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5話
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(俺が先に殺されるかもしれない…)
その日一日の仕事を終えたテリィは、部屋に戻るや否や着替える気力もなくベッドに身を投げ出した。
この屋敷の広さと使用人の人数を見て分かっていたことだが、想像していた通り1人当たりの仕事量は半端なものではなかった。
一応毒薬は持ち歩いていたし、社長室やカロボスの自室や寝室に近づく機会は何度もあった。
しかしとてもじゃないが使用人以外の仕事をできる暇などなかった。
慌ただしく忙しない毎日が続き、気が付けば仕事を始めてから一週間が経とうとしているのに、未だチャンスらしいチャンスが巡ってきていない。
それにプラスしてきついのが連日の就業後の事だ。
初日の就業後、ブラッド達が歓迎会と称して庭でバーベキューを開いてくれた。
それくらいならいい、寧ろ嬉しいくらいなのだが、その後毎日シュナやハゼットからゲームや運動、DVDの鑑賞会に誘われ、その日残っていた僅かな体力まで搾り取られた結果、1人になれる時間は泥のように眠ることしかできなかった。
断っても構わなかっただろうが、屋敷の人間達となるべく早く信頼関係を築きたいという目的もあるテリィとしては、無下に断ることもできず、そのまま流されるように全て付き合ってしまっていた。
先日あった半日休みの日は眠って体力の回復にあててしまい、一日休みの日はブラッドがシュナや数匹の犬達と共にドッグランに連れて行ってくれて、仕事の事を忘れて普通に楽しんでしまった。
今日も先ほどまでハゼットに「体力づくりだ!」とジムに連れ出され、就業後数時間へとへとになるまで絞られた。
このままでは冗談抜きで過労死してしまう、とテリィはなんとか着替えを済ませベッドにもぐりこむ。
しかし悪いことばかりではない。
最近は慣れた簡単な仕事なら1人で任されるようになり、ブラッドやハスクにも仕事をふってもらえるようになった。
テリィの生来の生真面目な性格が功を奏し、思ったより信頼を得るのも早かったようだ。
このまま上手くいけば、来週中には暗殺も成功できるかもしれない。
そんな少し甘い見通しを立てながらテリィは微睡みはじめ、やがて五分も経たないうちに深い眠りへと落ちていった。
「テリィ、ちょっと頼まれてくれるか?」
翌日、朝礼と朝食を済ませ、ハゼット、ブルドと今日の作業の確認をしている時、テーブルの片づけをしていたハスクに声を掛けられた。
頼みというのは、今日は社長室で仕事をしながら朝食を摂ったというカロボスの食器の片づけと、食後の飲み物はなにがいいか聞いてきて欲しいのだという。
いつもはシュナがやっているらしいのだが、今日は地下の食糧庫の整理と掃除があるらしく、食事を終えた彼は一足早くそちらに行ってしまった。
それくらいならば構わないとテリィは快諾し、ハゼットとブルドに声をかけてから社長室に向かった。
「失礼します、食器の片づけに参りました」
流石にブラッド達のように返事を待たずに中に入るといったフランクな態度にはなれないので、きちんとドアをノックし中のカロボスに声をかけた。
「んー」
返事を聞いて中に入ると、カロボスは仕事をしているのだかしていないのだかわからない気怠げな様子で、頬杖をついたままつまらなそうな表情でパソコンのモニターとにらめっこをしていた。
あまり本社に顔を出さないという噂を聞いてはいたが、テリィがここで働き始めてから一週間、本当に彼が外出しているのを見かけることはなかった。
一応ブラッドにも探りを入れて見たが、カロボスは不定期に用事のあるときしか本社に出向かず、プライベートな外出もほぼしないらしい。
不健康な出不精だよねぇ、とブラッドは笑っていたが、確かにこんな生活スタイルでは屋敷に侵入するくらいしか暗殺の機会はないだろう。
しかも正規の手段で入らなければ、中に入った途端番犬達の餌食になる未来が待っている。
つまりカロボスの今の生活スタイルは、テリィの暗殺スタイルと合致しているともいえるので、そんなカロボスの出不精もむしろありがたいとすら思えた。
「ご主人様、食後のお飲み物はどうなさいますか?」
「あー…なんでもいい、冷たいのなら」
「はい、承知いたしました」
希望を聞いたテリィは、食器をカートにのせてからもう一度頭を下げ部屋を後にする。
丁度食洗器に洗い物をセットしていたハスクに食器を渡し、カロボスの注文を伝えると「じゃあアイスコーヒーでいいか」と呟き、食洗器のスイッチを入れ、冷蔵庫からボトルを取り出してコップに注ぐと、丁寧にコースター、シロップ、ミルク、ストローをトレイに載せてテリィに手渡した。
「悪いな、そいつも頼めるか?それ運んだら仕事に戻っていいから」
「はい、行ってきます」
トレイを受け取ったテリィは笑顔で応え、再び社長室へと向かう。
そういえば、とテリィは運んでいるコーヒーを見ながら思い出す。
数日前、午後三時の休憩時間にアイスコーヒーがでてきたことがあり、テリィは一瞬顔を顰めた。
大人たちが好んで飲むこのコーヒーという飲み物の良さをテリィはまだわからないでいた。
砂糖やミルクを入れれば飲めないことはないが、そうでなければ苦かったり渋かったり酸っぱかったりする奇妙な液体である。
昔父親に「大人になればわかるかもしれないな」と笑われたのが悔しくて、その後も何度か試してみたことはあったが、未だ美味しいと感じたことがなかった。
その時もコーヒーが苦手とは言えず、ダメもとでシロップもミルクも入れずに一口ストローで吸い上げてみた。
そしてその瞬間、予想していた味と違ったものが口の中に広がり、テリィは思わず目を見張った。
テリィが苦手と感じていた苦味、渋味、酸味はほとんど感じず、なにも入れていないのに甘さを感じるほどだった。
それでいて唯一好きだったコーヒーのあの香りはしっかりと感じられて、テリィは思わず「美味しい…」とこぼしてしまった。
なんでも冷蔵庫に常備してあるアイスコーヒーはハスクが水出しで丁寧につくっているものらしく、お湯で淹れないだけでこんなにも違うのかと驚いた。
あの味を思い出し、また少し飲みたくなってきてしまったテリィは再び運んでいるアイスコーヒーに視線を落とすが、当然これから主人に出す飲み物を拝借するわけにはいかない。
(今日はハゼットさんと洗濯物をして、終わったらゴミ庫の水洗いだったな、それから…)
余計な考えを振り払うようにテリィは今日の業務内容を整理する。
ランドリーは慣れてきたが、ゴミ庫の掃除は初めてなのでしっかり覚えなければ。
そんなことを考えているうちに社長室の前までたどり着き、テリィはノックをするために右手をあげた。
(あれ?)
そこでテリィはふとあることに気付き動きを止めた。
カロボスに出す飲み物。
自分1人。
監視カメラや人目のない廊下。
つまり今が毒を盛る千載一遇のチャンスだと。
使用人の仕事が忙しすぎて忘れかけていた本来の自分の仕事。
テリィはバクバクと高鳴る心臓と逸る気持ちを抑えながら、トレイを扉横のサーブテーブルに置き、ポケットから毒の小瓶を取り出した。
周囲を確認しながら慎重に蓋を開け、一度深呼吸をする。
無味無臭無色透明で、水にいれても気づかれることのない猛毒。
様々な香りと味の混ざったコーヒーならばなおのこと心配ないだろう。
小瓶を少し傾けて毒を数滴垂らし、すぐに蓋を閉めてポケットに戻し、テリィはドアをノックする。
すぐにカロボスの返事が聞こえ、テリィは「失礼します」と声を掛けて部屋に入る。
いつもの言葉。いつもの動き。
しかし言動はいつもと同じでも、今日のテリィのそれら一つ一つがカロボスの死へとつながるものだ。
「おまたせ致しました」
テリィは仕事机にコースターを置き、コーヒーを乗せると、シロップ、ミルク、ストローを順番に並べていく。
カロボスはコーヒーの入ったコップを一瞥すると「おう」と返事だけして、またすぐにモニターへと視線を戻す。
テリィは緊張を隠すように、努めて冷静に振る舞い、もう一度「失礼します」と頭をさげ、振り返ることなく部屋を後にした。
テリィの作った毒に即効性はない。
カロボスが口にするところまでは確認できなかったが、仮にあの後すぐ口にしたとしてもしばらくは無症状である。
多少個人差はあるが大体服毒してから4~6時間ほどで倦怠感が表れ始め、8時間経つ頃には息苦しさなどの呼吸器系の症状が出始める。
ここまでならばさほど深刻な症状ではないので、風邪かなにかだと思って薬を飲んで済ます程度だ。
しかし12時間ほど経つと全身の麻痺や意識障害が出はじめ、16時間経つ頃にはほぼ確実に命を落としている。
そしてその頃には体中から毒の成分も綺麗に消えているはずだ
つまり午前中に毒を盛ることができれば、翌朝までには間違いなく標的を死に至らしめることができる。
「テリィ、こっちのタオルは調理場持って行ってくれ、あと午後一でシュナが出した掃除の汚れ物があるだろうから、それは1人で頼むな」
「わかりました、こっちの青いタオルはジムの棚で大丈夫ですよね」
テリィは浮足だったりそわそわすることはせず、あくまで平静を装っていつも通り業務をこなし、時折時計を確認する。
(多分昼過ぎ頃までは症状が出ないはずだから、その時まだハスクさんがコップを片付けてなかったら俺が片付けよう)
ハゼットに振られた仕事をこなしながら、テリィは心のなかでこの後の動きについて確認する。
死亡すれば体内からは毒の成分が消えるが、万一毒を盛ったコップを調べられたらアウトである。
しかし前述の通り症状がでるまでは十分な時間の余裕があるため、証拠の隠滅をする隙は十分にある。
以前仕事で毒を盛った時も、健康ドリンクのコップは濯けば問題なく、葉巻も吸い殻として処分すれば問題なかった。
そもそも体内から毒の成分が検出されないのだから毒殺だと気付かれることもないし、気付かれたとしてもそのときには証拠も処分できている。
カロボスもいままで通りなら、今日の日付が変わるころには絶命するはずだ。
乾燥の暖かさがまだ残っているタオルをジムの棚に入れ、時計を確認すると10時を少し過ぎた時間だった。
あとは今日の夕方業務が終わったら毒を保存していた小瓶を全て洗い流して処分し、翌朝カロボスの死を確認し、屋敷内が混乱している間に依頼主に連絡を入れ、あとは流れに任せてこの屋敷を後にすればいい。
達成感と、人の死を直前にした時の例えようのない虚無感、そしてこの時だけ僅かに感じる罪悪感。
思い出せば父の死の原因を作った男たちや、あのブラック企業の男にも、彼らを中心として回っている家庭や社会があった。
自分がしていることは、また新しく自分と同じような境遇の人間を生み出すことに他ならないという矛盾にも苛まれる。
誰にも誰かの命を奪っていい権利などありはしないのに、だからといって理不尽に死を選ぶしかなかった父と家族を失った自分を客観的に見て達観できるほど大人にもなれなかった。
カロボス殺害の依頼をだしていた男は、ジャハンナムのライバル企業にあたる会社の役職についている男だった。
ジャハンナムの台頭によって急激に業績が悪化し、会社から無理な予算や目標を設定され、なんとか結果をだそうと頑張っているうちに心身を疲弊させて鬱病を発症した上、人員削減の憂き目に合い家族とも離れることになり、最後に残ったのが病気の体だけという悲惨な末路となっていた。
冷静に見れば逆恨み以外なにものでもないのだが、会社のせいで心を病んでしまったこの男にテリィは同情してしまった。
「きっとロクな死に方できないんだろうな…」
すでに3人、そしていままさに4人目の命を奪おうとしている自分は、今まで殺してきたどんな人間達よりも邪悪だろう。
広い廊下の真ん中でテリィは1人呟き、自分の未来にもう救いなどないと感じながら、やがて諦めたようにため息をついて仕事に戻った。
昼食の時間となり、ハスクに確認したところ、すでに飲み物の容器は片付けられており、しっかりと洗浄までされていた。
これであと証拠として残る可能性があるのはテリィの持っている毒入りの小瓶だけだが、それも今日中に始末する予定だ。
毒を盛ってからおよそ4時間、早ければ症状が出始める頃だ、とカトラリーの用意をしながら時計の確認をしようとした時、ふいに食堂の扉が開き、今まさにテリィが思っていた人物が現れた。
「あれ?社長今日こっちで昼飯食うの?」
「あぁ、午前中の、ってか今日の仕事終わったからな、もうあの部屋いたくねぇ」
カロボスは機嫌悪そうに言い放つと、広いテーブルの一番奥にどかりと腰を下ろした。
いつもは仕事部屋で食事をとることが多いカロボスだが、こうして仕事が一段落した時などは食堂に顔を出し一緒に食事をとることがあった。
テリィは急いでカロボスのテーブルセッティングを済ませ、昼食のメインをどちらにするか尋ねると「肉」とだけ短く応えた。
その返事はハスクにも聞こえたようで、大鍋の前から「はいはい」と相変わらずのフランクな声が聞こえた。
「社長今日の仕事終わったの?じゃあ午後一緒に遊べるよね、テニスやろーぜ!」
「終わったのは俺だけだ、お前はちゃんと時間通り働け」
「えー、今月全然一緒に遊べてないじゃん、今日半休ってことにして遊ぼうよー」
「今月はまだ忙しいんだよ、…来月なら多少暇になるからもう少し待ってろ」
子供の用に駄々をこねるシュナに、カロボスは面倒くさそうにしながらも、気心知れた相手にしかみせない笑顔をのぞかせた。
こんな日常、当たり前の幸せすら自分は奪おうとしている。
考えないようにしていても、軽口を言い合う彼らを見ているとどうしても心が澱んでいく。
自分の居場所ではないこの場所を、自分は奪おうとしている。
けれどもう後戻りはできない。
今はまだ症状が出ていないようだが、間もなくあの毒がカロボスの体を蝕みはじめるだろう。
(そうだ…最初の1人を殺した時点でもうとっくに後戻りなんかできないんだ…)
他愛のない食卓の会話に混ざりながら、テリィは感情を心の奥底に沈める。
今までも、これからも、人の命を奪ったという事実は変えられない。
仮にこの先どこかで生き方を変えようともその事実は生涯ついてまわる。
テリィはパンをちぎって口に放りながら、もうすぐ死を迎えるであろうカロボスを一瞥すると、またすぐに視線を目の前の皿に戻した。
その日一日の仕事を終えたテリィは、部屋に戻るや否や着替える気力もなくベッドに身を投げ出した。
この屋敷の広さと使用人の人数を見て分かっていたことだが、想像していた通り1人当たりの仕事量は半端なものではなかった。
一応毒薬は持ち歩いていたし、社長室やカロボスの自室や寝室に近づく機会は何度もあった。
しかしとてもじゃないが使用人以外の仕事をできる暇などなかった。
慌ただしく忙しない毎日が続き、気が付けば仕事を始めてから一週間が経とうとしているのに、未だチャンスらしいチャンスが巡ってきていない。
それにプラスしてきついのが連日の就業後の事だ。
初日の就業後、ブラッド達が歓迎会と称して庭でバーベキューを開いてくれた。
それくらいならいい、寧ろ嬉しいくらいなのだが、その後毎日シュナやハゼットからゲームや運動、DVDの鑑賞会に誘われ、その日残っていた僅かな体力まで搾り取られた結果、1人になれる時間は泥のように眠ることしかできなかった。
断っても構わなかっただろうが、屋敷の人間達となるべく早く信頼関係を築きたいという目的もあるテリィとしては、無下に断ることもできず、そのまま流されるように全て付き合ってしまっていた。
先日あった半日休みの日は眠って体力の回復にあててしまい、一日休みの日はブラッドがシュナや数匹の犬達と共にドッグランに連れて行ってくれて、仕事の事を忘れて普通に楽しんでしまった。
今日も先ほどまでハゼットに「体力づくりだ!」とジムに連れ出され、就業後数時間へとへとになるまで絞られた。
このままでは冗談抜きで過労死してしまう、とテリィはなんとか着替えを済ませベッドにもぐりこむ。
しかし悪いことばかりではない。
最近は慣れた簡単な仕事なら1人で任されるようになり、ブラッドやハスクにも仕事をふってもらえるようになった。
テリィの生来の生真面目な性格が功を奏し、思ったより信頼を得るのも早かったようだ。
このまま上手くいけば、来週中には暗殺も成功できるかもしれない。
そんな少し甘い見通しを立てながらテリィは微睡みはじめ、やがて五分も経たないうちに深い眠りへと落ちていった。
「テリィ、ちょっと頼まれてくれるか?」
翌日、朝礼と朝食を済ませ、ハゼット、ブルドと今日の作業の確認をしている時、テーブルの片づけをしていたハスクに声を掛けられた。
頼みというのは、今日は社長室で仕事をしながら朝食を摂ったというカロボスの食器の片づけと、食後の飲み物はなにがいいか聞いてきて欲しいのだという。
いつもはシュナがやっているらしいのだが、今日は地下の食糧庫の整理と掃除があるらしく、食事を終えた彼は一足早くそちらに行ってしまった。
それくらいならば構わないとテリィは快諾し、ハゼットとブルドに声をかけてから社長室に向かった。
「失礼します、食器の片づけに参りました」
流石にブラッド達のように返事を待たずに中に入るといったフランクな態度にはなれないので、きちんとドアをノックし中のカロボスに声をかけた。
「んー」
返事を聞いて中に入ると、カロボスは仕事をしているのだかしていないのだかわからない気怠げな様子で、頬杖をついたままつまらなそうな表情でパソコンのモニターとにらめっこをしていた。
あまり本社に顔を出さないという噂を聞いてはいたが、テリィがここで働き始めてから一週間、本当に彼が外出しているのを見かけることはなかった。
一応ブラッドにも探りを入れて見たが、カロボスは不定期に用事のあるときしか本社に出向かず、プライベートな外出もほぼしないらしい。
不健康な出不精だよねぇ、とブラッドは笑っていたが、確かにこんな生活スタイルでは屋敷に侵入するくらいしか暗殺の機会はないだろう。
しかも正規の手段で入らなければ、中に入った途端番犬達の餌食になる未来が待っている。
つまりカロボスの今の生活スタイルは、テリィの暗殺スタイルと合致しているともいえるので、そんなカロボスの出不精もむしろありがたいとすら思えた。
「ご主人様、食後のお飲み物はどうなさいますか?」
「あー…なんでもいい、冷たいのなら」
「はい、承知いたしました」
希望を聞いたテリィは、食器をカートにのせてからもう一度頭を下げ部屋を後にする。
丁度食洗器に洗い物をセットしていたハスクに食器を渡し、カロボスの注文を伝えると「じゃあアイスコーヒーでいいか」と呟き、食洗器のスイッチを入れ、冷蔵庫からボトルを取り出してコップに注ぐと、丁寧にコースター、シロップ、ミルク、ストローをトレイに載せてテリィに手渡した。
「悪いな、そいつも頼めるか?それ運んだら仕事に戻っていいから」
「はい、行ってきます」
トレイを受け取ったテリィは笑顔で応え、再び社長室へと向かう。
そういえば、とテリィは運んでいるコーヒーを見ながら思い出す。
数日前、午後三時の休憩時間にアイスコーヒーがでてきたことがあり、テリィは一瞬顔を顰めた。
大人たちが好んで飲むこのコーヒーという飲み物の良さをテリィはまだわからないでいた。
砂糖やミルクを入れれば飲めないことはないが、そうでなければ苦かったり渋かったり酸っぱかったりする奇妙な液体である。
昔父親に「大人になればわかるかもしれないな」と笑われたのが悔しくて、その後も何度か試してみたことはあったが、未だ美味しいと感じたことがなかった。
その時もコーヒーが苦手とは言えず、ダメもとでシロップもミルクも入れずに一口ストローで吸い上げてみた。
そしてその瞬間、予想していた味と違ったものが口の中に広がり、テリィは思わず目を見張った。
テリィが苦手と感じていた苦味、渋味、酸味はほとんど感じず、なにも入れていないのに甘さを感じるほどだった。
それでいて唯一好きだったコーヒーのあの香りはしっかりと感じられて、テリィは思わず「美味しい…」とこぼしてしまった。
なんでも冷蔵庫に常備してあるアイスコーヒーはハスクが水出しで丁寧につくっているものらしく、お湯で淹れないだけでこんなにも違うのかと驚いた。
あの味を思い出し、また少し飲みたくなってきてしまったテリィは再び運んでいるアイスコーヒーに視線を落とすが、当然これから主人に出す飲み物を拝借するわけにはいかない。
(今日はハゼットさんと洗濯物をして、終わったらゴミ庫の水洗いだったな、それから…)
余計な考えを振り払うようにテリィは今日の業務内容を整理する。
ランドリーは慣れてきたが、ゴミ庫の掃除は初めてなのでしっかり覚えなければ。
そんなことを考えているうちに社長室の前までたどり着き、テリィはノックをするために右手をあげた。
(あれ?)
そこでテリィはふとあることに気付き動きを止めた。
カロボスに出す飲み物。
自分1人。
監視カメラや人目のない廊下。
つまり今が毒を盛る千載一遇のチャンスだと。
使用人の仕事が忙しすぎて忘れかけていた本来の自分の仕事。
テリィはバクバクと高鳴る心臓と逸る気持ちを抑えながら、トレイを扉横のサーブテーブルに置き、ポケットから毒の小瓶を取り出した。
周囲を確認しながら慎重に蓋を開け、一度深呼吸をする。
無味無臭無色透明で、水にいれても気づかれることのない猛毒。
様々な香りと味の混ざったコーヒーならばなおのこと心配ないだろう。
小瓶を少し傾けて毒を数滴垂らし、すぐに蓋を閉めてポケットに戻し、テリィはドアをノックする。
すぐにカロボスの返事が聞こえ、テリィは「失礼します」と声を掛けて部屋に入る。
いつもの言葉。いつもの動き。
しかし言動はいつもと同じでも、今日のテリィのそれら一つ一つがカロボスの死へとつながるものだ。
「おまたせ致しました」
テリィは仕事机にコースターを置き、コーヒーを乗せると、シロップ、ミルク、ストローを順番に並べていく。
カロボスはコーヒーの入ったコップを一瞥すると「おう」と返事だけして、またすぐにモニターへと視線を戻す。
テリィは緊張を隠すように、努めて冷静に振る舞い、もう一度「失礼します」と頭をさげ、振り返ることなく部屋を後にした。
テリィの作った毒に即効性はない。
カロボスが口にするところまでは確認できなかったが、仮にあの後すぐ口にしたとしてもしばらくは無症状である。
多少個人差はあるが大体服毒してから4~6時間ほどで倦怠感が表れ始め、8時間経つ頃には息苦しさなどの呼吸器系の症状が出始める。
ここまでならばさほど深刻な症状ではないので、風邪かなにかだと思って薬を飲んで済ます程度だ。
しかし12時間ほど経つと全身の麻痺や意識障害が出はじめ、16時間経つ頃にはほぼ確実に命を落としている。
そしてその頃には体中から毒の成分も綺麗に消えているはずだ
つまり午前中に毒を盛ることができれば、翌朝までには間違いなく標的を死に至らしめることができる。
「テリィ、こっちのタオルは調理場持って行ってくれ、あと午後一でシュナが出した掃除の汚れ物があるだろうから、それは1人で頼むな」
「わかりました、こっちの青いタオルはジムの棚で大丈夫ですよね」
テリィは浮足だったりそわそわすることはせず、あくまで平静を装っていつも通り業務をこなし、時折時計を確認する。
(多分昼過ぎ頃までは症状が出ないはずだから、その時まだハスクさんがコップを片付けてなかったら俺が片付けよう)
ハゼットに振られた仕事をこなしながら、テリィは心のなかでこの後の動きについて確認する。
死亡すれば体内からは毒の成分が消えるが、万一毒を盛ったコップを調べられたらアウトである。
しかし前述の通り症状がでるまでは十分な時間の余裕があるため、証拠の隠滅をする隙は十分にある。
以前仕事で毒を盛った時も、健康ドリンクのコップは濯けば問題なく、葉巻も吸い殻として処分すれば問題なかった。
そもそも体内から毒の成分が検出されないのだから毒殺だと気付かれることもないし、気付かれたとしてもそのときには証拠も処分できている。
カロボスもいままで通りなら、今日の日付が変わるころには絶命するはずだ。
乾燥の暖かさがまだ残っているタオルをジムの棚に入れ、時計を確認すると10時を少し過ぎた時間だった。
あとは今日の夕方業務が終わったら毒を保存していた小瓶を全て洗い流して処分し、翌朝カロボスの死を確認し、屋敷内が混乱している間に依頼主に連絡を入れ、あとは流れに任せてこの屋敷を後にすればいい。
達成感と、人の死を直前にした時の例えようのない虚無感、そしてこの時だけ僅かに感じる罪悪感。
思い出せば父の死の原因を作った男たちや、あのブラック企業の男にも、彼らを中心として回っている家庭や社会があった。
自分がしていることは、また新しく自分と同じような境遇の人間を生み出すことに他ならないという矛盾にも苛まれる。
誰にも誰かの命を奪っていい権利などありはしないのに、だからといって理不尽に死を選ぶしかなかった父と家族を失った自分を客観的に見て達観できるほど大人にもなれなかった。
カロボス殺害の依頼をだしていた男は、ジャハンナムのライバル企業にあたる会社の役職についている男だった。
ジャハンナムの台頭によって急激に業績が悪化し、会社から無理な予算や目標を設定され、なんとか結果をだそうと頑張っているうちに心身を疲弊させて鬱病を発症した上、人員削減の憂き目に合い家族とも離れることになり、最後に残ったのが病気の体だけという悲惨な末路となっていた。
冷静に見れば逆恨み以外なにものでもないのだが、会社のせいで心を病んでしまったこの男にテリィは同情してしまった。
「きっとロクな死に方できないんだろうな…」
すでに3人、そしていままさに4人目の命を奪おうとしている自分は、今まで殺してきたどんな人間達よりも邪悪だろう。
広い廊下の真ん中でテリィは1人呟き、自分の未来にもう救いなどないと感じながら、やがて諦めたようにため息をついて仕事に戻った。
昼食の時間となり、ハスクに確認したところ、すでに飲み物の容器は片付けられており、しっかりと洗浄までされていた。
これであと証拠として残る可能性があるのはテリィの持っている毒入りの小瓶だけだが、それも今日中に始末する予定だ。
毒を盛ってからおよそ4時間、早ければ症状が出始める頃だ、とカトラリーの用意をしながら時計の確認をしようとした時、ふいに食堂の扉が開き、今まさにテリィが思っていた人物が現れた。
「あれ?社長今日こっちで昼飯食うの?」
「あぁ、午前中の、ってか今日の仕事終わったからな、もうあの部屋いたくねぇ」
カロボスは機嫌悪そうに言い放つと、広いテーブルの一番奥にどかりと腰を下ろした。
いつもは仕事部屋で食事をとることが多いカロボスだが、こうして仕事が一段落した時などは食堂に顔を出し一緒に食事をとることがあった。
テリィは急いでカロボスのテーブルセッティングを済ませ、昼食のメインをどちらにするか尋ねると「肉」とだけ短く応えた。
その返事はハスクにも聞こえたようで、大鍋の前から「はいはい」と相変わらずのフランクな声が聞こえた。
「社長今日の仕事終わったの?じゃあ午後一緒に遊べるよね、テニスやろーぜ!」
「終わったのは俺だけだ、お前はちゃんと時間通り働け」
「えー、今月全然一緒に遊べてないじゃん、今日半休ってことにして遊ぼうよー」
「今月はまだ忙しいんだよ、…来月なら多少暇になるからもう少し待ってろ」
子供の用に駄々をこねるシュナに、カロボスは面倒くさそうにしながらも、気心知れた相手にしかみせない笑顔をのぞかせた。
こんな日常、当たり前の幸せすら自分は奪おうとしている。
考えないようにしていても、軽口を言い合う彼らを見ているとどうしても心が澱んでいく。
自分の居場所ではないこの場所を、自分は奪おうとしている。
けれどもう後戻りはできない。
今はまだ症状が出ていないようだが、間もなくあの毒がカロボスの体を蝕みはじめるだろう。
(そうだ…最初の1人を殺した時点でもうとっくに後戻りなんかできないんだ…)
他愛のない食卓の会話に混ざりながら、テリィは感情を心の奥底に沈める。
今までも、これからも、人の命を奪ったという事実は変えられない。
仮にこの先どこかで生き方を変えようともその事実は生涯ついてまわる。
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