おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

8-2

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 随分と長い時間打ち続けたような気がする。一体どれだけの時間同じ態勢でただひたすらタイピングしていたのかわからない。

「ちょっと……やりすぎた」

 トイレにもいかずただひたすら椅子に座り続けていたのは間違いない。そのせいで身体中がコンクリートで固められたかのようにどこもかしこも動かしづらくなっている。だが徹夜慣れしている身体はまだまだ正常に動ける状態だ。

「トイレと……水分……」

 独り言を漏らしながら部屋を出ると、そこは眩しいくらいに光が差し込んでいる。チラリと時計を見ればもう正午に差そうと長針が必死で揺れている。果たしてその前に部屋を出たのはいつだったのかも覚えていないが、夜だったのは間違いない。

 フラフラしながら食卓のテーブルに近づけば、そこには久しぶりに目にする箱がいくつも置かれてあった。

「ぽっきーだ……」

 目をやれば自分が汚い字で書き込んだメモがどこにもなく、新たなレポート用紙が置かれており、そこには何かが書かれている。目を細め見れば、遥人の字が乗っている。

『ポッキーとトッポです、食べてください。あと、消化に良いおじやが鍋の中にありますので少しは食べてください』

「おじや……ってなんだっけ?」

 プログラミング言語以外が全く頭に浮かばなくなってしまった脳が理解を拒否して、日常生活で当たり前のような知識すら引き出すために動くことを拒否していた。

 中身を見ればわかるかとフラフラと引き寄せられるように鍋に近づき蓋を開ければ、細かく刻んだ野菜と卵が筋のように広がった粥のようなものが入っている。

 だが粥よりもずっと香ばしい。

(あ、これやばい奴だ)

 こんなものを食べてしまったら絶対に寝る。今の精神状況なら間違いなく満たされて眠ってしまう。

「見なかったことにしよう」

 感情というものを捨て去った隆則は申し訳ないと思うこともないまま蓋を戻し、とりあえずトイレを済ませ飲み物とポッキーの箱を手にまた部屋に籠った。

 パッケージを開け、棒状のビスケットをコーティングしたチョコレートの少量の糖分を摂取した脳は一気に活発化してフル回転を始める。

(これだ、これなんだよっ!)

 麻薬を投与されたかのように怪しく笑いながら、隆則はまた続きのコードを打ち始めた。少しの休憩をしたおかげでまた手が良く動く。このまま順調にいけば締め切り前には確実に上がるぞと妙なテンションでどんどんと打ち込んでいく。もう何日も風呂に入っていないだとか、まともな食事どころか睡眠すらまともに摂っていないことも気にならない。そしてそんな状況の自分と壁を隔てたむこう側に癒しの存在がいることすら今の隆則の感情を揺さぶりはしない。ただひたすら頭の中のコードを打ち出しそれが動きだすその瞬間に突き進むことしか存在しなかった。むしろそれが世界で最も大切なことのように勘違いしていた。

 おかしくなりながらも正しいプログラミングコードをはじき出す脳を休めることもないまま、時折補給される糖分だけで酷使していく。そして気を失うような眠りを座りながらしては、はっと目を覚ましてまた打ち込むことをひたすら繰り返していく。

 そして会社員時代からモットーとしていた締め切り前の提出を果たした時には、廃人のように窶れきった隆則が出来上がっていた。

「ぅわっ……え、五十嵐さんです、か?」

 その姿を初めて目の当たりにした遥人は幽霊にでもあったかのように驚き、そしてそれが隆則だと気づいたときにもっと驚いた。人間というのはここまで死相を顔に浮かべることができるなんて一般人は知るはずもないだろう。
 ほぼ一週間横になることがなかった身体はもう限界だと悲鳴を上げ、むくみで足元がしっかりとはしないせいで上体もが揺れてしまう。

「あーー、おかえり……」

 一瞬、彼が誰かわからずボーっと「綺麗な顔をした人だなぁ」と心の中で絶賛して、それが今自分の家に住み込みで家事をしてくれている遥人だと理解するのに時間がかかった。もう動くことを拒否した頭は全くと言っていいほど機能せず隆則から常識も良識をも奪っていた。

「仕事終わったんですか?」

 恐る恐る訊ねられ、コクンと頷きながら部屋のドアを開けっぱなしのままフラフラと風呂場へと向かう。いくらエアコンが効いた部屋だからといってさすがにもう風呂に入らないで一週間だ、自分の存在が気持ち悪くなってきている。どんなに徹夜に慣れても、この油を全身に纏ったような感覚だけはいつまで経っても慣れることがない。だからシャワーだけでも浴びようと風呂に向かおうとするのに、力の入り方を忘れた虚弱な足はたった数メートルの距離にある場所にすら辿り着くことができない。

「ちょっ! 五十嵐さん大丈夫ですか?!」

「ぁ……触らないでくれ……いま臭いから」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょうが。どうしたいんですか?」

「ふろ……入りたい」

 入らなければ眠ることなんてできない。この臭いまま布団に入ってもべたついた身体が気持ち悪くて悪夢を見そうだ。

「少し休んでからのほうが良いんじゃないですか?」

「やだ……ふろ……」

 ハリウッド映画のゾンビのようにフラフラしながらそこへと行こうとする隆則を遥人が慌てて支える。

「分かりました、連れていきますから俺に掴まってくださいっ!」

 大柄の遥人に引きずられるようにしてようやく風呂場まで辿り着くと、着衣のまま頭からシャワーを浴びた。

「五十嵐さん、服! 着たままですよ!!」

「うん……あーきもちいい……」

 もう立っていることができず洗い場にしゃがみ込みながら熱い湯が当たる感触を楽しんだ。

「濡れたら脱ぐの大変になりますよ…………あーもう! 失礼します!」

 なぜか遥人が苛立ったような声を上げ、靴下を脱ぎ腕まくりをすると風呂場に入ってきた。そして心地よいシャワーを止めまずはと隆則が着ていたトレーナーを剥ぎ取った。さすが六人兄弟の長男だ、その手際に無駄は一切ない。隆則も抵抗する気力なんてもうなかった。遥人は下も脱がし、それからもう一度シャワーを隆則に架けた。そしてそのままバスタブに腰かけながら隆則の身体を自分のすねに寄りかからせてから、髪に手を入れ全体にお湯をいきわたらせた。

「髪、洗いますよ。いいですか?」

 好きにしてくれと頷くのが精いっぱいだ。だって湯があまりにも心地よくて、腹が満たされた時のように全身が心地よくなっている。

 ボトルから出されたスカルプシャンプーのハーブの香りが浴室いっぱいに広がり、それがまた隆則を心地よくさせる。

 大きな手が頭皮をマッサージするようにしながらシャンプーを泡立てていき、皮脂でコーティングされた頭部を綺麗にしていく。乱暴ではなく本当に優しい指使いで彼は美容師だったっけとぼんやりと思う。首を後ろに倒され、顔にかからないようにシャワーヘッドを押し当てながら、泡が流されていく。

 心地いい。

 床屋の洗髪よりもずっと気持ちよくてこのまま眠ってしまいそうだ。同じようにトリートメントを付けられまた流されていく。

 遥人の慣れた手つきで優しく髪を撫でられていくと、とても大事なもののように思えてしまう。今まで抜け毛を気にするくらいしかしてこなかった髪なのに。

「五十嵐さん、寝るのはもう少し我慢してくださいね。今身体洗いますから」

 備え付けのボディタオルに液体ソープを垂らして泡立てた後、それが優しく肌を滑っていく。垢が溜っているはずの身体が少しずつ少しずつ清潔になっていくのを感じながら、そういえば物心つく頃にはこうして誰かに何かをしてもらうことなんてなかったなとぼんやりと考える。

 何かをしてもらうことよりも、何かをすることの方が多い。それが良しとされていて、気が付いたら自分でも自分のことを粗末に扱うようになってしまっていた。こんなに優しくされたら、自分がすごく愛されている人間のように勘違いしてしまう。本当は誰にも愛されていないのに。恋人だってできた例はないし、家族だってどこかよそよそしい。

(いや、家族がよそよそしいのは俺が悪いんだ……)

 隠し事をしているから家族と距離を置いてしまった自分。一人息子にそれなりの愛情を注いでいたであろう両親と兄弟にはもうこの数年会ってはいない。時折来ていた連絡に「結婚」の単語が出るようになってからは返事をしなくなり、そのまま疎遠にしてしまったのは他でもない自分自身だ。

 どう転んだって女を抱くことができない自分を曝け出せなくて、どんどん自分の殻に閉じこもってしまったのだから仕方ない。

 これからもこうして生きていくんだから、もうこれ以上はなにも望まない。

 だから……。

(これ以上優しくしないでほしいなぁ)

 優しい遥人の手がゆっくりと汚れた身体を清めていけばそれだけ、満たされることのない欲が膨れ上がってしまう。
 誰かにこんなに優しくされていたい、と。

 叶わないことなんて最初から分かり切っているから、諦めたほうが簡単。なのに、一度優しくされるとその決意が揺らいでしまう。

「もう……大丈夫だから……」

「何を言っているんですか。五十嵐さん動けないでしょ」

 眠すぎて動くことが億劫だ。だが、優しさを味わったら癖になる。いくら人道的見解に基づくものだって分かっていても、飢えた心は満たされたいと熱望してしまう。一度でも味わえば癖になり、もっともっととのめり込んでしまう。

(だめだ……これ以上何も期待するな。水谷君は絶対女の子の方が好きなんだから……)
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