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知らない君へ
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僕は何も知らない。僕はそれを知らないから、分かりたいとも感じなかった。
無知は罪なんて言葉があるけれど、知らない方が幸せなんて言葉もある。だから、僕は知らない方が良かったと…今ですら思ってる。
「おはよう」
「…」
「…無視かよ」
挨拶は僕の中で不必要だった。家ではそんな相手は居なかった。そして、特別に不便とも思わない。家族は家族では無く、ただ同居している人と言う認識だ。
まだ幼い頃は、自発的に言っていた。しかしそれは、返って来ない。
「いただきます。は大切な言葉です」
道徳の授業で先生は堂々と教える。しかし、僕は言わない。味なんて変わらなかったからだ。むしろ、家の中で僕だけの声が響いて虚無感に襲われてしまった。
何かと人は言葉を魔法のように唱えるが、僕からしたら呪文で縛られるみたいで仕方がない。そのせいか、僕は独りである。
でも、大丈夫だ。その言葉を大事にしているが故に苦しい人もいる。偽りで言う人もいる。言わなければ良いのに口から出てきてしまうのだろう。
「おはよう」
「…」
「おはよう!」
「…」
「おーはーよーう!」
「…チッ」
「ねぇねぇ、聞こえてる? おはよう? まだ寝てんの?」
僕に興味本位で近付いてくる人は何人も居た。この女性もまたその1人だろう。このまま無視すれば、諦めてどこかに行って僕の陰口でも言うはずだ。
「噂通り、本当に喋らないね? せめて、挨拶くらいは返しなさいよ」
「…」
「ほーら!」
「…いっ!」
無視しながら歩いてる中、僕の背中に平手をした。こんな野蛮な女性に目を付けられると今後の学校生活に支障が出てしまう。
「…おはよ」
「なーんだ! 言えんじゃんか! うん! おはよう!」
彼女はニッコリとした笑顔で、僕の髪をくしゃくしゃにして改めておはようをくれた。先の学校生活を考えて、挨拶をした自分に少し嫌気が差す。
「んじゃ、私の教室こっちだから! バイバイ」
挨拶なんて何年振りに言っただろうか。彼女はきっと今日みたいな爽快な挨拶を毎日してるのだろう。
家に帰り着くとまた考えが引き戻される。ただいまなんて何年も言ってない。この家では言う必要がない。玄関の開いた音で十分なのだから。
起きて一言も喋らずに朝ごはんを食べる。何も言わず、黙々と食べ終わり、何も発すること無く家を出た。
これが僕のいつも通りの朝、当たり前の朝、知っている朝だ。
「おっはよーう!」
「…え?…ああ、うん」
「昨日言えたのに今日言えないの? ホラッおはよう」
「…お、おはよ」
「全く…赤ちゃんやオウムに言葉を覚えさせてる訳じゃないんだから」
成人となり、僕は彼女に言葉を教わった。それは僕を大きく変化させる。
「おはよう」で、朝を感じた。
「またね」で、明日を感じた。
「いただきます」で、味が変わった。
「ごちそうさま」で、味を覚えた。
「好きです。付き合って下さい」で、人生が変わった。
彼女と同棲を始めることになった。あの何も声が響かなかった家しか知らない僕にとっては新鮮な生活。
「ただいま」で、君に抱きついた。
「おかえり」で、君を抱きしめた。
「おやすみ」で、君に身を寄せた。
「ありがとう」と「愛してる」は、何度言っても言い足りない。だから、僕は何度でも君に言った。
君はよく笑う。泣いた顔なんて見たこと無い。僕も君につられて笑うようになったよ。
そして、今日は残酷な言葉を覚えた日。
「守れなくて…ごめん」
彼女は事故に遭った。ちょっと僕より前を歩いていた彼女だけが、車に轢かれた。
彼女の大好きなオムライスのお店へ行く予定だったんだ。ちょっと嬉しい気持ちが前に出て歩いただけなんだよ。僕にも食べて欲しいって、笑顔で言ってたんだよ。
「え、なんで…。いや、どうして…。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっ!!!」
血だらけの彼女に駆け寄る。もうどこを抑えて良いのか分からない。ただただ、彼女の身体は血を出すことをやめない。止まらない。
「ねぇ、嘘だよね? お前が居なきゃお店どこか分かんないよ…。食べて欲しいって言ったじゃんかっ!! オススメまだ聞いてないよ!? ホラッ起きろって…なぁ……。なぁっ!!!!!」
野次馬の雑音と救急車の音が混ざって聞こえる。僕は彼女を抱えたままで、救急車を忘れていた。
救急の人が僕から彼女を引き離す。僕にも何か言っていたが、うまく聞き取れない。分からないまま、僕も救急車へ乗り込んだ。
あれから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。医者が何を言っていたか覚えてない。しかし、淡々と足は動く。案内された扉の向こうを感じて、やっと理解した。
「こちらです」
僕は彼女になんと言えば正解なんだろうか。僕はこんなおやすみをまだ知らない。知りたくない。頭の中は忙しいのに身体と表情は一切動かない。
「守れなくて…ごめん」
きっと彼女は怒ってない。この言葉は彼女に向けてではなく、不甲斐ない自分に向けてだ。
これから僕は、彼女に教えてもらった沢山の言葉に縛られるだろう。覚悟をしておけ。
知っている僕より。
無知は罪なんて言葉があるけれど、知らない方が幸せなんて言葉もある。だから、僕は知らない方が良かったと…今ですら思ってる。
「おはよう」
「…」
「…無視かよ」
挨拶は僕の中で不必要だった。家ではそんな相手は居なかった。そして、特別に不便とも思わない。家族は家族では無く、ただ同居している人と言う認識だ。
まだ幼い頃は、自発的に言っていた。しかしそれは、返って来ない。
「いただきます。は大切な言葉です」
道徳の授業で先生は堂々と教える。しかし、僕は言わない。味なんて変わらなかったからだ。むしろ、家の中で僕だけの声が響いて虚無感に襲われてしまった。
何かと人は言葉を魔法のように唱えるが、僕からしたら呪文で縛られるみたいで仕方がない。そのせいか、僕は独りである。
でも、大丈夫だ。その言葉を大事にしているが故に苦しい人もいる。偽りで言う人もいる。言わなければ良いのに口から出てきてしまうのだろう。
「おはよう」
「…」
「おはよう!」
「…」
「おーはーよーう!」
「…チッ」
「ねぇねぇ、聞こえてる? おはよう? まだ寝てんの?」
僕に興味本位で近付いてくる人は何人も居た。この女性もまたその1人だろう。このまま無視すれば、諦めてどこかに行って僕の陰口でも言うはずだ。
「噂通り、本当に喋らないね? せめて、挨拶くらいは返しなさいよ」
「…」
「ほーら!」
「…いっ!」
無視しながら歩いてる中、僕の背中に平手をした。こんな野蛮な女性に目を付けられると今後の学校生活に支障が出てしまう。
「…おはよ」
「なーんだ! 言えんじゃんか! うん! おはよう!」
彼女はニッコリとした笑顔で、僕の髪をくしゃくしゃにして改めておはようをくれた。先の学校生活を考えて、挨拶をした自分に少し嫌気が差す。
「んじゃ、私の教室こっちだから! バイバイ」
挨拶なんて何年振りに言っただろうか。彼女はきっと今日みたいな爽快な挨拶を毎日してるのだろう。
家に帰り着くとまた考えが引き戻される。ただいまなんて何年も言ってない。この家では言う必要がない。玄関の開いた音で十分なのだから。
起きて一言も喋らずに朝ごはんを食べる。何も言わず、黙々と食べ終わり、何も発すること無く家を出た。
これが僕のいつも通りの朝、当たり前の朝、知っている朝だ。
「おっはよーう!」
「…え?…ああ、うん」
「昨日言えたのに今日言えないの? ホラッおはよう」
「…お、おはよ」
「全く…赤ちゃんやオウムに言葉を覚えさせてる訳じゃないんだから」
成人となり、僕は彼女に言葉を教わった。それは僕を大きく変化させる。
「おはよう」で、朝を感じた。
「またね」で、明日を感じた。
「いただきます」で、味が変わった。
「ごちそうさま」で、味を覚えた。
「好きです。付き合って下さい」で、人生が変わった。
彼女と同棲を始めることになった。あの何も声が響かなかった家しか知らない僕にとっては新鮮な生活。
「ただいま」で、君に抱きついた。
「おかえり」で、君を抱きしめた。
「おやすみ」で、君に身を寄せた。
「ありがとう」と「愛してる」は、何度言っても言い足りない。だから、僕は何度でも君に言った。
君はよく笑う。泣いた顔なんて見たこと無い。僕も君につられて笑うようになったよ。
そして、今日は残酷な言葉を覚えた日。
「守れなくて…ごめん」
彼女は事故に遭った。ちょっと僕より前を歩いていた彼女だけが、車に轢かれた。
彼女の大好きなオムライスのお店へ行く予定だったんだ。ちょっと嬉しい気持ちが前に出て歩いただけなんだよ。僕にも食べて欲しいって、笑顔で言ってたんだよ。
「え、なんで…。いや、どうして…。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっ!!!」
血だらけの彼女に駆け寄る。もうどこを抑えて良いのか分からない。ただただ、彼女の身体は血を出すことをやめない。止まらない。
「ねぇ、嘘だよね? お前が居なきゃお店どこか分かんないよ…。食べて欲しいって言ったじゃんかっ!! オススメまだ聞いてないよ!? ホラッ起きろって…なぁ……。なぁっ!!!!!」
野次馬の雑音と救急車の音が混ざって聞こえる。僕は彼女を抱えたままで、救急車を忘れていた。
救急の人が僕から彼女を引き離す。僕にも何か言っていたが、うまく聞き取れない。分からないまま、僕も救急車へ乗り込んだ。
あれから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。医者が何を言っていたか覚えてない。しかし、淡々と足は動く。案内された扉の向こうを感じて、やっと理解した。
「こちらです」
僕は彼女になんと言えば正解なんだろうか。僕はこんなおやすみをまだ知らない。知りたくない。頭の中は忙しいのに身体と表情は一切動かない。
「守れなくて…ごめん」
きっと彼女は怒ってない。この言葉は彼女に向けてではなく、不甲斐ない自分に向けてだ。
これから僕は、彼女に教えてもらった沢山の言葉に縛られるだろう。覚悟をしておけ。
知っている僕より。
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