優しい幽霊話、はじめました。

まだねむお

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空港の幽霊

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 もう帰って、と彼女は言った。

「見送りは、ここまででいいから。まだ結構時間があるし、あなた、退屈でしょ?」

 確かに、飛行機が出るまではまだ一時間以上ある。けれど本当は、俺には彼女に言わなければならないことがあった。

 行くな、と言いたかった。
 行くな、俺ともう一度やり直そう、と。

 けれど俺の口からは何も気のきいた言葉が出てこない。率直な言葉をぶつけるにはあまりに遅すぎた。俺たち二人の間で凍ってしまった時間は長すぎて、わだかまりを溶かすことは容易ではない。

 窓の外はこんなにも晴れて、夏の日差しが降り注いでいるというのに。俺と彼女の間には分厚い心の氷があって、口を開いた途端に言葉を凍らせてしまう。

「そっか」

 辛うじて、俺はかすれた声を出す。

「それじゃ、また」

 最後にしてはあまりに中身のない言葉だった。彼女はこの街を離れ、おそらくはもう戻ってくることはない。そもそも冷めていた二人が距離をおけば、クールダウンどころではない。後は電話と書類のやり取りで終止符が打たれるだろう。「また」なんてあるはずがないのに。

 彼女は小さくうなずいて、もう何も言わなかった。俺に止められることを望んでいたのか、それとも全てを諦めていたのか……凍った瞳からは何もわからなかった。



 暑い。
 夏の日差しはあまりに強く、きつすぎる光は景色の輪郭を曖昧にしていた。瞼の裏まで焼きつく光に、俺は目を細めながらとぼとぼと歩いていく。

「おじさん、何してるの?」

 突然声をかけられ、俺ははっとする。

 目の前に、真っ白なワンピースを着た女の子が立っていた。年齢は……小学校の何年生くらいだろうか?
 俺はそこまでの子を育てたことがないからよくわからない。男というやつは、一緒に年齢を重ねていかないと、途端に女の年齢を見失うものだ。

 そんなことよりも、だ。
 俺は、何をしていたんだっけ。

「ええと」

 周囲をぐるりと見回す。ここは、空港の敷地内……いや、敷地を出るところか。
 視界の向こうに、空へと旅立っていく飛行機が見える。物思いにふけっていたら、というかより正しくは、何も考えないようにひたすら身体を動かしていたら、いつの間にかこんなところに来てしまった。

「おじさんは、家に帰ろうとしてたんだけどね。ちょっと考えごとをしてて」
「迷子になっちゃったの?」
「そういうわけでもないけど」

 帰れないわけではない、と思う。
 遠くに空港の建物も見えるし、逆にこのまま道なりに歩いて行っても、駅やらバス停やらを見つけることはできるだろう。タクシーを拾ったっていい。

 女の子は、ふうん、と呟く。

「おじさん、空港に来てたの?」
「そうだよ」
「実は私、迷子なんだ。ねえおじさん、空港まで連れてってよ」

 俺はぽかんとする。一拍おいて、笑いが込み上げてきた。何だ、この子こそ迷子だったのか。それならそうと、早く言ってくれればいいのに。

「お父さんとお母さんはどうしたの?」
「空港にいると思う」
「君はなんでここに?」
「お父さんとお母さんが喧嘩してたから、お散歩してたら迷子になっちゃった」

 子どもなりに気を使って、席を外していたということだろうか。それにしたってあまりに遠くまで出歩きすぎだ。今頃この子の両親も、喧嘩を中断して我が子を探し回っているに違いない。それならば連れていってやろうかな、と俺は思う。どうせ今日はもう用事はない。このままあてもなく歩き続けるより、一旦空港に戻った方が、結果的には俺自身も帰りやすいだろうし。

「じゃ、俺と一緒に行くか?」
「いいの? ありがとう!」

 女の子は笑顔になって頭を下げる。
 先ほどの発言から、お姫様のようなわがままな性格かと思ったが、それなりに可愛らしいところもあるようだ。俺はくるりと方向転換して、ワンピースの女の子を連れて空港の建物へと戻り始めた。

「おじさんは、空港で何してたの?」
「お見送りに来ていたんだ」
「誰の?」

 足を進めながら、ずけずけと答えにくいことを聞いてくる。この年頃というのはそんなものなんだろうか? 遠慮がない。

「女の人」
「奥さん? 彼女?」
「もうすぐ、奥さんじゃなくなる人」

 女の子は一旦立ち止まった。大きな目を見開いて考え込んでいる。俺としては、ごめんなさい聞きすぎました、という反応を期待したけれど、残念ながら相手の反応は全くの真逆だった。興味津々の顔で、

「離婚するの? 喧嘩したの?」

 食いついてきた。面倒くさい。
 しかしそういえば、先ほどこの女の子は両親が喧嘩したと言っていた。となるとこの手の話題は気になるところなのかもしれない。俺はため息をつきながら答える。

「喧嘩と言えば喧嘩だけど、あまり言い合いとかはしてないよ」
「喋らないで喧嘩したの?」
「まあ、そうだね」

 再び歩き出しながら、女の子は少し口を尖らせる。ひどく不満そうに、

「言いたいことはちゃんと言えばいいのに」

 そうだな、と俺は思う。
 全くもって、その通り。

「言いたくても言えないことはあるよ」
「何で言えないの?」

 少女特有の潔癖さから繰り出される言葉に突っ込まれ続けて、俺は防戦一方だ。

「ええと……。うっかり、言ったらいけないことを口に出したら困るから、かな」
「おじさん、言っちゃいけないことを言ったことがあるの?」
「あるよ。実は、その人におじさんが言っちゃいけないことを言ったのが、喧嘩の始まりだったんだ」

 女の子は再び立ち止まった。
 俺も立ち止まる。相変わらず日差しがひどく眩しいけれど、少し風が出てきたようだ。白いワンピースが小さく揺れる。

「それで、喋らない喧嘩になったの?」
「その通り」
「おじさん、ごめんなさいって言った?」

 言っていない。俺は黙ってしまった。
 そう、思えば簡単な話だ。言ってはいけない言葉を口にしたのは俺の方。それなのに謝ることができず、時間だけが降り積もって、二人の間で凍りついてしまった。
 長い沈黙で質問の答を悟ったのか、まだ言ってないんだね、と女の子が呟いた。

「今からでも、ごめんなさいって伝えればいいのに」
「もう間に合わないよ。彼女が乗る飛行機は、多分もう飛んで行っちゃったから」

 俺は投げやりに言い返す。
 これだけ長く歩き回っていたら、さすがに飛行機の時間は来ているだろう。見知らぬ女の子とのやり取りに俺はだんだん苛々してきたので、あえて時計を確認することはしなかった。やっぱり子どもの相手は面倒くさい。さっさと案内してお別れしてしまおう。俺は立ち止まったままの相手に動くよう仕草でせかすが、空気を読まないお子さまは足を止めたまま、しつこく言う。

「もしも間に合ったら、言う?」
「あのさ、もうやめてもらえないかな。おじさんのことは君には関係ないし、多分君にはわからないと思うから」
「関係あるし、わかるもん」

 噛みつくように言葉を返された。女の子はわざわざ俺の真正面に回り込んで言う。

「私だって、ごめんなさいってずっと言えなかったこと、あるもん。でも、どうしても言わなきゃって思って、勇気を出して、ここに来たんだから」

 勇気を出して、ここに来た?
 意味がわからない。この子は突然何を言い出したのだろう。
 怪訝な俺に、女の子は頭を下げた。

「ごめんなさい」
「いやあの、意味がわからないって」
「待って。ちゃんと言うから」

 思いがけず真剣な目で相手は続ける。

「雪を見たいって言って、ごめんなさい」

 強い風が吹いた。白いワンピースが、ふわりと舞う。幼い黒髪が風に踊る。
 俺は愕然とする。
 何だって? 今、何て言った?

 女の子は静かに言葉を続ける。

「初雪の日だったよね。私は身体の調子が悪かったけど、どうしても雪を見てみたくて大騒ぎした。寝ているのが嫌で、雪に触ってみたくて大暴れしたの。だからお母さんが、仕方なく外に連れ出してくれて」

 夏の日差しが、急に強くなったような気がした。くらり、と眩暈がする。
 今の話は、俺の……。

 俺の、死んだ娘の話だ。

「でも、私はその夜、急に意識がなくなって死んでしまった。そうだよね?」

 女の子は寂しそうに微笑んで言う。

「急に死んじゃって、ごめんなさい」

 バカな……、そんな、バカな!
 俺は、女の子の顔をまじまじと見る。
 いや、違う。そんなはずはない。確かに俺には、幼くして死んだ娘がいた。

 インフルエンザ脳症。インフルエンザ感染によって免疫異常を起こし、急激に進行する神経症状と臓器不全によってわずか一日で死に至ることもある危険な合併症だ。
 けれど、そんな病で急死した俺の娘はまだ4歳だった。目の前にいる女の子は、明らかにそれより5歳は上。仮に幽霊なんて信じられないものが現れたとしても、年齢が違いすぎる。面影はなくもないけれど……。

 こちらの戸惑いを知ってか、女の子はその場でくるりと全身を一回りして見せる。

「成長してるのがおかしい? だって、ずっと一緒にいたんだもの。お父さんもお母さんもいつだって私のことが忘れられなくて、それなのにいつだって口に出して整理することができなかったから、余計に私の存在はどんどん大きくなった」

 俺はまだ信じられない。
 確かに、娘を亡くしたのは5年前だが……死んだ娘が、年月を重ねた姿で再び現れるなんて、まさかそんな。
 けれど女の子は、他の誰も知るはずがないことを語り続ける。

「お父さん、お母さんを怒ったよね? おまえが雪なんか見せに外に連れ出したせいで私は死んだって。よくわかってると思うけど、あれはダメだよ。絶対に言っちゃいけないことだったのに」

 そうだ。俺は目を伏せる。

 あの日、仕事にかまけて帰りが遅くなった俺は、本当にわけがわからないまま娘の死に対面することになった。インフルエンザ発症からわずか一、二日で急激で死に至る合併症があることも、その過程の神経症状で異常行動が起こる例があることも知らなかった。娘が無性に雪を見たがって騒いだというのは、その影響なのだろう。
 もちろん妻も知識がなかったし、何より必死だったのだ。でもやむを得ず外に連れ出したのはわずかな時間で、十分暖かい格好をさせていたらしい。彼女は娘の症状をいわゆる風邪によるものと思い、今日はもう診療時間外だから、安静にさせ様子を見て、明日病院に行こうと判断した。
 ところがその夜に娘は死んだ。

 もちろん、彼女の判断や観察力にいくつか問題はあったのだろう。けれどそれは後出しじゃんけんのように指摘しても意味がないことだし、何より自分を責めている当人に追い打ちをかけるなんて論外だ。
 なのに俺はそれをした。一番慰めてやらなければならないはずの俺が。
 妻の瞳が凍りついてしまうのも当然だ。

「ましろ……なのか?」

 俺は、ついに死んだ娘の名前を呼ぶ。雪の日に生まれた赤ん坊に、どうか白く美しい心になって欲しいと妻がつけた名前を。

 名を呼ばれた途端、女の子は嬉しそうに笑った。けれどその身体が、急に透き通る。
 俺ははっとした。死んだ者の名前を呼んではいけなかったのだろうか。目の前の娘の存在感が急速に薄れていく。

「おい、待ってくれ!」
『お父さん、まだ間に合うよ』

 白いワンピースの輪郭が、優しげな頬の線が、柔らかく流れる髪が、霞んでいく。
 夏の幻のような少女は、消えかけた唇で囁くように俺に言う。

『私が時間を止めてあげる。だから、お母さんに本当の気持ちを伝えて』

 娘の身体は、その言葉を最後に光に溶けて消えた。俺は思わず絶叫する。

「ましろ!」



 がたん、と大きな振動が身体に響き、俺は目を覚ました。
 ひどく感傷的な夢を見ていた。俺は半分寝ぼけたままで周囲を見回す。
 ここはタクシーの車内。
 そう、俺は空港から帰る途中だった。ついつい眠ってしまっていたらしい。

 前の席から、運転手が言う。

「すいませんね、お客さん。いきなり大渋滞になっちまって。しかしこりゃ、とんでもない異常気象だ」

 異常気象?
 俺は窓の外を見る。その途端、あまりの光景に驚いて目を見張った。

 雪が降っている。
 夏の盛りだというのに、とんでもない大雪が。道路に、看板に、建物の屋根に、天使の羽根のような真っ白な雪が、そこらじゅうに降っていた。
 夏の大雪。確かに異常気象だ。一体どうなっているんだろう?

 運転手がため息をつきながら言う。

「お客さん、空港からの帰りでしょ? よかったですね。これからの人は大変ですよ。こんな雪じゃ、飛行機が飛べやしない」

 俺は息を呑む。飛行機が飛べない?

(私が時間を止めてあげる)

 俺は運転手に噛みつくように尋ねた。

「すまん、今何時だ?」
「え? 午後二時十分……ですけど」

 そうか、と思う。それなら、彼女の飛行機のフライト予定時刻の五分前だ。
 俺は運転手に、一万円札を叩きつけるようにして渡した。

「すまんが降りる。開けてくれ。釣りはいらないから」
「え? お、お客さん?」

 タクシーから降りて、俺は来た方向へと勢いよく走り出した。
 そう、もう一度空港を目指して。

(お母さんに本当の気持ちを伝えて)

 純白の雪が、ふわりと肩に落ちる。
 髪にも、顔にも、背中にも。
 季節外れの大雪に呆気にとられた人々の間を縫って、俺は必死で足を動かす。火照った頬に当たる雪の冷たさが心地良い。

 さすがに五分では空港に戻ることはできないだろう。まだ道のりは長い。
 けれど大丈夫だ。こんな大雪では、飛行機は飛ぶことができない。ましろが時間を止めていてくれる。だから、急ごう。

 急ごう。彼女のもとへ。
 そして俺の本当の気持ちを伝えよう。許してもらえるかはわからないけれど、本気で謝って、心から想いをぶつけてみよう。

 きっとやり直せる。ただそう信じて。

 夏の雪の中、俺はひたすら走り続けた。
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