短き者達

雨彩 色時

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波は喰らう

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 私には名前がある。しかし、知らない人が見れば凡人とか普通の人と答えるだろう。間違ってはない。私自身、その様に振る舞っているし、その生き方しか知らないからだ。もう50年近くもそれ以外を知らないのだから。

「あの、ここが少し分からなくて…」
「真っ直ぐ家に帰るなんて、奥さんが羨ましいですよ。聞いて下さいよ。うちの人なんて…」
「お帰りなさい。お風呂沸いてるわよ」
「お父さん、そこのリモコン取って」


 本当に毎日が平和で、平凡だ。多分これが、人並みの幸せと言うのだろう。
 部下が頼ってくれて、事務の愚痴を聞いて、妻の優しいお出迎えにテレビっ子の息子。こんな生活に不満なんて贅沢な話だ。これから息子も成長して自立し、妻と老後の生活が待っている。定年を迎えたら、公園で散歩したりして。

「次は____駅です。お降りのお客様は…」


 私はいつも通りに通勤している。ここで降りなければならない。しかし、今日の私は違った。
 小説を読んでるのは変わらないのだが、夢中になり過ぎた。降りるはずの駅が、視界から横へ横へと消えていく。次で降りて、タクシーを使えば仕事に支障は無い。瞬時に問題は解決する。

「今日暑いなー。学校行きたくねー」
「サボって海行こうぜ」
「バーカ。親父に怒鳴られたくねーよ」


 いつもなら会わない学生の会話。確かに暑い。こんな暑い時の海風は気持ちいいだろう。そして、この電車は途中で、海が近い駅で停車する。そんな誘惑があるから、言葉にも出したくなる。
 そんな事を思っていたら、停車する。ここで降りなければいけない。なのに、身体が動かないのだ。会社に遅刻してしまう。

 そう言えば、小説がいい所だった。私は動かない足を諦めて、動く手で小説を開く。駅を降りたのは昼過ぎだ。マナーモードにしていた社用携帯に複数の不在着信。私用は妻からの不在着信と安否確認のチャットが、ホーム画面に表示されている。

「やっぱり、海風は涼しいな」


 波音はこんな状態の私ですら、魅了する。それは自身を平凡と思っていた私にとって、最高の音である。岩に衝突する度に波音は、私を喰らっている様だ。

 心臓にもし味があるのなら、きっと今美味しく海は私を喰らうだろう。
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