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幸せの青い本 1
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明け方の住宅街。薄煙の中を高校の制服を着た長い黒髪の少女が歩いてくる。その双眸はどこにも留まらずただぼんやりと開いているだけだった。
ちょうどその付近で犬の散歩をしていた春日部トミ子46歳は、おびえる犬をなだめていた。犬は前からやってくる少女を恐れていた。
どうしたのかしら? 大きな犬にも負けないように立ち向かっていくうちのケビンちゃんが、声も出せないくらい怖がるなんて。
春日部トミ子の目が、少女を見る。どこにでもいそうなごくごく普通の女の子だ。でも、と春日部トミ子は首を傾げる。
こんなに早くに女子高生を見かけるなんて、まずおかしいのだ。何か事件でもあったのだろうか? 部活動に行く子でも、遠くの高校に通う子でも、もう1時間は遅く家を出るはずだ。事件でもあったのか。ああ、だからうちのケビンちゃんがそれを察したのか。なんて、うちのケビンちゃんは賢いのかしら。春日部トミ子は無理やりそう納得しようとした。
少女は春日部トミ子などいないかのように、さらりと前を通り過ぎる。春日部トミ子の耳に少女が小さな声で何かをつぶやいているのが聞こえた。
「大丈夫よ。お母さん、心配しないで」
春日部トミ子は少女がそうやって自分に言い聞かせてるのかと思った。この子はいじめられて学校に行けなくなって、それで今日、久しぶりに登校をするのだ。緊張感のあまりに家を早く出てしまっただけなのだ。
そう思って通り過ぎればよかった。ケビンのリードを引いても、鉛のような感触しか伝わってこず春日部トミ子はリードを捨てて逃げ出したい気分だった。
少女はまだそこにいる。一体何時間かけて目の前を通り過ぎようと言うのか。体は透明な泥の中を行くようだった。少女の声がクリアに耳を超えて脳に直接響いてくる。
「燃やしたわ。お父さん、私は平気だから着いて来なくてもいいのよ」
春日部トミ子は、叫びだしそうだった。
誰もいないじゃないの! あなたは一人で歩いているのよ! 誰もいないの。おかしなことをつぶやかないで!
叫びたくても口は動かない。何度も何度も心の中で唱え続けると、ようやく少女が前を通り過ぎた。春日部トミ子はようやく息をすることが出来た。どっしりと自分の汗で濡れた体に気持ち悪さを覚えながら、振り返ると少女の後姿を見つめた。さっきまでの重たさなど感じさせずにその姿はどんどんと遠ざかっていく。
よかったわ。あんなのと係わり合いを持たなくて。
春日部トミ子はほっと一息つく。その手からリードがするりと抜けて、ケビンちゃんはすさまじい速さで駆け去った。そのことが春日部トミ子に余裕を与えてくれた。
「しょ、しょうがない子ね……」
次の瞬間、春日部トミ子はいつの間にか目の前に立っていた二人の男女の姿に呼吸を忘れた。
目の前に立ち道を塞いでいる中年の男女は、どちらの肌も青白かった。春日部トミ子はこの肌の色と同じものを以前どこかで見たことがあった。それはすぐに思い出される。そうだ、死んだカエルの腹の色だ。小学生の頃、この辺りがまだ田圃道でよくヒキガエルが車に轢かれていた。その時の記憶が鮮明に蘇る。
見下ろしてくる男の顔も息がかかるほど近い女の顔にも、まったく生きている雰囲気が無かった。こっちを見ている、おそらく見ているだろう目には瞳は無く、ぼっかりと開いた穴の中には、深い深い暗闇が埋まっていた。
二人は、何も語らず春日部トミ子を見ている。ただゆらゆらと。それはまるでデパートののぼり風船のようだった。
明け方の住宅街。薄煙の中を高校の制服を着た長い黒髪の少女が歩いてくる。その双眸はどこにも留まらずただぼんやりと開いているだけだった。
ちょうどその付近で犬の散歩をしていた春日部トミ子46歳は、おびえる犬をなだめていた。犬は前からやってくる少女を恐れていた。
どうしたのかしら? 大きな犬にも負けないように立ち向かっていくうちのケビンちゃんが、声も出せないくらい怖がるなんて。
春日部トミ子の目が、少女を見る。どこにでもいそうなごくごく普通の女の子だ。でも、と春日部トミ子は首を傾げる。
こんなに早くに女子高生を見かけるなんて、まずおかしいのだ。何か事件でもあったのだろうか? 部活動に行く子でも、遠くの高校に通う子でも、もう1時間は遅く家を出るはずだ。事件でもあったのか。ああ、だからうちのケビンちゃんがそれを察したのか。なんて、うちのケビンちゃんは賢いのかしら。春日部トミ子は無理やりそう納得しようとした。
少女は春日部トミ子などいないかのように、さらりと前を通り過ぎる。春日部トミ子の耳に少女が小さな声で何かをつぶやいているのが聞こえた。
「大丈夫よ。お母さん、心配しないで」
春日部トミ子は少女がそうやって自分に言い聞かせてるのかと思った。この子はいじめられて学校に行けなくなって、それで今日、久しぶりに登校をするのだ。緊張感のあまりに家を早く出てしまっただけなのだ。
そう思って通り過ぎればよかった。ケビンのリードを引いても、鉛のような感触しか伝わってこず春日部トミ子はリードを捨てて逃げ出したい気分だった。
少女はまだそこにいる。一体何時間かけて目の前を通り過ぎようと言うのか。体は透明な泥の中を行くようだった。少女の声がクリアに耳を超えて脳に直接響いてくる。
「燃やしたわ。お父さん、私は平気だから着いて来なくてもいいのよ」
春日部トミ子は、叫びだしそうだった。
誰もいないじゃないの! あなたは一人で歩いているのよ! 誰もいないの。おかしなことをつぶやかないで!
叫びたくても口は動かない。何度も何度も心の中で唱え続けると、ようやく少女が前を通り過ぎた。春日部トミ子はようやく息をすることが出来た。どっしりと自分の汗で濡れた体に気持ち悪さを覚えながら、振り返ると少女の後姿を見つめた。さっきまでの重たさなど感じさせずにその姿はどんどんと遠ざかっていく。
よかったわ。あんなのと係わり合いを持たなくて。
春日部トミ子はほっと一息つく。その手からリードがするりと抜けて、ケビンちゃんはすさまじい速さで駆け去った。そのことが春日部トミ子に余裕を与えてくれた。
「しょ、しょうがない子ね……」
次の瞬間、春日部トミ子はいつの間にか目の前に立っていた二人の男女の姿に呼吸を忘れた。
目の前に立ち道を塞いでいる中年の男女は、どちらの肌も青白かった。春日部トミ子はこの肌の色と同じものを以前どこかで見たことがあった。それはすぐに思い出される。そうだ、死んだカエルの腹の色だ。小学生の頃、この辺りがまだ田圃道でよくヒキガエルが車に轢かれていた。その時の記憶が鮮明に蘇る。
見下ろしてくる男の顔も息がかかるほど近い女の顔にも、まったく生きている雰囲気が無かった。こっちを見ている、おそらく見ているだろう目には瞳は無く、ぼっかりと開いた穴の中には、深い深い暗闇が埋まっていた。
二人は、何も語らず春日部トミ子を見ている。ただゆらゆらと。それはまるでデパートののぼり風船のようだった。
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