マリカとリカの夏休み

今野 真芽

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マリカとリカ

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 ことの起こりは、今朝のことだった。開けはなたれた窓からふきこむ風と、そろそろ暑くなりはじめた日差しをあびながら、マリカが朝食に食パンを一斤《いっきん》まるまる平らげたあと、牛乳をパックから直接、グビグビ飲みほしていたその時だった。
 ピコン、と着信音がして、ママからLINEのメッセージが入った。昨日ママは、最近できた彼氏とデートに行って、そのまま帰ってこなかった。いつものことなのでマリカも気にしないが、今朝食べた食パンが最後の一斤だった。今日も帰らない、という連絡だったら困るな、と思って、LINEを開く。
 そして、ブッと牛乳を吹き出した。
『ごっめぇん、マリカ! ママ、彼氏に誘われて、一ヶ月南の島にバカンスに行くことになっちゃった! ちょうど小学校も今日から夏休みだし、マリカはおばあちゃんの家に泊まっておいてね。ヨロシク!』
 マリカは思わずさけんだ。
「マ、ママぁっ! ちょっと、ちょっとぉおお!」
 三年前にパパが病気で死んでから、ママは遺産と保険金で、小さなアンティークショップをはじめた。買いつけに海外へ飛び回るのも、県外の骨董市に出店するのも、次々できる彼氏とデートするのもしょっちゅうのこと。マリカは一人で留守番するのには慣れていた。でも、それは二~三日、せいぜいが一週間のことだ。
 いきなり一ヶ月不在にして『ヨロシク』って、そりゃないでしょ⁉
 あわててママに電話をかけるが、
『バカンス中につき、電話に出られませぇん♪ ごめんなさぁい! またネ!』
 という浮かれきった録音音声が流れるだけだ。LINEを送っても既読はつかず、マリカはがくっと肩を落とす。
 こうなったら仕方ない、とおばあちゃんに電話をかける。おばあちゃんはパパのママで、パパが死んでからも、ずっとマリカをかわいがってくれている。マリカがおばあちゃんの家に泊まりに行くこともしょっちゅうだ。マリカをいつまでも赤ちゃんあつかいするのが玉にキズだし、一ヶ月は長いけれど、きっとこころよく泊めてくれるにちがいない。
 おばあちゃんと通話がつながった瞬間、ザワザワとさわがしい音が聞こえた。おばあちゃんは外、それもにぎやかな場所にいるようだ。
「あ、おばあちゃん? あのね」
「あらぁ、マリカちゃん、元気? ごめんね、あんまり時間ないのよ。おばあちゃん、これから、世界一周旅行に行くことになっちゃって」
 おばあちゃんの声はウキウキしていたが、マリカはぼうぜんとするしかなかった。
「せ、世界一周旅行⁉ こんなに突然⁉」
「そうなの。お友達がご夫婦で行くはずだったんだけど、旦那さんの方が急に仕事でつごうが悪くなってね。でもキャンセルするのももったいないしって、さそってくれたの。おばあちゃんの長年のあこがれだったのよねぇ、世界一周の船旅。──それで、マリカちゃん、なんのご用事?」
 マリカはしばし迷った。
 今の状況を伝えて、困っているのだと助けを求めたら、おばあちゃんは世界一周旅行をとりやめて帰ってきてくれるかもしれない──ていうか、帰ってきてくれるだろう。
 でも、こんなに旅行を楽しみにしているおばあちゃんに、そんなことを言っていいのだろうか。
 マリカは結局、ひきつった笑みを浮かべて、
「なんでもない。ただ、元気かなって思っただけなの。楽しんできてね、おばあちゃん」
 と言ったのだった。

 それからが問題だ。マリカの手元にあるお金は、『何かのときのために』とママが置いておいてくれている一万円札。それだけだ。一ヶ月分の食費には──特に、大食らいのマリカの食費には──とうてい足りないだろう。
 マリカはまだ小学六年生。自分で金をかせぐことはできない。誰かをたよらなければいけないのだ。でも、おばあちゃん以外に、つきあいのある親戚なんていない。
 『マリカ、こまったときにはね、勇気を持って、自分が正しいと思うことをするんだよ』
 死んだパパの優しい笑顔と、言葉が思い浮かぶ。でもパパ、この場合、正しいことってなんだろう?
 そのときマリカは、前に、ママといっしょにパパの持ちものを整理していたときに見かけたものを思いだした。
 あわてて押し入れを開け、パパの遺品のダンボールを引っ張り出して探る。
 それは、古いアドレス帳だった。きちょうめんな字で、パパの友達や知り合いの名前がずらりと並んでいる中に、『黒澤アキナ』と、ママの結婚前の名前が書いてある。電話番号はママの携帯電話だから意味がない。大事なのは住所だった。『夏野市《なつのし》ひまわり町三番地の二 彰明館』。最後はしょうめいかん、と読むのだろうか。
 とにかく、ここがママの結婚前の住所。──ママのパパが今も住んでいるはずの場所なのだ。
 マリカはリュックに荷物を詰めると、外に歩み出す。ジリジリと暑い日差しが肌に照りつけ、汗がひとすじ、ひたいからほほを流れた。

 夏野市までの交通費は、ママが置いていった一万円で足りたけれど、途中で新幹線やタクシーに乗る必要があって、残りは数千円。マンションに帰るお金もない。雨雲まで近づいてきている。
 だから、マリカはいかめしい洋館の前で立ちすくみながら、勇気を持ってインターフォンを押すしかなかった。
 そして、冒頭に戻るというわけだ。

「……」
「……」
「……」
「にゃー」
 重い沈黙が広がる中、床をうろつくやたらと太ったブサイクな三毛猫だけが、鳴き声を上げた。あれから、執事の田中さんに案内してもらった食堂は、とても豪華な空間だった。巨大な木のテーブルは脚にふくざつな彫刻がなされ、その回りにはビロードを張ったイスがたくさんならんでいる。壁紙は緑の地にバラのもよう。全体的にアンティークな感じで、こんなときでもなければ、すてきだとはしゃいだかもしれない。そして食堂の一番奥──上座っていうんだよね?──には、そういえば名前も知らないママのパパ、マリカのおじいちゃんがいかめしい顔つきで腕ぐみをしながら座っていた。白髪をきれいになでつけた着物姿のおじいちゃんは、とても『おじいちゃん』と気軽に呼べるふんいきじゃなかった。
 そうして、もう一人。白いフリルのブラウスの上に黒いそでなしのワンピースというクラシックな衣装に身をつつんだその女の子は、とてもこのアンティークな空間に似あっていた。長い黒髪はゆるくウェーブして、長いまつげ、大きな瞳に赤い唇が印象的な、ひらたく言ってものすごい美少女だ。
 そしてこの子が、もうひとりの『マリカ』、つまりはニセモノなわけなんだけど。
 本物のマリカがあらわれたというのに、もうひとりの『マリカ』は、あわてるようすも見せなかった。平然とした顔で口を開く。
「お話は分かりました。──でも、どうして、このニセモノさんをさっさと追い出してしまわないの? 田中さん」
 ニセモノ、と言われたのを一拍おいて理解し、マリカは目を丸くした。そのあまりに堂々とした声音に、思わず自分がニセモノなのかと思ってしまったくらいだ。
 ──え、でも、私は私、だよね……?
 ちょっと自信がなくなってしまった。マリカはうろたえて、キョロキョロと周囲の人々を見まわした。
 田中さんはそんなマリカにかまわず、優雅に一礼した。
「だんなさまのご判断を仰ぐべき事柄と考えましたので、お嬢さま。──いえ、お嬢さま(仮)《かっこかり》、とでもお呼びすべきでしょうか。今は、どちらが本物か分からないのですから」
 その言葉にニセモノの『マリカ』は眉をしかめ、頭の先から爪先まで、マリカをじっくりと見た。タンクトップの上からチェックの半袖シャツを羽織り、ボトムスはカーゴパンツという格好のマリカは、あきらかにこの空間で浮いていた。
「見ればわかるでしょう。お母さまは大学生のころ、ミス夏野市にまでえらばれた美人。どっちがお母さまに似ているか、一目でわかるというものです」
 その言葉は、マリカの胸にグサッと刺さった。美人のママにまったく似ずに生まれたことは、マリカのコンプレックスだった。
 ──それにしても、ママが昔ミス夏野市にえらばれたことまで知ってるなんて。
 ニセモノの『マリカ』は、相当な下調べをしてここに来ているようだった。
「さて、いかがなさいますか、だんなさま?」
 田中の問に、おじいちゃんは、じっくりと二人を見比べた。突き刺さるような鋭い眼光に、マリカはビクっとしてしまう。もうひとりの『マリカ』の方は平然としたものだ。見くらべたら、あやしいのは本物のマリカだっただろう。
 でも、おじいちゃんはゆっくりと首を横にふった。
「娘のアキナは、妻の明子が死んでから、いっさい私と連絡を取っていない。例外が、子どもが生まれた時に赤ん坊の写真を送ってきた一回だけだ。私には、どちらが本物か判断がつかないな」
「そんな」
 ニセモノの『マリカ』がイスから立ち上がり、声を上げる。
 おじいちゃんはかまうことなく言葉を続けた。
「ゆえに、二人とも、孫として我が家に置く。どちらが本物かは、いずれ時が証明するだろう。だがそうだな、同じ名前が二人いるとややこしい。おまえが」
 と、マリカを指さし
「『マリ』、ということにする。そしておまえが」
 と、『マリカ』を指さし
「『リカ』、ということにする。それでいいな? ──私はもう休む」
 そうしておじいちゃんは立ちあがり、食堂を出ていった。田中さんが、その背に礼儀正しく一礼した。
 おさまらなかったのは、いまや『リカ』と呼ばれることになったニセモノの『マリカ』だ。マリカに向けて、びしっと指を突きつける。
「あなた。勝負よ!」
「へ?」
 マリカは目を丸くする。リカは、ふんと鼻を鳴らして胸を張った。
「どちらが本物か、勝負で決めるの。さあ、なんの勝負にするか言ってみなさい。チェス? それともピアノの腕でも競う? あなたの得意分野にあわせてあげなくもないわ」
「えっと……そうだ! 大食い勝負なら、自信があるんだけど」
 マリカがそう言うと、リカは目を吊り上げた。
「だめに決まってるでしょう! それがレディにふさわしい競技と思って⁉」
 得意分野にあわせるって言ったくせに、と頭の中で反論しながら、マリカはたじたじとなってしまう。
 そんな二人に声をかけたのは、田中さんだった。
「失礼、お嬢さまがた。勝負をなさるということでしたら、私に提案がございます」
「提案?」
 マリカとリカが、声をそろえて聞き返した。田中さんは頷く。
「この『彰明館』には、宝物が隠されてございます。それを見つけた者こそを、本物のお嬢さまとするということで、いかがでございましょうか」
 いかがでございましょうか、と言われても、あまりのことに頭がついていかない。だが、リカはなにか思うところがあるらしく、しばらく腕ぐみをしていたが、やがて言った。
「いいわ。その勝負、受けましょう。私とあなた、宝を見つけた方が本物よ」
 そのいきおいに押され、思わずうなずきそうになって、マリカはあわてて言った。
「いや、だから、私の方が本物だって! そうだ、ママやおばあちゃんに連絡がつけば、すぐに証明してくれるはず!」
 リカはバカにしたように鼻を鳴らす。
「おバカね。その『ママ』や『おばあちゃん』が本物だってことは、誰が証明してくれるの?」
「……」
 マリカは絶句する。
 外ではカミナリの音が鳴りひびいていた。雨が窓をうちつける、はげしい音もする。
 ぜったいに、こんな天気の中、外にほっぽりだされるわけにはいかなかった。
「……分かった。私も、勝負を受けるよ」
 けっきょく、マリカにはそう答えることしかできなかった。
 そして、決戦の開始を告げるように、デブ猫が重々しく
「にゃー」
 と鳴いたのだった。
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