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本編1
06.ぎこちない日常02
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耀一郞が残った皿を引き寄せて速いペースで食べていく。その様子をアイランドキッチンからちらりと見て、明日の朝食の用意をする。
いつもの通り食パンと卵料理、それにサラダでいいだろうか。だが一月も終盤の今では寒くて食欲が湧かないかもしれない。
(温かいものがあった方がいいのかな?)
スープなどを用意した方がいいのか、それとも……。
勇気を振り絞って訊ねてみた。
「食事中すみません……朝食はなにがいいでしょうか……」
「なぜ朝飯のことを気にするんだ?」
「準備しないといけないので……いつものメニューにポタージュスープがあった方がいいですか?」
「……準備?」
小野電機工業の創業者一族に産まれ使用人に囲まれて育った耀一郞には、料理の知識がないのだろう。朝起きてすべてを用意するには時間が足りない。パンや卵料理はいいが、スープとなるとそうはいかない。
「下準備をしておかないと……」
「そういうものなのか。今までと同じでいいが、コーヒーがあると助かる。ブラックで」
それは初めて耀一郞から出た要望だった。樟はパッと顔を輝かせて、「はいっ!」と答えるとすぐにストッカーを見た。確かドリップコーヒーがあったはずだ。
それはすぐに見つかった。
見慣れないメーカーだがこの家に置かれてあるということは菊池の家では馴染みがないほど高級なものに違いない。
キッチンにそれを置くと、樟の真似をして手を合わせた後に耀一郞が皿をシンクに持ってきた。
「ありがとうございます」
受け取って洗い始める。膨らんだお腹で夜を過ごすのはどれほどぶりか。幸せな気持ちは気付かない間に鼻歌を奏で始める。いつものようにビルトイン型の食器洗浄機に置いていると、耀一郞が覗き込んできた。
「……なぜ手で洗っている。そこに食洗機があるだろう。うちの関係者が自社商品をなぜ使わない」
乾燥機能しか使っていない食器洗浄機は、よく見れば小野電機工業のロゴが刻まれている。
「あの……洗剤とかどうやって投入して良いか分からなくて」
「このタイプはそのまま洗剤を投入すればいい。並べ方も推奨するやり方がある、あとで動画を確認しろ」
入れた食器を取り出し、耀一郞が入れ替え始める。茶碗や大きな食器が規則正しく並べ、見本を見せるように粉の洗剤をサッと入れると、収納してボタンをピッピッと押した。
流れるような作業に見入る。
家事とは無縁な人がこんなにも使いこなすなんてと驚いた次の瞬間、納得した。
耀一郞はこの会社の社長だ。知らない方が恥ずかしいのかもしれない。
「教えてくれてありがとうございます」
「あるものは有効活用しろ。使い方がわからないなら、部屋のパソコンで調べればいい」
だが樟はちょっとだけ困ったように笑った。
パソコンなんて一度も触ったことがないと言ったら驚かれるだろうか。それとも今時パソコンも使えないのかと呆れられるだろうか。スマートフォンすら与えられなかった樟は、自分がとんでももなく情弱だとわかっている。今、耀一郞に作っている料理だって祖母が持たせてくれた料理本に載っているものばかりで、近頃流行りの洋食などは作ることができないし、名前も知らない。
けれど恥ずかしくてパソコンを使えないと言えないから笑って誤魔化した。どうしても、耀一郞に笑われたくない。みっともない人間だと思われたくない。
キッチンを見回せば、置いてある家電はすべて小野電機工業の商品だ。テレビや空気乾燥機、エアコンに至るまですべて自社製品なのかと感心した。
(そりゃそうだよね、だって社長だもん、耀一郞さんは。でも説明書がないからどうやって使うかわからないってもう言えないな)
なるべく家事をしているところを見られないようにしないと。
耀一郞自身は使わなくても使い方は絶対に樟よりも詳しいのだから。
こくんと頷いて、濡れた手を拭いた。
僅かに肩が落ちた。せっかくの楽しい時間を自分が壊してしまった懺悔だ。
耀一郞がいつものようにスッと目を細め、その様子を見てから壁に掛けられたデジタルカレンダーを見た。
「明後日の土曜日、どこかに出かけるか」
「……その予定はありませんけど……」
むしろ予定を入れるだけの用事を持っていない。専業主夫で連絡手段すらない樟を誰も誘って来ないし、そんな知人すらいない。その上出かけようと思えるほど街を知らないし、買いたいものもない。
(耀一郞さんが揃えてくれたから困ってないから……)
けれど出かけろと言われたらどこかで時間を潰さなければいけない。
「どれほどの時間、出かければいいんでしょうか」
家にいるなという意味で取った樟に、今度は耀一郞が驚いた。
「何を言っている。一緒に出かけるんだ」
「え……?」
信じられず訊ねる。
「お仕事関係の何かでしょうか……だったら僕を出すのは会社の恥になりませんか?」
オメガを同伴したとなったら他の人たちが不快になるのではないか。
「プライベートだ。とにかく出かけるぞ」
「……わかりました」
結婚してから初めて耀一郞と一緒に移動することになる。これまで退院した時だけだ、外で一緒だったのは。
「……着るものはこちらで用意する。だからお前はそれまでに体力を付けておけ。入院で随分と筋肉量が減ったんだろう」
「そう……ですね」
元々付いていなかった筋肉すらも一ヶ月の入院で削げ落ちてしまった。
細かった手足はもっと細くなり、まるで枯れ枝のようだ。頑強な肉体を維持している耀一郞からしたらみすぼらしく映るだろう。また小声で「ごめんなさい」と謝る。それしか樟にはできないから。
「明日は診察だろう。もう寝ろ」
長い嘆息のあと、耀一郞は一言残してリビングを出た。
扉の閉まる音を聞いてから項垂れた。
どうも樟は耀一郞が望む言葉を口にできていないらしい。彼がどんな返答を求めているのかわからなくて、自分でももどかしい。
(せっかく声をかけてくれたのに……久しぶりに話せたのに……)
誰かと話をするのはやはり楽しくて嬉しくて、けれど耀一郞が浮かべる愁いを帯びた顔を見れば自分の不甲斐なさに落ち込む。
シンクを綺麗にしてテーブルを拭いてから自室に戻った。
退院しても、週に一度は経過観察のために通院を義務づけられている樟は、肩を落として明日の準備を始めた。
刺すような痛みを帯びた風が通り抜けるたびに樟は身を縮込ませた。包むように持っている缶コーヒーから暖を取る。耀一郞が用意してくれたダウンコートがなければ――実家から持ってきたコートだったら確実に風邪をぶり返していただろう。
「やはりここでお茶というのは厳しいですね」
「そう……ですね。でも診察室じゃなくて良かったんでしょうか」
まさか診察を病院の周囲に広がる緑地スペースの、しかもベンチに座ってコーヒー片手に行うなど想像もしなかった。カシミアのマフラーに顔を埋める。
いつもの通り食パンと卵料理、それにサラダでいいだろうか。だが一月も終盤の今では寒くて食欲が湧かないかもしれない。
(温かいものがあった方がいいのかな?)
スープなどを用意した方がいいのか、それとも……。
勇気を振り絞って訊ねてみた。
「食事中すみません……朝食はなにがいいでしょうか……」
「なぜ朝飯のことを気にするんだ?」
「準備しないといけないので……いつものメニューにポタージュスープがあった方がいいですか?」
「……準備?」
小野電機工業の創業者一族に産まれ使用人に囲まれて育った耀一郞には、料理の知識がないのだろう。朝起きてすべてを用意するには時間が足りない。パンや卵料理はいいが、スープとなるとそうはいかない。
「下準備をしておかないと……」
「そういうものなのか。今までと同じでいいが、コーヒーがあると助かる。ブラックで」
それは初めて耀一郞から出た要望だった。樟はパッと顔を輝かせて、「はいっ!」と答えるとすぐにストッカーを見た。確かドリップコーヒーがあったはずだ。
それはすぐに見つかった。
見慣れないメーカーだがこの家に置かれてあるということは菊池の家では馴染みがないほど高級なものに違いない。
キッチンにそれを置くと、樟の真似をして手を合わせた後に耀一郞が皿をシンクに持ってきた。
「ありがとうございます」
受け取って洗い始める。膨らんだお腹で夜を過ごすのはどれほどぶりか。幸せな気持ちは気付かない間に鼻歌を奏で始める。いつものようにビルトイン型の食器洗浄機に置いていると、耀一郞が覗き込んできた。
「……なぜ手で洗っている。そこに食洗機があるだろう。うちの関係者が自社商品をなぜ使わない」
乾燥機能しか使っていない食器洗浄機は、よく見れば小野電機工業のロゴが刻まれている。
「あの……洗剤とかどうやって投入して良いか分からなくて」
「このタイプはそのまま洗剤を投入すればいい。並べ方も推奨するやり方がある、あとで動画を確認しろ」
入れた食器を取り出し、耀一郞が入れ替え始める。茶碗や大きな食器が規則正しく並べ、見本を見せるように粉の洗剤をサッと入れると、収納してボタンをピッピッと押した。
流れるような作業に見入る。
家事とは無縁な人がこんなにも使いこなすなんてと驚いた次の瞬間、納得した。
耀一郞はこの会社の社長だ。知らない方が恥ずかしいのかもしれない。
「教えてくれてありがとうございます」
「あるものは有効活用しろ。使い方がわからないなら、部屋のパソコンで調べればいい」
だが樟はちょっとだけ困ったように笑った。
パソコンなんて一度も触ったことがないと言ったら驚かれるだろうか。それとも今時パソコンも使えないのかと呆れられるだろうか。スマートフォンすら与えられなかった樟は、自分がとんでももなく情弱だとわかっている。今、耀一郞に作っている料理だって祖母が持たせてくれた料理本に載っているものばかりで、近頃流行りの洋食などは作ることができないし、名前も知らない。
けれど恥ずかしくてパソコンを使えないと言えないから笑って誤魔化した。どうしても、耀一郞に笑われたくない。みっともない人間だと思われたくない。
キッチンを見回せば、置いてある家電はすべて小野電機工業の商品だ。テレビや空気乾燥機、エアコンに至るまですべて自社製品なのかと感心した。
(そりゃそうだよね、だって社長だもん、耀一郞さんは。でも説明書がないからどうやって使うかわからないってもう言えないな)
なるべく家事をしているところを見られないようにしないと。
耀一郞自身は使わなくても使い方は絶対に樟よりも詳しいのだから。
こくんと頷いて、濡れた手を拭いた。
僅かに肩が落ちた。せっかくの楽しい時間を自分が壊してしまった懺悔だ。
耀一郞がいつものようにスッと目を細め、その様子を見てから壁に掛けられたデジタルカレンダーを見た。
「明後日の土曜日、どこかに出かけるか」
「……その予定はありませんけど……」
むしろ予定を入れるだけの用事を持っていない。専業主夫で連絡手段すらない樟を誰も誘って来ないし、そんな知人すらいない。その上出かけようと思えるほど街を知らないし、買いたいものもない。
(耀一郞さんが揃えてくれたから困ってないから……)
けれど出かけろと言われたらどこかで時間を潰さなければいけない。
「どれほどの時間、出かければいいんでしょうか」
家にいるなという意味で取った樟に、今度は耀一郞が驚いた。
「何を言っている。一緒に出かけるんだ」
「え……?」
信じられず訊ねる。
「お仕事関係の何かでしょうか……だったら僕を出すのは会社の恥になりませんか?」
オメガを同伴したとなったら他の人たちが不快になるのではないか。
「プライベートだ。とにかく出かけるぞ」
「……わかりました」
結婚してから初めて耀一郞と一緒に移動することになる。これまで退院した時だけだ、外で一緒だったのは。
「……着るものはこちらで用意する。だからお前はそれまでに体力を付けておけ。入院で随分と筋肉量が減ったんだろう」
「そう……ですね」
元々付いていなかった筋肉すらも一ヶ月の入院で削げ落ちてしまった。
細かった手足はもっと細くなり、まるで枯れ枝のようだ。頑強な肉体を維持している耀一郞からしたらみすぼらしく映るだろう。また小声で「ごめんなさい」と謝る。それしか樟にはできないから。
「明日は診察だろう。もう寝ろ」
長い嘆息のあと、耀一郞は一言残してリビングを出た。
扉の閉まる音を聞いてから項垂れた。
どうも樟は耀一郞が望む言葉を口にできていないらしい。彼がどんな返答を求めているのかわからなくて、自分でももどかしい。
(せっかく声をかけてくれたのに……久しぶりに話せたのに……)
誰かと話をするのはやはり楽しくて嬉しくて、けれど耀一郞が浮かべる愁いを帯びた顔を見れば自分の不甲斐なさに落ち込む。
シンクを綺麗にしてテーブルを拭いてから自室に戻った。
退院しても、週に一度は経過観察のために通院を義務づけられている樟は、肩を落として明日の準備を始めた。
刺すような痛みを帯びた風が通り抜けるたびに樟は身を縮込ませた。包むように持っている缶コーヒーから暖を取る。耀一郞が用意してくれたダウンコートがなければ――実家から持ってきたコートだったら確実に風邪をぶり返していただろう。
「やはりここでお茶というのは厳しいですね」
「そう……ですね。でも診察室じゃなくて良かったんでしょうか」
まさか診察を病院の周囲に広がる緑地スペースの、しかもベンチに座ってコーヒー片手に行うなど想像もしなかった。カシミアのマフラーに顔を埋める。
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