【書籍化進行中】不遇オメガと傲慢アルファの強引な結婚

椎名サクラ

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本編1

エピローグ

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 けたたましい目覚まし時計の音に、樟は怠い身体を起こし、スイッチを切った。
 起きなければならない時間だが、昨日も一昨日も起き上がることができなくて、何時間も目覚ましが鳴り続けるという失態をおかしたのだ。

 今日は意地でも起きて朝食を用意しないと。
 ベッドからそっと下りて、床に散らばっているパジャマ代わりのTシャツを身につけてから静かに部屋を出た。
 朝食の準備をするためにキッチンの中をあちらこちらへと移動するが、その動きは危うく、今にもくずおれそうだ。

 時折トントンと腰を叩いて、簡単な朝食を用意する。
 袋に入ったカット野菜を盛っただけのサラダをテーブルに置き、レンジで温めた冷凍スープ、それに厚めに切ったトースト用のバターとジャムをテーブルに置く。
 整ったのを確かめてから、トーストは後で焼こうと樟はまたフラフラと寝室へと向かう。

 そのうなじにはくっきりとした噛み跡が付いている。
 初めて身体を重ねた日から三年が経った。
 二人とも心に傷を宿しトラウマがあると、安井のカウンセリングを受けながら少しずつ心の整理をしている。

 菊池製作所は、倒産した。

 主要取引先である小野電機工業の契約を切られ、立ち直ることもできないまま不況の荒波に飲まれてしまった。
 きょうも、樟への暴力で服役となり、今はどうなっているかわからない。
 きっと父は樟に連絡を取ろうとしたことだろう。だが訪ねたマンションの部屋はもぬけの殻だ。あの後すぐにもっとセキュリティが厳重なマンションに移り、今日まで穏やかに過ごしている。

 だが、もっと衝撃的な出来事があった。
 隆一郎が逮捕されたことだ。
 オメガへの強制猥褻と、番への精神的身体的暴力が週刊誌に掲載された。今まではオメガに厳しかった世論も、悲惨な画像とともに大げさに書かれた記事に煽られて、オメガの人権保護へと流れを変えた。

 穏やかに見えた隆一郎がまさかと驚いた樟は、自分もまた義父のターゲットになっていたことを知らされ震えた。
 世間への謝罪を、耀一郞は堂々と行った。一切の弁明をせず雑誌に記載されたすべてが真実であり、訴えは正当であったこと、被害者に非がないことを伝え頭を下げた。
 父のプライベートを無関係の息子が謝るのはおかしいと擁護の声が上がったことにより、小野電機工業の評判に傷が付くことはなかった。
 その姿をテレビ画面越しに目にした樟は、彼へと向ける気持ちが膨らんだのだった。

 忙しない日々だったが、樟は誰よりも幸せだと断言できる。
 広い部屋に見合った大きなベッドに近づくと、布団の盛り上がりを軽く揺すった。

「起きてください、耀一郞さん。朝ですよ」

 布団から伸びた手がするりと樟のウエストを抱き込む。

「あっ」

 パフンと布団越しに盛り上がりの上に乗せられた。

「大丈夫か?」
「ビックリしました!」
「はっ、違う。こっちのことだ」

 大きな掌がするりと樟の細い腰を撫でた。甘い声を漏らすのを聴いて、少し丸みの付いた尻を揉み始める。

「ダメですっ……やめてくだっ……やだっ」

 すぐに吐息が熱くなり、力が抜けてしまう。
 そのはずだ、まだ身体が耀一郞を欲しているのだから。
 カウンセリングと並行して発情不全の治療を行っている樟は、二ヶ月前に初めて発情期ヒートを迎え、すぐさま耀一郞に噛まれたのだ。
 あの瞬間の嬉しさと身体の痺れを思い出すだけで、自分は愛されているのだと幸福が心に満ち溢れる。

「もう……起きないと遅刻しますよ……発情期ヒート休暇は昨日までって言ってましたよね……それ以上しちゃ……ダメですっ!」

 本気で怒っているのに、布団の中からくぐもった笑い声が上がる。

「また引っ越しをしないとな」
「どうして、ですか……あっ、そこだめ!」

 耀一郞の手が、尻の割れ目を指で辿る。それだけで甘い痺れが駆け上がり、まだ発情期ヒートの余韻が樟を包み込み、最奥が疼き出す。

「この一週間、あんなにしたんだ。子供ができてるはずだ。もっと広い所に移らないといけないだろう」

 カッと顔の赤味が増した樟は、隠すように布団に頬を押しつけた。
 二度目の発情期ヒートがいつ来るかわからなかったが、思いの外早かった。パニックになった樟は、滅多に使わないスマートフォンで助けを求めたのだ、自分の夫であり、愛おしい番に。
 耀一郞はすぐに帰ってきて、溺れるほどに樟を満たしてくれた。何度も愛していると囁き、繋がったままうなじや肩を噛まれた。

 愛情ばかりを注がれて、その結果にまで思い至らなかった。同時に「あれだけ」の激しさを思い出して、ずっと耀一郞の逞しいものを受け止めた最奥が切なくなる。
 このままではまた耀一郞が欲しくなって彼を休ませてしまう。
 隆一郎がいなくなり最高経営責任者となって以前よりもずっと忙しくしている。なのに発情期でこんなに休んで仕事は大丈夫かと心配になる。
 愛しい人を欲する気持ちを振り切って起き上がった。

「もう! バカなことを言ってないで起きてください。今日は出社するんですからちゃんとしてください!」

 淫らに動く大きな手から逃れ、キッチンへと向かった。食パンをトースターにかけ、ゆっくりとドリップコーヒーを落とし、耀一郞の好みにミルクと砂糖を入れる。
 ダイニングテーブルにマグカップを置くと、起き抜けの耀一郞が現れた。

「用意してくれてありがとう、樟」

 細いウエストを抱き、唇を合わせるだけのキスをする。
 結婚してすぐの頃からは信じられないほどの甘さは、本人曰く樟に見合う男であると示す行為らしい。わかりやすく愛情を示した方が樟が不安にならないだろうと嘯くが、怒ったフリをしても自然と口元が緩む。

「一緒に食おう。いただきます」

 向かい合って同じご飯を一緒に食べる。ただそれだけでも、辛い時期を経験した二人には特別な儀式であった。

「……ボランティアはいつまで休めるんだ?」
「発情が完全に落ち着くまでは出てくるなって久乃ひさのさんに言われているので、もうしばらくは家にいる予定です」

 樟は今、職業訓練を受けながらあのNPOの手伝いをさせて貰っている。これから先どうするかは決めていないが、誰かの役に立てる自分でありたいと、耀一郞やNPOのスタッフと相談してボランティアをやっている。
 だが耀一郞は辞めろと言わないもののあまりいい顔はしない。番が他のアルファに掠われるのではと不安が勝るのだとか。

「そうしてくれ。まだ樟を独占したい」
「いつもしてるじゃないですか。コーヒーのおかわりはいかがですか?」
「貰おう。子供が生まれたらかかりきりになるだろう。そしたら私は相手をして貰えなくなる。それまでの間は独占したいんだ」

 まだ妊娠も決まっていないのに気が早すぎる。

「ではアフターピルを飲みますか? ちょっと遅すぎますけど」
「いや、必要ない。生まれてくるのは二人のかすがいなんだ、もっとお前を私に縛り付けられる」

 嬉しそうに言って、たっぷりのコーヒーを煎れたマグカップを置く手を握ってくる。

「…………遅刻しますよ」
「安心しろ。世の中には重役出勤という言葉があるんだ」
「社長がそれじゃ示しが付きません」

 だが誘われるがままに上体を傾ける。
 肉厚の唇が樟の下唇を啄み、甘い刺激を与えてくる。存分に貪って自ら舌を伸ばし可愛がられにいけば、朝の挨拶にしては濃厚な口づけが始まった。たっぷりと愛情を伝えられ離れる頃には、樟の眦はとろりと溶けて赤く色づく。

「今日はなるべく早く帰る。昨夜の続きをしよう」
「仕事、忙しいんじゃないんですか?」
「すぐに片付けるから安心しろ。私の有能さはお前が一番よく知っているだろう」

 チュッと音を立て唇を吸ってから耀一郞は立ち上がった。
 着替える間に樟はテーブルの上を片付ける。吐息が熱くて、甘い。
 きっちりネクタイを締めて再びリビングに現れた耀一郞のスーツ姿に胸が跳ね上がる。仕事をしているときの格好が一番好きだと言えないまま、胸の中でこっそりと自分の配偶者を褒めそやす。
 僅かに冷めたマグカップのコーヒーを飲み、それから鞄を手に取って玄関に向かった。
 パタパタとスリッパの音を響かせ後を追う。

「行ってくる。私が帰ってくるまで絶対に玄関を開けるな。いいな」
「わかってます」

 いつものやりとりをして、触れ合うだけのキスを交わしてから樟は小さなおねだりをその形のいい耳に吹き込んだ。

「今日は耀一郞さんが作ったご飯が食べたいです」

 途端に耀一郞の顔が険しくなる。
 退院した日に作ってくれたしょっぱいおにぎりが、本当に美味しくて大好きなんだと伝えたのは少し前のこと。それからというもの、秘かに料理の本を買って研究しているのを知っている。
 自分のために作ってくれる料理を食べて愛されているのだと実感したくて、わがままを言ってみる。
 かつての厳しい表情になった耀一郞を見ても、以前のように恐怖は浮かばない。
 もう知っているからだ、悩んでいる時や困っている時にその顔をするのを。

「……わかった、善処する」
「楽しみにしてます。行ってらっしゃい」

 バタンと扉が閉まるまで手を振る樟の笑顔は、どこまでも幸せが溢れ出ていた。


-END-



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最後まで本編をお付き合いくださり、ありがとうございます
番外編が二編ございますので、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです
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