。何か知っているのだろうね」
チョコレートを突き返していたことからも、うかがえたが、彼女を煽っていると言うよりそれはむしろ、疲弊させていたのだろう。
「それで」
そこで彼女は一呼吸置いた。
「じっと目を見て、わざわざ微笑んだり、息が触れそうな壁際くらいで近づいたり」
「そういうシチュエーションがあるではないか」
「私は、ああいうの寒気がするんです」
「見た目は」
キリエが聞いたが、彼女はノーコメントだった。
「『あの事件の報道』が流れてからは、急にこちらを見下したような態度を取るようになりました」
「というと」
「『今度はちゃんとやれ』とか『計算を間違えたのか?』とか、ぼそっとすれちがい様に呟いてくる。
本当は、あの報道が関係しているのかは気にしていた部分もあったから、何かあったらお前のせいだ、って始終聞かされてるようなもんです」
どこにも味方が居ない中で、そんなことを直接囁きに来るのだから、それは醜悪にも思うだろう。
「そうか……」
僕はだけどそれだけしか言えなかった。
「ちゃんとやるもなにも、私は私のことでいっぱいで。どうして関わったかのように言われなきゃならないのか」
キリエはしばらく黙って聞いていたがふと「そんなに恋人が気になっていたんでしょうか」と言った。
「でも中々、聞けませんよね」
ふふっと笑う。
僕はアイスを黙って口に含む。ひんやりした甘さが美味しい。
「そして私が熱を出した日には同じように休んでいることが多くて」
彼女もアイスを頬張りながら言う。
「毎回ではない?」
「毎回では無いですが。でも会うといつも睨んでいます。『お前のせいだ』って感じ。
休むのも、怪我をするのも散髪するのもテストを受けるのも、私のせいだと言われてるみたいな、変な感じ」
スプーンを動かしてまたアイスの山を崩しながら言う。
「つまり、なんだか予定を合わせているようであるし、ことあるごとに睨まれたり、遠回しにせめてこられる、と」
「なんだか、あからさま過ぎて、こちらが変な気を遣ってしまいます……
何かを探られてるんですかね?」
「そうだろうな」
小さなため息が漏れる。
この部屋は、テレビをつけていない。誰かがしゃべらなければ部屋を静寂が包む。
ちなみに後々にあれらはどうかと聞いた際、彼女は番組そのものより、公共の電波で特定に向けるようなことをするのは如何かと思うと言っていた。
もし、優しいような内容でそれだとしたって、別にそこまでして何か伝えて欲しいとは感じないし、自力で立ち上がれるからだという。
「悲しいイメージを周りまで押し付けるから、嫌になって何も言えなくなるので」
「引きずられるなよ」
「ありがとうございます」
「きみは、はっきりしているのか、してないのかわからないな」
「ストレスが溜まっているときだけ、少し語気が強くなるみたいですが。
それほど普段は他人に腹が立たないので。つい、憧れてしまうんです」
「憧れ?」
「はきはきと言うことに。怒りでも無いと普段はさりげなくにさえ勇気が必要だから、ついにこにこしてしまって」
「それでいいのでは」
キリエが言う。
彼女は曖昧に笑った。
「うーん。でもね、文字だけだと、好きに感情が出せる。そんなところもあって、私は読むよりも断然書く方が好きなの!」
解放感があるからだと、彼女は、楽しそうにした。
「他人の言葉でも、共感はできるんだけれど、自分自身の言葉を使うともっと、元気になれる気がするから」
「読むだけでは足りなくなったということ?」
「うーん。どちらも好きだけれど、二つとも体感したかったんだ」
夜、布団の中で夢をみた。
何かされたくない。
何もされたくない。
僕はひたすらに、そればかり唱えていた。
大切なあらゆるものを失ったあとで、聞かされた言葉は「欲しいものはあるか」だったように思う。
眠らせてくれと、頼んだ。すると、連中はそれを嘲笑った。
僕にはもう生きていき守りたいものがほとんど無かった。だからこそ、辛かったのだと思うし、今もあまり意味なく生きている。
奪われたものに比べれば、僕の意義はちっぽけだったから、お前らが僕の目の前から見えなくなれと言った。
唯一欲しいものはそれくらいだった。
懇願はしかし届かず、また嘲笑が響いた。
こいつらは、都合のよい欲しいものしか与えないのに、聞いたのだ。
そうとしか考えられなかった。
「欲しいものはあるか」
お前らが奪った今までのすべて何もかもを返して目の前から居なくなれ。そう思うというのに、連中はそっと肩を叩き「辛いなら励ますよ」などと笑った。
馬鹿にしている。
励ましで飯が食えるのか、世界が救われるのか、扮装が消えるのか、あの子が、返ってくるのか。そんなものが僕は欲しいわけではない。
だったら最初からなにもかも気のせいだった方がマシだ。世界をまるごと気のせいにしてほしかった。
「相談には乗るよ」
今更乗られる相談などないのに、そんなふうにおちょくられるから、僕はうんざりした。
、人の繋がりだのを説くときはまずそれに説得力を感じている相手にそうすべきだが、感じもしない相手にいくら説こうが、逆なでもいいところだ。
寝ている横で、そんな声がしてうっすら意識が覚醒する。キッチンのそばで彼女が皿を拭きながら呟いていた。
「一生関わらないことが出来るようになればいいんだけどな……どうせ身分も違うから、こちらが下々として真剣にお願いしないといけないのかもしれないけど。
趣旨も違う。二度とは、お会いしたくはないと思うし」
誰も聞かれないところで呟いていることが気晴らしなのだろう。
機械にも侵入されるかもしれないし、原稿は無くなるので、こういった空間だけが束の間の安心だったのかもしれない。
「公に嘘を吐かれたからには同じように、公に認めて欲しいのかな。
一度認めれば、追及しやすいし親戚や知り合いの誤解ももうずっと無くて済むから安心できる。
ただ、いくら謝られてもあんまり気が晴れないもの。
許しは乞わないで欲しいし……
無くなったものは無くなったのだから、せめて、そうするしか」
誤解は解いて欲しいが、終わったことにされたくはないのだろうと、僕は改めて思い直した。
そういった話を以前見た気がする。
事故の被害者が、賠償金を渡されたものの、それからの相手の態度は冷たかったという話だった。『終わったこと』になるのは、いつだって恐ろしいものだ。
まあ、どころか解決の糸口がつかめてないわけだが。
「それで」
僕が呟く。
彼女はやや驚いた。
「あ、おはようございます……」
「おはよう」
「聞こえましたか」
「同じ部屋だからな。聞こえてしまった。許しを乞うためではなく、周りに本人の口から説明して欲しいと?」
「解決することがあったら、なんですけどね……」
ハハ、と彼女は力なく笑う
「きみは案外厳しいな。なかなか気に入るよ」
「あれだけ懲りない人ですし。私もキツく言いたいわけではないですが、そうでもしないと、悪びれない気がするんです」
「確かに。うまいこと言ってケロッとしそうな感じはする」
「原稿全部が部屋からなくなるというのは明らかに異様です」
「部屋に入った証明は難しい。だが手元にあるのに関わりがないというのも不思議な話になるな」
「バックアップも残さないんですよ」
「それはできたはずだよな、完全に持ち出すことは無い」
「何がどう転ぼうが、戻らないんです」
「戻らないものもある」
「書いているというだけで良かった。でも部屋に置いててそれを盗まれて売られていたって、誰も気づいてくれない……」
「そうだな」
「部屋にあれば取られないなんて、思い込みかもしれない。実は誰かが搾取しているかもしれない。
なのに、自分の作ったものが傷つくのに、今までなんの関心ももっていなかった」
「あぁ」
「虐待を無視しているようなものだったと思った」
「ブログの内容は」
「あそこ自体がある意味『居場所』になってもいますから。大事にしています」
「似通った話が、売られたが」
「考えたくないですね……許せないから」
「そうか」
「プロになる気が無いのにと誤解されているんですが、それは、ちょっぴり違います。
ただ、あの場所にはこんな風に怖い人が居るから」
ちらりと部屋の隅に置かれてた、僕らの借りた本山を見て彼女は微笑んだ。
「成る程」
確かに物理的にもわかる証明な気がする。
「大事なものを預けたい気には、ならなくて。
それだけで壊れてしまうと思った。書くのが好きだからこそ、自分で大事にした方が幸せ」
「昔から?」
「最初は、夢を見ていたときもありました。
ただ最近のネットとかでは怖い噂が沢山あると聞いて。
そう……大人になるにつれて、わざわざそうするのが怖くなって」
「でも、その結果利用されて、大事にできてないのでは。結果酷い虐待に巻き込んでしまうのは、嫌なんです」
しゃがみこんだ彼女はそう言って、寂しげに笑った。
※※
ちなみに、この事件はあれから随分と経ってもなお未だに終わらない。これを記録してまとめて終わるはずだったそれだが……
まだ当の作者の執着とやらが、続いているからという後味の悪さを残していたりする。
これを書きあげるころには関わりというものを断ってもらえるのだろうかというのは、僕にはいまのところわからないが、このファイルが分厚くなるのは、恐らくそれ次第でもあったりする。
別にサイト内容というもの自体を晒すもの(大抵の場所ではマナー違反とされている)を、改編して商品にして広めたわけでも、批難自体を目的にしているのでもない。
単に『簡略的に』、なるべくは
そのままのことを綴るのが当ファイルの目的だ。
都合上いくらかは省いてあるのだが、それなりには忠実らしいものとして、再発防止を願っている。
盗聴やら持ち出されず、適度に監視されて安定的に記録とするには、こうして、今のようにして綴る形にしなければならなかった。立場的不利による相手方の畏怖を利用して財物上の利益を得ようとしている相手から責められる状態というのは、とても厄介だった。
……ちなみにこれは恐喝罪の文章「らしい雰囲気」にしてみたのだけれど、大体そういった感じだ。
彼女は利益らしい利益をもらっていないにも関わらず、立場だけが同じという状態だし、存在を利用されるかのようになっている。
市場販売をしていないのをいいことに、出回っていないものならと解釈し、一方的に『利益の損失』と騒がれるという不平等さと戦うくらいならば、いっそ関わりをやめて欲しいというのもうなずける話だ。
矛盾したことをしながらも利用している辺りに、救いようがなかった。
昼。キリエと少女は、謎の意気投合をして、買ってきた各社の新聞を眺めていた。
「詐欺と恐喝の狭間だ」
「詐欺と恐喝の狭間だね」
えげつない狭間の中で、もはや笑うしかないのだろう。
「被害者を探したい。
一人でも多く助かって欲しいし、存在が他にもいることが、力になる」
「確証はあるのか」
僕が言うと彼女はたしかかはわからないけど、とパソコンの検索結果を表示させた。
――編集者に○○っぽい雰囲気と判断されたものは、潰されるらしいよ。
どこかの書き込みらしい。
○○というのは、いろんな作風で、様々なものを書くという凄腕の作家だった。
「なんだこれ」
「見向きもしない、じゃなくて、具体的にかかれるものなのかな……」
そのページ自体はログイン出来なかった。
「もし、逆だったら」
キリエが苦しそうに呻く。作風にするために、消されていたら……
ちらりと、奥にある窓の外に映る印刷会社の名が書いた車が走り去るのを見届けてから、僕はカーテンを閉める。
それには、特には意味は無かった。
「昼食は何にする」
悩むのもいいが、腹は減る。僕は努めて明るく聞いた。
「カレーで」
「私もそれ」
「わかった。ご飯を炊き忘れたからそうめんでいいな」
いいか、だとしまらないから、決定しておく。
異論は上がらなかったので、戸棚からそうめんを取り出して鍋に入れて、まな板を出して野菜を切る。手伝うと言われたので二人にそのまま野菜を切らせる間に、ぼくは米を洗って、炊飯器にセットしてからそうめんを見守った。
出来立てのそうめんにカレーをかけて食べながら、僕らは特には会話をしなかった。
「ついてる」
キリエの頬についていたカレーを指で拭うと、なんだか嬉しそうだと言われた。そうだろうか?
「なんか、慈しむような優しい目をしてるから」
「なにをいってる、きもちわるい」
僕が言うと、そうかなあと首を傾げる。
彼女はくすっと笑った。
「いつも横で寝ているときでさえ、冷たいのに」
「誤解を招くな」
キリエが真顔で言うので僕はあきれる。
窓の外は何やら工事を始めて騒がしくなっていた。
このマンションは8階建てなのだけれど、僕らは地上にそれなりには近い4階辺りに居て、窓からの景色というのもそこそこ高めくらいに見渡せるが。
「最近、多いですよね……」
彼女がぼやく。キリエもたしかにと言った。
あちこちに、高い建造物が建たんとしていてなんだか忙しない。
同時に、そうめんをすすりながら案外美味しいかもしれないと思う。
「あ、牛乳っと……」
キリエは冷蔵庫から牛乳を出してグラスに注ぎ始める。身長を気にしているらしい。
「そうめんと食べるのか」
「やだな、別腹ですよ」
別腹?
僕が絶句していると好き嫌いをするとだめだと言われた。
「チーズは好きだぞ。バターも。牛乳だってカフェオレなら飲む」
近くにおいていた粉チーズをカレーに沢山かけてから、箸でつまむ。ヨーグルトも平気だし思えば苦手な乳製品は牛乳くらいだから不思議なものだった。
そういえば家族や友人は皆平気なのに、僕だけはこうだというのがなんだかむなしくなる。
ちなみに、炭酸というやつも苦手だ。
キリエはぐいぐいと美味しそうに牛乳を飲み干す。少女はしずかにカレーを食べて、おいしいですねと笑った。
と、雰囲気を壊すかのように携帯に電話が来たので、速攻で切った。
「誰からでしたか」
「昔の依頼者」
「なぜ切ったんです」
「仕事程度の関わりしかないのに、作品の話をしてくるから嫌いなんだ」
「多少の縁では」
「言い換えよう、知らせても伝えてもいない仕事の話を、わざわざ裏から探って媚びてくる人間にろくなのはいない」
「それは、まあ」
「そんなのが最近たまにあるんだよ。姑息なこともだが、基本的に割りきれない人間は嫌だな。あれもこれもと勢いで面倒を押し付けたいに決まっている」
きみも気を付けろと少女に言うと、わかりましたとしっかり答えた。
「ぐだぐださせてはだめなんだ。漬け込まれたら引きずられる」
「はい」
「弱みがあるではなく、脅迫されているんだからな」
「はい……なんだか、実感がこもってます?」
「気のせいだよ」
と。
窓を開けていたときのなのか、部屋に、ひらりと揚羽蝶が入ってきた。
「うわ」
ぱたぱたと飛んでくるから僕は机のしたに避難する。
その間に誰かが逃がしたらしい。
「びっくりした……」
机から出てくると、キリエが苦手なんですかと聞いたが、僕はしばらく黙った。
「昔から映像をじっと見ているのも、ぱたぱたと動く羽を見るのも、好きじゃないんだ」
理由はわからないが、寒気がするときや、妙な違和感を覚えるときがある。秒針を見ているとふと時間が止まったみたいな錯誤が起きる場合というのがあるが、あんなものだろう。
つるりとした床に映る自分が妙に情けない気がした。
ものがあまりないから、空間が目立つな、なんて思っていたらキリエが聞いた。
「この部屋にはそういえば、本やら物があんまりないですよね。何か、資料とかは?」
「借りれば足りるならわざわざ買わない。部屋が狭くなるし金がかかる」
ちなみに、古本屋はその中間らしき雰囲気があるが、この辺りではやや遠くにあるせいで僕は滅多に足自体が向かない。
それと値段だけで気軽に買い、中途半端に部屋を狭くする要因は増やしたくないという変な部分の潔癖がある。
「手元に置きたいってときは?」
「買うけれどそれは滅多にない。大抵が深く趣味というのではないし」
どれだけ省エネなんですかと言われたが、僕には普通のことで、首をかしげた。
「極力無駄に買い物に出歩きたくない」
僕は新聞や月刊、週刊雑誌も部屋を狭くするからと普段は買わないので、この前の買い出しで新聞を買ったのは気まぐれだった。
「作る側だったときは、なるべく内容をお得なパックみたいに詰めていたものだよ」
「質量の話ですか」
「ぱらっと読んで把握出来たら、つれない僕なら、読み返したい要素でもせめてないと、買わないからな」
他人は気にしないといっても、その点には怯えてたんだよと僕は苦笑した。
「確かに、詰めてる感じがしますね」
昔のそれ、を思い返してか、キリエがうなずく。
「まぁ、あと、目の前の食費の方が大事だからな」
「確かに、何かと食べますね……」
悲しみや不幸ではなくネタなんだと考えて、そうやって自分と痛みを切り離してきたものが、創作のひとつの顔でもあるような気がする。
だからこそ重みや説得力を持たせられる部分も生まれるだろう。
だからこそ、これもまたそうやって切り離すためのものだ。
だからこそ『感情への暴力』が、真っ先に『何』を破壊したのかが、わかろうという気がする。
なりたくなかったもの、見たくないものを、無理矢理捩じ込まれた心は麻痺するしかなくなってしまう。
食事後、眠くなったのか疲れていたのか少女はそのまま場に踞ると、眠ってしまった。
「生きているか?」
軽く声をかけてみるが、届いては居ないようだ。無理に起こすこともないので、ソファーにつれていって寝かせた。
「以前、『ずっと、あの場所にいたかった』と言っているのを聞きました」
「あぁ」
「でも、それを違う人に利用されるのは……聞いていてくれた沢山の人から作者ではない、と嘘つきだと呼ばれるのは
、何より嫌だ、と」
大事にしていた空間から何よりも、築いた当人たちが弾かれるくらいなら。
「あぁ。ただ隠れていたらそれをいいことに利用されるだろう。予感がしていたのかもしれない」
僕が、ぽつりとこぼすとキリエが不思議そうに繰り返す。
「予感?」
「一番大事なものさえ、誰かが狙っているかもしれないという予感だよ」
「それは」
「不思議に思わなかったか。どうして彼女はそれを並べたままにしたか。
どうして、気付いていたのに自ら引いていた?
読むより書く方が好きだということは、よっぽど自分のこだわりを、何より大事にしているんだ。それを汚されているのがどれだけストレスだと思う」
「あのピアニストの話、ですか」
「あれだけは、深層心理だったのではないかな。
影響を受けていそうなものはこれまでも見ていたと言っただろう?
しかし中でも、さすがにというのがあったのでは」
他のもいくらかは読んだが、と僕は続ける。
「決めつけてはよくないです」
「僕が思うに、あまりにストレスだったから、早く忘れたかった。持つだけでも苦痛だったから手放した――あるいは」
「あるいは、別物としてどうにか割りきろうとした」
彼女がソファから顔だけ起こして僕に言った。
「さあ、どうでしょう。でも、内情はどうか秘密にしておいてください。人の気持ちを言葉にしきれるなんて烏滸がましいと、貴方もご存じのはず」
「そうだね、失礼なことをして申し訳ない」
「いえ……ただ私は別に有名になりたいわけじゃなかった。
それは信じてください」
「信じるさ」
常に見張られて、盗難や騒がれるのに怯えながら続けなければならないのに、それを企業ではなく個人で痛みを抱えるというのがわりに合わなくなってしまったというのも大きいはずだ。
『あそこまでできる』ような何かが存在するのに、一人で怯えなければならない人というのが、恐らくこれまでに何人もいたのだろう。
心のどこかで上がらない悲鳴が蓄積していたのかもしれない。
『助けて』
僕がふと気づくときには、彼女はまた眠っていた。
「企業などへの不信感に、明らかに勝ってしまう程の質量を持つ痛みが、
どうしようもなくなり
こういった誰かを動かしてしまったのかもしれないですね」
キリエが哀しげにいいながら、少女に毛布をかけた。
「大事な場所なのに、だからこそ、か」
僕はやりきれなくなった。
「得してる、という人もいるだろうが、きっと、してないよ」
名なんて売りたくなかっただろうし、だったら最初からしていたはず。
けれど、それを悪用する輩がいる。
それが事態をややこしくさせたのだった。
「ええ。死んだ方がマシな気さえしていたんだ。そんな相手が、有名になることを喜んだわけがない」
『痛み』を晒され、他人の興味で好きに掻き回され、見せつけられる。
それを望んでいたなら、傷ついたりせず、身を引いたりしないだろう。
「その場所自体への不信感もより大きいものへと変わっているだろうな」
語れば語るほどやりきれない。そんな場所と向き合おうとするのはやはり、強くありたいからなのだろうし、偽られたくないからなのだろう。
とうぜん、兄とやら(恐らく)にも知らせていない。
ある意味、ふたたび生きることが始まったのだ。
僕たちは、部屋にいて、僕はつくりかけていた石膏像の続きをしていたし、キリエは部屋を掃除していた。
掃除くらい後でするというのに、信頼出来ないのかやたらと細かくきれいにしてくれる。
「知り合いの誰にも姿がわからない場所があるというのは、それだけでとても安らげるものだ。
もう一度、作り続ける決心がついてよかったな」
僕は、ナイフをがりがりと白い肌に動かして言っていた。
それが晒されたのは、勿論そのわずか、数日後だった。
朝から明と通話をしていた。だが、特に気分がどうとなることは無かった。
「……明?」
「どうしたの」
「いや。やめて欲しいという気持ちを踏みにじってまで、好きでいようとする男はどう思う」
「どうもなにも」
「身内だったら」
「家族って、そういうものよ。傷つけてでも繋がりを持ちたい、そんな枷でもある」
「僕にはわからん。なにも」
「でも、まぁ増えたわね」
有志とやらの数は、明によるとさらに増えたらしい。少数の自由を犠牲に。
「公開されたな」
「あれは、意図的?」
「いいや。そのつもりさえ無かったものだよ」
「そう……」
薄々、わかって来たようで彼女には笑顔が増えていたらしい。少なくとも、たまに会うときにも明るい話しかしなくなっていた。
どこに居て、何をしていても、笑うようになり、ブログの内容も比較的明るいものになっていた。
意思などなく、逃げ場などないから道具になるしかなかった。
元気になった、と考えた世間のごく僅かな場所では、喜びの色が見え始めていた。
「持ち物に名前をかけとは、どういう意味だったんですか」
キリエは、朝食用にスープをかき混ぜながら、通話を終えた僕に聞く。
「あぁ。切り離せない箇所をつくっておけという意味さ。その人と、文章自体を繋ぐような」
「なるほど。例えば日付や時刻などもですか」
「そうだな……僕はたまに、差し支えないあたりに実際の書き始めた時刻を描写に入れたりしてた。冒頭とか」
「冒頭の数字なら、話には深く差し支えませんね」
外には合唱団が居るようで、朝から複数がわーわーと歌っている。
町中なものだから、ここは日本のはずだがと一瞬錯誤しかける。
「難しいようなら、僕もゲスト出演してもいいと、言っておいたよ。
そしてそれぞれに次巻が販売されたなら、各方面からはっきりと証明してやると」
「いっ……え?」
「あぁ。その友人とやらのものに」
わずかでも繋がりを作ることで、多方面に証人ができる。
「いつのまに!」
「まぁ言うだけタダだからな」
やっても良かったが、極力なら無意味には出ない。ここで挟むのも今更になるのだが、僕の知る範囲と彼女の知る範囲、そして周りの知る範囲にはずれがあることはのべておきたい。
どこかから見れば良いことで、どこかでは苦痛であったり、その逆だったりとしている結果になるのだと思う。
孤独に生きてきた人間にとって、
『自己完結した世界』に、
恐怖など周りの干渉のみだ。
それ以外の感情というものは善意悪意関係なく、
毒素になりやすいというその証明でもある。
それに満たされてしまったからには一人でも死にきれず、複数でも生ききれない『何か』に成り下がるしかない。
――ただ、何でも知ることができたわけではないため実際にはわからない部分も多く、僕も根本の当事者には話を聞きたい。
そして、どれだけの何が変わって、何が救われたのかという話もいずれ、伝えられればいいのだが……
その頃というのは、未だあらゆる対抗姿勢が続いていた。
「沢山、応援をいただきました」
と、少女が訪ねてきて、友人が応援しているとくれたお菓子を僕らにもわけてくれりもした。
作品には何かとお菓子が出ていたので、応援も、それを思い出すようなものばかりだった。
思い出すというのは、つまり、全く意識には休む暇が無いということだが、優しさとはそういうものだ。
「フラッシュバックばかりになるのではないか。常に、考え続けなければならないが」
「えぇ……でも、目を閉じて眠る時間はあります」
キリエはたまに、どこかに出掛けたりするようになったため、僕は彼女と居ることが多少増えていた。
「私のために。応援してくれているようです」
「そうだな」
二人でソファに座りながら、ココアを飲むというのも優しい時間ではあった。
「優しさは、受け取らないとならないと、この前TVでもやっていました」
「好かれて嬉しいか?」
彼女は、黙った。
「こんなに苦しいなら、嫌われた方が良かった。誰かに、私が嫌いだって言って欲しい」
現実にのし掛かる重みは、それを意識させない時間をほぼ一切与えていなかったらしい。
「最近の癒しは、あえて、相手側というのの主張を見ることです。だから、もう、いいんです……どうせこれが終われば、静かになる。
外部から意識させられるようなことも止むはず」
強い義務感を与えられてまで、創りたくないはずだった。その解放以外の救いは無いだろう。
愛なんていらないと僕も思ったことがあった。
だが、それは、このように『欲しい形』をしていなかったからだと今は思う。そして、それがどのような形なのかは、今もわからない。
そこまでそれに飢えていないので、少量で構わないというのに、無理矢理接種させられたことが、より他人を嫌いにしていた。
電話が鳴ったので、僕は携帯を取り出してボタンを押す。
「はい」
「違反駐車が捕まってたわ」
明からだった。
ちなみにこいつは何かと無駄なことを嗅ぎ付けていて僕に知らせているのだが。
職業柄なのだろうか。
「最近見かけた印刷の車とかか」
「よくわかったわね。他にもあちこち、朝から忙しない」
外ではなにやらパトカーが走り回っているし、工事が続いているしで騒がしい。
「まさか本当に遊びに来たのか?」
「まあ遊んではないと思う。近辺で何かあったら協力しなさい」
「それを言いたかったのか。僕は別に警察なんて好きじゃないがね」
明は、少し黙った。
何か思うことでもあっただろうか?
それから慌てて明るくなって言う。
「まあ、とにかく……危険が無いように」
「心得る」
「それから彼女の盗撮をしようとしていた人、捕まったらしいわ」
「捕まった? まだ気配が居ると聞いたが」
常に付け狙われる感じがしてまともには出歩けないというのだ。
というか盗撮されかかったのか。
「とにかく、感謝もしなさい」
「巻き込まれたのにか」
「貴方は!」
「……わかっている。
僕らが消されていないのも、そうやって保護される働きがあるからだ」
まあ、別にと何事か言いかけたがなんとなくそぐわない気がしたのでやめた。
「わかっては、いるよ」
だが、良かったな、などと言えるのかと言われるといまひとつ、僕にはわからなかった。
『あの笑顔』が本当に、心からのものになる気はしないからだ。
『当たり前の日常』って、こうでは無いだろう?
付け狙われ、盗撮や盗聴に怯えて常に作品の話をあちこちで囁かれ休む暇もないのが、毎日だなんて。
何気ない日常が一番ありがたいはずなのに、どうしてもそれだけは手に入らないというのか。
「他の犯罪まで絡むとなると……もはや、なにがなんだかだな」
「あちこちで猫ちゃんが切りつけられたりしてる。あれもかしら?」
「僕にはわからない」
頭が痛くなってくる。
なんなんだ、これは。
「余計な犯罪者摘発まで絡まないよな……」
「私には、わからないわ」
電源ごと通話を切ると、ベッドに飛び込んだ。
冗談じゃない。
確かに退屈はしないが。
だが、優先して考えるべきは彼女やキリエが無事かどうかくらいだと思い直す。
無駄なことはしたくない。他など僕の管轄外だから。
「でも、少なくともひとつには、予想がついてるのでは」
僕が、ベッドに沈んだまま言うと、彼女はゆっくり頷いた。
「怪しまれずあの部屋に出入り出来る人で、一番怪しいのは、いまのところ彼しかいない……」
まだわからないけれど。と言葉が弱々しく付け足される。
「家族間の場合は」
「えぇ。無意味な騒ぎにはしたくない、ですが」
彼女はただ、黙った。
利用されているとしたら、下手に拒否させることが出来ないが、代わりに彼女は自分の心を売らなければならない。
もはやなんのために守るのかさえわからなかった。
家族に盗ませて(と表現すべきなのかわからないが)揺さぶらせ、理由を愛と叫ぶという想像は考えてみるだけでも意味がわからないだろう。
「ここまで、それを受けとるなら死んだ方がマシだと思いながら生きるのは、はじめてです」
「そうか」
「どうしても、関わらないでもらったり共有されないというのがだめなら、私が代わりに……と思ってしまう」
「だが、そうしたら」
「えぇ。だけど、別に、自分の身体ですし」
「しかし、完全に決まったわけでは」
「だから、生きていられているんですが、たまに限界になりそうで」
好きなものは好きだからしょうがないというが、その逆になると罵りたがるのもまた世界だ。
どうしても嫌なものは嫌だというのに、どうしてそれ自体を非難される必要があるのだろう。
「なんと言えばいいのかわからないが……どうしてもやめたいときは、それでいいのではないか」
「えぇ……」
空は相変わらず暗い色をしていた。そして部屋の中にいる彼女はもて余した自分に困惑していて今にも崩れそうだった。
僕は聞いてみる。
「どうして、嫌なんだ?」
薄々わかっているのにあえて聞いた。
彼女は薄く微笑んだ。
「ただ私は、私でありたいんです」
「きみはきみだ」
「『私も』しか言わない子ってクラスに居るでしょう? そういうのに、もともとしょっちゅう狙われるタイプで」
「僕も」
「もう……!」
軽口で言うと彼女は唇を尖らせる。クラスとは、学校の同学年のかたまりのことだろう。
係を決めるとき、部活をするとき、なにかするとき『私も』と付いてくる以外をしない人というのは確かにいる。
「一生懸命作った作品でも私も、と全く似たようなものをあげられても、たまにならまだしも、毎日毎日毎日、隣に座る子が例えば……例えばですよ?
そんなだと、『私』が嫌になったって、仕方ないでしょう」
まあ小さなときの話ですがねと彼女は笑う。
「確かに、片っ端から模造に何もかも揃えられたら、自分の意義を無くしかけるだろう」
「誰も真似出来ないようにしてやろうって、いつも必死でした」
「その結果が、作者権利ごと奪えばいい、になったわけだ」
知られてませんよね?
とそこで彼女はきょろり、と辺りを見渡した。
「身内も、そういうところが?」
彼女はただ微笑む。
「誰も届かない場所に行かないと、私の痕跡は、全部誰かのものとすりかわっていって消えてしまうみたいで、いつも怖かった」
「とうとう、まるごと盗まれたわけだがな」
「『誰かが全く同じことをする恐怖』に打ち勝っていたということでもあったんですが」
さすがに、この事態は予想していなかったですねと言うと、彼女はぺこりと頭を下げた。
「では、また!」
そうして、ドアを押さえて部屋を出ていった。
数日前、どうしてもラルと居るのが落ち着かず目的の部屋をノックした。ドアの向こうでは、明さんがため息を吐いていた。
「彼女が履歴を一気に見せれば済んだ部分も大きいのに……」
「失礼します」
おれが訪ねた途端、びくりと肩を強張らせた。
「とつぜん、無礼を……えっと、失礼しました」
慌てていると、彼女は困った顔でいいのよと笑った。
「何をしに来たの」
「いえ。その。ラルと仲がいいと聞いていたので、お話をうかがいたくて」
「今の独り言、聞こえた?」
「はい」
「気にしないで」
「読者には罪はない。
だから作者にだけは、さりげなく辛いと思っている気持ちを促している間に改善して欲しかったんだと思います」
思い出したのは、彼女が、抗争よりも、死を真っ先に選ぼうとしていた姿だった。
「読んでいた人が、一番の裏切りを受けている。
一気に見せたりなんかしたら、一気にみんなショックを受けてしまうでしょう?」
ぼろぼろになるしかなかったのは、自分自身の甘さでもあるのだと少女も理解しているのだと思う。
「恐らく手に負えなくなるまでは、我慢しつづけたんです」「そんなの、してるから傷が深まるわけでしょう? 可哀想に」
まだ早く引き上げればよかった。出来なくてもずっと電源を落とすことは出来ていたのに。
いや、おれも、巻き込んだ一人だ。
だけど、早く引き上げないくせにわざわざ、なんてどこかで思っていた。内心、自分でより傷つきに行っているのではと思う部分もなくはなかったのだ。
だが、彼女はその作品の読者から睨まれた話をしてとても悲しそうにしていたのを見た。
憤慨したり、おかしいよと喚いたりは決してせずに、それを語る目はどこか泣きそうだった。
作者の責任や開き直りを罪無い周りに背負わせていること、それを平気で出来るという事実を表す目線だからこそ心が痛んでいたのではないか。
「同じように本を愛する読者となぜ争っているのだろうと、よくこぼしています」
あなた、と明さんは言う。
女性らしいピンクや白の目立つ部屋の中、彼女は若々しく見えているので、その声が想像より低いことには、わずかながら驚いた。
「あなたが、彼女のものをそこまで愛する理由はわかる」
「そうですか」
「だからこそ、あなた自身はその点への後悔ばかり語ってはならないのね。彼女もそんなものを聞いても、別に報われない」
「ええ」
外では、ぽつぽつと音がし始めた。
雨がふっているようだ。あの人、はちゃんと食事をしているのかと気にはなったものの、おれはここにきた目的をまず果たさねばならない。
「ラル……来流さんは、いったいどうして、あんな風になったのですか」
「やっぱり、気があうと思ったの!」
真剣な質問だっただけに、話を飛び越えるように喜ばれて少し戸惑った。
「さすがだわ。あの子に合わせられる人って中々居ないものなのよ」
確かに、眠くなると片付けもそのままにその場で寝てしまったりと、他にも様々にあらゆることに几帳面過ぎるタイプとは反発しそうである。
「あの子は」
きょろ、と本人が居ないのにドアの背後を改めて確認すると、彼女はデスクの椅子に座りながら、玄関先にいるおれを見て悲しい声音で言った。
「誰にも言わないでくれる?」
しっかりと頷く。
「来流は、すごく幼いとき、大事な人が冤罪事件に巻き込まれかけたの」
他にもまあ……と言葉を濁されたが、あまり穏やかな話でもなかったので少なからず驚いた。報道規制もろくにない時代の話だという。
「かけた、って」
「ギリギリで気付いてどうにか阻止した」
でも、疑われた側はラルが助けたと言ってもよほどショックだったのか、そのまま、病気がちになってしまってと、そこまで言うと、やはり無理だと彼女は目頭を押さえた。
「周りがこぞって嘘をついていたことも、大事な人を守ってくれるはずだった場所が、その人を苦しめたことも何もかもが、許せなく、信じられなくなったのでは」
彼女は、はあ、と深くて世の中を嘆くような息を吐くと、椅子の上で、がたりと座る位置を調整した。
お茶でも飲みます?
と、立ち上がる明さんにお構い無くと言う。
「おれと似ていますか」
「ええ。きっと。とても」
ラルの若い頃にそっくり、と彼女は喜ぶ声をあげた。
「そうですか」
意外な話でも無い話だったためか、反応には困った。ラルは確かに、ああいった機関やらをやけに冷めた口調で語っていることが多かったので、心当たりがあったのだ。
「それは、初恋ですか」
「どうでしょう、あのこに、恋という感情があるのかどうか」
後二日は、部屋にいた。計3日して帰宅すると、ソファでくたっとしたラルが膝を抱えていた。
「ただいま……」
声をかけると、うでだけががしっと伸びて、腕を掴んでくるのでびくりとしていると、やがて部屋の主人が顔を上げ、おれをじいっと見つめてきた。
「帰宅しました」
「何処に居たんだ」
「自分の部屋に」
「なら、いい」
だらんと寄りかかってくるので、そのまま抱き締める形になる。
少し酒のにおいがした。
「ラル」
「なんだ」
「酔ってません?」
会話にならなさそうだったが、これはこれで新鮮でもある。申し訳なかったと宥めていると、そのまま眠ってしまった。
虐待から逃れるための話というのは、残酷なものだ。
「俺のトラウマをなんだと思って」
と、当人が喚くようになり、私は死を覚悟した。そう。
持ち帰らせなければ、わかることさえなく気づかれることもなく、吐き出すことが出来ていた苦痛はあっさりと無に帰した。
兄というものも、残酷なものだ。
常に権化そのものと対峙し、吐き出す場所を常に見張られながら続けねばならなくなってしまった私は、本来この時点で死んでいて良いはずだった。
いじめられていた自分を、私が影でバカにしていたと感じた兄は尚更に、プレッシャーを与えることを楽しみ始めた。
世間というのも残酷なものだ。
いじめられていたのが同情に値するのなら、家庭内での暴行は、何にも値しないだろうか。
いじめの恐怖で就職出来ないことが、喚き散らして、他人の居場所まで奪うべき理由なのだろうか。
けれど、こっそり感情を捨てていくことにより、平穏を保つことが出来た。その場所の平和さえ保っていれば、いつか許せるかもしれないという気持ちさえも、起き上がってきていたときだった。
吐き出す場所を監視されるようになった私は、それさえ残されていれば向き合えた目の前の『現実』と、戦う武器を無くしていた。
どころか『こいつも反省している』と来たもので信じられないこととは、本気で世の中に起きるものだ。
『誰か』は、非難の対象をこちらへとうまいことすりかえた。
反省さえあれば許される罪など、私は知らない。
トラウマさえもが攻撃対象へとすりかわったのだが、だったら、見られずに吐き出させる場所くらいは残すべきだった。
常に恨みや痛み、記憶を掻き乱される苦しみに悶える中、
彼は頻繁に帰宅してはチョコレートだのプリンだのと、あからさまな土産をくれるようになった。「応援するよ」というようなそれは、『いつも観られているよ』
という意味合いしかなく尚更苦しむこととなった。
武器を無くした無防備な心をずかずかと踏みにじられるというのは初めてで、やめて欲しいと懇願したこともあったのだが、それが止むことはない。
その上に、件の作者の発売により、世間の目に自分の一部が触れてしまった。
終わりだという考えが過る。
これを手にしていたこともある彼には、徹底して、内容は少なからず認識されてしまったのだ。
恐怖でどうにもならない中、しかし自分を晒すわけにもいかないが、だからと言って偽りをはびこらせるわけにもいかないという状態に陥る。
吐き出すことの出来ていた場所さえもはや意味を為さなかった。
それから数週間。
突如、帰宅しては「俺は世界を守っているんだ」などと言い出したり、
「何もしないくせに、周りに守らせるなんて人がいるらしいな」
などと遠回しに言われたりすることが増えた。
まるで台本を読まされるような物言いではあったが、それにしたって、ずっと耐えて改心を待って準備をすることが、何もしないわけではないと思われないというのは、切ない心境だ。
そんな愛情など要らないと、自棄になりそうな自分を嘲笑う。
決して、同一視されたくはなかったというのに、この事件を乗り越えたところで、
彼には徹底して私への疑惑が残される。
完全な自己証明をすれば代わりに私は部屋にもこの世にもいられなくなるだろうし、不完全にしても一度認識されているという時点ではどのみち手遅れだ。
今まで成り立っていた信頼関係を、誰かが利用しては粉々に破壊していくのを目の当たりにする。
そこまでして、私を名乗られたくはない。けれど救われたくも応援されたくもなかった。
アイデンティティーと引き換えに世界を救うというのは、出来たなら、確かになかなかな勇者だろうが、だんだんと自分が何を守りたくて生きてきたのかさえおぼつかなくなってくる。
見えないようにそっと捨てていた排ガスさえ流れ込むようになった部屋の空気は、明らかに悪くなっていた。
対立させて喜ぶというのも、もしかすると目的のひとつなのかもしれない。
なにをしても生き甲斐が無くなる場所だ。
時期、私自身が死ぬ方が望ましいかもしれないし、ゾンビのようにもがきながら生きるくらいならば、それを断ち切る、つまり私を消すのが恐らくせめてもの責任のとりかただろう。
彼、は利用されただけなら、私は利用されるようなことをしてしまったとして、代わりに、引き換えて討てばいい。
そうすればできた『友人』は死ななくて済むし、私も救われる。
考えてみれば簡単な話だと思い、部屋に帰るとすぐにメモをしておいた。
友人、たちの葛藤は一切の心配が無くなるわけなのだ。
未練など必要なくなってみれば、あっさりしたもので、そう思うと愉快でならなかった。
今やら最近やらに話したり庇う相手などいても、過去や憎悪を消してくれる相手は一人もいないのだ。
責め、詰り、「友人の悪口を言うな」と言われるような毎日を過ごしてまで生きるのはうんざりだった。吐き出したかったそれにさえ踏み入られて、さらに追及を受けてまで、苦しみ以外の、何が残るだろう?
どちらに救いがないのかは明らかだ。だとすれば、救われる方のみを生かすのも当然。ふらふらと輝きを無くして生きる人間を、見過ごすよりずっと救いがあるし価値あることだろう。ただ、せめて、美談にはしないでもらいたい。
本当は、私にはただただ汚く醜く、何をしても救いの無いだけの話だったのだと、知っておいてもらえればいいのだ。そしてそれだけは、救いだ。そうだ。とはいえ、あまり深いことは書けない。せっかく筆や場所を
『あのひと』に借りたものの、きっとここもまた見張られているから。やはり、生きていてもいいことなどない。
けれど、いいことが無くても、簡単には人は死なない。
ふと、机に置いていた携帯電話を見る。
これの調子もおかしく、携帯を買い換えに行ってからはひどくなった。
物理的にも、吐き出すことを気軽には止められている。
ガクガクと震える足を動かして、誰も居ない夜中に道を歩いた。
生き甲斐というものが、もはや地上に存在するようには思えないけれど、死にそうな思いというのをすれば、生きる気力が沸くのではないかと考えた私は、いつかのように、図書館の建物の屋上へと足を向けた。
彼、が誰かに関わり、それを持ち込みに部屋に来る度に例えようのない恐怖に見舞われるようになった私は、関わりを断てと、願おうと何度か考えた。他人に頼むのは簡単だ。だが、自分が断つのは、もっと簡単だ。
ただ、いじめたという相手と彼は、私には同類だ。美談にされる姿など見たくはないし、それを理由に責められるのは解せていない。大きな嘘をみんながついているかのようだし、
無意識であり怒っていて仕方のなかった、と、自分と同じような加害者の気持ちを汲むこともできたのではないかとさえ思うと、案外分かり合えている気がする。
など思いを巡らせながら、ゆっくりと遠い地面を見下ろしていた。
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