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前編
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どうして人は無駄に金を稼ごうとするのだろうか?
央介はちゃんと答えを知っている。知っているからこそ、苦しむのだ。
「パパ! お客さん来ているよ。なにぼーっとしてんだい!」
制服姿の日芽香がカウンターの前を通り過ぎる。中学校から帰ってきたばかりなのだろう。背負った黒いリュックには、猫のキーホルダーが揺れている。
「ぼーっとしてないで、ほら、あっ、いらっしゃいませ。どうぞ好きな席に座ってください」
日芽香はカウンターの前を往来して、それからカウンター内にある階段に向かって駆けていく。
「おい、央介、考え事か?」
覗きこんできた顔のしわくちゃ具合、顔中に広がるホクロとシミの黒さ。もしチョコチップクッキーを擬人化してこんな姿になったら、たぶん二度とチョコチップクッキーは食べられない。
「ああ、府川さん、いらっしゃいませ」
央介は平静を装って言った。
「おまえ、わしが来なかったら、やってけないんだから、ぞんざいに扱うんじゃねえぞ」
「いえ、そんなつもりは毛頭ございませんよ。今日もいつものですか?」
「いつものって、この店のメニューは一つしかないだろうが?」
プンプンと音を立てるように怒ったふりをする府川は、カウンター席に腰掛ける。
央介は、袋に入ったコーヒー豆をきちんと計量して、特に個人的にはこだわりがないコーヒーミルに入れた。
「府川さん、今日はお一人で?」
「ああ、別にいいかなって思ってたんだけど、ここでコーヒーを飲まないと今日が終わらない気がしてな」
「ああ、カフェイン中毒者ですからね」
「違うわ。まったく、日芽香ちゃんの愛想のよさがなかったら、ここはおまえが引き継いですぐに潰れてたろうな」
央介はゆっくり、ゆっくりと、ねじを回して豆を挽く。あたかも調整しているような手つきだが、実はこだわりがあるように見せかけているだけだ。
「まったく、本当におまえがコーヒーミルを弄っているとそれっぽく見えるよな」
「いやいやいやいや、マジでこだわりがあるんですって」
フタを取り付けて、ゆっくりとハンドルを回す。このスローモーションのような動きに、初見の人は感心した眼差しを送ってくる。央介はまるで騙しているつもりはないけれど、真実を知るとほとんどの人は騙されたと騒ぐのだ。
「そんな演技見せられていると、やっぱり役者だったんだな、って思うんだよ」
「違います。昔、バンドマンでした」
「そうだっけ?」
「もう何度もこの会話をしている気がします」
「そんで大成したんだっけ?」
「してませんよ。だから、こうしてコーヒーを挽いているんですよ」
「まあ、よかったんじゃないか。これで」
「ええ、そうですね」
最後まで挽き切らない。粒を均一にするために必要らしい。
「手入れは欠かさないんだろうな、それ」
府川に指さされた手動ミルは、受け皿が黒光りしていて、店のライトを素直に映し出している。木製の土台部分も深い茶色を輝かせていた。メンテナンスは毎日している。こだわりはないが、引き継いだものは大切にしているつもりだ。
「もしかして、疑っています?」
「いいや、ぜんぜん。見てわかるから」
ドリッパーにセットしてお湯を注ぐ。香りと湯気と漆黒が同時にこの空間を現れた。
さも醸し出されるものを楽しむかのようにカップを顔に近づけ、目を閉じて少し顔を上げる府川の顔は、よりチョコチップに近づく。目や歯などの顔にある白が全部消え去ってしまうのだ。
「コーヒーってもんはな。冷めてからが本当の勝負だと思わないか?」
「そうですね。主役じゃないですからね」
「おお」
府川は驚嘆の声を上げ、目を大きく見開いた。面積の広い白目がギラっと光る。
「そんな香りがよかったんですか?」
「央介、ようやくわかるようになったかと思ったけど、やっぱり違うみたいだな」
「どういうことでしょう?」
「あくまでも人の営みが主役であって、コーヒーはただ添えられているだけなんだ」
「左手は添えるだけ、みたいな」
「バスケットボールの話じゃない。こうして会話をしている空間に、コーヒーがあるだろう」
と言いながら、府川はカップに唇をつけた。
「ここはそういうお店ですからね」
「あくまでも人がいるから存在するんだ。孤独な朝にも、友人と過ごす昼下がりにも、長い夜を過ごすお供としても、だな──」
「まあ、空間を提供しているっていう感じですからね」
「おまえが、この雰囲気を変えたいって言い出したらどうしようなんて、焦ったときもあったな」
「そんな気がなかったんです」
府川が首を巡らす。ここはごくごく普通のコーヒーショップだ。流している音楽はジャズで、壁はベージュでカウンターや棚やイスは木目調。温かく見える配色で揃えている。カウンターには小さなレジがあり、それ以外に席はない。バスケットボールのコートに立てる一チームあたりの人数しか滞在できない。六人目以上は外にいてもらうしかない。
「府川さんが毎日来てくれるから幸せです」
「ああ、こうしておまえとどうしようもない話をしている時間がないと、死んじゃうからな」
「七十歳だったら、まだ大丈夫でしょう」
「年齢の問題じゃないんだよ。二十歳でも、八十でも、心の持ちようが大事なんだ」
結局府川は一時間滞在した。この日、それ以外に来た客は二人だけだった。
「もうー、パパ、先にお風呂入っちゃうからね」
日芽香の声が鼓膜を揺らした。央介はずっと耳栓をしていたから気づかなかったようだ。「もう」というところに力が入っていて、何度も何度も呼びかけていたのかもしれない。
「ひめちゃん、入っておいで。パパは最後でいいから」
「もう、むーちゃんは先に入ったんだよ」
「うん、わかったよ。教えてくれてありがとうねー」
日芽香が「むーちゃん」と呼ぶのは、同居している央介の母だ。つまり、日芽香の祖母にあたる。最近やや耳が遠くなってきたが、近所のクリーニング屋での勤務は続けている。
央介はパソコンの画面に集中する。今日中に片づけなくてはならない仕事が残っていた。
朝から夜までお店を開けていても、三人で暮らしていくほどのお金を確保できない。固定資産税、火災保険料、地震保険料、そして一階にある喫茶店を維持するための費用でみるみるうちに消えていく。家賃はかからないし、ローンもないから大丈夫だろう、などと考えていた三年前。あの頃の自分に、央介は全力のラリアットを喰らわせたくなることもある。
「おうちゃん、おうちゃん」
「なーに、むーちゃん、どうしたの?」
「ひめちゃんがアイス食べちゃったよ」
「あーいいよいいよ。また明日買ってきて」
「うん、わかった」
こちらが仕事していようとしていまいと構わず二人の女帝は話しかけてくる。威厳、迫力などは皆無で、鞭を打つことは決してない。ただただ飴のような甘い声を発しながら、きちんと央介の上に君臨しているのだ。その感覚は央介にとって心地よい。威張り散らかして、気難しい姿を見せ続ける存在にだけはなりたくなかったからだ。
だんだん家の中全体が静まり返っていく。央介の指から生まれるタイピング音と暖房器具が唸る声だけが、かつかつ、しんしん、と浮かんでいく。
仕事にひと段落ついた央介は、パソコンから離れて自室を出た。やはりしっかりと暗い。加湿器が灯す人工的な黄緑色と、電気のスイッチにある小さな光が、てん、てん、としているだけだ。
携帯電話を操作し、SNSを開く。依存症とは程遠い頻度しか確認しない。今日の仕事が全部終わったとき、ようやく央介は画面で巻き起こる混沌を目にするのだ。
主に調べることは、すべて仕事にまつわるキーワードだ。朝から夜までのコーヒーショップの件と、副業に関わるあれこれを検索エンジンにかける。
なにもなければそれでいい。安心して眠る準備に入れる──とそこに見覚えのある、いや、いつも毎日一緒にいる人物の顔が流れてきた。
動画であることを示す再生ボタンに触れてみる。
ぱっちりとした目、綺麗に通った鼻筋、少し分厚い唇……央介の宝物がすっと画面端に寄る。すると真ん中に『カフェ・モリム』の看板が映りこみ、そこから二階建ての店の外観へと切り替わっていく。
「どうでしょー、ほらほら、見てみて、雰囲気満載のこのお店。みんなぜひ来てねー」
その時間は十三秒。ハートマークと三点リーダーを含んだスピーチバルーンマークの下は、おびただしいともいえる数字がある。
央介はその夜、一睡もできなかった。
「ひめちゃん、ちょっとお話があります」
「なあに、もう、朝忙しいんだからさ」
時刻は七時二分。日芽香はその愛らしい顔を洗面台の鏡を映しながら、ドライヤーでぶぉぉぉーと轟音を鳴らしていた。央介は自分の表情が真剣な顔つきになるようにと意識する。
「勝手にSNSに投稿しちゃダメって、前も言ったよね」
「いいじゃん別に。だーれも来ないんだもん」
「とんでもなくバズってます」
「あんなんバズっているうちに入っとらんって」
声を張り上げる日芽香は、悪気など微塵も感じていない様子だった。
「お店に沢山人が来すぎちゃったらどうするの? パパさばききれないよ」
「そんなの人気店になってから悩みなさいな」
「それにひめちゃんの顔を世界中に流すのは抵抗があるんだけど」
「感覚がおじさんだからなんじゃん」
「加工しなさいな。せめて誰だかわからん程度にさ」
「大丈夫だってもうー」
日芽香は乱暴にドライヤーを洗面台の横にある洗濯機の上に置く。
「もう少ししたら洗濯機回すから、いつもの場所に置いてね」
「パパがやるわけじゃないでしょうが」
「やってるじゃん。皿洗いとか、風呂掃除とかも」
「日曜日だけね。それ以外はほとんどわたしかむーちゃんだよ」
眉間に皺を寄せて舌を出す顔はつくづく元妻に似ているな、と思って央介はついついぼんやりとしてしまう。
「今日ね、学校始まる前に、練習するから早めに出るの」
「ダンス大会って、その、学芸会で披露する?」
「クリスマスのイベントだって踊るんだし、来年は大会があるしさ。忙しいの、こっちは」
「来年さ、部長に選ばれる可能性だってあるんでしょ?」
「そんなんわからんよ。ヘリちゃんだって、ユウナだって、わたしより全然うまいんだから」
「そっかー」
と言ったところで央介は話が脱線したことに気づく。
「ダンス部の練習も大事だけど、その前にあれ、削除してよ」
「二十四時間経ったら自動的に消えるの」
「じゃあ、あの動画、パパにだけ送って」
「はいはい、わかった、わかった」
日芽香はテーブルの自席にでんと座り、用意された食パンを頬張る。隣にはむーちゃんこと睦子がいて、がやがやとした朝の情報番組に釘付けになっていた。
「ゆっくりよく噛んで食べてね」
睦子が日芽香の頬に飛んだジャムに触れる。ふん、と嫌がるように日芽香は顔を背けた。
「うぁくぁってぇりゅって」
「ひめちゃん、何時に帰ってくるの?」
「うーん、わからない」
日芽香は反抗期を迎えたのか、最近はっきりとした返事をする回数が減った。央介に対しても、睦子に対しても。ただ随分前に、中学生になって社会が広がっていく過程でもっと酷い態度をとっていた央介からするとただただ微笑ましい。あまり家族にベタベタとしなくなった姿は逆に健全にすら思えてくる。
「じゃあ、もう行ってくるから」
日芽香はバタバタとそこらじゅうを荒らしまわるように動いてから階段を下りていく。その後ろ姿を二人で見送った。
「まだまだかわいい盛りだね」
しみじみと睦子が言った。
「だから余計に心配なんだよ」
央介はそう言って、コーヒーショップの店長モードへと心を切り替え始めた。
九時から開店するために、八時ぐらいにはもう準備に取り掛かる。
店内の掃除を済ませてから、カップ、ソーサー、スケール、コーヒーミルなどの商売道具を一つずつ念入りに確認する。店内は狭く、食器などの備品もさほど多くない分、丁寧にこなす余裕がある。
先代は頑なにこの店を拡張することを拒んだ。実際こうして一人で切り盛りしていると、その理由がわかってくる。一人でできる範囲はどうしても限界があるのだ。
新メニューを考案すると負担が増える。アルバイトを採用して事業規模を増やすとなると、目が届かないところで管理しきれない。
現状を続けていくのに精いっぱいで、それ以上のものに手を出せない。だとしても欲は悪魔のささやきみたく、耳元から脳へと刺激していた。
気を紛らわすために、外へ出る。店の前を掃除することも開店前の日課だ。
太陽はぼんやりとしているが、蒸し蒸しとした空気感は残っている。九月下旬に差し掛かろうとしても、夏は現状維持を好むように居座り続けていた。
ここは住宅地の一角にあり、駅から徒歩十分ほどかかる。
犬と散歩している女性や杖をついて歩く男性が前の通りを歩いていく。周辺に暮らす人々の平均年齢は決して若いとは言えない。
「やあ、央介」
「おはようございます」
好々爺然としたにこやかな表情を央介に向けてくる男性。つむじ部分が広くぼんやりとなっているが、身体は細身で適度に筋肉がついている感じがする。店には週に三、四回ほど訪れる。自ら名乗ることはないから名前は知らないが、元陸上自衛隊でホテルマンとして定年まで勤め上げたと語っていた。
「今日もしっかり気張っていけよ。お天道様はちゃんと見ているんだからな」
「あ、はい。がんばります」
「それじゃあな」
「はい」
央介にとっては正直苦手なタイプだった。自分の過去をペラペラしゃべるのは全然構わない。しかしわざわざ一方的に名前を聞いてきて、上から目線でいろんなことを押しつけてくる。向こうが客でこちらは店側。立場的によって人の上下が変わるという意識が染みついている人間とは疎遠だったから、央介にはそうした人の免疫がなかった。今はなんとか対処する方法がわかってきた。ただ受け流せばいいのだ。
何人か人が店の前を通るが、掃除中に声をかけてきたのはその人だけだった。冷淡なわけではない。地元に根づいた店とはいえ一定の距離があるだけだ。もしも距離感を間違えたなら、取り返しがつかないことになることをほとんどの人は知っている。
『OPEN』の看板を出してすぐに若い二人組の男性が来店してきた。ファストファッションで全身を整えている大学生に見える。普段はほとんど来ない客層だ。
「いらっしゃいませ」
一人がカウンターの席に座った。もう一人は着席することなく、立ったまま店内を見回している。
「メニューってどこっすか?」
立っている男性が訊いてくる。
「ホットコーヒーのみです。一杯、六百五十円です」
「えっ、そんだけ?」
「はい。申し訳ありません。メニューを一つに絞って営業しているんです」
「そ、そうなんすね」
とやや戸惑った表情を浮かべながら、立っていた男性もカウンター席に腰を下ろした。
「じゃあ、二つで。隣のこいつのぶんも」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
央介は二杯分のコーヒーの用意を始めた。二人は無言のまま、まじまじとコーヒー豆を計量する様子を見つめてくる。視線を感じても手元が狂うことはない。変に話しかけてくるよりもマシだ。
二杯のコーヒーを順番に渡していく。コーヒーミルで豆を挽くので、どうしても時間がかけてしまう。以前、新規の客にそのことで文句を言われたことがあった。たぶんチェーン店の感覚で注文しているからだろう。なんでもかんでもスピーディーな時代だから、気持ちがわからないでもない。
ただ今回の大学生みたいな二人は、事情を察したように黙って頷き受け取ってくれた。
二人は連れのようだが、コーヒーを受け取ってからも無口なままだった。それぞれがなんとなくカップに口をつけたり、また店内を見回したりしている。
央介は一応、レジ付近に注意を払いながら、二杯分を用意したことでできた汚れを拭き取っていた。基本的に客側から話しかけてこない限り、会話を仕掛けることはない。
一人が携帯電話を取り出し、もう一人も釣られるように携帯電話を出した。会話なんて必要がない、と言わんばかりに。
コーヒーカップが空になっても、その二人は粘り強く居座り続けていた。馴染みの客のほとんどは空になれば、おかわりを要求する。飲むものはコーヒーだけを求めているのだ。だからお水を出すことはほとんどない。しかし彼らは、ほかの喫茶店やコーヒーショップと同様のサービスを求めている可能性があった。コーヒーのおかわりか水か。ちなみにおかわりは有料だ。
沈黙に包まれた店内で、央介が口を開いた。
「お水、ご用意いたしましょうか?」
「あっ」
一人が顔を上げ、央介をじっと見てきた。急に話しかけられたことに驚いたのか、すぐに返答ができないようだった。
するともう一人が、「お願いします」と静かに言った。片側の了承しか得ていなかったが、央介は念のためガラスコップを棚から出して綺麗に洗ってから二杯分を用意した。
「どうぞ」と水の入ったコップをそれぞれの前に置く。
「あ、あの、いっこ、いいっすか」
央介から見て右側にいた客がたどたどしく言った。
「なんでしょうか?」
「ここって、その、ストーリーに載ってた店ですよね?」
「ストーリーですか?」
「ヒメマージョリーっていう、その、あげてたのを見てきたんです」
ここでようやく央介は話が掴めた。そして、中学生の我が娘はアカウント名をつけるセンスがないな、と腹の中で笑った。
「そうでしたか」
「あの、あの子ってその、ここの子なんですか?」
「さあ、知りません。ときどき顔を見せてくれますが」
「そうですか」
「たぶん、見ての通りほとんどお客さんがいらっしゃらないので、揶揄ったつもりだったのかもしれませんね」
「あ、そうですか、わかりました」
「ほかにご質問などはありますか?」
まるでレクチャー後に形式的に確認するような口ぶりを意識して、央介は言った。
「いや、別に」
それから二人はすぐに会計を済まして帰っていった。央介は、日芽香とどんな関係性になるにしても適さない属性の人物を追い払った気がしてせいせいした。
「従来な、コーヒーっていうのは、焙煎からしっかりこだわって、抽出方法にも細心の注意を払う姿勢が重要でな」
「そんなこと言ったら、ここの店は特別うまいわけじゃないんだよな」
「ああ、引き具合で奥深さを引き立たせる飲み物なんだよ」
「ここは、ただただ憩いの場を提供しているだけだから、もっとうまいものを飲みたいなら、別の店に行けって話になるんだけど」
日芽香のSNSを見てやってきたらしき男性二人が帰ってから、常連さんがすぐにやってきた。入れ替わって入ってきたのは、二人とも白髪だらけの六十五歳以上の男性だ。一人は地味な茶色っぽいベストに紺のシャツ、もう一人は赤い半そでのTシャツ。両方ともメガネをかけているが、特徴のある顔立ちではない。今日は央介にとっていい日だ。客が途切れない。
「ああ、それにしてもこのコーヒーは毎日味が違うな」
「まったく、店主の前でも遠慮がないよな、おれらは」
今カウンターを独占している両人について、央介はある程度知っている。店主を巻き込むことのないお喋りは、ただただぼやいているだけの場合が多い。ここにいれば勝手に耳に入ってくる。定年退職後、天下り先で勤務をしていたが今年の四月に腰を痛めて退職した男性。そして、長年連れ添った妻から離婚を突きつけられて、なんとか穏便に済ませたいと考えている男性。それぞれの事情はちゃんと把握している。
普段は背景がくっきりと映し出されるような会話が多いのに、今日はコーヒー談義に熱を入れている。央介としてはなにを言われても構わない。馬鹿にされても仕方がないと思っている。いちいち腹を立ててしまうことがあるのだとすれば、それは自分に期待しすぎているだけだ。実際問題、大半が二人の言う通りなのだから。
「ああ、そんで見たか? おまえ」
「なにをだよ」
「この店、紹介されていただろう。ストーリーで」
「ああ、見た見た。あの動画に映っていた子だろ」
央介はなにも反応をしないように努める。決して話しかけられているわけではなく、単純に客同士の会話なのだ。割り込むつもりもない。いつもと変わらず、客が注文をしてこない時間は清掃に注力する。透明人間みたいにし続けろ、と自らに言い聞かせながら。
「それにしても、あんまり似てないよな」
「なんだか、ガイジンみたいな顔立ちだもんな」
「まあ、よく見りゃ。目がぱっちりしているから、全然違うわけじゃないんだけど」
「そういや、奥方の顔って見たことなくねえか」
「いやいや、それは当たり前だよ」
「えっ、どういうことさ」
「浮気して逃げられたんだってさ」
「えーそうなのかい」
本人を目の前にして、わざわざ言い聞かせるように話す二人の態度は「常識的」ではないのかもしれない。ただ気持ちはわかるのだ。自分は常連客で、この店ではどんなことをしても大丈夫だと思っている。だからこそ意識的に自分のことを詳しく話して、出されたコーヒーの批評をして、プライベートを掘り下げようとする。
央介は反応しない。あからさまな破壊行為や迷惑行為に走らない限り、やらせたいようにやる。
喋るだけ喋って、二人はゆっくりと席を立つ。
「じゃあ、お会計」
「はい、ありがとうございました」
「じゃあ、二人で二千円。釣りいらないから」
「またのお越しをお待ちしております」
この二人は決して、釣りを要求しない。一万円札を出しても、五千円札を出しても、千円札を二枚出しても、「──釣りいらないから」と言って帰る。
とんでもなく上客だ。会社も家族も失った人間たちの最期の砦になっていることだって、誇ってもいいのかもしれない。
央介はその二人を見送りながら、また来てほしい、と本気で思っている。
人の流れがぱったり途切れると、央介はぼーっと、違うことを夢想する。
最近多いのは、二十代で諦めた音楽でもしも成功していたら、ということだ。ストリーミング再生で稼ぎながら、グッズなどの特典がついたCDをファン用に販売して、大きいキャパの会場でライブをする。作詞作曲をする人が一番儲かる。それ以外のメンバーの収入は綺麗に分配されて懐に入っていく。レコード会社との契約にもよるけれど、ヒットを飛ばせしまくれば、作詞作曲をしていないメンバーも十分もらえる。バイトなんかしなくても、音楽だけで生活ができてしまう。
ただすぐにこう思うのだ。
もしミュージシャンとして売れてしまったのなら、日芽香と過ごす時間がなくなってしまう、と。
そもそも売れ線の曲を狙ってやってきたのに、箸にも棒にも掛からぬ状態が続いていたから、やめたのだ。売れてしまってからの悩みなど縁遠い話なのである。
若い頃に追っていた夢破れて、コーヒーショップの店主をしている。そんなドラマでも小説でもありがちな状態にいるのだと噛みしめて、央介は現実に戻っていく。ドアがガランガランと鳴って開いたのだ。
「いらっしゃいませ」
時計をちらりと見ると、昼の時間は過ぎ去っていた。入ってきたのは若い男女だ。二人とも背中に楽器を担いでいる。形状からすると、エレキギターかエレキベースだ。男性はいかにも古着というサイケデリックな色合いのTシャツを着ている。女性は丸いメガネをかけて、オーバーオールを身に着けていた。初めて見た顔だ。
二人はカウンターをキョロキョロと見回し、メニューを探している。
「当店が提供しているのは、ホットコーヒーのみなんです。一杯、六百五十円で」
女性はメガネの奥にある瞳を輝かせるように、大きく目を見開いた。
「それって、その一杯にこだわりを持って淹れているっていうことなんですか?」
唐突な問いに央介は、とりあえず笑みを見せる、という選択をした。
「無口な雰囲気のマスターなんですね。素敵です」
女性はすっかり誤解しているようだったが、水を差すようなことは言わない。現実を知るにはまだ早い年頃だ。
「じゃあ、ホットコーヒー、二つで」
低い声で男性が言った。視線を意地でも合わせないという気概を感じるほど、テーブルの木の模様をじっくりと見つめながら。
央介が用意しているあいだ、二人はぼそぼそと会話を始めた。
「──たぶんさ、ボーカルが完全に声量不足なんだよね」
「いやー、単純に音響のミスじゃね。あんなに楽器のボリュームが大きけりゃ、声が埋もれて当たり前じゃん」
「リリック重視のバラードだから、ちゃんと聴かせたいんだけどな」
「ぶっちゃけさ、なにが刺さるかなんて、ほんとわかんないよな。テレビに出まくっているミュージシャンに聴きたいよ。あんなキャッチーな曲どうしたら作れるんだって」
「教えてくれないっしょ。表面的なことはいくらでも語ってくれるけどさ。あと広告屋さんの力だって強いだろうしさ。コネクションがないと、ね」
「もうさ、大学卒業したら、趣味でもやっていけそうにないじゃん」
「就職とかも迫ってくるしね。学生時代になんとかしないと、もう普通の人になるしかないもん」
十数年以上前、自分が同じようなことを話していたはず──央介はしみじみとしてしまう。二人の会話が途切れた瞬間に、コーヒーを出す。女性は笑顔を見せてくる。
「あっ、ありがとうございます」
人懐っこそうな雰囲気だ。きっと彼女なら、社会でやっていける。
男性のほうは、俯いたまま首をちょこっと縦に動かしただけだった。それでもまだ希望はある。才能がないとか成功しないとか、誰もまだ断言できない存在なのだから。
「あたし、二級建築士とっとこうかと思ってんのよ」
「おれは今のバイト先で、社員になんないかって言われてる」
「なんか二人でいても、音楽の話、減ってきたよね」
「昔は好きな音楽について、ずっと語り合っていったのにな」
二人から侘しさと哀愁が漂い出しても、央介にとってキラキラとした存在に見える。
光り輝きすぎて、眩しくなって目が開けていられないぐらいに。
「ねえ、ここの星ってどれぐらいか知ってるの?」
「さあ、ひいきにして下さる方々のことだけを考えているので、あまり気にしていません」
央介は嘘をついた。頻繁とは言わないが、ちょくちょくチェックしている。食べログで3点台を現在キープしていると認識していた。
閉店間際に一人でやってきた女性客は、今年七十五歳になるという常連さんだ。年齢相応に白髪で、ピンクがかった銀縁メガネをつけていて、ビビットカラーの服を好んで着ている。今日もオレンジのワンピースにグリーンのバッグという鮮やかな色遣いだ。
「ミルクも炭酸水もシロップもなくてサービス悪かったです、なんて書かれていたんだよ」
そのコメントに書いた人はしっかり低評価をつけていた。央介は把握済みだ。
「まあ、ターゲットを絞っているので、受け入れられない人は受け入れらないんじゃないでしょうか」
惰性と伝統が混在するスタイルが万人受けすると思っているはずはない。だからこそこの規模間でやれている。
「フードロスの観点から見たらとても素敵なのにね。わたしはモリムの姿勢に賛同しているのよ。先代からの意志をきちんと継承しているって思ってね」
「できる限り、頑張っていきたいと思っています」
「それにしても先代は、以前からフードロスの意識がおありだったのよね」
「おそらく、はい」
央介は直接そんなことを聞いたことがなかったが、可能性はゼロじゃないので濁しながらも肯定する。人は否定的な意見を喰らうと、一気に引いてしまう生き物だから。
「もっとね、ここのよさをみんなに知ってもらったほうがいいんじゃないって思うのよ。ほら、わたし、前連れてきたでしょ。あのマエダさんとか、ヨコヤマさんとか、覚えている? 彼女たちだって絶賛していたんだから」
「ええ、もちろん覚えていますよ。ありがとうございます」
二人とも忘れがたい印象を残していた。マエダさんは明らかに七十過ぎだが、髪の色を志茂田景樹のようにレインボーカラーにしていた。ヨコヤマさんも同じぐらいの年代だろう。黒髪ロングでブーツカットデニムを履き、まるでヒッピースタイルだった。それぞれの個性を大切にしながらこれまで生きてきたんだろうな、と思えるようなおばちゃんたちはお節介だが、いい人だ。
「ビートルズだってずっとリバプールにいたら、誰もあの才能に気づかなかったでしょ? ピカソだって、アインシュタインだって、ヘミングウェイだって、周囲に凄さを示したからこそ、成功したはずなのよ」
「このお店が偉人たちと肩を並べることができるのでしょうか?」
「そんなこと誰にもわからないわよ。でも、ないなんて誰も言えないはずよ。少なくてもわたしは可能性があるって思っているわ」
とても前向きな回答が返ってくる。央介はできるだけ偏見を持ちたくないと思いながらも、六十歳以上の多くにはびっくりするぐらい勢いが備わっている気がしていた。自分の思いに忠実に突き進んでいくような感覚だ。個体差はあっても、生きた時代が垣間見える。その違いをただただ受け止めたくなった。
「じゃあ、目指してみたいですね」
「そうよ、その意気よ。あなたはまだ若いんだからね」
その無邪気さに背中を押される。人は年齢じゃないのだと。
ただこの店を多くの人に知ってもらおう、という心境に至ることは決してなかった。
央介が店を閉めて二階へ上がると、日芽香はテーブルの背もたれにもたれかかって寝ていた。お腹と足元はちゃんとひざ掛けで覆われている。
その隣にいた睦子が読書をしながら言う。
「ひめちゃんは、日中でエネルギーを使いきっちゃうから、おうちゃんとなかなか一緒にいられないね」
ダンス部は週五日ほどで、それ以外の習い事をやっているわけではない。塾に行くことを勧めたこともあったが、いきたくなーい、と一蹴された。同級生のほとんどは塾に行っている。部活があろうとなかろうと関係なく。
「部活のない日は友達と遊んでいるんだっけ?」
央介が睦子に訊ねる。
「そうなんじゃない? でも大体遅くても五時頃には戻ってくるよね。日が落ちてくると極端に体力が落ちるんだってさ」
「睡眠欲が旺盛なのか、若いのに疲れやすいのか、なんだかわからんね」
「生活に支障が出ているわけじゃないから様子を見てもいいんじゃない、って本人は言っているけど」
小学生の頃はさまざまな習い事にチャレンジしようとしていた。日芽香は好奇心旺盛で、いろんなことに興味を持つ。アトリエ、歌、英語、水泳、サッカー、習字……ただ、どれも一か月ももたなかった。
例えば、前の前にあったワールドカップを機に興味を持ったサッカーの諦めは早かった。小学三年生のとき、近所の小学生女子チームの練習に参加をしたい、と日芽香が言ってきたので、まずは用具からだと央介も気合が入った。日芽香から自発的にやりたいことを言われると、央介は舞いあがってしまう。まずは形からだと二人でスポーツショップに出かけた。そこでトレーニングシューズ、脛当て、練習着などを一通り揃えてから、体験入団をさせてもらうことになった。央介が同伴し意気揚々と河川敷のグラウンドに向かったが、準備運動とパス回しを終えるとすぐにグラウンドから離れてしまった。
「パパ、このスポーツ見ている方が楽しいよ、たぶん」
そう言って結局、央介の横に座って、その一日の練習を眺めていた。最後まで見て、央介は納得した。素人目からしても、たしかにまったく経験がない子が参加していいレベルじゃなかった。
とにかくチームの子たちがうますぎた。止める、蹴るの基礎技術がしっかりして、パスをポンポン回していく。ミニゲームでの動きもシステマティックで、みんな真剣な面持ちをしていた。こんなところに、ぽんと放り込まれた初心者の日芽香が可哀そうに思えるほどだった。
それ以来、日芽香がサッカーに興味を持つことはなくなった。ワールドカップが四年に一度行われることすら忘れてしまったかのようだ。嫌いになったわけじゃなくて、もうどうでもいい、というような雰囲気だ。衝動的に買い揃えたサッカー用具は、一度使ったきりでここに引っ越してくる際にまとめて処分したはずだ。
そんなことを何度も繰り返していた。日芽香は、たった一度のほんの少しだけ経験だけで自分の中での価値観を判断してしまっていた。見切りが早いのか、飽き性なのかよくわからない日芽香の性分を央介は正直心配していた。でも今は、ダンスに熱中し続けている。
「なんにせよ、一つでも集中できることが見つかってよかったよね。ひめちゃんはダンス、おうちゃんはコーヒーショップって具合にね」
まるで央介の心の中を読んでいたかのように、睦子は笑いながら言った。
「こっちは先代の遺産を食いつぶしているだけなんだけどね」
央介はコップ一杯の水を一気に飲み干す。
「今の時代に合わせたようなビジネスを展開しようとか、そんなこと考えないんでしょ?」
「人って案外変わらないものを好むんだよ。ああしたほうがいい、こうしたほうがいい、なんて現状に不満を垂れる人も多いけどさ、なくなったらなくなったで懐かしがって、まあワガママなわけ」
「じゃあ、お店を完全に閉めて、誰かの思い出の中で生き続けるほうが美しいかもね」
「なんやかんやで変化しようとしている人が多い世の中なら、変化しないものへの希少性が高まる気もするんだよ。けど結局答えなんてわからない。数年経っても正解なんて出ないことだってあるんだから」
「ひめちゃんは、すごく心配しているんだよ」
「そうだね。これから進学でもなんでもお金がいる時期になるから、バズらせて儲けさせないと安泰じゃないって思うんだろうね」
「ううん、お金とか自分のことじゃなくて」睦子が冷蔵庫から焼きそばを一皿取り出した。「パパが全然寝てなくて、食べていないことを心配しているの。バズって忙しくなればわたしが手伝うのに、って。それで、少しでも休む時間ができれば、って」
「かわいすぎるね」
「本当に」
央介は閉店すると、すぐに副業の準備に入る。今日の昼も食べ損ねた。実質、軽く朝に食べるのと、夜にまた軽くつまむ程度で一日分の食事を終えてしまう。睡眠時間もさほど長くない。平均睡眠時間は三、四時間ぐらいだろう。
三食どころか四食、五食、と食べないと気が済まず、早く眠ってそのまま朝まで起きてこない日芽香とは対照的だ。
「パパの分まで食べて眠ってくれれば、それだけでパパは元気になるよ」などと央介は事あるごとに言い続けていた。だけど中学二年生になった日芽香には、もう通用しないようだ。
冷えた焼きそばを電子レンジに入れて、温まるのを待つ。
「今日はちゃんと一食、しっかり食べますわ」
「パパが頑張っていること、ひめちゃんはちゃんとわかってくれているからね」
野菜がたっぷり上に乗った焼きそばは、奥の奥に麵がある。
しっかりかき混ぜて、野菜と麺を一緒に口に運ぶ。炭水化物だけに偏らず、満遍なく多様な栄養が行き渡っていく。
思えば、日芽香と一緒にいる時間を確保するためにこの店を引き継ごうと決めたのだ。現実は、結局サラリーマンとして働くよりもずっと親子の時間をそぎ落としている生活になっている。
皿にあるものを平らげてから、央介はふーっと溜息を吐く。
「やっぱり、変化が必要なのかもしれないね」
大半のコーヒーショップは、土日が稼ぎ時だとして月曜日を休みにしているが、カフェ・モリムは土曜日を定休日にしている。
理由は三つある。一つ目は常連客が仕事をリタイアした人が多いので、別に定休日を月曜日にしなくても、売り上げはさほど変わらないことだ。場所は海外からの観光客が来るわけでもない住宅地で、来店のタイミングは気まぐれで読めない。平日の木曜日に客が集中することもあれば、日曜日なのに客が二人しか来ないことだってある。二つ目は日芽香との時間を作るためだ。土曜日も部活があって午前中はいない。ただお昼になるとちゃんと家に戻ってくるため、基本的に三人で食事をするようにしている。この時間が央介にとってなによりも大切な時間なのだ。そして三つ目が最大の理由だ。先代も土曜日に休んでいた、ということだ。どうして土曜日を休みにしていたのか、理由ははっきり聞かされていない。他との差別化を狙っていた可能性も考えられるけれど、あくまでもそれは央介の憶測に過ぎない。これは伝統として残しておくべきだという常連客の声によって、央介が引き継いでもそのままになっている。従来と変わらないことが支持されている一因である以上、もはや店主の判断だけでどうとなる部分ではないと央介は思っていた。
そんな土曜日がやってきた。央介が目を覚ました頃には、既に日芽香は家にいないようだった。睦子はテレビを見ながら掃除機をかけている。クリーニング屋での勤務はシフト制だが、睦子もまた土曜日は必ず休みにしてもらっていた。
「ああ、おはよ。起きたんだね。よく眠れた?」
掃除機から出る騒音にかき消されそうな細い声が、寝ぼけ眼の央介に届く。
「うん、たぶん、七時間ぐらいかな。ちゃんとわからないけど」
「昨日は夜遅くまで頑張ってたんでしょ?」
「あーうん」
副業については金曜日の夜に力を入れることが多い。これを乗り越えれば、次の日が休みだと思うと、どうして央介は頑張ってしまうのだ。
「今日のお昼はお家でなにか作ろうか?」
「いや、ひめちゃんに決めてもらおうよ」
睦子が掃除機の電源を切った。それから顎に皺を寄せて梅干しみたいな顔をしながら央介を見た。
「ひめちゃん、お友達と一緒に食べるって、今朝言ってたよ」
「えー、そんな」
央介はがっくりと肩を落としてから、天を仰いだ。もう家族にベタベタしない年頃だとわかっていても、大事な三人だけの時間がなくなったことに失望を隠せない。
「だから、今日は二人でなにか食べましょ」
「あーうん」
「おうちゃんが好きなオムライスでも作ろっか?」
「あー、うーん」
起きてすぐに受けた衝撃に怯み素早い判断を下せない央介は、横を向いて斜め上を見ていた。そこにはうっすらヒビが入ったクリーム色の壁と天井があるだけだ。
しばらく途方に暮れていると、掌から振動を感じた。起きてすぐ無意識に手に取っていた携帯電話の存在を思い出す。
画面を見ると、〈由香里〉という文字が映し出されていた。メールやチャットじゃなくて、電話の着信を知らせている。央介は、はーっ、と溜息を吐き電話に出た。
「あーもしもし」
「ごめん。急に電話して、今日ってさ中華にするって話にしていたよね?」
央介はすぐになんの話をしているのか掴めずにいた。
「えーと」
「今日さ、日芽香と一緒に夜食事するっていう話なんだけど」
「あーそうだった」
央介はようやく思い出した。頭の片隅にいて縮み込んでいたものが、ふわっと風船のように膨らんだ感覚だった。
「日芽香とはさ朝方連絡がついて、イタリアンに変更するってことなったんだけど……今、部活で忙しいらしいから、ちゃんと央介に伝えているのかなって思って、それで」
「ああ、別にひめちゃんがオッケーなら別にそれでいいよ。全部、ひめちゃんファーストだから」
「うん、ありがとう。ちゃんといいお店予約したから」
「わざわざ電話しなくてもいいのに」
「電話じゃないと、ちゃんと確認できないかもって思ったから」
「あー、じゃあ、どこの店かあとで送っといて。ちゃんと確認してひめちゃんと二人で行くから」
「う、うん」
「じゃあ、切るわ」
「それじゃあ、夜に」
「はーい」
電話している央介の姿を眉間に皺を寄せて凝視する睦子。怪訝そうにするのは当然かもしれない。
「もしかして、あの子」
「うん、あの子」
睦子がハリーポッターに出てくるヴォルデモートのように頑なに名前を呼ばない人物は、央介にとってはただの過去の人だ。
「自分のしたことをわかっていないんだろうね。どういう神経してんだか」
「やっぱり実の娘と会う時間が欲しいんじゃない。年に二回なんだからいいじゃない」
「おうちゃんも同行しなくてもいいのに」
「逆にひめちゃん一人だとこっちが不安じゃん」
「まあ、そっか」
「向こうは別に、おれが同席してもいいって言っているんだしさ」
睦子は一気に機嫌を悪くしたらしく、また掃除機の電源を入れ、ガシガシと部屋の角にヘッドの部分をぶつけて乱暴に吸い取り始めた。
「おうちゃんはさ、悔しくないの」
掃除機から生み出される様々な騒音にも負けない声量で睦子が言った。
「いちいち悔しがるほど暇じゃないんだよ」
央介は笑いながら言った。そう、それは過去の話。ときどき振り返ってしまうこともあるけれど、いちいち気にしたってしょうがない。むしろ、当時から自分がされたことなんて二の次として考えていたのだから。
由香里の浮気が発覚したのは、日芽香がまだ二歳半の頃だった。
普通の男性は浮気されたことに怒るはずだ。でも央介はただ心配していた。日芽香の将来や家庭環境、その他もろもろについて「普通」からかけ離れてしまう。夫婦の関係性を継続してもいいと央介は伝えた。だが由香里の気持ちは完全に離れていた。女性として自由に生きたいんだ、と主張したとき、いつも温和な睦子が激怒したらしい。身勝手でどうしようもないアバズレだ、と叫び、由香里の頬を叩いたそうだ。
その瞬間を央介は見ていない。修羅場になることを予期して、両家の話し合いの最中に日芽香を連れて外に出たからだ。
春のほんのり冷たい風に流されていく雲を二人で眺めながら、他愛のないことをした。あれは綿あめに似ているね、とか、トラさんの形みたいだね、などと言っていたはずだ。
複雑な泥沼の現場を見るのならドラマや映画だけで十分だ。身近な人同士が汚い部分を晒し合う姿を見ることになるのなら、もう少し大人になってからがいい、と央介は思っていた。
あの頃、央介は雑貨屋で働くフリーターだった。まだ音楽で食べていける可能性があると信じている青年のままだったのだ。
央介と日芽香は、公共交通機関を乗り継いでいき、待ち合わせ場所の最寄り駅に着いた。
雨がしとしとと降りだした。央介はワイシャツに黒いスラックスという仕事着と変わらない姿だったため、うっすら寒さを感じていた。
「ユニクロでいいからさ、上着買ったらいいじゃん」
「大丈夫、そんなことより、ひめちゃんは大丈夫?」
「パーカーあるし、折り畳み傘もあるから平気だって」
もう、と言う日芽香は、携帯電話の画面から目を離さない。最新式のスマートフォンを央介が買い与えてから、一緒に出掛ける機会ができても、視線を合わせてもらえなくなっている。ただそれは想定内で、SNSを使って店を宣伝しようとした行動も含めて、許容範囲だと央介は思っている。父親と会話よりも、ひょっとしたら友達と会話よりも多くの「楽しい」や「気軽」が詰まっているものと張り合うつもりはない。
着いてすぐ、駅の構内で携帯電話を弄っている由香里の姿を見つけた。近づいていき、よう、と大学時代に出会ったときと変わらぬ挨拶で声をかける。
「あ、ごめんなさい。お久し振りね。雨降ってきちゃったね。ごめん」
無意味に謝罪を連呼する由香里は、すぐに央介から視線を逸らし日芽香のほうを見た。
「日芽香、また身長伸びたね。もう少しでパパを抜かしちゃうんじゃない?」
「あー、うん。どうだろ」
気のない返事で日芽香にあしらわれても、由香里は口角を上げていた。実際、日芽香は央介とほとんど身長が変わらない。この前の身体測定では164センチだったそうだ。央介は数年前に健診で測ったとき165・4センチだった。由香里はほんの少し背が高くて166センチある。ほとんど三人の身長は変わらない。そして日芽香は、クラスの中でも高身長であることを気にしている。
「現地集合でもよかったのに」
央介は話題を切り替える。日芽香が気を悪くしたことをすぐに察知できたからだ。
「駅から離れているからさ。ここからタクシーで一緒に行ったほうが負担、減るかなって」
「うん、まあ、そっか」
央介たちが出かける直前に由香里から連絡が入って、待ち合わせが駅になった。少しでも長く日芽香と一緒にいたいから、というのが一番の理由なのだと、央介にはちゃんとわかっている。
日芽香がすっと顔を上げた。
「わたしは、別にどっちでもいいと思ったけど」
「ちょうど雨も降ってきたんだしさ。グッドタイミングだったんじゃない。ひめちゃんはさ、あんまり普段タクシー乗らないじゃん。だから、案外珍しい経験ができて楽しいかもよ。珍しいポケモンと遭遇するみたいに」
「まあ、そっかな」
もうこの年齢になった日芽香が、離婚の原因をまったく知らないわけがないだろう。もしかすると、睦子や親戚などから詳細まで知らされているかもしれない。となると、母と娘の関係が良好になるわけがない。こうして仲介役として央介が存在してはじめて面会は成立する。央介も気を遣っているが、由香里はもっと気を遣っている。自らまいた種なのだから、とみんな厳しいことを言うが、央介は少し同情していた。正直、百パーセント由香里ばかりが悪いと思っていないからだ。
タクシー乗車中に、後部座席に日芽香と一緒に座った由香里が、学校のことや友達のことなどを訊き続けていた。いくら言い方を変えても、「まあね」、「普通」、「たぶん」という三文字ほどの回答しか絞り出せていない。干渉したり詮索したりしても逆効果な年頃で、なおかつ複雑な親子関係である由香里に取り繕う器用さを出さない。そんな日芽香の姿がついおかしくて、央介は運転手の隣で笑いをこらえていた。
由香里が予約したイタリアンは、生パスタが有名なお店だった。映画音楽や洋楽にまつわるものが至るところに飾られていて、央介の好みに合った。あとアニメや漫画などよりも海外の映画や音楽が好きな日芽香の好みにも合う。仕事でアニメーションに携わる由香里にとっては、さほど興味深いものがないようにも見えた。
「あっ、あれってパパが前言ってたファット・ボーイ・スリムだね」
「あ、ほんとだ。CDのジャケットでは初めて見たかも」
「テイラーのあるかな?」
「うーん、結構昔の作品のものが多いから、なさそうだね。あれなんてほら、一九五八年の映画だよ。『めまい』っていうヒッチコックの」
「そんな昔のは知らないから、テイラーとかサブリナのもの見つけてよ」
「今って、サブスクばっかりだからさ、CDジャケットなんてないんじゃない?」
予約席に案内されてから注文を済ますと、飾られているものについてあれこれ央介と日芽香で言い合い、二人だけで盛り上がっていた。タクシー代も出して、今日の食事代も出す由香里は完全に蚊帳の外になっている。
「おれたちの好きなものを考えてくれてたんだね。ありがとう」
黙ってしまっていた由香里を気遣って、央介は声をかけた。
「もっと日芽香が好きなものがたくさん飾っていると思ったんだけどな」
「いやいや、いいじゃん、ねえ、ひめちゃん」
「うーん、まあ、そうかも」
由香里が会話に参加すると、日芽香は自分の携帯電話を取り出した。
「あんま干渉されたくないよね。でも、部活のこととか、学校のこととか、少しママに話してあげてもいいかもね。だってほとんど会えないんだもん。なんだかんだで、心配なんだからさ」
央介は日芽香の顔を覗きこむ。あえて由香里が目の前にいるときに言ったのは、自分が一番に理解者であることを由香里に見せつけたかったからだ。でもそれ以上に、昔よりもずっと自分が成長しているところを由香里に見せたいという意図があった。
「やっぱり、パパのところに行って正解だったよね」
央介が欲しい言葉を由香里から引き出せた。会うたびに由香里は同じことを言う。
「そうかな?」
とぼけたふりをして央介は日芽香を見つめる。携帯電話から目を離さない日芽香は特に反応することはない。
「喫茶店はどうなの?」
「喫茶店じゃなくて、コーヒーショップね」
由香里は日芽香とのコミュニケーションを諦めて、央介のほうを向いている。それでも央介は日芽香を常に視線で追っていた。
「で、順調なわけ?」
「副業もやっているし、睦子さんもフルタイムで働いているから、特に困っていることはないよ」
「違う。売り上げの業績のことだよ」
「赤ではないよ。持ち家兼お店だから、テナント代はかかっていないし」
「だとしても、必要経費はかかっているでしょ?」
「広告宣伝費もかけていないし、水道光熱費とか、備品とか、コーヒーの原価とかだからね。前も言ったように好条件で譲り受けた場所だから、ほかの競合よりも苦労は少ないの」
「ただ、これから続けていくとしたら……」
「そうだね。ひめちゃんだっていろいろ考えてくれててさ」
「そういう心配、日芽香にはさせないでね」
日芽香が顔を上げ、由香里を睨みつけた。
「こっちの事情に口出ししないでね。モリムは高浦家の問題なんだから。山岸家は山岸家のことを考えて欲しいんだけど」
はっきりとした顔立ちの日芽香が言うと迫力がある。央介も思わずのけぞりそうになったほどだった。立場上強く出られない由香里は、言い返すことができず顔を伏せてしまう。
「ママもさ、気にしているんだよ。ひめちゃんのこと考えているんだから」
日芽香がまた手元の画面に視線を戻した。由香里と日芽香が顔を合わすと、よくこんなことが起こる。だから央介がこの場に必要なのだ。
「ごめん。やっぱりさ、日芽香のことが気になるから」
「まあ、わからんでもないよ」
それからすぐに運ばれてきた料理はどれもおいしかった。野菜本来の味を邪魔しないレモン風味のドレッシングがかかったシンプルなサラダ、チーズやバターをふんだんに使いブラックペッパーでアクセントをつけたペンネのパスタ、定番ともいえる牛肉のグリルもシンプルな調理法で仕上がっていた。最後のティラミスも甘さが控えめで、食後をすっきりとまとめてくれた。
食事中に自然と言葉がこぼれていく。おいしいね、とか、うまい、とか。
三人ともお酒を飲まないので、お店が提供するコース料理本来のストーリーを全部堪能できたわけではないはずだ。だとしても央介にとっては十分食事を楽しめた気がしていた。
会話へ進展しなくても、次第に雰囲気は和らいでいったのだから。
「ママ、今日は、ありがとう」
日芽香は会計を終えた由香里にそっと言った。
「こちらこそ、部活で忙しいのに時間を作ってくれてありがとね。それと」由香里が央介のほうを向く。「央介くんもありがとう。貴重な休みの日だったのに」
「いやいや、ご馳走にもなってねぇ。こっちこそありがとうだよね」
央介はまた日芽香を見た。急に素直にお礼を言うのが恥ずかしくなったのだ。
それからタクシーで家の前まで送ってもらった。すべて由香里が支払った。やったことを考えたら当然だと言う人もいるが、央介はそう思わない。ただただ感謝している。
夜になって日芽香と睦子が眠りにつくと、央介は副業を開始する。単純作業を繰り返す工程に入ったときに、ふと昔のことを思い返していた。
大学を卒業してすぐに妊娠が発覚したとき、新卒でアニメ制作会社に入社していた由香里は狼狽えていた。元々ダラダラと大学時代の延長で付き合いを続けていた二人は、互いにどこで別れを切り出そうか模索していた最中だった。大学時代から続けていた音楽で生きていくためにと央介は、音楽で成功するから一般企業で就職なんてしねえ、なんて言っていた。大学時代は応援していた由香里の気持ちは、目に見えるように離れていく。現実を十分に理解しながら夢を掴んだ者と漠然とただただ理想を語る者には、意識格差が生まれていた。互いの会話すら成り立たないほどだった。
由香里は当初、就職してから体調を崩したりどんどん体重が増えたりするのは、仕事のストレスのせいだと思っていたらしい。多忙な時間を縫って病院に行くことも考えず、ひたすら仕事に慣れるため精一杯だった。二人はまだ実家暮らしで、頻繁に会う機会が少なくなっていたから、新卒で働いていた頃の由香里を央介はあまり知らない。
ただ音楽と向き合っていた央介は、由香里が置かれた状況の過酷さを実感できないまま時間が過ぎていった。
そしてある晩、電話がかかってきた。
「お腹に、子供がいるって、どうしよう」
それが第一声だった。央介はそのとき人生の幅について深く考えていた。まだ経験不足だから、共感できる音楽が生み出せないのだという観念的なものに囚われていたのだ。そこに根拠はない。悩める自分や人生と向き合っているような雰囲気に酔っていただけだ。
「おお、じゃあ、おれが父親になるってことだよね」
嬉々とした雰囲気で返したのは、そんな理由があった。人生の幅がこれで安易に広がると錯覚した。子供を育てることがどれだけ大変で、どれだけ責任を負うのかわからないままはしゃいだ。
「ねえ、これって本当に真剣に考えるべきことなんだよ。お医者さんには、もう堕せないって、言われてさ」
「じゃあ、育てるしかないっしょ。マジかー、おれが父親か。有名なミュージシャンでも多いよな。早めに子供できているパターンって」
「もう馬鹿なの。てか、仕事はどうしてんの? あのさ、就職活動しないでまだレンタルビデオでバイトしているんだっけ?」
「ううん、あれ辞めた。シフト無理矢理入れてくるんだもん。今さ、出会い系のサイトで……」
「ねえ、お願いだからこれを機にちゃんと正社員になってよ。もうさ、二人で育てていくしかないんだよ」
「わかっているよ、そんなこと。でも今は両親に手伝ってもらってさ、いずれおれが音楽で成功して……」
「そんなの待てるわけないじゃん。こっちはさ、これから産休に入ることになるの。せっかく本格的に制作進行に参加できたはずなのに、仕事から外されるの。せっかくこれからだっていうのにさ」
「子供ができたらさ、もちろんおれも協力するから、ゆかりんも夢追い続けようぜ」
「無責任なことを言わないで、馬鹿!」
そう言われて切られてしまった。今思い返せば、当然の反応だと央介は思う。
周囲の人々は、限りある時間の中でしか夢を見られないと思って生きていたのに、央介はなぜか自分は大丈夫だと思っていた。自意識過剰だった。
そんな自分の鈍感さを央介はなかなか気づけなかった。日芽香が生まれて抱き上げてもまだ無邪気なことばかり考えていた。我が子とたくさん遊び、触れ合いながら、育児の経験を音楽につなげていこう、などと目論んでいたのだ。
翌日は朝から客足が途絶えなかった。常連さんから新規まで幅広い層の客がカウンターを埋めていく。それでも央介は決して焦る素振りを見せず、ペースが乱されている様子を察されないようにと、一杯ずつコーヒーを提供していった。たまにはこんな日もある、と自分に言い聞かせ平常心を保とうとしていた。
「今日はカウンターが埋まっているな……」
店に入ってきた府川が呆然と立ち尽くしていたのは、午前十一時過ぎだった。カウンター席には二十代ぐらいの男女と三人の中年男性がいた。若い男女は二人ともレモンカラーの服を着ていて、シミラールックにしているようだった。それぞれがコーヒーを撮ってから、携帯電話を弄り続け、ほとんど会話をしていない。三人の中年男性は、ずっとカードゲームの大会について話している。いわばオフ会のようなものだろう。
それぞれがそれぞれの世界を形成している。はっきりとした境界線はなくても、住む世界が違う住人たちが同じ空間に存在していた。そこにやってきた一人の男性は、寂しそうに背中を向ける。
央介はカウンターから離れて、府川に声をかける。
「今日はすみません」
「こんな日もあるよな」
「珍しいです本当に。また来てください」
「先代のときだってたまにこんな日があったからな」
「そうなんでしょうね」
この世界には変わらないものを新しいものに昇華しようとする人たちがいる。新しくできた集団が場所にこだわることなく、たまたま変化を求めない場所に足を踏み入れることもある。そこにある変わらないものを永遠に求め続ける人もいる。央介はどんな人も拒むことはできない。席に座った人に同じコーヒーと空間を用意することしかできない。
夕方になると、ある「常連客」が現れた。杖をついたその姿を見ると、央介は手が震えるほど緊張する。
「央介さん、お久し振りです」
「和香子さん、来て下さったのですね」
「ええ、今日はお客さんがいらっしゃるのね」
「はい。そんな日なんです」
シンプルな白のカットソーを着て、細身のデニムを履きこなすその人は、先代の妻和香子だった。杖をカウンターにかけ、出入り口から一番近い席に腰掛ける。ゆっくりとした、いかにも年配者の動きではあるが、服装や顔立ちは若々しい。
入り口から遠いところにある三席は、三歳ぐらいの男の子とその親と見られる男女が占拠していた。「子供用のメニューがないなんて、信じられない」とついさっき文句を言ってきたけれど、今は大人しくコーヒーを飲んでいる。央介は別に説き伏せたわけではない。ないものはないのだとはっきり言っただけだった。いたずら盛りであろう男の子も、騒ぎ立てることなく静かにしている。どんな相手にも毅然とした態度をとるのもまた、先代から引き継がれた作法なのだ。
「本当に、なにも変えていないみたいね」
和香子は店内を見回しながら言った。
「この店は、自分だけのものじゃないですからね」
「あなたはイケイケな雰囲気があったから、ガラッと変えちゃうんじゃないかな、って思っていたけど、そんなことなかったわね」
「たぶん頑固なんだと思います。意固地になっていてもどかしいと思っている人もいるみたいですけど」
「娘さんとか?」
「はい」
「あなたは、きっと変わらないものを守りたいっていう強い意志をそのまま受け継いだのね。ここには出会った頃のあなたの色がどこにもないんですもの」
「自分がどうとか、自分らしさなんてものは、本当はどこにも存在しないんだと思うんです。でも新しい時代に合わせて変化が必要なのかな、って悩むこともあって」
「引き継いだのはあなたよ。あなたが好きなようにすればいい」
和香子はそう言いながらも、なにも変わっていないことを喜ぶかのように、微笑みながら椅子を撫でていた。
「はい、どうぞ」
いつもと変わらない豆の挽き方で抽出したコーヒーを和香子の前に置く。ソーサーを持ち上げて、音もたてずにコーヒーを飲む姿を央介はつい固唾を飲んで見守ってしまう。
「ああ、このおいしすぎるわけでもなく、マズすぎるわけでもない安定しない味……こんなところも変わらないのね」
「ぼくはただただ引き継いだことをそのまま実践しているだけなんです」
「なんだか、とってもおかしいわね」
「そうですか」
「あなたって本当に、いい人だなって思えてね。主人の目に狂いはなかったのね」
「うれしいですね。でもどうなんですかね」
「まあ、いいとか悪いとか、簡単に判別できないぐらいに人って複雑な者かもしれないけどね」
「ええ、このコーヒーみたいに」
「この店自体もね」和香子はコーヒーから沸き立つ湯気に鼻先を近づけた。「おいしいものを追求すれば、もっといいものはある。心地の良い空間が欲しければ、ほかに沢山ある。そうやって追い求めていけば、どんどんみんな一緒になっていく」
「そうなんでしょうか?」
「早い流れの中で、価値は変化していくかもしれないけど、そのときどきで向かうべき先は、きっとみんな同じになるように、って求められるの。そうじゃなきゃ除け者にされる。だからみんな一緒になるのよ」
「そんな大きく物事を考えたことはなかったかもしれません」
「みんな求められる価値観に振り回されてかわいそう。穏やかな時間も考える時間もないまま、急かされて生きていくことを求められているんだから……」
「だからこそ、こういう場所が必要だってことなんですね」
「ええ、わたし個人はそう考えている。主人は、うーん、わからないけどね」
「またご自宅にも顔を出させていただきます」
「いいの、いいの。あなたはあなたで忙しいんだから。あの人がもう亡くなって二年経って、引き継いでまだ二年半ぐらいでしょ?」
「ええ、そうですね」
「あなたはあなたの幸せを考えてね」
和香子のコーヒーカップは、空になっていた。
「おかわり、どうします?」
「いらないわ。だって有料ですもん」
親子連れの三人が会計を済ませて出ていき、それから間もなく和香子がレジの前に立った。
「またいらっしゃる際には、ご連絡ください」
「別にいいじゃない。定休日以外、いつ来たってこの店は営業しているんだから」
ようやくカウンター席に誰もいなくなった。経営者として喜んではいけないことなのに、央介は安堵のため息を吐いた。いくらわがままな客が来ても構わない。趣向が合わない客が来ても問題ない。ただ和香子という存在だけは、央介にとって息苦しさをもたらすのだ。
夜になるとぴたっと客の波が収まった。人が人を呼ぶという現象が朝から続きすぎたので、央介もさほど気にしなかった。
「いちいち集客状況で一喜一憂するのは精神的によくない。店舗を経営するのは株を保有することに似ている。安易に利益を求めようとするのはもちろん悪手だし、一気に利益を求めるのも危険が多すぎる。ゆっくり寝かせて、流れや状況を見て、じっくり育てていくんだ。その根気とおおらかさがなければ、勤め人として過ごしたほうがずっといい」
央介は先代が言ったことをふと思い出した。正直、その言葉が商売成功の格言だと思っていない。時代や状況によって最善の策や方法なんて変わってくるはずだ。何事も鵜呑みにすることほど怖いことはない。
央介は自分や日芽香のことしか考えていない。先代が築いてきたものを引き継ぐ「ふり」がどこかで働くことよりも向いていただけだった。
日芽香が欠伸をしながら、二階から下りてきた。オレンジ色の無地のTシャツにグレーのデニムを履いている。一応、外向きでも問題ない服装に見えた。大体帰宅すると寝巻がわりの上下スウェット姿になることが多い。央介しかいないことを確認してから下に来たようだが、まだ営業時間ではある。いつ客が来ても問題がないようにと、日芽香はちゃんと配慮しているようだ。
「今日って、暇だった?」
「全然、いつもよりも儲かったよ」
「ふーん」
「ひめちゃんは、どうだった?」
「うーん、普通かな」
「コーヒー飲む?」
「ううん、いらない。てか少し手伝う?」
「じゃあ、カウンター拭いてくれる」
「いいよ」
日芽香はアルコール除菌スプレーと台ふきんを持ってきて、片側から反対側へと往復させずに一方向に拭いていった。人が口に入るものを取り扱っている以上、衛生管理を徹底すべきだ。その意識を日芽香はちゃんと持っている。
「丁寧に拭いてくれてありがとね、ひめちゃん」
「まあね」
この空間で互いに交わす言葉は少ない。二階の住居スペースでもさほど多く話すことはなくなってきた。こうしようね、ああしようね、などと央介が注意することもない。そんなことをしなくても日芽香は営業時間中に二階にいるときには、常に意識しているようだ。音をガンガン鳴らすことも、大きな声で話すこともない。基本的に静かにしている。
「もしかして、この生活って負担かけてる?」
央介は言葉を吐き出してから、すぐに間違えたかも、と思った。たぶん親の気持ちを配慮しながら答えるはずだから。子供は常に親のことを見ているし、十分考えている。本当の気持ちはじっくりと時間をかけて、同じ目線に立って確認しなくてはならないのに──。
「まあ、負担になっている部分はあるよ」
「えっ?」
「でも一緒に生活していたら、なにかを犠牲にして、なにかを得ていかなくちゃならないんじゃない。たぶんパパがサラリーマンでもなにかが負担になっていただろうし、ママと別れていなくてもなにかが負担になっていたはずだよ」
「ひめちゃんは、そういうふうにずっと考えていたの?」
「うん、だって、今ある環境が最悪なわけじゃないじゃん。最高なんて無理だけど、パパは最高に近づくように毎日悩んでいるみたいだし」
「ありがとう。しっかり伝えてくれて」
「別にさ、遠慮する必要ないじゃん。パパやむーちゃんに気を遣っていたら、やってけないもん」
「外では気を遣っているの?」
「そりゃそうでしょ。学校内だっていろいろあるんだから」
そうして誰も来ないカウンターに頬杖をついた日芽香は、一気に話し出した。ダンス部で巻き起こる同級生同士の部長争い、クラスにいる人たちの意識の格差について、担任が下の名前で呼んでくる、などなど。
どの問題も日芽香にとっては深刻なことだ。それを一つ一つ受け止めるように、央介は頷き続けた。この時間こそ至福なのだと感じながら、閉店時間までずっとそうしていた。
月並みの言葉ではあるが、子供が親を成長させてくれる。
結局、子供は親の所有物ではなく、一緒に歩んでいく人間なのだ。そんな当たり前のことを日芽香は央介にすぐ気づかせてくれた。
央介は副業をしながら、また懐古に浸っていた。
生まれてすぐの日芽香が、お産を終えたばかりの由香里の横に寝かされた。央介は感動に浸りながらその二人を見つめていた。すると由香里はこんなことを言った。
「早く仕事に復帰しないとね」
由香里は出産して六週間で仕事に復帰しようとした。医師から労働に支障がないと診断されても、央介は由香里に言ってしまう。
「ねえ、もう少しゆっくりしてもいいんじゃない。大事な身体なんだしさ」
由香里は、はぁー、とため息を吐いて、央介に鋭い視線を浴びせてきた。
「やりたいことを我慢してまで、立ち止まりたくないの」
現実問題、低賃金で安定しない央介の当時の収入を考えると、由香里の早期の職場復帰が必要だった。両家の家族がバックアップをすると言ってくれていたが、由香里は甘えていられないと最小限しか受けたがらなかった。
なによりも由香里は育児のことは度外視しても、早く仕事に復帰したがっていた。やりがいのある仕事を手放す怖さが、子供を産んでからの余韻を打ち消しているようだった。
そうなると自然と央介が日芽香の面倒を見ることになった。でもそう容易いことでないことをすぐに痛感する。ミルク、寝かしつけ、夜泣き、おむつの処理などの基本的なことだけでもういっぱいいっぱいになりそうだった。
こんなに大変なことをみんなしているのか、と央介はただただ驚愕し、一人で頑張ろうとすることを早々にやめた。かといってすぐに仕事に復帰した由香里に頼れる雰囲気はない。となると、人脈をフル活用するしかなかった。
由香里の両親に声をかけ、何度も家を往復してもらった。もちろん央介の両親にも協力を求めた。時には同じ音楽仲間に手伝ってもらい、日芽香と過ごす時間に少しでも余裕を持たせるようにした。どんどんフリーター勤務も疎かになり、音楽からも遠ざかっていく。家計は完全に由香里に支えてもらい、家のことは全部央介が行う。そして出費がどんどんかさんでいく。だとしても、央介はどんどん日芽香に夢中になっていく。
ある夜、二人で過ごした時間を思い出す。そのときは夜中三時を過ぎていた。
首が座って、後頭部を支えることなく縦抱きができるようになった頃、日芽香の夜泣きはひどくなっていた。当時住んでいたのは安いアパートだったから、由香里のことだけでなく、隣近所のことも気にしなくてはいけなかった。
それでも央介はゆっくり語りかけるように耳元で話し続け、ギャーギャーと泣き続ける日芽香と向き合おうとした。徐々に込み上がってくる怒りを抑えながら、日芽香の身体を抱きしめる。どうにもならない焦燥感にぬくもりが重なった。一つの孤立した生命が響かせる鼓動が、わたしは一人の人間だと訴えかけてくる。
ああ生きているんだな、と央介はなぜか安堵した。同時に一人の人間としての尊敬が生まれていく。それはとても不思議な感覚だった。
そうしてようやく日芽香が泣き止むと二人で外に出て、央介は月明かりがきれいな夜の空を見つめていた。
生暖かい風が吹いていた。あれは梅雨が始まる前の、すべてが満ちていくような季節だった。
「ひめちゃん、どうして日芽香って名前になったか知ってる?」
央介はそっと訊ねた。すっかり目が冴えてしまっていた日芽香は、キョロキョロと外の世界を興味深く見回しているようだった。
「どんな夜が訪れても、どんな苦しいことがあっても、生きていくきっかけを感じさせてくれる文字を三つ並べれば、たぶん前向きになれるかもって思ったからだよ。日差しを浴びても、芽吹きを見つけても。素敵な香りを嗅いでも、悪い気にはならないでしょ? ちょうどこの時間帯、ひめちゃんがおぎゃーってこの世界にやってきてくれたときに、思いついたんだ」
日芽香は央介の顔をじっと見た。ぱっちりと開いたその瞳は、どの星よりも輝いていた。
「もしも気に入らなかったら、別の名前に変えてもいいんだよ。ひめちゃんは、ひめちゃんの人生なんだからね。でもおれはただ、できるだけ一緒に歩んでいきたいって思っているんだ。こんなパパだけど、許してね」
央介の目からは自然とぽろぽろと涙が出ていた。
周囲の助けがないと生きていけない。どんな辛いことがあっても向き合い続けなくてはならない。いつの間にか央介は、自分じゃなくて周囲の人々、特に日芽香のことばかり考えていたのだ。
そのとき、これこそが愛なのだと、央介は初めて気づいた。
子育てをしていると親が教えてもらうことのほうが多い。うまくいかないことのほうが圧倒的に多い。
うまくいかないのは音楽も同じだ。ただ、親は子供を授かることを選べるかもしれない。けど子供は産まれてくるかどうかも選べない。
そんな責任感がどんどん湧いてくる。一人で食事もできない、排せつの処理もできない、誰かの手を借りないと生きていけない存在がそばにある。そんなことを日々、実感するからだ。
ほかの誰かが生み出す新しい音楽や売れている音楽を羨むのではなく、今自分にしかできないことに注視できるようになっていく。本当に大事なことが明確になっていく。子供が一人でできることが増えていくと、同じ世界を二人で冒険している機運が高まっていく。
由香里が産んでくれ、収入を確保してくれ、子供に集中できる環境を最初に用意してくれたおかげだ。
央介は思う。もしも自分一人ですべてを担っていたなら、子供を下に見たり、雑に扱ったりしていたはずだと。日芽香とは一人の人間として対等な関係性を築いてきたつもりだ。
そんな愛娘が、ある朝急にこんなことを言い始めた。
「パパ、やっぱりメニューを増やそうよ。駅前にあったパン屋も潰れちゃったんだよ。あそこもメニューにこだわりがあって、新しいことをなにもしなかったから今の時代に置いていかれちゃったんだよ。こっちだって対岸の火事じゃないんだよ。わかる?」
その日は朝練もなく、日芽香はテーブルでゆっくりとクロワッサンを食べていた。央介も早くに起きたので、一緒に同じクロワッサンを食べていた。
「ひめちゃん、あそこはね、駅前でさ、競争率が激しい場所なの。近くのスーパーの中にはパン屋があるし、駅の反対側にだってあるじゃん。だから顧客を取られちゃったんだよ」
「でも、ここだって別の競合ができたらどうすんの。SNSでも書いてあったよ。経営には攻めの姿勢が必要だって。だから、SNSでもなんでもフルに活用しなきゃさ、ほかのところに取られちゃうよ」
「パパだってね、ずっと考えているんだよ。変えるべきだよな、って思ったり、やっぱり変えないべきだな、って思ったり、ずっと頭の中がシーソーみたいになっているの」
「もし悩んでいるんだったら、絶対に行動すべきだって」
「ひめちゃんの意見も含めてさ、いろんな人の意見を聞いてきたわけ。そこで考えるんだよ。なにが正しいのかってね」
「えっ、てか思ったんだけどさ」
「なに?」
「パパはわたしの意見に賛同しないの?」
「うーん、あくまでも参考にしているよ。ほかの人と同じようにね。でも前みたいにSNSで宣伝するのはさ、得策じゃないって今のところは思っているかな」
「大事な娘の意見なのに?」
「もちろん大事だよ」
「じゃあ、なんで?」
「パパはさ、前も言ったけど、ひめちゃんを一人の人間として見ている。ほかの人と同じようにね。だから意見についてはどれも対等なの。子供の意見だからって優先させるべきじゃないって思っているんだよね」
「ちょっと待って、ずっと思っていたんだけどさ」
「なに?」
「本当はわたしのこと本気で愛していないんじゃないの?」
「えっと、どうしてそんな考えが飛躍するのかな?」
「娘の意見は素直に受け入れるんじゃないの、普通?」
「普通っていう基準はわかんないけどさ、ここで生活するための最善を考えるべきだとは思っているよ」
「こんなにわたしがこの店のことを心配しているのに?」
「それはありがたいし、嬉しいよ」
「パパってさ、この店を継いでから、ずっと理屈ばっかりこねちゃって、結局なーんにもしないじゃん。先代の意志とか、そんなことばっかりに囚われちゃって、この厳しい現代で本気で生き抜こうとしてない」
「だから、そこはちゃんと考えているんだって」
「もういい、バカ」
「えーひめちゃん」
日芽香は残りのクロワッサンを口の中に無理やり入れて、牛乳で一気に流し込んだ。
「ふぁあねぇ、うぃってくぃまふ」
おそらく、じゃあね、行ってきます、と言って階段を下りていってしまった。
「せっかく距離がまた近づいてきたと思ったら、こうなんだから」
ずっと黙っていた睦子が言った。央介は頭を抱えたふりをした。
「だとしてもさ、ちゃんといってきます、って言って学校に行くんだよね」
「えっ、そこ?」
「もっとキツイ言葉を使ってもおかしくないし、本気で考えているのに相手にされていないって思ったら、もっと怒っていいはずじゃない? もちろんこっちは重要な意見だとしていつも受け取っているんだけどね」
「まあ、そうなんだろうけど」
「ちゃんと対話しようとしてくれているんだよ」
「でも、本気で愛していないんじゃないの、っていう最大級の武器を使ってきたよね」
「まあ感情的になるってことは、それだけ真剣に考えてくれているのかもね」
「難しいお年頃だからね」
「うーん、きっとむーちゃんが思っているよりもずっと、ひめちゃんは成熟した考えを持っているんだよ」
「そうかな?」
「だから、ひめちゃんになんて言われようと、同じ大人として向き合っていくつもりだよ。もちろんひめちゃんの意見も一理あるからね。完全否定しないで、じっくり話し合っていくつもり。この店はおれだけのものじゃない。もちろん、先代の意志を、っていう部分があるけど、一緒に暮らす二人のものでもあるんだから」
「わたしもなにか意見を言ったほうがいい?」
「別に強制はしないよ。変に改まって作戦会議っていうのだと意見は出づらいと思うから、もしなにか思いついたらその都度言ってくれればいいよ。そんでさ少しずつ話し合う。差し迫った危機に瀕しているわけではないんだしね」
央介は、うん、と自分を納得させるように頷き、クロワッサンにかじりついた。
その日は開店してから客は誰も来ず、昼間になるとカウンターのそばで央介は呑気にサンドイッチを頬張っていた。来ないのを嘆くことはない。そんなこともあるのだとわかっている。それからも来客ゼロのまま時間は過ぎていった。
掃除を念入りにしながら昼下がりを迎えた頃、バタバタと日芽香が帰ってきた。
「誰もいない? あ、ただいま」
「あれ、おかえり……今日って部活は?」
「ないよ」
「給食食べてきたんだよね?」
「うん、そう」日芽香は店の中をぐるりと見回した。「今日ってもしかして、まだ誰もお客さん来てないとか?」
「あー、うん」
「どうすんのさ、光熱費とかかかってるんでしょ?」
「あー、今朝の話、ここでぶり返しちゃう」
「コーヒーください」
日芽香はカウンターの席につき、隣の席に自分のカバンを置いた。
「かしこまりました。少々お待ちください」
央介はすぐにマスターモードに切り替わり、ほかの客と変わらない態度でそう言うと、コーヒー豆が入った袋を用意した。
「ちゃんとお支払いしますから」
「いいや、ひめちゃんはタダですよ」
「わたしたち、対等なんでしょ? だったら娘だからって、タダは変だよね」
あら、と央介は思い、手を止めた。たしかに理屈ではそうなる。自分からほかの大人と変わらない対等な存在だと言いながら、ここでお金を請求しないのは理にかなっていない。
「一杯、六百五十円ですが……」
「お小遣いもらっているんだもん。それぐらい払える」
「あー、そうだったね」
「このまま今日、売り上げゼロにはしたくないもん」
「明日、いっぱい人が来るかも」
「そんなギャンブルみたいな経営していたら、いつの間にか潰れちゃうんだって」
この店のコーヒーは差別も区別もしない。ただそのときどきで微々たる味の差が出てしまうだけだ。コーヒーカップの中でわずかに揺れた黒が、日芽香の顔を映し出す。持ち手には指を通さず、中指と薬指の腹で持ち手の下部分支えながらカップを上げ、音を立てず口に運ぶその所作は美しい。
「おいしいね。ありがとう」
感謝の気持ちをきちんと伝えながら、ゆっくりとカップをソーサーに戻す。
聴こえてくるのは、ジャズのスタンダードナンバー『フライ・ミー・トゥー・ザ・、ムーン』。歌唱はナット・キング・コール。央介はそのまま月まで行けそうな気分になっていた。
「なーに、ぼーっとしてんの?」
日芽香の声で央介は我に返った。
「幸せだな、ってね」
「どこが?」
「今、この状況がね」
うんざり、と顔に書いたような表情をして、日芽香は首を傾げた。
店のドアが開いた。央介は、邪魔するなよ、という視線を向けてしまう。
そこには懐かしい顔があった。
「やあ、高ちゃん。元気していた?」
央介のかつての音楽仲間だったケンヤだった。黒い革ジャンにストレートデニムで、ボロボロのギターケースを背負っている。髭は胸元まであり、髪は肩甲骨付近まであるそのスタイルはまるで変わらなかった。会わなくなって五年以上は経過しているはずだった。
「いらっしゃいませ」
央介はほかの客が来たときと変わらず対応した。どうしてこんなタイミングで顔を出したのかわからないまま。
「誰、そこのきれいなお嬢さんは?」
ケンヤの視線は日芽香に向いていた。
「えっと……」
「えっ? 自分の店でパパ活してんの?」
少しでも言葉に詰まると、どんどん言葉を被せてくる。ケンヤはそんな性格だった。
「わたしはこの人の娘ですけど」
日芽香の声は尖っていた。明らかに敵意を剥き出しにしている。
「ほら、昔、ケンヤもオシメ替えるの手伝ってくれたじゃん」
央介は表情を崩しながら、すかさずフォローに入る。
「あー、ひめちゃん? あっれーこんな美人なお姉さんになったのー。そりゃあおれも年を取るわけだわ」
コンプライアンス意識の欠片すらない発言に、褒められてもなお険しい表情の日芽香。
「外見を褒めてくれるのは嬉しいし、オシメを替えていただいたことも感謝したいんですけど、なんかすごく配慮がない言い方ですよね?」
「あー、ごめんごめん」
ケンヤはそう言いながら、しれっと日芽香の隣に座った。
「ここってさ、アイスティーなかったんだっけ?」
「ホットコーヒーのみです。一杯、六百五十円です」
「そうなんだよねー。砂糖もレモンもスプーンもないんでしょ?」
「はい。申し訳ありません。メニューを一つに絞って営業しているんです」
「変わんないねー。でも変わんないっていいことだよ、うん」
ケンヤはギターケースからエレキギターを取り出した。色はフィエスタ・レッドだ。
「ひめぎみ、このギター知ってる?」
「ひめぎみ?」
日芽香は怪訝な顔でケンヤの顔を見る。ギターを見るそぶりは見せない。
「日芽香だから、ひめぎみ。高ちゃんの『姫君』でもあるからね」
「さあ、知りません」
ギターに視線を向けることなく、日芽香が答えた。
「フェンダー・ジャガーだぜ。カート・コバーンもカール・ウィルソンも愛用したヴィンテージ・ギターなんだから」
「じゃがー? こばーん? ねこ?」
「ひめちゃんがなにかと猫と関連づけて、猫を飼いたがっちゃうから、その紛らわしいおじさんうんちくはやめてもらっていいですか?」
央介はコーヒー豆の入った袋を持ったまま言った。
「うんちくじゃないの。教えてあげてんの。知らないだろうからさ」
「で、ホットコーヒーを注文するんですか? しないんですか?」
「はい。ください。昔のよしみでタダでお願いします」
「それは無理です。一杯、六百五十円です」
「はん、けちくさいねー」
「じゃあ、そこで座っているだけですか?」
「もう、じゃあ一杯くださいな。お金も払います」
「ありがとうございます。用意いたします」
不機嫌そうに唇を尖らせながら、弦をはじき、ヘッドについているペグを回し始めるケンヤ。ジャン、ジャン、と音が鳴るが、日芽香は興味なさそうに、目の前にあるカップを見つめている。
「ひめぎみ、最近の子ってさ、ギターじゃなくてアプリとかで音楽作っちゃうんでしょ?」
「ねえパパ、コーヒーって冷めてからもおいしいように改良ってできないの?」
ケンヤは日芽香の方を向いて話しかけているが、まるで眼中にないかのように日芽香は央介に訊いてくる。
「質のいい豆とか、焙煎技術とか、抽出とか、いろいろよくないと酸味が多く感じちゃうからね。冷めると香りでごまかせないから、淹れ方をもっとこだわらないといけないのかも」
へえー、と言いながら日芽香はまたコーヒーに口をつけた。
「えー、完全に無視されているー。ねえねえ部活とかやってんの? 帰宅部なの?」
日芽香は携帯電話を出して画面を操作し始めた。ケンヤの方を向く気配はない。
「じゃあ、アイスコーヒー出すとかは?」
「使っている豆がホット用だからね。アイス用のものを用意するってなるとまた経費がプラスでかかっちゃうんだよ」
「あー、前それ言ってたよねー。なんかそこは先代のこだわりもあって、みたいな」
「おれって機械的な人間だから、柔軟に対応したり応用したりするの苦手みたいで、どうしてももともとある型を破れないっていうのもあるみたいだし」
「パパって自由人間みたいに生きてきたのにね」
「自分で考えてどうこうできない人間だってわかっていたから、ずっと足搔いていたのかもね」
ポローン、ポローン、とケンヤが音を鳴らしたあと、アンプにつながないまま本格的な「音楽」を奏でだした。C、G、Aマイナー、Fを繰り返す。この洋楽では定番のコード進行に変化をくわえることなく、弾き続ける。
BGMにはジャズがある。それに合わせるつもりはないようだ。日芽香はようやくギターを見た。感情もなくただ見つめるという様子で。
「おれたちって、世界でなにも生み出せないんだ。世界を変えることはできない」
ケンヤの口調は弾き語りをしているようだった。
「ただマネをしているだけ。本当に新しいものを生み出せる人は、ほとんどいない」
日芽香はギターから視線を逸らし、央介の手元の方を見た。時間をかけて手挽きをすることに集中しているその手に対しては、真剣な眼差しを送っているようだった。
「だけどおれには夢がある。希望も愛もなにもかも。時代遅れだって言われても──」
コーヒーをカップに注いだ頃には、ケンヤの弾き語りは終わっていた。
「お待たせしました」
ケンヤは首を縦に動かすだけで、無言のまま受け取った。
「なあ、ケンヤって今、なにやってるの?」
顔を上げたケンヤは、一瞬目を見開いた。
「そりゃあ、音楽だろ」
「違う。仕事の話」
「……システムエンジニア」
「そっか」
日芽香は央介に「ごちそうさま」と言い、ケンヤに「それじゃあ」と言ってから、カバンから財布を取り出した。ジルスチュアートの淡いピンク色をした二つ折りの財布だ。それは去年、由香里から送られた誕生日プレゼントでもある。
小銭をジャラジャラとさせてから、五百円玉と百円玉と五十円玉をそれぞれ一枚ずつ取り出す。央介に手渡さず、レジの中に直接入れてから二階へと上がっていった。
「わかり合えなくてもいいと思う。同じ世界に、それぞれの世界を作って、共存している雰囲気を保てればね」
央介の言葉に、ケンヤは首を横に振る。
「本当に、それでいいと思うのかよ?」
「だって、世界を変えることはできないんだろ。おれは平穏に過ごせればいいや」
それから数分でケンヤは帰っていった。結局、央介がいつもと変わらない製法で淹れたコーヒーに口をつけることはしなかった。
次の日、開店して間もなく、カフェ・モリムの前に黒い軽自動車が停まった。そこから出てきたのは、眉毛の太い細身の男性だった。央介はすぐに笑顔で出迎える。
「平井さん、いつもありがとうございます」
「いえいえ、梶原さんのときからの付き合いですから」
互いに深く頭を下げた。
「コーヒー豆は、またわたしが奥に運びましょうか?」
「いつもありがとうございます。大量にご用意いただけるので、助かります」
コーヒー豆の卸業者として大ベテランの平井は、おそらく還暦を過ぎている。いつもモリムのために決して高品質なものでないが、それなりのコーヒー豆を安価で大量に用意してくれていた。央介は先代が結んだ契約をそのまま更新しており、別の手段で豆を入手したことがない。これもまた変わらない「伝統」を受け継いだ結果である。
「高浦さん、ちょっといいですか?」
店の奥にある倉庫まで豆を運び終わった平井が、央介に手招きをしてきた。
客はまだおらず、店内は二人きりだった。
「なんでしょうか?」
「今後のことなんですけどね……」
「ええ」
胸騒ぎを覚えていた央介は、つい被せ気味に相槌を打ってしまう。
「わたしもそろそろ歳でしょう? もうこの仕事が肉体的に堪えてならんのですよ」
「大変なお仕事ですからね」
「ええ、出荷するのも、なにをするのにも、ほとんど自分だけでやっているでしょう」
「はい。本当に頭が下がります」
「大手の企業から独立して、こうした町に根付いたカフェのためと思って頑張ってきたんですが、もうそんな店もどんどんなくなってきて、今はフランチャイズが強くなってきたわけですし、そろそろ限界かな、と」
「もしかして、おやめになるのですか?」
央介は背筋をゾクッとさせた。平井がコーヒー豆を卸してくれなくなることは、この生活が終わることを同時に意味していたからだ。
「今すぐに、というわけではありません。もちろん、もしそうなったら前もって関係者の方々には挨拶をさせていただくつもりです。ただやはりいつまでも、というのは難しい気がしましてね」
「平井さんは、以前からこのお店を助けてくださっていました」
「そう言っていただけるのはありがたいことです。自分を犠牲にしてやってきてよかったのだと報われる気がします」
「価格についても、いつも良心的で、わたしがこうして引き継いでこの店を切り盛りできるのも、平井さんあってのことですから」
「あなたも夢を一旦隅に置いて、家族や先代のために立ち上がってくれたじゃないですか」
平井からの労いにも央介はうまく反応できなくなっていた。まずは日芽香のことを考え、もちろん今後の生活のことについても考えていた。不安や危機感がどんどん蓄積していく。
「やはり個人はもちろん大事ですが、社会や周囲の理解があっての個人の権利ですからね。自分本位でなく、人のためと思ってやってきたこの仕事に幸せを感じていたのです」
「ええ、そうですね」
「過度な個人主義が社会を壊すわけで、今の考えについては、わたしはどうも納得しないんですよ」
そこからは平井は自分が持つ社会と個人に対する考えについて延々と語り続けた。央介は繰り返される生活ばかりに目を向けて、広い範囲で物事を考えることはほとんどない。自分の考えもないまま、はい、はい、と同意しているふりを続けた。思想うんぬんよりも、この生活にいつか終わりが来るのだ、という現実を突きつけられたことによる動揺を隠すことに精一杯だった。
事業継承の手続きはある程度の金額がかかった。しかし先代の厚意で最小限の負担に抑えてもらい、住居もそのまま譲り受けることとなった。そこからの見通しが甘すぎた。
央介は副業に取り組む前に、帳簿を改めて確認する。
日芽香が将来的に大学へ進学した場合でも、学費などの金額は負担できる目処をつけていた。それが仮に、あと一年、もしくは半年でいつものコーヒー豆が調達できなくなると、大きく計算が狂ってしまう。
現段階でも苦しい状態なのに、さらに苦境に立たされる。もともと不安感は胸の底にあった。日芽香の前では晒さないようにしてきたけれどそろそろ限界だ。ちゃんとあの中学生の瞳は現実を捉えている。
いつも以上に懸命に副業に取り組んですぐ、死んだように短時間眠り、翌朝を迎えた。
睦子と日芽香はいつも通り朝早い。三人揃った朝食中に央介は、ちょっと二人ともいい? と切り出した。
「明日、休みの日なんだけど、ちょっと先代に会いに行こうと思う」
日芽香は特に驚いた様子もなく、トーストを咀嚼していた。
睦子は首を傾げながら、とぼけた顔をしていた。
「えっ、もう亡くなられているのに?」
「いや、厳密に言うと和香子さんに会いに行く。実はコーヒー豆の卸業者の平井さんが、引退を考えているみたいなんだ。平井さんがいなかったら、今みたいに安価で豆を大量に用意してもらうことは難しい。どこかの業者に掛け合って、同等の量を同じぐらいの金額で、っていうわけにはいかない。全部先代の人柄とか厚意でやってもらっていたことだからね」
「じゃあ、六百五十円から価格を上げたら?」
「むーちゃんは簡単に言うね。常連さんも多い住宅地での商売だから、価格は簡単に手をつけられないよ。でもそこも含めて考えていかなきゃいけない。やっぱり常連がいるからやっていけている面が強いし、変わらないでいてほしいって意見も多いから慎重に行わなきゃなんだけどさ。毎日来てくれるわけじゃないけどね」
日芽香は、うん、と頷いてから「じゃあ、とうとう転換期に来たってことだね」とここにいる誰よりも落ち着きを払い、決意を固めたように言った。央介は、日芽香の態度にほんの少し安心する。
「先代から受け継いだものを、和香子さんはできる限り変えてほしくないと思っている。だからまずはそこに納得してもらってから、具体的にどこをどう変えていくか決めていきたいと思っているんだ」
今度は日芽香が首を傾げた。
「いや、順番逆じゃない? 具体的にどう変えていくかをパパが決めて、それから和香子さんに伝えて納得してもらってから、最後にお客さんにも納得してもらうほうがいいよ。漠然としたまま、和香子さんのところに行っても、向こうも困るよ」
すると今度は睦子が首を横に振った。
「客商売なんだからさ、まずは常連さんの意見を聞いてから、判断したら? いきなりこうしますから、って伝えられても、お客さん側は困っちゃうじゃん」
「てか、パパ、具体的にどうしていくか、っていう策はもう考えているの? そこがはっきりしていないと説得しようもなくない?」
「ひめちゃんの言う通り。おうちゃんの考えはどうなのさ。ほら、前、ひめちゃんがSNSに投稿したでしょ。あのときだって怒ってたけど、結局、動画を見たきっかけで来店してくれる人もいたしね」
「むーちゃんの言う通りだよ。なにも考えないでただ変えますなんていうのは、ダメすぎるよ。まずはちゃんと自分で考えなきゃ、ね?」
二人の女帝に相談しておいてよかったと央介は心から思っていた。央介が押され気味になるほど、二人はきちんと真剣に考えて意見を出してくれた。なんだか嬉しくてたまらなくなっていた。それと同じぐらい自分の愚かさを感じる。
いつも浅くしか考えられないこの人間の、どこに先代は魅力を感じたのだろう。
央介は思い出そうとしていた。先代と初めて会ったあの日のことを。
梶原和久という男は、外も中も穏やかな人間だった。ただ付き合いが長くなるにつれ、その奥底に秘めた頑固さやポリシーの強さがわかっていった。押しつける雰囲気はない。自然と導くように相手と接する人だった。
出会いは七年前だった。日芽香の親権を手に入れたものの、央介はまだ安定しない派遣社員として勤めていた頃だった。由香里と別れて実家に戻り、両親のバックアップを受けながら生活する日々はさほど切迫感がなかった。しかし、両親ともども高齢になるにつれ、このままではいけない、という思いは心の隅には常にあった。
当時働いていた職場は、住宅地の一角に構えたオフィスビルにあった。おしゃれとは程遠い古い雑居ビルだ。仕事は事務作業で、主に庶務業務を任されていた。備品の整理や表の作成、ときにはリモート会議のセッティング作業などをして営業の補佐的な役割を担うこともあった。時間は九時から十八時まで、残業はなし、時給はほかと比較すると高めで申し分ない。でも派遣先から、いらない、と言われてしまえばそれ以降の契約はなくなる。
三十代前半だった央介と同年代の正社員たちは、自然と比較対象になる。周囲は口に出さなくても、央介は劣等感に苛まれることがあった。だとしても、現状を変えようと動き出すことはなかったのだ。
そんなある日、ちょうど同い年だった川辺という正社員から誘いを受けた。
「高浦さん、実はね、ちょっとおもしろいお店を近くで見つけたんだよ」
それは央介が定時通りに打刻を押して、カバンを持ち、帰宅しようとしたさなかだった。
「あ、それはいいですね」
早く帰って日芽香に、今日学校でどんなことがあったの? と訊きたい気持ちを抑えながら頷いた。当時は小学校に入学したばかりで、日芽香にとって毎日新しいことが巻き起こっていた時期だった。たぶん、央介が早く帰らなくてもちゃんと食事は用意されているし、さみしい思いをするわけでもない。それでも父親としての時間を大事にしたいと思っていた。
「ここからだと駅からちょっと離れちゃうんだけどさ。あっ、別に酒の誘いとかじゃないよ。てか、高浦さんってコーヒーってブラックで飲める派?」
「あっそうなんですね。コーヒーは、まあ、はい。砂糖もシロップも入れないですね」
本当は、ブラックで飲める自信なんてなかった。いつも甘くして飲んでいた。コーヒーは基本的に缶で飲むもので、カップで飲むようなことはご無沙汰だった。
「そこさ、ホットコーヒーしか出さないっていうので有名でさ、ちょっと行ってみたいんだよね」
「どんな店なんですか?」
「うーん、ネットとかでもほとんど情報ないんだけど、結構おしゃれだって言われている」
「へえーそうなんですね」
ここで断ったら心象悪くなるだろうな、と思いながら、ゆっくりと帰宅の準備をする川辺を待ち、二人で外に出た。
職場のオフィスビルからとぼとぼと歩いていく。四月下旬から始まる大型連休を前にしても、夜になれば肌寒くなる。コートを着てこなかった央介の身には堪えた。
川辺の好きなゲームの話に対して央介が適当に相槌を打っていると、それが見えてきた。
『カフェ・モリム』
央介は最初、どこにでもある民家に看板が掲げられている、としか思わなかった。
店内からも央介は特筆したものを見つけられなかった。カウンターに椅子が五つ。一番端にはホクロとシミの老人がいる。強いてあげるのなら、随分座席数が少ない店だな、と思う程度だった。
香り立つものがふんわりと流れてきて、やわらかい視線がそれについてくる。
「いらっしゃいませ」
どうも、という首を上下に動かしながら、川辺と央介は視線と声に応えた。
背中がすっと伸びていて、スリーピースのスーツが似合う小柄な男性は、棚から袋を取り出した。
「はじめてのお客様ですか?」
「あ、はい」
川辺は情けない声を出すと、その小柄な男性は笑った。垂れた目を細め、形のいい小鼻を横に広がり、目尻から扇のような皺が生まれる。洗練された雰囲気を央介は感じた。
どうぞこちらへ、と促されて、央介と川辺はカウンター席につく。
「当店が提供しているのは、ホットコーヒーのみなんです。一杯、六百五十円なのですが」
「はい、存じております」
畏まった口調をしてしまった川辺は、少し頬を赤らめた。
「どうぞ、この空間をお楽しみください。隣の方もホットコーヒーでよろしいですか?」
「はい、お願いします」
央介の返答を受け、小柄な男性は作業を始めた。
川辺がいくつか言葉を投げかけてきたが、央介は上の空だった。細長い指先を動かしながらコーヒーを淹れていくまでの過程をじっと見つめていたからだ。とても丁寧にゆっくりと豆を挽いている。央介はじれったくなっていた。家には日芽香がいるのだから。
「あの、すみません」
央介はカウンター越しにある垂れた目を見つめた。
「なんでしょうか?」
「なにか、コーヒーに対して、こだわりみたいなものがあるんですか?」
央介の問いを受け、うーん、と考えるように目線が宙に浮く。
「物を大切にすること、時間をしっかりかけること、お客様に場所を提供すること、ぐらいでしょうかね。わたしは職人でもなければ、超一流のバリスタでもない。だから、自分のできる範囲内のことだけに注力するようにしています。手の届かないところに行ってしまえば、それはもうどうにもできませんから」
「身近にあるものが大事なんですね」
「ええ、そうです。世界は広いし、優秀な人もごまんといます。だから自分のできることだけを見極めて、できることを続けていくのが一番幸せなのかな、とわたしは思うことがあるんです」
央介は急に深いところに突き落とされた感覚がした。ただそこで自分の追い求めていた答えの一つを見つけたようにも思えた。
「ぼくには、娘がいるんです」
大きく頷きながら、コーヒーと向き合い続けているその姿はなぜか央介には輝いて見えた。
「娘はどんどん世界を広げています。小学校に入って、勉強以外のものにも多く触れています。もしかすると学業より、この世界にはいろんな人がいるんだな、って学ぶことのほうが多いと思うんです。そうして、自分の居場所を見つけていく、みたいな」
川辺は、「へー、娘さんがいるなんて知らなかった。どうして全然話してくれないのー」とわざとらしいリアクションをとっていた。央介は隣を一瞥して微笑み、もう一度カウンター越しにある顔に視線を向けた。
「ぼくは、どうして遠回りしてしまうんでしょうか? 近くにあるものに気を留めていても、うまく最善策を考えられないままなんです」
カウンターにソーサーに乗ったコーヒーカップが置かれた。中には黒い鏡のような液面が注がれている。
「できない人には、できないのかもしれないですね。でも視野を狭めると、見えることもできることも小さく集中できる気がします」
川辺はコーヒーカップに口をつけてから、「どういうことですか」と訊ねた。
「視野が広いことをよく称賛されますが、正直見なくてもいいものだってたくさん目に入ってしまう世の中なんです。一人の人間ができることは限られていて、理解できる範囲も限られている。だからこそ、わたしは目の前にあることだけに集中できるようにしたい、と思ってしまうんです。みんな世界を見て、遠くまで見渡せるのだから、近くのことだけを見つめるような人がいてもいいんじゃないかな、って思っているんです。勝手に」
「一つのことに集中する、ということですか?」
央介はうまく理解できていなかった。川辺が首を傾げる様子を視界の端で捉える。
「いいえ、いろんなことをしていいと思うんです。というか、せざるを得ないですよね。子供の世話、仕事、家事などなど。だからこそ、いろんなことをする範囲をどこかで狭めればいいんです。諦める、と言ったほうがわかりやすいかもしれませんが」
「諦める」
「ええ、諦めることは悪くない。もしかすると、諦めることで人生を豊かにするかもしれない、と長く生きてみて思うようになったんです。まあ、しがないコーヒーショップの人間の意見ですから、参考程度に聞き流してくださいな」
央介はそのときに飲んだコーヒーの味は正直よくわからなかったし、すぐに忘れてしまった。ただ凡庸な店内が作り出した雰囲気から生まれた言葉のやりとりは、たしかに脳裏に焼きついていた。
それから数日が経ったある日曜日、央介は日芽香と二人で出かけることにした。
特に計画を立てていなかった央介は、外に出てから日芽香に訊ねる。
「どこ行きたい?」
「別に、どこでもいいや」
遊園地などを希望するのかと思いきや、気のない返事が返ってくる。
「うーん、なんかおもしろいところあったっけな」
「パパの行きたいところに行きたい」
「前、むーちゃんたちとどこに行ったの?」
「遊園地でね、メリーゴーランドに乗った」
「そっか、じゃあ、どこにしようっか」
そう言いながらも央介は、自然と足はカフェ・モリムの方へと向かっていた。ホットコーヒーしか提供しないお店は、どう考えても小学一年生の子供と行くのには向いていない。でも、脳裏に焼きついた感覚が央介をそうさせていた。
職場の最寄り駅まで電車で向かい、平日と同じルートを歩いていく。ある二手に分かれた道に差し掛かった。そこは住宅地のど真ん中で、どちらへ行っても二階建ての家か小さなアパートなどがあるだけに見える。区画整備がされていないのか道が入り組んでいて、いくつもこうした分岐点のような箇所がある。ここらについて、古くから住む土地持ちが多く住んでいるのかも、と央介は想像していた。
まず央介は、向かうつもりがない道を指さした。
「こっちにね、今パパが働いているところがあるんだよ」
「ふーん、なんだかもっとビルがいっぱいあるようなところで働いているのかと思った」
正直すぎる日芽香の感想に、央介は思わず笑ってしまう。それぐらい素直でいてくれたほうがほっとする。いつも会社で気を遣って本音を隠し合っているため、いかにも「子供らしい」意見に心が安らいだ。
「でもね、今日はこっちのほうに行こう!」
央介はもう片方の道を指さす。
「なにがあるの?」
「ホットコーヒー屋さんだよ。ひめちゃんはまだブラックコーヒーは飲めないけど、経験だと思って行ってみよ」
「いいよー」
子供と行くのには適さない場所だということを言葉にして、少し躊躇した。ただ日芽香の無邪気な「いいよー」に背中を押された。今回のお出かけはひょっとしたら失敗に終わるかもしれない。たとえそうだったとしても、ここでモヤモヤするよりもマシかな、と思い直し央介は日芽香の手を引いた。
夜に訪れても、昼に訪れても、受ける印象は変わらない。
「えー、ここ? 普通のお家だよ」
「そうだね。でもほら、あそこに看板があるでしょ。民家っぽい雰囲気だけど、お店なんだよ。あんまりこんなところ見たことないでしょ」
「うーん」
日芽香の反応が芳しくない。それならこのまま店に入らず、別の場所に向かうのもありかもしれない。
央介がそんなことを思っていると、店のドアが開いた。
出てきたのは、あの小柄な男性だった。以前と同じように穏やかな表情をしながら、央介たちを見ていた。
央介は軽く会釈する。
「また来て下さったんですね。前お話ししてくださった娘さんと一緒に」
まず央介が驚いたのは、その記憶力だった。何人も接客をしているはずなのに、こんなしがない三十代前半の男を覚えているなんて。
「すごいですね、ほんと」
「なにがですか?」
「記憶力ですよ」
「いやいやいやいや、あなたほど印象的な人はなかなかいませんよ」
央介が呆然としていると、小柄な男性が手招きをしてくる。
「パパ、中入ろ」
「う、うん」
店内に、お邪魔します、と言いながら央介が入っていった。
「いらっしゃいませ」
「娘は、まだホットコーヒーが飲めるわけではないんですけど」
「いいじゃないですか。あなたもホットコーヒーを飲まずに、カウンターの席につくだけでも」
平然とした様子で小柄な男性は答えた。
「いや、でも、やっぱりホットコーヒーを頼みます」
央介は椅子に座りながら言った。その隣に日芽香がちょこんと腰掛ける。
「なんだか、普通なところだよね」
子供らしい残酷さを振りまく日芽香。央介は首を横に振った。
「普通だからいいんじゃない? きっと、みんな、いろんな特色に疲れちゃうんだよ。それがないと生きられないって思ってね。だから、普通っぽくて、どこにでもある空間を欲することだってあるんだよ」
流れている曲は、ルイ・アームストロング。ジャズのスタンダードナンバーだ。どこの喫茶店でもチョイスしそうな、そんな音楽が静かに流れている。
「いい誉め言葉ですね。ありがとうございます。どこにでもありそうなものって、実はどこにでもあるわけじゃないんです。だからコーヒーのサービスも最小限。そうした部分がこの店の特色なんじゃないでしょうか?」
央介は頷いて、日芽香を見る。そして、小柄な男性に視線を向けた。コーヒーを淹れる作業に取りかかっているその姿に包容力を感じて、つい央介はこんなことを訊いてしまう。
「マスターって呼んだ方がいいんでしょうか? それとも別の言い方がいいんでしょうか?」
「そうですね。わたしは梶原和久って言うんです。だから梶原とか、そんな感じで呼んでいただければ。あと変なあだ名とかはやめてくださいね。気恥ずかしいので」
「わかりました、梶原さん。わたしは、その高浦央介っていうんです。好きなように呼んでください」
「じゃあ、央介さんですね」
日芽香が自分を指さしながら、梶原を見た。
「わたしは、日芽香です。ひめちゃんってパパに呼ばれています。先生には高浦さんで、友達には日芽香って呼ばれています。わたしも好きなように呼んでください」
「わかりました、日芽香さん」
互いの呼び方が決まると、距離は一気に近づいた。
梶原は、日芽香に対して特別なサービスをするわけではなかった。客には平等にホットコーヒーだけを提供する。それが飲めない年齢の人にはなにもしない。子供だからとか、そんなことはこの空間内では関係がなかった。普通の空間と言いながら、独特なルールがそこに存在している。
その確固たるスタンスを央介は気に入った。柔軟性は皆無だが、とてもわかりやすい。トレンドや時代の流れに合わせるわけでもない。央介が、自分もこんな仕事をしたいな、と思ったのはちょうどそのときだったのかもしれない。
日芽香は、ホットコーヒーをもらえなかったことに対してぐずることはなかった。央介がホットコーヒーを飲んでいることに文句を言うこともなかった。これがルールなのだと、親が説明しなくても理解したような顔をして、ただ椅子に座っていた。
二人が帰ろうとしたとき、店の奥にある階段から薄紫色を纏った女性が下りてきた。たおやかな動きとにこやかな表情、そして目の奥には揺るぎない強い意志。和装姿のその老女から央介が感じたものは鮮烈だった。
央介は梶原とその妻和香子との出会いを思い返しながら、七年の歳月という残酷さに浸る。多くのことが変わりすぎた。そのままなのはカフェ・モリムだけなのではと思ってしまうほど。
梶原和香子は現在、自身の実家である旅館にいた。そこは創業百年以上の老舗で、今は和香子の姪が女将を努めているらしい。現在、週に一度しか休みがない店を切り盛りしている央介に宿泊する時間はない。央介は顔を出して、話をするだけだ。それは商売をしている側に対して、失礼なことのようにも感じていたが、和香子は理解しているはずだ。少なくても、和香子だけは。
交通の便は決していいわけではない。直接向かうことができるバスは通っておらず、最寄り駅から歩くのは現実的ではない距離にある。基本的に自家用車などで向かうことを推奨されているようなところだ。
そこには歴史ある旅館のこだわりを感じる。あくまでも客を選んでいるのだ。
央介はタクシーで向かいながら、実はカフェ・モリムも同じようなことをしているのでは、と思い始めていた。
瓦屋根の門をくぐると、竹林が左右を囲んでいる。そこを切りひらいたような道をまっすぐ進むと、唐草模様の引戸が見えてくる。高級旅館の趣が十分に演出されたその空間には、ほんのりヒノキの香りが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
央介よりもやや年配に見える着物姿の女性が正座をして手をつき、深く頭を下げ出迎える。
「すみません、わたし、高浦央介と言いまして、今日梶原和香子さんと会うお約束をしていて……」
顔を上げた女性は驚いた表情を一瞬見せ、すぐに持ち直し、表情をやわらかくした。
「これはどうも、遠いところまで、ご足労いただきありがとうございます」
「こちらこそ、直接押し掛けるようになってしまい、すみません」
「いいえ、おそらく叔母がそうするようにと言ったのでしょうから」
女性は営業向きなものから、身内に寄せるようなものに言動を崩し、しなやかに立ち上がったあとに央介を奥へと案内した。
外から差し込む日差しで白く反射した木の廊下で、央介は宿泊客らしき人と何人かすれ違った。しかし、そこには外国人観光客らしい姿はなかった。こそこそと聞こえてくる声も、日本語らしい平坦なものばかりだった。
「そういえば高浦さん、以前いらっしゃったとき、娘さんとお母様も一緒でしたよね」
「あ、そうですね。あれは三年以上前だったと思いますが、よく覚えていらっしゃいますね」
「ええ、娘さん、とても印象的でしたから。聡明な雰囲気があって、身のこなしにも品がありましたし」
「そう言っていただけると、とても嬉しいです」
「品性って、生まれた環境も左右するかと思うのですけど、おそらく潜在的なものにとても影響される気がするのです。顔立ちや骨格などでも判別できず、人種的な違いでもなく、どことなく溢れるものが形成しているのかと、わたしは感じるのです」
央介はその言葉の意味をうまく飲み込めないまま頷いた。
客室から離れた和室に央介は通された。央介には読めない達筆な字で書かれた掛け軸があり、そのそばには黄色や紫の小粒な華で彩られた生け花が添えられている。それ以外はなにもない部屋だった。一人になった央介は、おそらく応接間なのだろう、と見回しながら、しばらく待っていた。
すると、失礼します、という上品な声が聞こえた。はい、と央介が返答すると、ほんの少し襖が開き、一泊置いてから半分ぐらいまで開かれた。そのときに白い着物を着た和香子の正座をした姿が見えた。そこから流れるような美しい所作で襖の開け閉めを行い、央介の前に座った。その動きすべてに堅苦しさを全く感じさせず、滑らかさと品だけがあった。しかし、杖を使わなくて大丈夫なのか、という疑問が央介の頭に浮かぶ。
「旅館内は長距離移動ではないのでこうしてスムーズに動けるのですが、大変お待たせしてしまうこととなり、申し訳ございません」
心の中を読み解いたかのような言葉に、央介は驚きを隠しながら首を横に振った。モリムで会話するときの気軽さは影を潜め、すっかり仲居のような口ぶりになっていた。以前訪れたときはもっとずっと堂々としていたのに、今回はまるで宿泊客を招いているような雰囲気だ。央介は少し気恥ずかしくなり、目を逸らしてしまう。
「こちらこそ、わざわざお時間を作っていただきありがとうございます。今日は土曜日で、お客様も多くいらっしゃるでしょうに」
「いえ、わたしはね、もうほとんど業務関連には携わっていないんです。ここに出戻りしてからは、ただみなさんの邪魔にならないようにひっそりと過ごしているだけなんですから」
「こちらまで案内していただく配慮までしていただき……」
「央介さん、もうそんなことは気になさらないでください。それよりもお話があるんですよね?」
和香子の笑みはどこか央介のことを探るようなものに変わっていく。決していい報告でないことを勘づいているかのようだ。
「実は、今モリムで出しているメニューなど、一部を少しリニューアルしようかと思っていまして……」
「ええ」
「具体的には、ホットだけではなく、ミルクや砂糖など、それまで提供してこなかったものも添えるようにして、その分経費としてかかってくる分を回収するために、SNSなどで店を宣伝し、来客を増やしていこうかと考えております」
「ええ」
「つまり、これまでのやり方を、より、現代に合わせるようにして、受け入れていただける客層を拡大していこうかと思っております。例えば、ホットコーヒーのみの提供について、やはり同伴している子供に対して配慮がない、という書きこみがありまして、その……」
「ええ」
実際にそのような書き込みを夜のSNSチェックで見つけていた。これが拡散されマイナスイメージになることも考えられた。変わらないこだわりの強さだけで売り出していくのは、やはり難しいご時世となっている。
変革に考えが至った経緯を央介は延々と説明していく。できるだけ和香子の心情を配慮し、誠実に丁寧に伝えているつもりだった。
しかし和香子は、表情を変えることもなく「ええ」としか発さない。まるで反発して受け入れないかのように、硬い声で。
「先代の考えを生かしていきたいと思ってこれまでやってきました。でも時代の流れには逆らえないんです。平井さんも引退を考えていて、同様の豆を提供できなくなる可能性が高いんです。サービス業として生き残って娘や母と暮らしていくために、必要なことなんです」
央介は畳に額をつけて土下座をしていた。
「ええ」
和香子の声が空間に消えていき、しばらく経つ。互いに無言の時間が続く。
「で、言いたいことはそれだけですか?」
沈黙を破った和香子の言葉に、「はい」と央介は応える。
「なら、そうすればいいじゃないですか」
「あなたは、変わることを反対しているんじゃないですか?」
央介は頭を上げて、和香子を見る。能面のような顔が掛け軸のほうを向いていた。
「正直、主人がもうやらないと言ったとき、いっそ畳んでしまえばいいって思っていたの。でも、自分だけの仕事を求めていたあなたが現れた。熱意を見せてくれた。心が変わったの」
「ぼくは、決められたリズムに浸る時間に甘えていただけなのかもしれません。来てくれる方々や先代や和香子さんに対しても」
「甘えたっていいじゃない。この世界は変わりすぎなの。みんなに努力を押しつけて、変化を求めすぎている。わたしの若い頃だってずっと変化を求められていた。たぶんそれって、日本が明治維新を経験してからずっと、国民全体に課されていたことだと思うの。変わらない歴史的なものなんて、日に日に消えていくだけなんだからね」
「変わらないための努力は、辛いです」
「ええ」
和香子はまたその冷たい二文字をこの部屋に置いた。文鎮で声帯を押さえつけられたように央介はすぐに言葉を返せなかった。
本格的に二人の会話がなくなってしばらくしてから、央介は無理に声帯を震わせた。
「本日はお時間を作ってくださってありがとうございます。それではまた、失礼いたします」
別れの言葉を切り出すと、和香子はまた「ええ」と言った。
央介はわからなくなる。全権をすべて先代から譲り受けたのに、なんでこんなに許しを求めているのだろうと。
法律的にはたしかに、自分のものになった。それでもこれは借り物である意識が常にあった。凡庸な雰囲気も、ホットコーヒーだけというスタイルも、すべて央介が作り上げたものではない。ただ先代のマネをしているだけなのだ。娘との時間を犠牲にして、副業までして、それでも続けているだけなのだ。
おれは一体なにをしているのだろう。
そんな悩みがぐるぐると脳内で渦巻いている。
自宅兼コーヒーショップのカフェ・モリムの看板がある家に着くまでの道のりは、央介にとって長かった。気持ちの面で特に遠く感じていた。
毎晩のように続けてきた副業が捗らなくなる。特別な才能がない人間に特別な技術が必要な仕事はない。データ入力の作業、アフィリエイト収入を狙ったブログ作成、バックオフィス作業。隙間を埋めるように受注したり、自ら取り組んだり、どれも一貫性がない。当然安定した収入源にはならない。この生活を続けていくために、少しでも家計の足しにするために小銭を稼いでいる感覚だ。どうしてこんなことをしなきゃいけないのだと、央介はつい愚痴りたくなる。
日芽香と睦子の前では、狼狽えるようなことはしなかった。
簡単に、やはり和香子さんは変化を嫌っているという程度で報告をした。
店はもうこっちのものなんだから、と日芽香は強気な言葉を繰り返していた。睦子は、あんまりわからないけど、この生活が続かなくなるのは寂しいね、と言った。どれも頼りなく央介の耳に届いた。
パソコンの前に座っていられず、預金通帳を眺めてみる。
残高には、何桁もある数字が並んでいた。これを切り崩して、切り崩して、今の生活を維持している。もしも由香里が不倫をして、離婚していなかったら、こんな桁数にはなっていない。
由香里は今、別の男性と結婚生活を送っている。会社の役員をしていて、平均の数倍以上の金額を稼ぎ出す男性とだ。子供は二人いる。それでも由香里自身は、今も仕事をバリバリこなしていた。十分余裕のある生活を保てている。だから相手の男性が央介に支払った慰謝料は、大した出費ではなかったのかもしれない。二人で新しい生活を始めるためには、必要な資金だと捉えている節すらあった。
五十代のダンディーな雰囲気を持ち合わせたスーツの似合う男性が、重々しく頭を下げていた姿を思い出す。央介は正直に、助かった、と呟きかけていた。
どう考えても、央介の収入だけで日芽香と暮らしていくのは難しかった。
由香里に対して感謝する気持ちが止まらないのは、そんな経緯がある。だとしても金持ちの道楽気分で同じような商売を続けていくことは難しい。
央介は自分の携帯電話を操作し、通話ボタンを押そうとしていた。
こんなことをするのは愚かだと思いながらも、生活のことを考えるとついやってしまう。
「もしもし、夜分遅くに大変申し訳ございません。山岸さんお久し振りです。高浦です。今お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、高浦さん、どうしました? こんな時間に……」
「折り入って相談がございまして」
「もしかして、由香里……さんの件ですか?」
「いいえ、山岸さんに直接相談したいことがありまして、ご連絡をさせていただいた次第です。メールなどだとどうしても伝わりづらいかと思いまして、こんな時間に申し訳ないと思いながら、ついお電話させていただきました」
その日、カフェ・モリムは客足が途絶えなかった。
珍しい外国人観光客らしき一団が開店早々にテーブル席を占拠してから、昼には馴染みの府川も顔を出した。夕方になると近くにある高校のカップルがやってきて、それを冷やかす同級生らしき女子二人組が混ざって騒がしくなった。
日芽香がいつも通りに帰ってきてから、日が一気に落ちていく。
最近すっかり暗くなるのが早くなってきたな、と央介が思っていると、店のドアがそっと開いた。
「いらっしゃいませ」
央介はいつも通りの第一声を発し、入ってきた客を見た。
「すみません、失礼いたします」
身体に合ったスリーピースのスーツを着こなしながらも、恐れ多そうに何度も頭を下げてカウンター席に近づいてきた。
「こちらこそすみません。わざわざ店に顔を出してくださって」
「お母様と、娘さんは?」
心配そうに階段がある方を見ている。央介は少し冗談を言いたくなった。
「あなたの姿を見つけたら、すぐに駆け下りてくるかもしれませんね」
「そんな」
本気で嫌がった表情を眺めながら、央介は自身のユーモアのなさを嘆きたくなる。
「大丈夫ですよ。下りてくることはありませんから」
正直、確証はなかった。ただ二人で夕食を作っている時間帯なので、余程のことがない限り下に来ることはないはずだ。
「そうですか……」
高級そうな腕時計に一度視線を落としてから、はあ、とため息を吐く音が店中に広がる。
カウンター席の端には先客がいた。ずっとヘッドホンをしながら、ノートのようなものにペンを走らせている青年だ。かれこれ一時間、一杯のコーヒーで粘ってそうしている。あくまでも空間を提供する店だから、央介は長居することに文句をつけない。でも、たった今やってきたばかりの来訪者からすれば、鬱陶しい存在なのかもしれない。二人きりにならないと話ができないと思っているはずだから。
その青年が立ち去るまでの約二十分間、コーヒーを注文して、ちびちびと飲み進めながら、時間が過ぎていくのを黙って待っていた。央介に日常会話を振るわけでもない。この場所をどれだけ居心地悪く感じているのか、言葉にしなくても十分に央介には伝わっていた。
ひたすらなにかを書いていた青年が会計を済まし、店から出ていくと、央介から、あのー、と話を切り出した。
「山岸さんは、この店についてどう思いますか?」
あえてとても漠然とした訊き方をした。会社の役員として資本主義の恩恵を十分に受けている人物が、問われたことをどう捉えてどう答えるのか、単純に知りたくなった。きっといい答えは返ってこないし、そもそも本音を言ってくれる可能性は低い。そう思っているはずなのに。
「一種類のメニューで最小限のサービスを維持するのなら、デリバリー販売とかで活路を見出すとか、いろいろやりようはあるかもしれませんね。あと季節によって売り上げに差が出る商品ですから、暑い時期に合わせた新メニューを限定的にでも用意するべきかと──」
課題点を次々と挙げていきながら、山岸は真剣な表情をしていた。
妻の元旦那が行う商売について、これほどまでに考えてくれているとは、央介はつゆとも思っていなかった。
「──仮にここが競争とはかけ離れている場所にあるのだとしても、現実問題、改革は必要かと思います。個人事業主はどんな業種でもハードルが高いです。ましてやこれから高校、大学を控えている娘さんがいることを考えると、本当はここを売り払って、それを元手にして学費などを工面し、サラリーマンとして二十万から三十万ほどを毎月安定して稼ぐことが得策でしょうね」
央介は、少し感動していた。わかりやすく具体的に現実を見せてくれる。
「山岸さんは本当に、真剣に考えてくださったんですね」
「そんなことはありません。資金提供をしたり、以前お支払いした慰謝料以上の援助をしたり、というのは無理です。だから、あくまでも意見しか伝えない無責任な立場なんですよ。でも、あの夜中に電話をかけてきた高浦さんの切羽詰まった声を、表面的にあしらうことなんてできませんでした。わたしみたいに安いプライドもなく、実直に娘さんと向き合おうとしてきたあなたを知るからこそ……こんなことを言っちゃうんでしょうね」
山岸はおかわりを要求した。そこでも六百五十円がかかってくる。対価は快く払うという雰囲気とその余裕を央介は心の底から羨んだ。
「仕事で優秀な山岸さんから見たら、どうしようもなく見えるんじゃないですか」
「わたしはとても出来の悪い社員でした。同期にどんどん追い抜かれていったものです。その差を埋めたのは、労働時間でした。時代遅れだとみんな笑うかもしれませんが、わたしは朝から晩まで、懸命に働きました。たぶんそれができたのは明確な目標があったからかもしれませんね。今は残業や労働時間に厳しい世の中です。それは同時に能力がないのに上を目指したい人間にとっては厳しいことなんです。限られた時間内に、今抱えている仕事をこなしていき、目まぐるしく変わる物事に対処していかなくてはならない。本当に残酷だと思います」
「ぼく……わたしは、ずっと楽をしたかったんです。今も一種類のメニューだけを提供するこの立場に甘んじているんです。だから、本当は、手放したくない。でもそうはいかないこともわかっているんです」
「どんな生き方も、幸せがついてくればいいんですが、それが難しい。みんな幸せを感じる範囲や事柄が違い過ぎますからね」
「甘いんでしょうか……わたしは」
「そうは思いませんよ。高浦さんが甘いなんてこれっぽっちも思いませんし、仮に甘いと感じたのだとしても、わたしは責めることができる立場じゃない。実際、自分自身への甘さが高浦さんや娘さんたちを大きく傷つけたんですから」
「あれは、自然なことだった気がします。大事に思う基準がもともとズレていたんですから」
「以前もお伝えしたかもしれませんが、寛大なんですね」
「いいえ、持っている基準が違うだけなんです。山岸さんのおかげで、こうした生活に飛び込めたという部分もありますから」
山岸は苦境から救い出してくれる存在になってはくれなかった。微妙な関係性が絡まり合う中で、互いになかなか吐き出せないものを出し合っただけだった。央介はそれでもよかったような気がした。
山岸は閉店時間の少し前に出ていった。おそらくもう二度と来てくれないかもしれない。央介は初めて客に対して特別扱いをしたくなっていた。
央介はちゃんと答えを知っている。知っているからこそ、苦しむのだ。
「パパ! お客さん来ているよ。なにぼーっとしてんだい!」
制服姿の日芽香がカウンターの前を通り過ぎる。中学校から帰ってきたばかりなのだろう。背負った黒いリュックには、猫のキーホルダーが揺れている。
「ぼーっとしてないで、ほら、あっ、いらっしゃいませ。どうぞ好きな席に座ってください」
日芽香はカウンターの前を往来して、それからカウンター内にある階段に向かって駆けていく。
「おい、央介、考え事か?」
覗きこんできた顔のしわくちゃ具合、顔中に広がるホクロとシミの黒さ。もしチョコチップクッキーを擬人化してこんな姿になったら、たぶん二度とチョコチップクッキーは食べられない。
「ああ、府川さん、いらっしゃいませ」
央介は平静を装って言った。
「おまえ、わしが来なかったら、やってけないんだから、ぞんざいに扱うんじゃねえぞ」
「いえ、そんなつもりは毛頭ございませんよ。今日もいつものですか?」
「いつものって、この店のメニューは一つしかないだろうが?」
プンプンと音を立てるように怒ったふりをする府川は、カウンター席に腰掛ける。
央介は、袋に入ったコーヒー豆をきちんと計量して、特に個人的にはこだわりがないコーヒーミルに入れた。
「府川さん、今日はお一人で?」
「ああ、別にいいかなって思ってたんだけど、ここでコーヒーを飲まないと今日が終わらない気がしてな」
「ああ、カフェイン中毒者ですからね」
「違うわ。まったく、日芽香ちゃんの愛想のよさがなかったら、ここはおまえが引き継いですぐに潰れてたろうな」
央介はゆっくり、ゆっくりと、ねじを回して豆を挽く。あたかも調整しているような手つきだが、実はこだわりがあるように見せかけているだけだ。
「まったく、本当におまえがコーヒーミルを弄っているとそれっぽく見えるよな」
「いやいやいやいや、マジでこだわりがあるんですって」
フタを取り付けて、ゆっくりとハンドルを回す。このスローモーションのような動きに、初見の人は感心した眼差しを送ってくる。央介はまるで騙しているつもりはないけれど、真実を知るとほとんどの人は騙されたと騒ぐのだ。
「そんな演技見せられていると、やっぱり役者だったんだな、って思うんだよ」
「違います。昔、バンドマンでした」
「そうだっけ?」
「もう何度もこの会話をしている気がします」
「そんで大成したんだっけ?」
「してませんよ。だから、こうしてコーヒーを挽いているんですよ」
「まあ、よかったんじゃないか。これで」
「ええ、そうですね」
最後まで挽き切らない。粒を均一にするために必要らしい。
「手入れは欠かさないんだろうな、それ」
府川に指さされた手動ミルは、受け皿が黒光りしていて、店のライトを素直に映し出している。木製の土台部分も深い茶色を輝かせていた。メンテナンスは毎日している。こだわりはないが、引き継いだものは大切にしているつもりだ。
「もしかして、疑っています?」
「いいや、ぜんぜん。見てわかるから」
ドリッパーにセットしてお湯を注ぐ。香りと湯気と漆黒が同時にこの空間を現れた。
さも醸し出されるものを楽しむかのようにカップを顔に近づけ、目を閉じて少し顔を上げる府川の顔は、よりチョコチップに近づく。目や歯などの顔にある白が全部消え去ってしまうのだ。
「コーヒーってもんはな。冷めてからが本当の勝負だと思わないか?」
「そうですね。主役じゃないですからね」
「おお」
府川は驚嘆の声を上げ、目を大きく見開いた。面積の広い白目がギラっと光る。
「そんな香りがよかったんですか?」
「央介、ようやくわかるようになったかと思ったけど、やっぱり違うみたいだな」
「どういうことでしょう?」
「あくまでも人の営みが主役であって、コーヒーはただ添えられているだけなんだ」
「左手は添えるだけ、みたいな」
「バスケットボールの話じゃない。こうして会話をしている空間に、コーヒーがあるだろう」
と言いながら、府川はカップに唇をつけた。
「ここはそういうお店ですからね」
「あくまでも人がいるから存在するんだ。孤独な朝にも、友人と過ごす昼下がりにも、長い夜を過ごすお供としても、だな──」
「まあ、空間を提供しているっていう感じですからね」
「おまえが、この雰囲気を変えたいって言い出したらどうしようなんて、焦ったときもあったな」
「そんな気がなかったんです」
府川が首を巡らす。ここはごくごく普通のコーヒーショップだ。流している音楽はジャズで、壁はベージュでカウンターや棚やイスは木目調。温かく見える配色で揃えている。カウンターには小さなレジがあり、それ以外に席はない。バスケットボールのコートに立てる一チームあたりの人数しか滞在できない。六人目以上は外にいてもらうしかない。
「府川さんが毎日来てくれるから幸せです」
「ああ、こうしておまえとどうしようもない話をしている時間がないと、死んじゃうからな」
「七十歳だったら、まだ大丈夫でしょう」
「年齢の問題じゃないんだよ。二十歳でも、八十でも、心の持ちようが大事なんだ」
結局府川は一時間滞在した。この日、それ以外に来た客は二人だけだった。
「もうー、パパ、先にお風呂入っちゃうからね」
日芽香の声が鼓膜を揺らした。央介はずっと耳栓をしていたから気づかなかったようだ。「もう」というところに力が入っていて、何度も何度も呼びかけていたのかもしれない。
「ひめちゃん、入っておいで。パパは最後でいいから」
「もう、むーちゃんは先に入ったんだよ」
「うん、わかったよ。教えてくれてありがとうねー」
日芽香が「むーちゃん」と呼ぶのは、同居している央介の母だ。つまり、日芽香の祖母にあたる。最近やや耳が遠くなってきたが、近所のクリーニング屋での勤務は続けている。
央介はパソコンの画面に集中する。今日中に片づけなくてはならない仕事が残っていた。
朝から夜までお店を開けていても、三人で暮らしていくほどのお金を確保できない。固定資産税、火災保険料、地震保険料、そして一階にある喫茶店を維持するための費用でみるみるうちに消えていく。家賃はかからないし、ローンもないから大丈夫だろう、などと考えていた三年前。あの頃の自分に、央介は全力のラリアットを喰らわせたくなることもある。
「おうちゃん、おうちゃん」
「なーに、むーちゃん、どうしたの?」
「ひめちゃんがアイス食べちゃったよ」
「あーいいよいいよ。また明日買ってきて」
「うん、わかった」
こちらが仕事していようとしていまいと構わず二人の女帝は話しかけてくる。威厳、迫力などは皆無で、鞭を打つことは決してない。ただただ飴のような甘い声を発しながら、きちんと央介の上に君臨しているのだ。その感覚は央介にとって心地よい。威張り散らかして、気難しい姿を見せ続ける存在にだけはなりたくなかったからだ。
だんだん家の中全体が静まり返っていく。央介の指から生まれるタイピング音と暖房器具が唸る声だけが、かつかつ、しんしん、と浮かんでいく。
仕事にひと段落ついた央介は、パソコンから離れて自室を出た。やはりしっかりと暗い。加湿器が灯す人工的な黄緑色と、電気のスイッチにある小さな光が、てん、てん、としているだけだ。
携帯電話を操作し、SNSを開く。依存症とは程遠い頻度しか確認しない。今日の仕事が全部終わったとき、ようやく央介は画面で巻き起こる混沌を目にするのだ。
主に調べることは、すべて仕事にまつわるキーワードだ。朝から夜までのコーヒーショップの件と、副業に関わるあれこれを検索エンジンにかける。
なにもなければそれでいい。安心して眠る準備に入れる──とそこに見覚えのある、いや、いつも毎日一緒にいる人物の顔が流れてきた。
動画であることを示す再生ボタンに触れてみる。
ぱっちりとした目、綺麗に通った鼻筋、少し分厚い唇……央介の宝物がすっと画面端に寄る。すると真ん中に『カフェ・モリム』の看板が映りこみ、そこから二階建ての店の外観へと切り替わっていく。
「どうでしょー、ほらほら、見てみて、雰囲気満載のこのお店。みんなぜひ来てねー」
その時間は十三秒。ハートマークと三点リーダーを含んだスピーチバルーンマークの下は、おびただしいともいえる数字がある。
央介はその夜、一睡もできなかった。
「ひめちゃん、ちょっとお話があります」
「なあに、もう、朝忙しいんだからさ」
時刻は七時二分。日芽香はその愛らしい顔を洗面台の鏡を映しながら、ドライヤーでぶぉぉぉーと轟音を鳴らしていた。央介は自分の表情が真剣な顔つきになるようにと意識する。
「勝手にSNSに投稿しちゃダメって、前も言ったよね」
「いいじゃん別に。だーれも来ないんだもん」
「とんでもなくバズってます」
「あんなんバズっているうちに入っとらんって」
声を張り上げる日芽香は、悪気など微塵も感じていない様子だった。
「お店に沢山人が来すぎちゃったらどうするの? パパさばききれないよ」
「そんなの人気店になってから悩みなさいな」
「それにひめちゃんの顔を世界中に流すのは抵抗があるんだけど」
「感覚がおじさんだからなんじゃん」
「加工しなさいな。せめて誰だかわからん程度にさ」
「大丈夫だってもうー」
日芽香は乱暴にドライヤーを洗面台の横にある洗濯機の上に置く。
「もう少ししたら洗濯機回すから、いつもの場所に置いてね」
「パパがやるわけじゃないでしょうが」
「やってるじゃん。皿洗いとか、風呂掃除とかも」
「日曜日だけね。それ以外はほとんどわたしかむーちゃんだよ」
眉間に皺を寄せて舌を出す顔はつくづく元妻に似ているな、と思って央介はついついぼんやりとしてしまう。
「今日ね、学校始まる前に、練習するから早めに出るの」
「ダンス大会って、その、学芸会で披露する?」
「クリスマスのイベントだって踊るんだし、来年は大会があるしさ。忙しいの、こっちは」
「来年さ、部長に選ばれる可能性だってあるんでしょ?」
「そんなんわからんよ。ヘリちゃんだって、ユウナだって、わたしより全然うまいんだから」
「そっかー」
と言ったところで央介は話が脱線したことに気づく。
「ダンス部の練習も大事だけど、その前にあれ、削除してよ」
「二十四時間経ったら自動的に消えるの」
「じゃあ、あの動画、パパにだけ送って」
「はいはい、わかった、わかった」
日芽香はテーブルの自席にでんと座り、用意された食パンを頬張る。隣にはむーちゃんこと睦子がいて、がやがやとした朝の情報番組に釘付けになっていた。
「ゆっくりよく噛んで食べてね」
睦子が日芽香の頬に飛んだジャムに触れる。ふん、と嫌がるように日芽香は顔を背けた。
「うぁくぁってぇりゅって」
「ひめちゃん、何時に帰ってくるの?」
「うーん、わからない」
日芽香は反抗期を迎えたのか、最近はっきりとした返事をする回数が減った。央介に対しても、睦子に対しても。ただ随分前に、中学生になって社会が広がっていく過程でもっと酷い態度をとっていた央介からするとただただ微笑ましい。あまり家族にベタベタとしなくなった姿は逆に健全にすら思えてくる。
「じゃあ、もう行ってくるから」
日芽香はバタバタとそこらじゅうを荒らしまわるように動いてから階段を下りていく。その後ろ姿を二人で見送った。
「まだまだかわいい盛りだね」
しみじみと睦子が言った。
「だから余計に心配なんだよ」
央介はそう言って、コーヒーショップの店長モードへと心を切り替え始めた。
九時から開店するために、八時ぐらいにはもう準備に取り掛かる。
店内の掃除を済ませてから、カップ、ソーサー、スケール、コーヒーミルなどの商売道具を一つずつ念入りに確認する。店内は狭く、食器などの備品もさほど多くない分、丁寧にこなす余裕がある。
先代は頑なにこの店を拡張することを拒んだ。実際こうして一人で切り盛りしていると、その理由がわかってくる。一人でできる範囲はどうしても限界があるのだ。
新メニューを考案すると負担が増える。アルバイトを採用して事業規模を増やすとなると、目が届かないところで管理しきれない。
現状を続けていくのに精いっぱいで、それ以上のものに手を出せない。だとしても欲は悪魔のささやきみたく、耳元から脳へと刺激していた。
気を紛らわすために、外へ出る。店の前を掃除することも開店前の日課だ。
太陽はぼんやりとしているが、蒸し蒸しとした空気感は残っている。九月下旬に差し掛かろうとしても、夏は現状維持を好むように居座り続けていた。
ここは住宅地の一角にあり、駅から徒歩十分ほどかかる。
犬と散歩している女性や杖をついて歩く男性が前の通りを歩いていく。周辺に暮らす人々の平均年齢は決して若いとは言えない。
「やあ、央介」
「おはようございます」
好々爺然としたにこやかな表情を央介に向けてくる男性。つむじ部分が広くぼんやりとなっているが、身体は細身で適度に筋肉がついている感じがする。店には週に三、四回ほど訪れる。自ら名乗ることはないから名前は知らないが、元陸上自衛隊でホテルマンとして定年まで勤め上げたと語っていた。
「今日もしっかり気張っていけよ。お天道様はちゃんと見ているんだからな」
「あ、はい。がんばります」
「それじゃあな」
「はい」
央介にとっては正直苦手なタイプだった。自分の過去をペラペラしゃべるのは全然構わない。しかしわざわざ一方的に名前を聞いてきて、上から目線でいろんなことを押しつけてくる。向こうが客でこちらは店側。立場的によって人の上下が変わるという意識が染みついている人間とは疎遠だったから、央介にはそうした人の免疫がなかった。今はなんとか対処する方法がわかってきた。ただ受け流せばいいのだ。
何人か人が店の前を通るが、掃除中に声をかけてきたのはその人だけだった。冷淡なわけではない。地元に根づいた店とはいえ一定の距離があるだけだ。もしも距離感を間違えたなら、取り返しがつかないことになることをほとんどの人は知っている。
『OPEN』の看板を出してすぐに若い二人組の男性が来店してきた。ファストファッションで全身を整えている大学生に見える。普段はほとんど来ない客層だ。
「いらっしゃいませ」
一人がカウンターの席に座った。もう一人は着席することなく、立ったまま店内を見回している。
「メニューってどこっすか?」
立っている男性が訊いてくる。
「ホットコーヒーのみです。一杯、六百五十円です」
「えっ、そんだけ?」
「はい。申し訳ありません。メニューを一つに絞って営業しているんです」
「そ、そうなんすね」
とやや戸惑った表情を浮かべながら、立っていた男性もカウンター席に腰を下ろした。
「じゃあ、二つで。隣のこいつのぶんも」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
央介は二杯分のコーヒーの用意を始めた。二人は無言のまま、まじまじとコーヒー豆を計量する様子を見つめてくる。視線を感じても手元が狂うことはない。変に話しかけてくるよりもマシだ。
二杯のコーヒーを順番に渡していく。コーヒーミルで豆を挽くので、どうしても時間がかけてしまう。以前、新規の客にそのことで文句を言われたことがあった。たぶんチェーン店の感覚で注文しているからだろう。なんでもかんでもスピーディーな時代だから、気持ちがわからないでもない。
ただ今回の大学生みたいな二人は、事情を察したように黙って頷き受け取ってくれた。
二人は連れのようだが、コーヒーを受け取ってからも無口なままだった。それぞれがなんとなくカップに口をつけたり、また店内を見回したりしている。
央介は一応、レジ付近に注意を払いながら、二杯分を用意したことでできた汚れを拭き取っていた。基本的に客側から話しかけてこない限り、会話を仕掛けることはない。
一人が携帯電話を取り出し、もう一人も釣られるように携帯電話を出した。会話なんて必要がない、と言わんばかりに。
コーヒーカップが空になっても、その二人は粘り強く居座り続けていた。馴染みの客のほとんどは空になれば、おかわりを要求する。飲むものはコーヒーだけを求めているのだ。だからお水を出すことはほとんどない。しかし彼らは、ほかの喫茶店やコーヒーショップと同様のサービスを求めている可能性があった。コーヒーのおかわりか水か。ちなみにおかわりは有料だ。
沈黙に包まれた店内で、央介が口を開いた。
「お水、ご用意いたしましょうか?」
「あっ」
一人が顔を上げ、央介をじっと見てきた。急に話しかけられたことに驚いたのか、すぐに返答ができないようだった。
するともう一人が、「お願いします」と静かに言った。片側の了承しか得ていなかったが、央介は念のためガラスコップを棚から出して綺麗に洗ってから二杯分を用意した。
「どうぞ」と水の入ったコップをそれぞれの前に置く。
「あ、あの、いっこ、いいっすか」
央介から見て右側にいた客がたどたどしく言った。
「なんでしょうか?」
「ここって、その、ストーリーに載ってた店ですよね?」
「ストーリーですか?」
「ヒメマージョリーっていう、その、あげてたのを見てきたんです」
ここでようやく央介は話が掴めた。そして、中学生の我が娘はアカウント名をつけるセンスがないな、と腹の中で笑った。
「そうでしたか」
「あの、あの子ってその、ここの子なんですか?」
「さあ、知りません。ときどき顔を見せてくれますが」
「そうですか」
「たぶん、見ての通りほとんどお客さんがいらっしゃらないので、揶揄ったつもりだったのかもしれませんね」
「あ、そうですか、わかりました」
「ほかにご質問などはありますか?」
まるでレクチャー後に形式的に確認するような口ぶりを意識して、央介は言った。
「いや、別に」
それから二人はすぐに会計を済まして帰っていった。央介は、日芽香とどんな関係性になるにしても適さない属性の人物を追い払った気がしてせいせいした。
「従来な、コーヒーっていうのは、焙煎からしっかりこだわって、抽出方法にも細心の注意を払う姿勢が重要でな」
「そんなこと言ったら、ここの店は特別うまいわけじゃないんだよな」
「ああ、引き具合で奥深さを引き立たせる飲み物なんだよ」
「ここは、ただただ憩いの場を提供しているだけだから、もっとうまいものを飲みたいなら、別の店に行けって話になるんだけど」
日芽香のSNSを見てやってきたらしき男性二人が帰ってから、常連さんがすぐにやってきた。入れ替わって入ってきたのは、二人とも白髪だらけの六十五歳以上の男性だ。一人は地味な茶色っぽいベストに紺のシャツ、もう一人は赤い半そでのTシャツ。両方ともメガネをかけているが、特徴のある顔立ちではない。今日は央介にとっていい日だ。客が途切れない。
「ああ、それにしてもこのコーヒーは毎日味が違うな」
「まったく、店主の前でも遠慮がないよな、おれらは」
今カウンターを独占している両人について、央介はある程度知っている。店主を巻き込むことのないお喋りは、ただただぼやいているだけの場合が多い。ここにいれば勝手に耳に入ってくる。定年退職後、天下り先で勤務をしていたが今年の四月に腰を痛めて退職した男性。そして、長年連れ添った妻から離婚を突きつけられて、なんとか穏便に済ませたいと考えている男性。それぞれの事情はちゃんと把握している。
普段は背景がくっきりと映し出されるような会話が多いのに、今日はコーヒー談義に熱を入れている。央介としてはなにを言われても構わない。馬鹿にされても仕方がないと思っている。いちいち腹を立ててしまうことがあるのだとすれば、それは自分に期待しすぎているだけだ。実際問題、大半が二人の言う通りなのだから。
「ああ、そんで見たか? おまえ」
「なにをだよ」
「この店、紹介されていただろう。ストーリーで」
「ああ、見た見た。あの動画に映っていた子だろ」
央介はなにも反応をしないように努める。決して話しかけられているわけではなく、単純に客同士の会話なのだ。割り込むつもりもない。いつもと変わらず、客が注文をしてこない時間は清掃に注力する。透明人間みたいにし続けろ、と自らに言い聞かせながら。
「それにしても、あんまり似てないよな」
「なんだか、ガイジンみたいな顔立ちだもんな」
「まあ、よく見りゃ。目がぱっちりしているから、全然違うわけじゃないんだけど」
「そういや、奥方の顔って見たことなくねえか」
「いやいや、それは当たり前だよ」
「えっ、どういうことさ」
「浮気して逃げられたんだってさ」
「えーそうなのかい」
本人を目の前にして、わざわざ言い聞かせるように話す二人の態度は「常識的」ではないのかもしれない。ただ気持ちはわかるのだ。自分は常連客で、この店ではどんなことをしても大丈夫だと思っている。だからこそ意識的に自分のことを詳しく話して、出されたコーヒーの批評をして、プライベートを掘り下げようとする。
央介は反応しない。あからさまな破壊行為や迷惑行為に走らない限り、やらせたいようにやる。
喋るだけ喋って、二人はゆっくりと席を立つ。
「じゃあ、お会計」
「はい、ありがとうございました」
「じゃあ、二人で二千円。釣りいらないから」
「またのお越しをお待ちしております」
この二人は決して、釣りを要求しない。一万円札を出しても、五千円札を出しても、千円札を二枚出しても、「──釣りいらないから」と言って帰る。
とんでもなく上客だ。会社も家族も失った人間たちの最期の砦になっていることだって、誇ってもいいのかもしれない。
央介はその二人を見送りながら、また来てほしい、と本気で思っている。
人の流れがぱったり途切れると、央介はぼーっと、違うことを夢想する。
最近多いのは、二十代で諦めた音楽でもしも成功していたら、ということだ。ストリーミング再生で稼ぎながら、グッズなどの特典がついたCDをファン用に販売して、大きいキャパの会場でライブをする。作詞作曲をする人が一番儲かる。それ以外のメンバーの収入は綺麗に分配されて懐に入っていく。レコード会社との契約にもよるけれど、ヒットを飛ばせしまくれば、作詞作曲をしていないメンバーも十分もらえる。バイトなんかしなくても、音楽だけで生活ができてしまう。
ただすぐにこう思うのだ。
もしミュージシャンとして売れてしまったのなら、日芽香と過ごす時間がなくなってしまう、と。
そもそも売れ線の曲を狙ってやってきたのに、箸にも棒にも掛からぬ状態が続いていたから、やめたのだ。売れてしまってからの悩みなど縁遠い話なのである。
若い頃に追っていた夢破れて、コーヒーショップの店主をしている。そんなドラマでも小説でもありがちな状態にいるのだと噛みしめて、央介は現実に戻っていく。ドアがガランガランと鳴って開いたのだ。
「いらっしゃいませ」
時計をちらりと見ると、昼の時間は過ぎ去っていた。入ってきたのは若い男女だ。二人とも背中に楽器を担いでいる。形状からすると、エレキギターかエレキベースだ。男性はいかにも古着というサイケデリックな色合いのTシャツを着ている。女性は丸いメガネをかけて、オーバーオールを身に着けていた。初めて見た顔だ。
二人はカウンターをキョロキョロと見回し、メニューを探している。
「当店が提供しているのは、ホットコーヒーのみなんです。一杯、六百五十円で」
女性はメガネの奥にある瞳を輝かせるように、大きく目を見開いた。
「それって、その一杯にこだわりを持って淹れているっていうことなんですか?」
唐突な問いに央介は、とりあえず笑みを見せる、という選択をした。
「無口な雰囲気のマスターなんですね。素敵です」
女性はすっかり誤解しているようだったが、水を差すようなことは言わない。現実を知るにはまだ早い年頃だ。
「じゃあ、ホットコーヒー、二つで」
低い声で男性が言った。視線を意地でも合わせないという気概を感じるほど、テーブルの木の模様をじっくりと見つめながら。
央介が用意しているあいだ、二人はぼそぼそと会話を始めた。
「──たぶんさ、ボーカルが完全に声量不足なんだよね」
「いやー、単純に音響のミスじゃね。あんなに楽器のボリュームが大きけりゃ、声が埋もれて当たり前じゃん」
「リリック重視のバラードだから、ちゃんと聴かせたいんだけどな」
「ぶっちゃけさ、なにが刺さるかなんて、ほんとわかんないよな。テレビに出まくっているミュージシャンに聴きたいよ。あんなキャッチーな曲どうしたら作れるんだって」
「教えてくれないっしょ。表面的なことはいくらでも語ってくれるけどさ。あと広告屋さんの力だって強いだろうしさ。コネクションがないと、ね」
「もうさ、大学卒業したら、趣味でもやっていけそうにないじゃん」
「就職とかも迫ってくるしね。学生時代になんとかしないと、もう普通の人になるしかないもん」
十数年以上前、自分が同じようなことを話していたはず──央介はしみじみとしてしまう。二人の会話が途切れた瞬間に、コーヒーを出す。女性は笑顔を見せてくる。
「あっ、ありがとうございます」
人懐っこそうな雰囲気だ。きっと彼女なら、社会でやっていける。
男性のほうは、俯いたまま首をちょこっと縦に動かしただけだった。それでもまだ希望はある。才能がないとか成功しないとか、誰もまだ断言できない存在なのだから。
「あたし、二級建築士とっとこうかと思ってんのよ」
「おれは今のバイト先で、社員になんないかって言われてる」
「なんか二人でいても、音楽の話、減ってきたよね」
「昔は好きな音楽について、ずっと語り合っていったのにな」
二人から侘しさと哀愁が漂い出しても、央介にとってキラキラとした存在に見える。
光り輝きすぎて、眩しくなって目が開けていられないぐらいに。
「ねえ、ここの星ってどれぐらいか知ってるの?」
「さあ、ひいきにして下さる方々のことだけを考えているので、あまり気にしていません」
央介は嘘をついた。頻繁とは言わないが、ちょくちょくチェックしている。食べログで3点台を現在キープしていると認識していた。
閉店間際に一人でやってきた女性客は、今年七十五歳になるという常連さんだ。年齢相応に白髪で、ピンクがかった銀縁メガネをつけていて、ビビットカラーの服を好んで着ている。今日もオレンジのワンピースにグリーンのバッグという鮮やかな色遣いだ。
「ミルクも炭酸水もシロップもなくてサービス悪かったです、なんて書かれていたんだよ」
そのコメントに書いた人はしっかり低評価をつけていた。央介は把握済みだ。
「まあ、ターゲットを絞っているので、受け入れられない人は受け入れらないんじゃないでしょうか」
惰性と伝統が混在するスタイルが万人受けすると思っているはずはない。だからこそこの規模間でやれている。
「フードロスの観点から見たらとても素敵なのにね。わたしはモリムの姿勢に賛同しているのよ。先代からの意志をきちんと継承しているって思ってね」
「できる限り、頑張っていきたいと思っています」
「それにしても先代は、以前からフードロスの意識がおありだったのよね」
「おそらく、はい」
央介は直接そんなことを聞いたことがなかったが、可能性はゼロじゃないので濁しながらも肯定する。人は否定的な意見を喰らうと、一気に引いてしまう生き物だから。
「もっとね、ここのよさをみんなに知ってもらったほうがいいんじゃないって思うのよ。ほら、わたし、前連れてきたでしょ。あのマエダさんとか、ヨコヤマさんとか、覚えている? 彼女たちだって絶賛していたんだから」
「ええ、もちろん覚えていますよ。ありがとうございます」
二人とも忘れがたい印象を残していた。マエダさんは明らかに七十過ぎだが、髪の色を志茂田景樹のようにレインボーカラーにしていた。ヨコヤマさんも同じぐらいの年代だろう。黒髪ロングでブーツカットデニムを履き、まるでヒッピースタイルだった。それぞれの個性を大切にしながらこれまで生きてきたんだろうな、と思えるようなおばちゃんたちはお節介だが、いい人だ。
「ビートルズだってずっとリバプールにいたら、誰もあの才能に気づかなかったでしょ? ピカソだって、アインシュタインだって、ヘミングウェイだって、周囲に凄さを示したからこそ、成功したはずなのよ」
「このお店が偉人たちと肩を並べることができるのでしょうか?」
「そんなこと誰にもわからないわよ。でも、ないなんて誰も言えないはずよ。少なくてもわたしは可能性があるって思っているわ」
とても前向きな回答が返ってくる。央介はできるだけ偏見を持ちたくないと思いながらも、六十歳以上の多くにはびっくりするぐらい勢いが備わっている気がしていた。自分の思いに忠実に突き進んでいくような感覚だ。個体差はあっても、生きた時代が垣間見える。その違いをただただ受け止めたくなった。
「じゃあ、目指してみたいですね」
「そうよ、その意気よ。あなたはまだ若いんだからね」
その無邪気さに背中を押される。人は年齢じゃないのだと。
ただこの店を多くの人に知ってもらおう、という心境に至ることは決してなかった。
央介が店を閉めて二階へ上がると、日芽香はテーブルの背もたれにもたれかかって寝ていた。お腹と足元はちゃんとひざ掛けで覆われている。
その隣にいた睦子が読書をしながら言う。
「ひめちゃんは、日中でエネルギーを使いきっちゃうから、おうちゃんとなかなか一緒にいられないね」
ダンス部は週五日ほどで、それ以外の習い事をやっているわけではない。塾に行くことを勧めたこともあったが、いきたくなーい、と一蹴された。同級生のほとんどは塾に行っている。部活があろうとなかろうと関係なく。
「部活のない日は友達と遊んでいるんだっけ?」
央介が睦子に訊ねる。
「そうなんじゃない? でも大体遅くても五時頃には戻ってくるよね。日が落ちてくると極端に体力が落ちるんだってさ」
「睡眠欲が旺盛なのか、若いのに疲れやすいのか、なんだかわからんね」
「生活に支障が出ているわけじゃないから様子を見てもいいんじゃない、って本人は言っているけど」
小学生の頃はさまざまな習い事にチャレンジしようとしていた。日芽香は好奇心旺盛で、いろんなことに興味を持つ。アトリエ、歌、英語、水泳、サッカー、習字……ただ、どれも一か月ももたなかった。
例えば、前の前にあったワールドカップを機に興味を持ったサッカーの諦めは早かった。小学三年生のとき、近所の小学生女子チームの練習に参加をしたい、と日芽香が言ってきたので、まずは用具からだと央介も気合が入った。日芽香から自発的にやりたいことを言われると、央介は舞いあがってしまう。まずは形からだと二人でスポーツショップに出かけた。そこでトレーニングシューズ、脛当て、練習着などを一通り揃えてから、体験入団をさせてもらうことになった。央介が同伴し意気揚々と河川敷のグラウンドに向かったが、準備運動とパス回しを終えるとすぐにグラウンドから離れてしまった。
「パパ、このスポーツ見ている方が楽しいよ、たぶん」
そう言って結局、央介の横に座って、その一日の練習を眺めていた。最後まで見て、央介は納得した。素人目からしても、たしかにまったく経験がない子が参加していいレベルじゃなかった。
とにかくチームの子たちがうますぎた。止める、蹴るの基礎技術がしっかりして、パスをポンポン回していく。ミニゲームでの動きもシステマティックで、みんな真剣な面持ちをしていた。こんなところに、ぽんと放り込まれた初心者の日芽香が可哀そうに思えるほどだった。
それ以来、日芽香がサッカーに興味を持つことはなくなった。ワールドカップが四年に一度行われることすら忘れてしまったかのようだ。嫌いになったわけじゃなくて、もうどうでもいい、というような雰囲気だ。衝動的に買い揃えたサッカー用具は、一度使ったきりでここに引っ越してくる際にまとめて処分したはずだ。
そんなことを何度も繰り返していた。日芽香は、たった一度のほんの少しだけ経験だけで自分の中での価値観を判断してしまっていた。見切りが早いのか、飽き性なのかよくわからない日芽香の性分を央介は正直心配していた。でも今は、ダンスに熱中し続けている。
「なんにせよ、一つでも集中できることが見つかってよかったよね。ひめちゃんはダンス、おうちゃんはコーヒーショップって具合にね」
まるで央介の心の中を読んでいたかのように、睦子は笑いながら言った。
「こっちは先代の遺産を食いつぶしているだけなんだけどね」
央介はコップ一杯の水を一気に飲み干す。
「今の時代に合わせたようなビジネスを展開しようとか、そんなこと考えないんでしょ?」
「人って案外変わらないものを好むんだよ。ああしたほうがいい、こうしたほうがいい、なんて現状に不満を垂れる人も多いけどさ、なくなったらなくなったで懐かしがって、まあワガママなわけ」
「じゃあ、お店を完全に閉めて、誰かの思い出の中で生き続けるほうが美しいかもね」
「なんやかんやで変化しようとしている人が多い世の中なら、変化しないものへの希少性が高まる気もするんだよ。けど結局答えなんてわからない。数年経っても正解なんて出ないことだってあるんだから」
「ひめちゃんは、すごく心配しているんだよ」
「そうだね。これから進学でもなんでもお金がいる時期になるから、バズらせて儲けさせないと安泰じゃないって思うんだろうね」
「ううん、お金とか自分のことじゃなくて」睦子が冷蔵庫から焼きそばを一皿取り出した。「パパが全然寝てなくて、食べていないことを心配しているの。バズって忙しくなればわたしが手伝うのに、って。それで、少しでも休む時間ができれば、って」
「かわいすぎるね」
「本当に」
央介は閉店すると、すぐに副業の準備に入る。今日の昼も食べ損ねた。実質、軽く朝に食べるのと、夜にまた軽くつまむ程度で一日分の食事を終えてしまう。睡眠時間もさほど長くない。平均睡眠時間は三、四時間ぐらいだろう。
三食どころか四食、五食、と食べないと気が済まず、早く眠ってそのまま朝まで起きてこない日芽香とは対照的だ。
「パパの分まで食べて眠ってくれれば、それだけでパパは元気になるよ」などと央介は事あるごとに言い続けていた。だけど中学二年生になった日芽香には、もう通用しないようだ。
冷えた焼きそばを電子レンジに入れて、温まるのを待つ。
「今日はちゃんと一食、しっかり食べますわ」
「パパが頑張っていること、ひめちゃんはちゃんとわかってくれているからね」
野菜がたっぷり上に乗った焼きそばは、奥の奥に麵がある。
しっかりかき混ぜて、野菜と麺を一緒に口に運ぶ。炭水化物だけに偏らず、満遍なく多様な栄養が行き渡っていく。
思えば、日芽香と一緒にいる時間を確保するためにこの店を引き継ごうと決めたのだ。現実は、結局サラリーマンとして働くよりもずっと親子の時間をそぎ落としている生活になっている。
皿にあるものを平らげてから、央介はふーっと溜息を吐く。
「やっぱり、変化が必要なのかもしれないね」
大半のコーヒーショップは、土日が稼ぎ時だとして月曜日を休みにしているが、カフェ・モリムは土曜日を定休日にしている。
理由は三つある。一つ目は常連客が仕事をリタイアした人が多いので、別に定休日を月曜日にしなくても、売り上げはさほど変わらないことだ。場所は海外からの観光客が来るわけでもない住宅地で、来店のタイミングは気まぐれで読めない。平日の木曜日に客が集中することもあれば、日曜日なのに客が二人しか来ないことだってある。二つ目は日芽香との時間を作るためだ。土曜日も部活があって午前中はいない。ただお昼になるとちゃんと家に戻ってくるため、基本的に三人で食事をするようにしている。この時間が央介にとってなによりも大切な時間なのだ。そして三つ目が最大の理由だ。先代も土曜日に休んでいた、ということだ。どうして土曜日を休みにしていたのか、理由ははっきり聞かされていない。他との差別化を狙っていた可能性も考えられるけれど、あくまでもそれは央介の憶測に過ぎない。これは伝統として残しておくべきだという常連客の声によって、央介が引き継いでもそのままになっている。従来と変わらないことが支持されている一因である以上、もはや店主の判断だけでどうとなる部分ではないと央介は思っていた。
そんな土曜日がやってきた。央介が目を覚ました頃には、既に日芽香は家にいないようだった。睦子はテレビを見ながら掃除機をかけている。クリーニング屋での勤務はシフト制だが、睦子もまた土曜日は必ず休みにしてもらっていた。
「ああ、おはよ。起きたんだね。よく眠れた?」
掃除機から出る騒音にかき消されそうな細い声が、寝ぼけ眼の央介に届く。
「うん、たぶん、七時間ぐらいかな。ちゃんとわからないけど」
「昨日は夜遅くまで頑張ってたんでしょ?」
「あーうん」
副業については金曜日の夜に力を入れることが多い。これを乗り越えれば、次の日が休みだと思うと、どうして央介は頑張ってしまうのだ。
「今日のお昼はお家でなにか作ろうか?」
「いや、ひめちゃんに決めてもらおうよ」
睦子が掃除機の電源を切った。それから顎に皺を寄せて梅干しみたいな顔をしながら央介を見た。
「ひめちゃん、お友達と一緒に食べるって、今朝言ってたよ」
「えー、そんな」
央介はがっくりと肩を落としてから、天を仰いだ。もう家族にベタベタしない年頃だとわかっていても、大事な三人だけの時間がなくなったことに失望を隠せない。
「だから、今日は二人でなにか食べましょ」
「あーうん」
「おうちゃんが好きなオムライスでも作ろっか?」
「あー、うーん」
起きてすぐに受けた衝撃に怯み素早い判断を下せない央介は、横を向いて斜め上を見ていた。そこにはうっすらヒビが入ったクリーム色の壁と天井があるだけだ。
しばらく途方に暮れていると、掌から振動を感じた。起きてすぐ無意識に手に取っていた携帯電話の存在を思い出す。
画面を見ると、〈由香里〉という文字が映し出されていた。メールやチャットじゃなくて、電話の着信を知らせている。央介は、はーっ、と溜息を吐き電話に出た。
「あーもしもし」
「ごめん。急に電話して、今日ってさ中華にするって話にしていたよね?」
央介はすぐになんの話をしているのか掴めずにいた。
「えーと」
「今日さ、日芽香と一緒に夜食事するっていう話なんだけど」
「あーそうだった」
央介はようやく思い出した。頭の片隅にいて縮み込んでいたものが、ふわっと風船のように膨らんだ感覚だった。
「日芽香とはさ朝方連絡がついて、イタリアンに変更するってことなったんだけど……今、部活で忙しいらしいから、ちゃんと央介に伝えているのかなって思って、それで」
「ああ、別にひめちゃんがオッケーなら別にそれでいいよ。全部、ひめちゃんファーストだから」
「うん、ありがとう。ちゃんといいお店予約したから」
「わざわざ電話しなくてもいいのに」
「電話じゃないと、ちゃんと確認できないかもって思ったから」
「あー、じゃあ、どこの店かあとで送っといて。ちゃんと確認してひめちゃんと二人で行くから」
「う、うん」
「じゃあ、切るわ」
「それじゃあ、夜に」
「はーい」
電話している央介の姿を眉間に皺を寄せて凝視する睦子。怪訝そうにするのは当然かもしれない。
「もしかして、あの子」
「うん、あの子」
睦子がハリーポッターに出てくるヴォルデモートのように頑なに名前を呼ばない人物は、央介にとってはただの過去の人だ。
「自分のしたことをわかっていないんだろうね。どういう神経してんだか」
「やっぱり実の娘と会う時間が欲しいんじゃない。年に二回なんだからいいじゃない」
「おうちゃんも同行しなくてもいいのに」
「逆にひめちゃん一人だとこっちが不安じゃん」
「まあ、そっか」
「向こうは別に、おれが同席してもいいって言っているんだしさ」
睦子は一気に機嫌を悪くしたらしく、また掃除機の電源を入れ、ガシガシと部屋の角にヘッドの部分をぶつけて乱暴に吸い取り始めた。
「おうちゃんはさ、悔しくないの」
掃除機から生み出される様々な騒音にも負けない声量で睦子が言った。
「いちいち悔しがるほど暇じゃないんだよ」
央介は笑いながら言った。そう、それは過去の話。ときどき振り返ってしまうこともあるけれど、いちいち気にしたってしょうがない。むしろ、当時から自分がされたことなんて二の次として考えていたのだから。
由香里の浮気が発覚したのは、日芽香がまだ二歳半の頃だった。
普通の男性は浮気されたことに怒るはずだ。でも央介はただ心配していた。日芽香の将来や家庭環境、その他もろもろについて「普通」からかけ離れてしまう。夫婦の関係性を継続してもいいと央介は伝えた。だが由香里の気持ちは完全に離れていた。女性として自由に生きたいんだ、と主張したとき、いつも温和な睦子が激怒したらしい。身勝手でどうしようもないアバズレだ、と叫び、由香里の頬を叩いたそうだ。
その瞬間を央介は見ていない。修羅場になることを予期して、両家の話し合いの最中に日芽香を連れて外に出たからだ。
春のほんのり冷たい風に流されていく雲を二人で眺めながら、他愛のないことをした。あれは綿あめに似ているね、とか、トラさんの形みたいだね、などと言っていたはずだ。
複雑な泥沼の現場を見るのならドラマや映画だけで十分だ。身近な人同士が汚い部分を晒し合う姿を見ることになるのなら、もう少し大人になってからがいい、と央介は思っていた。
あの頃、央介は雑貨屋で働くフリーターだった。まだ音楽で食べていける可能性があると信じている青年のままだったのだ。
央介と日芽香は、公共交通機関を乗り継いでいき、待ち合わせ場所の最寄り駅に着いた。
雨がしとしとと降りだした。央介はワイシャツに黒いスラックスという仕事着と変わらない姿だったため、うっすら寒さを感じていた。
「ユニクロでいいからさ、上着買ったらいいじゃん」
「大丈夫、そんなことより、ひめちゃんは大丈夫?」
「パーカーあるし、折り畳み傘もあるから平気だって」
もう、と言う日芽香は、携帯電話の画面から目を離さない。最新式のスマートフォンを央介が買い与えてから、一緒に出掛ける機会ができても、視線を合わせてもらえなくなっている。ただそれは想定内で、SNSを使って店を宣伝しようとした行動も含めて、許容範囲だと央介は思っている。父親と会話よりも、ひょっとしたら友達と会話よりも多くの「楽しい」や「気軽」が詰まっているものと張り合うつもりはない。
着いてすぐ、駅の構内で携帯電話を弄っている由香里の姿を見つけた。近づいていき、よう、と大学時代に出会ったときと変わらぬ挨拶で声をかける。
「あ、ごめんなさい。お久し振りね。雨降ってきちゃったね。ごめん」
無意味に謝罪を連呼する由香里は、すぐに央介から視線を逸らし日芽香のほうを見た。
「日芽香、また身長伸びたね。もう少しでパパを抜かしちゃうんじゃない?」
「あー、うん。どうだろ」
気のない返事で日芽香にあしらわれても、由香里は口角を上げていた。実際、日芽香は央介とほとんど身長が変わらない。この前の身体測定では164センチだったそうだ。央介は数年前に健診で測ったとき165・4センチだった。由香里はほんの少し背が高くて166センチある。ほとんど三人の身長は変わらない。そして日芽香は、クラスの中でも高身長であることを気にしている。
「現地集合でもよかったのに」
央介は話題を切り替える。日芽香が気を悪くしたことをすぐに察知できたからだ。
「駅から離れているからさ。ここからタクシーで一緒に行ったほうが負担、減るかなって」
「うん、まあ、そっか」
央介たちが出かける直前に由香里から連絡が入って、待ち合わせが駅になった。少しでも長く日芽香と一緒にいたいから、というのが一番の理由なのだと、央介にはちゃんとわかっている。
日芽香がすっと顔を上げた。
「わたしは、別にどっちでもいいと思ったけど」
「ちょうど雨も降ってきたんだしさ。グッドタイミングだったんじゃない。ひめちゃんはさ、あんまり普段タクシー乗らないじゃん。だから、案外珍しい経験ができて楽しいかもよ。珍しいポケモンと遭遇するみたいに」
「まあ、そっかな」
もうこの年齢になった日芽香が、離婚の原因をまったく知らないわけがないだろう。もしかすると、睦子や親戚などから詳細まで知らされているかもしれない。となると、母と娘の関係が良好になるわけがない。こうして仲介役として央介が存在してはじめて面会は成立する。央介も気を遣っているが、由香里はもっと気を遣っている。自らまいた種なのだから、とみんな厳しいことを言うが、央介は少し同情していた。正直、百パーセント由香里ばかりが悪いと思っていないからだ。
タクシー乗車中に、後部座席に日芽香と一緒に座った由香里が、学校のことや友達のことなどを訊き続けていた。いくら言い方を変えても、「まあね」、「普通」、「たぶん」という三文字ほどの回答しか絞り出せていない。干渉したり詮索したりしても逆効果な年頃で、なおかつ複雑な親子関係である由香里に取り繕う器用さを出さない。そんな日芽香の姿がついおかしくて、央介は運転手の隣で笑いをこらえていた。
由香里が予約したイタリアンは、生パスタが有名なお店だった。映画音楽や洋楽にまつわるものが至るところに飾られていて、央介の好みに合った。あとアニメや漫画などよりも海外の映画や音楽が好きな日芽香の好みにも合う。仕事でアニメーションに携わる由香里にとっては、さほど興味深いものがないようにも見えた。
「あっ、あれってパパが前言ってたファット・ボーイ・スリムだね」
「あ、ほんとだ。CDのジャケットでは初めて見たかも」
「テイラーのあるかな?」
「うーん、結構昔の作品のものが多いから、なさそうだね。あれなんてほら、一九五八年の映画だよ。『めまい』っていうヒッチコックの」
「そんな昔のは知らないから、テイラーとかサブリナのもの見つけてよ」
「今って、サブスクばっかりだからさ、CDジャケットなんてないんじゃない?」
予約席に案内されてから注文を済ますと、飾られているものについてあれこれ央介と日芽香で言い合い、二人だけで盛り上がっていた。タクシー代も出して、今日の食事代も出す由香里は完全に蚊帳の外になっている。
「おれたちの好きなものを考えてくれてたんだね。ありがとう」
黙ってしまっていた由香里を気遣って、央介は声をかけた。
「もっと日芽香が好きなものがたくさん飾っていると思ったんだけどな」
「いやいや、いいじゃん、ねえ、ひめちゃん」
「うーん、まあ、そうかも」
由香里が会話に参加すると、日芽香は自分の携帯電話を取り出した。
「あんま干渉されたくないよね。でも、部活のこととか、学校のこととか、少しママに話してあげてもいいかもね。だってほとんど会えないんだもん。なんだかんだで、心配なんだからさ」
央介は日芽香の顔を覗きこむ。あえて由香里が目の前にいるときに言ったのは、自分が一番に理解者であることを由香里に見せつけたかったからだ。でもそれ以上に、昔よりもずっと自分が成長しているところを由香里に見せたいという意図があった。
「やっぱり、パパのところに行って正解だったよね」
央介が欲しい言葉を由香里から引き出せた。会うたびに由香里は同じことを言う。
「そうかな?」
とぼけたふりをして央介は日芽香を見つめる。携帯電話から目を離さない日芽香は特に反応することはない。
「喫茶店はどうなの?」
「喫茶店じゃなくて、コーヒーショップね」
由香里は日芽香とのコミュニケーションを諦めて、央介のほうを向いている。それでも央介は日芽香を常に視線で追っていた。
「で、順調なわけ?」
「副業もやっているし、睦子さんもフルタイムで働いているから、特に困っていることはないよ」
「違う。売り上げの業績のことだよ」
「赤ではないよ。持ち家兼お店だから、テナント代はかかっていないし」
「だとしても、必要経費はかかっているでしょ?」
「広告宣伝費もかけていないし、水道光熱費とか、備品とか、コーヒーの原価とかだからね。前も言ったように好条件で譲り受けた場所だから、ほかの競合よりも苦労は少ないの」
「ただ、これから続けていくとしたら……」
「そうだね。ひめちゃんだっていろいろ考えてくれててさ」
「そういう心配、日芽香にはさせないでね」
日芽香が顔を上げ、由香里を睨みつけた。
「こっちの事情に口出ししないでね。モリムは高浦家の問題なんだから。山岸家は山岸家のことを考えて欲しいんだけど」
はっきりとした顔立ちの日芽香が言うと迫力がある。央介も思わずのけぞりそうになったほどだった。立場上強く出られない由香里は、言い返すことができず顔を伏せてしまう。
「ママもさ、気にしているんだよ。ひめちゃんのこと考えているんだから」
日芽香がまた手元の画面に視線を戻した。由香里と日芽香が顔を合わすと、よくこんなことが起こる。だから央介がこの場に必要なのだ。
「ごめん。やっぱりさ、日芽香のことが気になるから」
「まあ、わからんでもないよ」
それからすぐに運ばれてきた料理はどれもおいしかった。野菜本来の味を邪魔しないレモン風味のドレッシングがかかったシンプルなサラダ、チーズやバターをふんだんに使いブラックペッパーでアクセントをつけたペンネのパスタ、定番ともいえる牛肉のグリルもシンプルな調理法で仕上がっていた。最後のティラミスも甘さが控えめで、食後をすっきりとまとめてくれた。
食事中に自然と言葉がこぼれていく。おいしいね、とか、うまい、とか。
三人ともお酒を飲まないので、お店が提供するコース料理本来のストーリーを全部堪能できたわけではないはずだ。だとしても央介にとっては十分食事を楽しめた気がしていた。
会話へ進展しなくても、次第に雰囲気は和らいでいったのだから。
「ママ、今日は、ありがとう」
日芽香は会計を終えた由香里にそっと言った。
「こちらこそ、部活で忙しいのに時間を作ってくれてありがとね。それと」由香里が央介のほうを向く。「央介くんもありがとう。貴重な休みの日だったのに」
「いやいや、ご馳走にもなってねぇ。こっちこそありがとうだよね」
央介はまた日芽香を見た。急に素直にお礼を言うのが恥ずかしくなったのだ。
それからタクシーで家の前まで送ってもらった。すべて由香里が支払った。やったことを考えたら当然だと言う人もいるが、央介はそう思わない。ただただ感謝している。
夜になって日芽香と睦子が眠りにつくと、央介は副業を開始する。単純作業を繰り返す工程に入ったときに、ふと昔のことを思い返していた。
大学を卒業してすぐに妊娠が発覚したとき、新卒でアニメ制作会社に入社していた由香里は狼狽えていた。元々ダラダラと大学時代の延長で付き合いを続けていた二人は、互いにどこで別れを切り出そうか模索していた最中だった。大学時代から続けていた音楽で生きていくためにと央介は、音楽で成功するから一般企業で就職なんてしねえ、なんて言っていた。大学時代は応援していた由香里の気持ちは、目に見えるように離れていく。現実を十分に理解しながら夢を掴んだ者と漠然とただただ理想を語る者には、意識格差が生まれていた。互いの会話すら成り立たないほどだった。
由香里は当初、就職してから体調を崩したりどんどん体重が増えたりするのは、仕事のストレスのせいだと思っていたらしい。多忙な時間を縫って病院に行くことも考えず、ひたすら仕事に慣れるため精一杯だった。二人はまだ実家暮らしで、頻繁に会う機会が少なくなっていたから、新卒で働いていた頃の由香里を央介はあまり知らない。
ただ音楽と向き合っていた央介は、由香里が置かれた状況の過酷さを実感できないまま時間が過ぎていった。
そしてある晩、電話がかかってきた。
「お腹に、子供がいるって、どうしよう」
それが第一声だった。央介はそのとき人生の幅について深く考えていた。まだ経験不足だから、共感できる音楽が生み出せないのだという観念的なものに囚われていたのだ。そこに根拠はない。悩める自分や人生と向き合っているような雰囲気に酔っていただけだ。
「おお、じゃあ、おれが父親になるってことだよね」
嬉々とした雰囲気で返したのは、そんな理由があった。人生の幅がこれで安易に広がると錯覚した。子供を育てることがどれだけ大変で、どれだけ責任を負うのかわからないままはしゃいだ。
「ねえ、これって本当に真剣に考えるべきことなんだよ。お医者さんには、もう堕せないって、言われてさ」
「じゃあ、育てるしかないっしょ。マジかー、おれが父親か。有名なミュージシャンでも多いよな。早めに子供できているパターンって」
「もう馬鹿なの。てか、仕事はどうしてんの? あのさ、就職活動しないでまだレンタルビデオでバイトしているんだっけ?」
「ううん、あれ辞めた。シフト無理矢理入れてくるんだもん。今さ、出会い系のサイトで……」
「ねえ、お願いだからこれを機にちゃんと正社員になってよ。もうさ、二人で育てていくしかないんだよ」
「わかっているよ、そんなこと。でも今は両親に手伝ってもらってさ、いずれおれが音楽で成功して……」
「そんなの待てるわけないじゃん。こっちはさ、これから産休に入ることになるの。せっかく本格的に制作進行に参加できたはずなのに、仕事から外されるの。せっかくこれからだっていうのにさ」
「子供ができたらさ、もちろんおれも協力するから、ゆかりんも夢追い続けようぜ」
「無責任なことを言わないで、馬鹿!」
そう言われて切られてしまった。今思い返せば、当然の反応だと央介は思う。
周囲の人々は、限りある時間の中でしか夢を見られないと思って生きていたのに、央介はなぜか自分は大丈夫だと思っていた。自意識過剰だった。
そんな自分の鈍感さを央介はなかなか気づけなかった。日芽香が生まれて抱き上げてもまだ無邪気なことばかり考えていた。我が子とたくさん遊び、触れ合いながら、育児の経験を音楽につなげていこう、などと目論んでいたのだ。
翌日は朝から客足が途絶えなかった。常連さんから新規まで幅広い層の客がカウンターを埋めていく。それでも央介は決して焦る素振りを見せず、ペースが乱されている様子を察されないようにと、一杯ずつコーヒーを提供していった。たまにはこんな日もある、と自分に言い聞かせ平常心を保とうとしていた。
「今日はカウンターが埋まっているな……」
店に入ってきた府川が呆然と立ち尽くしていたのは、午前十一時過ぎだった。カウンター席には二十代ぐらいの男女と三人の中年男性がいた。若い男女は二人ともレモンカラーの服を着ていて、シミラールックにしているようだった。それぞれがコーヒーを撮ってから、携帯電話を弄り続け、ほとんど会話をしていない。三人の中年男性は、ずっとカードゲームの大会について話している。いわばオフ会のようなものだろう。
それぞれがそれぞれの世界を形成している。はっきりとした境界線はなくても、住む世界が違う住人たちが同じ空間に存在していた。そこにやってきた一人の男性は、寂しそうに背中を向ける。
央介はカウンターから離れて、府川に声をかける。
「今日はすみません」
「こんな日もあるよな」
「珍しいです本当に。また来てください」
「先代のときだってたまにこんな日があったからな」
「そうなんでしょうね」
この世界には変わらないものを新しいものに昇華しようとする人たちがいる。新しくできた集団が場所にこだわることなく、たまたま変化を求めない場所に足を踏み入れることもある。そこにある変わらないものを永遠に求め続ける人もいる。央介はどんな人も拒むことはできない。席に座った人に同じコーヒーと空間を用意することしかできない。
夕方になると、ある「常連客」が現れた。杖をついたその姿を見ると、央介は手が震えるほど緊張する。
「央介さん、お久し振りです」
「和香子さん、来て下さったのですね」
「ええ、今日はお客さんがいらっしゃるのね」
「はい。そんな日なんです」
シンプルな白のカットソーを着て、細身のデニムを履きこなすその人は、先代の妻和香子だった。杖をカウンターにかけ、出入り口から一番近い席に腰掛ける。ゆっくりとした、いかにも年配者の動きではあるが、服装や顔立ちは若々しい。
入り口から遠いところにある三席は、三歳ぐらいの男の子とその親と見られる男女が占拠していた。「子供用のメニューがないなんて、信じられない」とついさっき文句を言ってきたけれど、今は大人しくコーヒーを飲んでいる。央介は別に説き伏せたわけではない。ないものはないのだとはっきり言っただけだった。いたずら盛りであろう男の子も、騒ぎ立てることなく静かにしている。どんな相手にも毅然とした態度をとるのもまた、先代から引き継がれた作法なのだ。
「本当に、なにも変えていないみたいね」
和香子は店内を見回しながら言った。
「この店は、自分だけのものじゃないですからね」
「あなたはイケイケな雰囲気があったから、ガラッと変えちゃうんじゃないかな、って思っていたけど、そんなことなかったわね」
「たぶん頑固なんだと思います。意固地になっていてもどかしいと思っている人もいるみたいですけど」
「娘さんとか?」
「はい」
「あなたは、きっと変わらないものを守りたいっていう強い意志をそのまま受け継いだのね。ここには出会った頃のあなたの色がどこにもないんですもの」
「自分がどうとか、自分らしさなんてものは、本当はどこにも存在しないんだと思うんです。でも新しい時代に合わせて変化が必要なのかな、って悩むこともあって」
「引き継いだのはあなたよ。あなたが好きなようにすればいい」
和香子はそう言いながらも、なにも変わっていないことを喜ぶかのように、微笑みながら椅子を撫でていた。
「はい、どうぞ」
いつもと変わらない豆の挽き方で抽出したコーヒーを和香子の前に置く。ソーサーを持ち上げて、音もたてずにコーヒーを飲む姿を央介はつい固唾を飲んで見守ってしまう。
「ああ、このおいしすぎるわけでもなく、マズすぎるわけでもない安定しない味……こんなところも変わらないのね」
「ぼくはただただ引き継いだことをそのまま実践しているだけなんです」
「なんだか、とってもおかしいわね」
「そうですか」
「あなたって本当に、いい人だなって思えてね。主人の目に狂いはなかったのね」
「うれしいですね。でもどうなんですかね」
「まあ、いいとか悪いとか、簡単に判別できないぐらいに人って複雑な者かもしれないけどね」
「ええ、このコーヒーみたいに」
「この店自体もね」和香子はコーヒーから沸き立つ湯気に鼻先を近づけた。「おいしいものを追求すれば、もっといいものはある。心地の良い空間が欲しければ、ほかに沢山ある。そうやって追い求めていけば、どんどんみんな一緒になっていく」
「そうなんでしょうか?」
「早い流れの中で、価値は変化していくかもしれないけど、そのときどきで向かうべき先は、きっとみんな同じになるように、って求められるの。そうじゃなきゃ除け者にされる。だからみんな一緒になるのよ」
「そんな大きく物事を考えたことはなかったかもしれません」
「みんな求められる価値観に振り回されてかわいそう。穏やかな時間も考える時間もないまま、急かされて生きていくことを求められているんだから……」
「だからこそ、こういう場所が必要だってことなんですね」
「ええ、わたし個人はそう考えている。主人は、うーん、わからないけどね」
「またご自宅にも顔を出させていただきます」
「いいの、いいの。あなたはあなたで忙しいんだから。あの人がもう亡くなって二年経って、引き継いでまだ二年半ぐらいでしょ?」
「ええ、そうですね」
「あなたはあなたの幸せを考えてね」
和香子のコーヒーカップは、空になっていた。
「おかわり、どうします?」
「いらないわ。だって有料ですもん」
親子連れの三人が会計を済ませて出ていき、それから間もなく和香子がレジの前に立った。
「またいらっしゃる際には、ご連絡ください」
「別にいいじゃない。定休日以外、いつ来たってこの店は営業しているんだから」
ようやくカウンター席に誰もいなくなった。経営者として喜んではいけないことなのに、央介は安堵のため息を吐いた。いくらわがままな客が来ても構わない。趣向が合わない客が来ても問題ない。ただ和香子という存在だけは、央介にとって息苦しさをもたらすのだ。
夜になるとぴたっと客の波が収まった。人が人を呼ぶという現象が朝から続きすぎたので、央介もさほど気にしなかった。
「いちいち集客状況で一喜一憂するのは精神的によくない。店舗を経営するのは株を保有することに似ている。安易に利益を求めようとするのはもちろん悪手だし、一気に利益を求めるのも危険が多すぎる。ゆっくり寝かせて、流れや状況を見て、じっくり育てていくんだ。その根気とおおらかさがなければ、勤め人として過ごしたほうがずっといい」
央介は先代が言ったことをふと思い出した。正直、その言葉が商売成功の格言だと思っていない。時代や状況によって最善の策や方法なんて変わってくるはずだ。何事も鵜呑みにすることほど怖いことはない。
央介は自分や日芽香のことしか考えていない。先代が築いてきたものを引き継ぐ「ふり」がどこかで働くことよりも向いていただけだった。
日芽香が欠伸をしながら、二階から下りてきた。オレンジ色の無地のTシャツにグレーのデニムを履いている。一応、外向きでも問題ない服装に見えた。大体帰宅すると寝巻がわりの上下スウェット姿になることが多い。央介しかいないことを確認してから下に来たようだが、まだ営業時間ではある。いつ客が来ても問題がないようにと、日芽香はちゃんと配慮しているようだ。
「今日って、暇だった?」
「全然、いつもよりも儲かったよ」
「ふーん」
「ひめちゃんは、どうだった?」
「うーん、普通かな」
「コーヒー飲む?」
「ううん、いらない。てか少し手伝う?」
「じゃあ、カウンター拭いてくれる」
「いいよ」
日芽香はアルコール除菌スプレーと台ふきんを持ってきて、片側から反対側へと往復させずに一方向に拭いていった。人が口に入るものを取り扱っている以上、衛生管理を徹底すべきだ。その意識を日芽香はちゃんと持っている。
「丁寧に拭いてくれてありがとね、ひめちゃん」
「まあね」
この空間で互いに交わす言葉は少ない。二階の住居スペースでもさほど多く話すことはなくなってきた。こうしようね、ああしようね、などと央介が注意することもない。そんなことをしなくても日芽香は営業時間中に二階にいるときには、常に意識しているようだ。音をガンガン鳴らすことも、大きな声で話すこともない。基本的に静かにしている。
「もしかして、この生活って負担かけてる?」
央介は言葉を吐き出してから、すぐに間違えたかも、と思った。たぶん親の気持ちを配慮しながら答えるはずだから。子供は常に親のことを見ているし、十分考えている。本当の気持ちはじっくりと時間をかけて、同じ目線に立って確認しなくてはならないのに──。
「まあ、負担になっている部分はあるよ」
「えっ?」
「でも一緒に生活していたら、なにかを犠牲にして、なにかを得ていかなくちゃならないんじゃない。たぶんパパがサラリーマンでもなにかが負担になっていただろうし、ママと別れていなくてもなにかが負担になっていたはずだよ」
「ひめちゃんは、そういうふうにずっと考えていたの?」
「うん、だって、今ある環境が最悪なわけじゃないじゃん。最高なんて無理だけど、パパは最高に近づくように毎日悩んでいるみたいだし」
「ありがとう。しっかり伝えてくれて」
「別にさ、遠慮する必要ないじゃん。パパやむーちゃんに気を遣っていたら、やってけないもん」
「外では気を遣っているの?」
「そりゃそうでしょ。学校内だっていろいろあるんだから」
そうして誰も来ないカウンターに頬杖をついた日芽香は、一気に話し出した。ダンス部で巻き起こる同級生同士の部長争い、クラスにいる人たちの意識の格差について、担任が下の名前で呼んでくる、などなど。
どの問題も日芽香にとっては深刻なことだ。それを一つ一つ受け止めるように、央介は頷き続けた。この時間こそ至福なのだと感じながら、閉店時間までずっとそうしていた。
月並みの言葉ではあるが、子供が親を成長させてくれる。
結局、子供は親の所有物ではなく、一緒に歩んでいく人間なのだ。そんな当たり前のことを日芽香は央介にすぐ気づかせてくれた。
央介は副業をしながら、また懐古に浸っていた。
生まれてすぐの日芽香が、お産を終えたばかりの由香里の横に寝かされた。央介は感動に浸りながらその二人を見つめていた。すると由香里はこんなことを言った。
「早く仕事に復帰しないとね」
由香里は出産して六週間で仕事に復帰しようとした。医師から労働に支障がないと診断されても、央介は由香里に言ってしまう。
「ねえ、もう少しゆっくりしてもいいんじゃない。大事な身体なんだしさ」
由香里は、はぁー、とため息を吐いて、央介に鋭い視線を浴びせてきた。
「やりたいことを我慢してまで、立ち止まりたくないの」
現実問題、低賃金で安定しない央介の当時の収入を考えると、由香里の早期の職場復帰が必要だった。両家の家族がバックアップをすると言ってくれていたが、由香里は甘えていられないと最小限しか受けたがらなかった。
なによりも由香里は育児のことは度外視しても、早く仕事に復帰したがっていた。やりがいのある仕事を手放す怖さが、子供を産んでからの余韻を打ち消しているようだった。
そうなると自然と央介が日芽香の面倒を見ることになった。でもそう容易いことでないことをすぐに痛感する。ミルク、寝かしつけ、夜泣き、おむつの処理などの基本的なことだけでもういっぱいいっぱいになりそうだった。
こんなに大変なことをみんなしているのか、と央介はただただ驚愕し、一人で頑張ろうとすることを早々にやめた。かといってすぐに仕事に復帰した由香里に頼れる雰囲気はない。となると、人脈をフル活用するしかなかった。
由香里の両親に声をかけ、何度も家を往復してもらった。もちろん央介の両親にも協力を求めた。時には同じ音楽仲間に手伝ってもらい、日芽香と過ごす時間に少しでも余裕を持たせるようにした。どんどんフリーター勤務も疎かになり、音楽からも遠ざかっていく。家計は完全に由香里に支えてもらい、家のことは全部央介が行う。そして出費がどんどんかさんでいく。だとしても、央介はどんどん日芽香に夢中になっていく。
ある夜、二人で過ごした時間を思い出す。そのときは夜中三時を過ぎていた。
首が座って、後頭部を支えることなく縦抱きができるようになった頃、日芽香の夜泣きはひどくなっていた。当時住んでいたのは安いアパートだったから、由香里のことだけでなく、隣近所のことも気にしなくてはいけなかった。
それでも央介はゆっくり語りかけるように耳元で話し続け、ギャーギャーと泣き続ける日芽香と向き合おうとした。徐々に込み上がってくる怒りを抑えながら、日芽香の身体を抱きしめる。どうにもならない焦燥感にぬくもりが重なった。一つの孤立した生命が響かせる鼓動が、わたしは一人の人間だと訴えかけてくる。
ああ生きているんだな、と央介はなぜか安堵した。同時に一人の人間としての尊敬が生まれていく。それはとても不思議な感覚だった。
そうしてようやく日芽香が泣き止むと二人で外に出て、央介は月明かりがきれいな夜の空を見つめていた。
生暖かい風が吹いていた。あれは梅雨が始まる前の、すべてが満ちていくような季節だった。
「ひめちゃん、どうして日芽香って名前になったか知ってる?」
央介はそっと訊ねた。すっかり目が冴えてしまっていた日芽香は、キョロキョロと外の世界を興味深く見回しているようだった。
「どんな夜が訪れても、どんな苦しいことがあっても、生きていくきっかけを感じさせてくれる文字を三つ並べれば、たぶん前向きになれるかもって思ったからだよ。日差しを浴びても、芽吹きを見つけても。素敵な香りを嗅いでも、悪い気にはならないでしょ? ちょうどこの時間帯、ひめちゃんがおぎゃーってこの世界にやってきてくれたときに、思いついたんだ」
日芽香は央介の顔をじっと見た。ぱっちりと開いたその瞳は、どの星よりも輝いていた。
「もしも気に入らなかったら、別の名前に変えてもいいんだよ。ひめちゃんは、ひめちゃんの人生なんだからね。でもおれはただ、できるだけ一緒に歩んでいきたいって思っているんだ。こんなパパだけど、許してね」
央介の目からは自然とぽろぽろと涙が出ていた。
周囲の助けがないと生きていけない。どんな辛いことがあっても向き合い続けなくてはならない。いつの間にか央介は、自分じゃなくて周囲の人々、特に日芽香のことばかり考えていたのだ。
そのとき、これこそが愛なのだと、央介は初めて気づいた。
子育てをしていると親が教えてもらうことのほうが多い。うまくいかないことのほうが圧倒的に多い。
うまくいかないのは音楽も同じだ。ただ、親は子供を授かることを選べるかもしれない。けど子供は産まれてくるかどうかも選べない。
そんな責任感がどんどん湧いてくる。一人で食事もできない、排せつの処理もできない、誰かの手を借りないと生きていけない存在がそばにある。そんなことを日々、実感するからだ。
ほかの誰かが生み出す新しい音楽や売れている音楽を羨むのではなく、今自分にしかできないことに注視できるようになっていく。本当に大事なことが明確になっていく。子供が一人でできることが増えていくと、同じ世界を二人で冒険している機運が高まっていく。
由香里が産んでくれ、収入を確保してくれ、子供に集中できる環境を最初に用意してくれたおかげだ。
央介は思う。もしも自分一人ですべてを担っていたなら、子供を下に見たり、雑に扱ったりしていたはずだと。日芽香とは一人の人間として対等な関係性を築いてきたつもりだ。
そんな愛娘が、ある朝急にこんなことを言い始めた。
「パパ、やっぱりメニューを増やそうよ。駅前にあったパン屋も潰れちゃったんだよ。あそこもメニューにこだわりがあって、新しいことをなにもしなかったから今の時代に置いていかれちゃったんだよ。こっちだって対岸の火事じゃないんだよ。わかる?」
その日は朝練もなく、日芽香はテーブルでゆっくりとクロワッサンを食べていた。央介も早くに起きたので、一緒に同じクロワッサンを食べていた。
「ひめちゃん、あそこはね、駅前でさ、競争率が激しい場所なの。近くのスーパーの中にはパン屋があるし、駅の反対側にだってあるじゃん。だから顧客を取られちゃったんだよ」
「でも、ここだって別の競合ができたらどうすんの。SNSでも書いてあったよ。経営には攻めの姿勢が必要だって。だから、SNSでもなんでもフルに活用しなきゃさ、ほかのところに取られちゃうよ」
「パパだってね、ずっと考えているんだよ。変えるべきだよな、って思ったり、やっぱり変えないべきだな、って思ったり、ずっと頭の中がシーソーみたいになっているの」
「もし悩んでいるんだったら、絶対に行動すべきだって」
「ひめちゃんの意見も含めてさ、いろんな人の意見を聞いてきたわけ。そこで考えるんだよ。なにが正しいのかってね」
「えっ、てか思ったんだけどさ」
「なに?」
「パパはわたしの意見に賛同しないの?」
「うーん、あくまでも参考にしているよ。ほかの人と同じようにね。でも前みたいにSNSで宣伝するのはさ、得策じゃないって今のところは思っているかな」
「大事な娘の意見なのに?」
「もちろん大事だよ」
「じゃあ、なんで?」
「パパはさ、前も言ったけど、ひめちゃんを一人の人間として見ている。ほかの人と同じようにね。だから意見についてはどれも対等なの。子供の意見だからって優先させるべきじゃないって思っているんだよね」
「ちょっと待って、ずっと思っていたんだけどさ」
「なに?」
「本当はわたしのこと本気で愛していないんじゃないの?」
「えっと、どうしてそんな考えが飛躍するのかな?」
「娘の意見は素直に受け入れるんじゃないの、普通?」
「普通っていう基準はわかんないけどさ、ここで生活するための最善を考えるべきだとは思っているよ」
「こんなにわたしがこの店のことを心配しているのに?」
「それはありがたいし、嬉しいよ」
「パパってさ、この店を継いでから、ずっと理屈ばっかりこねちゃって、結局なーんにもしないじゃん。先代の意志とか、そんなことばっかりに囚われちゃって、この厳しい現代で本気で生き抜こうとしてない」
「だから、そこはちゃんと考えているんだって」
「もういい、バカ」
「えーひめちゃん」
日芽香は残りのクロワッサンを口の中に無理やり入れて、牛乳で一気に流し込んだ。
「ふぁあねぇ、うぃってくぃまふ」
おそらく、じゃあね、行ってきます、と言って階段を下りていってしまった。
「せっかく距離がまた近づいてきたと思ったら、こうなんだから」
ずっと黙っていた睦子が言った。央介は頭を抱えたふりをした。
「だとしてもさ、ちゃんといってきます、って言って学校に行くんだよね」
「えっ、そこ?」
「もっとキツイ言葉を使ってもおかしくないし、本気で考えているのに相手にされていないって思ったら、もっと怒っていいはずじゃない? もちろんこっちは重要な意見だとしていつも受け取っているんだけどね」
「まあ、そうなんだろうけど」
「ちゃんと対話しようとしてくれているんだよ」
「でも、本気で愛していないんじゃないの、っていう最大級の武器を使ってきたよね」
「まあ感情的になるってことは、それだけ真剣に考えてくれているのかもね」
「難しいお年頃だからね」
「うーん、きっとむーちゃんが思っているよりもずっと、ひめちゃんは成熟した考えを持っているんだよ」
「そうかな?」
「だから、ひめちゃんになんて言われようと、同じ大人として向き合っていくつもりだよ。もちろんひめちゃんの意見も一理あるからね。完全否定しないで、じっくり話し合っていくつもり。この店はおれだけのものじゃない。もちろん、先代の意志を、っていう部分があるけど、一緒に暮らす二人のものでもあるんだから」
「わたしもなにか意見を言ったほうがいい?」
「別に強制はしないよ。変に改まって作戦会議っていうのだと意見は出づらいと思うから、もしなにか思いついたらその都度言ってくれればいいよ。そんでさ少しずつ話し合う。差し迫った危機に瀕しているわけではないんだしね」
央介は、うん、と自分を納得させるように頷き、クロワッサンにかじりついた。
その日は開店してから客は誰も来ず、昼間になるとカウンターのそばで央介は呑気にサンドイッチを頬張っていた。来ないのを嘆くことはない。そんなこともあるのだとわかっている。それからも来客ゼロのまま時間は過ぎていった。
掃除を念入りにしながら昼下がりを迎えた頃、バタバタと日芽香が帰ってきた。
「誰もいない? あ、ただいま」
「あれ、おかえり……今日って部活は?」
「ないよ」
「給食食べてきたんだよね?」
「うん、そう」日芽香は店の中をぐるりと見回した。「今日ってもしかして、まだ誰もお客さん来てないとか?」
「あー、うん」
「どうすんのさ、光熱費とかかかってるんでしょ?」
「あー、今朝の話、ここでぶり返しちゃう」
「コーヒーください」
日芽香はカウンターの席につき、隣の席に自分のカバンを置いた。
「かしこまりました。少々お待ちください」
央介はすぐにマスターモードに切り替わり、ほかの客と変わらない態度でそう言うと、コーヒー豆が入った袋を用意した。
「ちゃんとお支払いしますから」
「いいや、ひめちゃんはタダですよ」
「わたしたち、対等なんでしょ? だったら娘だからって、タダは変だよね」
あら、と央介は思い、手を止めた。たしかに理屈ではそうなる。自分からほかの大人と変わらない対等な存在だと言いながら、ここでお金を請求しないのは理にかなっていない。
「一杯、六百五十円ですが……」
「お小遣いもらっているんだもん。それぐらい払える」
「あー、そうだったね」
「このまま今日、売り上げゼロにはしたくないもん」
「明日、いっぱい人が来るかも」
「そんなギャンブルみたいな経営していたら、いつの間にか潰れちゃうんだって」
この店のコーヒーは差別も区別もしない。ただそのときどきで微々たる味の差が出てしまうだけだ。コーヒーカップの中でわずかに揺れた黒が、日芽香の顔を映し出す。持ち手には指を通さず、中指と薬指の腹で持ち手の下部分支えながらカップを上げ、音を立てず口に運ぶその所作は美しい。
「おいしいね。ありがとう」
感謝の気持ちをきちんと伝えながら、ゆっくりとカップをソーサーに戻す。
聴こえてくるのは、ジャズのスタンダードナンバー『フライ・ミー・トゥー・ザ・、ムーン』。歌唱はナット・キング・コール。央介はそのまま月まで行けそうな気分になっていた。
「なーに、ぼーっとしてんの?」
日芽香の声で央介は我に返った。
「幸せだな、ってね」
「どこが?」
「今、この状況がね」
うんざり、と顔に書いたような表情をして、日芽香は首を傾げた。
店のドアが開いた。央介は、邪魔するなよ、という視線を向けてしまう。
そこには懐かしい顔があった。
「やあ、高ちゃん。元気していた?」
央介のかつての音楽仲間だったケンヤだった。黒い革ジャンにストレートデニムで、ボロボロのギターケースを背負っている。髭は胸元まであり、髪は肩甲骨付近まであるそのスタイルはまるで変わらなかった。会わなくなって五年以上は経過しているはずだった。
「いらっしゃいませ」
央介はほかの客が来たときと変わらず対応した。どうしてこんなタイミングで顔を出したのかわからないまま。
「誰、そこのきれいなお嬢さんは?」
ケンヤの視線は日芽香に向いていた。
「えっと……」
「えっ? 自分の店でパパ活してんの?」
少しでも言葉に詰まると、どんどん言葉を被せてくる。ケンヤはそんな性格だった。
「わたしはこの人の娘ですけど」
日芽香の声は尖っていた。明らかに敵意を剥き出しにしている。
「ほら、昔、ケンヤもオシメ替えるの手伝ってくれたじゃん」
央介は表情を崩しながら、すかさずフォローに入る。
「あー、ひめちゃん? あっれーこんな美人なお姉さんになったのー。そりゃあおれも年を取るわけだわ」
コンプライアンス意識の欠片すらない発言に、褒められてもなお険しい表情の日芽香。
「外見を褒めてくれるのは嬉しいし、オシメを替えていただいたことも感謝したいんですけど、なんかすごく配慮がない言い方ですよね?」
「あー、ごめんごめん」
ケンヤはそう言いながら、しれっと日芽香の隣に座った。
「ここってさ、アイスティーなかったんだっけ?」
「ホットコーヒーのみです。一杯、六百五十円です」
「そうなんだよねー。砂糖もレモンもスプーンもないんでしょ?」
「はい。申し訳ありません。メニューを一つに絞って営業しているんです」
「変わんないねー。でも変わんないっていいことだよ、うん」
ケンヤはギターケースからエレキギターを取り出した。色はフィエスタ・レッドだ。
「ひめぎみ、このギター知ってる?」
「ひめぎみ?」
日芽香は怪訝な顔でケンヤの顔を見る。ギターを見るそぶりは見せない。
「日芽香だから、ひめぎみ。高ちゃんの『姫君』でもあるからね」
「さあ、知りません」
ギターに視線を向けることなく、日芽香が答えた。
「フェンダー・ジャガーだぜ。カート・コバーンもカール・ウィルソンも愛用したヴィンテージ・ギターなんだから」
「じゃがー? こばーん? ねこ?」
「ひめちゃんがなにかと猫と関連づけて、猫を飼いたがっちゃうから、その紛らわしいおじさんうんちくはやめてもらっていいですか?」
央介はコーヒー豆の入った袋を持ったまま言った。
「うんちくじゃないの。教えてあげてんの。知らないだろうからさ」
「で、ホットコーヒーを注文するんですか? しないんですか?」
「はい。ください。昔のよしみでタダでお願いします」
「それは無理です。一杯、六百五十円です」
「はん、けちくさいねー」
「じゃあ、そこで座っているだけですか?」
「もう、じゃあ一杯くださいな。お金も払います」
「ありがとうございます。用意いたします」
不機嫌そうに唇を尖らせながら、弦をはじき、ヘッドについているペグを回し始めるケンヤ。ジャン、ジャン、と音が鳴るが、日芽香は興味なさそうに、目の前にあるカップを見つめている。
「ひめぎみ、最近の子ってさ、ギターじゃなくてアプリとかで音楽作っちゃうんでしょ?」
「ねえパパ、コーヒーって冷めてからもおいしいように改良ってできないの?」
ケンヤは日芽香の方を向いて話しかけているが、まるで眼中にないかのように日芽香は央介に訊いてくる。
「質のいい豆とか、焙煎技術とか、抽出とか、いろいろよくないと酸味が多く感じちゃうからね。冷めると香りでごまかせないから、淹れ方をもっとこだわらないといけないのかも」
へえー、と言いながら日芽香はまたコーヒーに口をつけた。
「えー、完全に無視されているー。ねえねえ部活とかやってんの? 帰宅部なの?」
日芽香は携帯電話を出して画面を操作し始めた。ケンヤの方を向く気配はない。
「じゃあ、アイスコーヒー出すとかは?」
「使っている豆がホット用だからね。アイス用のものを用意するってなるとまた経費がプラスでかかっちゃうんだよ」
「あー、前それ言ってたよねー。なんかそこは先代のこだわりもあって、みたいな」
「おれって機械的な人間だから、柔軟に対応したり応用したりするの苦手みたいで、どうしてももともとある型を破れないっていうのもあるみたいだし」
「パパって自由人間みたいに生きてきたのにね」
「自分で考えてどうこうできない人間だってわかっていたから、ずっと足搔いていたのかもね」
ポローン、ポローン、とケンヤが音を鳴らしたあと、アンプにつながないまま本格的な「音楽」を奏でだした。C、G、Aマイナー、Fを繰り返す。この洋楽では定番のコード進行に変化をくわえることなく、弾き続ける。
BGMにはジャズがある。それに合わせるつもりはないようだ。日芽香はようやくギターを見た。感情もなくただ見つめるという様子で。
「おれたちって、世界でなにも生み出せないんだ。世界を変えることはできない」
ケンヤの口調は弾き語りをしているようだった。
「ただマネをしているだけ。本当に新しいものを生み出せる人は、ほとんどいない」
日芽香はギターから視線を逸らし、央介の手元の方を見た。時間をかけて手挽きをすることに集中しているその手に対しては、真剣な眼差しを送っているようだった。
「だけどおれには夢がある。希望も愛もなにもかも。時代遅れだって言われても──」
コーヒーをカップに注いだ頃には、ケンヤの弾き語りは終わっていた。
「お待たせしました」
ケンヤは首を縦に動かすだけで、無言のまま受け取った。
「なあ、ケンヤって今、なにやってるの?」
顔を上げたケンヤは、一瞬目を見開いた。
「そりゃあ、音楽だろ」
「違う。仕事の話」
「……システムエンジニア」
「そっか」
日芽香は央介に「ごちそうさま」と言い、ケンヤに「それじゃあ」と言ってから、カバンから財布を取り出した。ジルスチュアートの淡いピンク色をした二つ折りの財布だ。それは去年、由香里から送られた誕生日プレゼントでもある。
小銭をジャラジャラとさせてから、五百円玉と百円玉と五十円玉をそれぞれ一枚ずつ取り出す。央介に手渡さず、レジの中に直接入れてから二階へと上がっていった。
「わかり合えなくてもいいと思う。同じ世界に、それぞれの世界を作って、共存している雰囲気を保てればね」
央介の言葉に、ケンヤは首を横に振る。
「本当に、それでいいと思うのかよ?」
「だって、世界を変えることはできないんだろ。おれは平穏に過ごせればいいや」
それから数分でケンヤは帰っていった。結局、央介がいつもと変わらない製法で淹れたコーヒーに口をつけることはしなかった。
次の日、開店して間もなく、カフェ・モリムの前に黒い軽自動車が停まった。そこから出てきたのは、眉毛の太い細身の男性だった。央介はすぐに笑顔で出迎える。
「平井さん、いつもありがとうございます」
「いえいえ、梶原さんのときからの付き合いですから」
互いに深く頭を下げた。
「コーヒー豆は、またわたしが奥に運びましょうか?」
「いつもありがとうございます。大量にご用意いただけるので、助かります」
コーヒー豆の卸業者として大ベテランの平井は、おそらく還暦を過ぎている。いつもモリムのために決して高品質なものでないが、それなりのコーヒー豆を安価で大量に用意してくれていた。央介は先代が結んだ契約をそのまま更新しており、別の手段で豆を入手したことがない。これもまた変わらない「伝統」を受け継いだ結果である。
「高浦さん、ちょっといいですか?」
店の奥にある倉庫まで豆を運び終わった平井が、央介に手招きをしてきた。
客はまだおらず、店内は二人きりだった。
「なんでしょうか?」
「今後のことなんですけどね……」
「ええ」
胸騒ぎを覚えていた央介は、つい被せ気味に相槌を打ってしまう。
「わたしもそろそろ歳でしょう? もうこの仕事が肉体的に堪えてならんのですよ」
「大変なお仕事ですからね」
「ええ、出荷するのも、なにをするのにも、ほとんど自分だけでやっているでしょう」
「はい。本当に頭が下がります」
「大手の企業から独立して、こうした町に根付いたカフェのためと思って頑張ってきたんですが、もうそんな店もどんどんなくなってきて、今はフランチャイズが強くなってきたわけですし、そろそろ限界かな、と」
「もしかして、おやめになるのですか?」
央介は背筋をゾクッとさせた。平井がコーヒー豆を卸してくれなくなることは、この生活が終わることを同時に意味していたからだ。
「今すぐに、というわけではありません。もちろん、もしそうなったら前もって関係者の方々には挨拶をさせていただくつもりです。ただやはりいつまでも、というのは難しい気がしましてね」
「平井さんは、以前からこのお店を助けてくださっていました」
「そう言っていただけるのはありがたいことです。自分を犠牲にしてやってきてよかったのだと報われる気がします」
「価格についても、いつも良心的で、わたしがこうして引き継いでこの店を切り盛りできるのも、平井さんあってのことですから」
「あなたも夢を一旦隅に置いて、家族や先代のために立ち上がってくれたじゃないですか」
平井からの労いにも央介はうまく反応できなくなっていた。まずは日芽香のことを考え、もちろん今後の生活のことについても考えていた。不安や危機感がどんどん蓄積していく。
「やはり個人はもちろん大事ですが、社会や周囲の理解があっての個人の権利ですからね。自分本位でなく、人のためと思ってやってきたこの仕事に幸せを感じていたのです」
「ええ、そうですね」
「過度な個人主義が社会を壊すわけで、今の考えについては、わたしはどうも納得しないんですよ」
そこからは平井は自分が持つ社会と個人に対する考えについて延々と語り続けた。央介は繰り返される生活ばかりに目を向けて、広い範囲で物事を考えることはほとんどない。自分の考えもないまま、はい、はい、と同意しているふりを続けた。思想うんぬんよりも、この生活にいつか終わりが来るのだ、という現実を突きつけられたことによる動揺を隠すことに精一杯だった。
事業継承の手続きはある程度の金額がかかった。しかし先代の厚意で最小限の負担に抑えてもらい、住居もそのまま譲り受けることとなった。そこからの見通しが甘すぎた。
央介は副業に取り組む前に、帳簿を改めて確認する。
日芽香が将来的に大学へ進学した場合でも、学費などの金額は負担できる目処をつけていた。それが仮に、あと一年、もしくは半年でいつものコーヒー豆が調達できなくなると、大きく計算が狂ってしまう。
現段階でも苦しい状態なのに、さらに苦境に立たされる。もともと不安感は胸の底にあった。日芽香の前では晒さないようにしてきたけれどそろそろ限界だ。ちゃんとあの中学生の瞳は現実を捉えている。
いつも以上に懸命に副業に取り組んですぐ、死んだように短時間眠り、翌朝を迎えた。
睦子と日芽香はいつも通り朝早い。三人揃った朝食中に央介は、ちょっと二人ともいい? と切り出した。
「明日、休みの日なんだけど、ちょっと先代に会いに行こうと思う」
日芽香は特に驚いた様子もなく、トーストを咀嚼していた。
睦子は首を傾げながら、とぼけた顔をしていた。
「えっ、もう亡くなられているのに?」
「いや、厳密に言うと和香子さんに会いに行く。実はコーヒー豆の卸業者の平井さんが、引退を考えているみたいなんだ。平井さんがいなかったら、今みたいに安価で豆を大量に用意してもらうことは難しい。どこかの業者に掛け合って、同等の量を同じぐらいの金額で、っていうわけにはいかない。全部先代の人柄とか厚意でやってもらっていたことだからね」
「じゃあ、六百五十円から価格を上げたら?」
「むーちゃんは簡単に言うね。常連さんも多い住宅地での商売だから、価格は簡単に手をつけられないよ。でもそこも含めて考えていかなきゃいけない。やっぱり常連がいるからやっていけている面が強いし、変わらないでいてほしいって意見も多いから慎重に行わなきゃなんだけどさ。毎日来てくれるわけじゃないけどね」
日芽香は、うん、と頷いてから「じゃあ、とうとう転換期に来たってことだね」とここにいる誰よりも落ち着きを払い、決意を固めたように言った。央介は、日芽香の態度にほんの少し安心する。
「先代から受け継いだものを、和香子さんはできる限り変えてほしくないと思っている。だからまずはそこに納得してもらってから、具体的にどこをどう変えていくか決めていきたいと思っているんだ」
今度は日芽香が首を傾げた。
「いや、順番逆じゃない? 具体的にどう変えていくかをパパが決めて、それから和香子さんに伝えて納得してもらってから、最後にお客さんにも納得してもらうほうがいいよ。漠然としたまま、和香子さんのところに行っても、向こうも困るよ」
すると今度は睦子が首を横に振った。
「客商売なんだからさ、まずは常連さんの意見を聞いてから、判断したら? いきなりこうしますから、って伝えられても、お客さん側は困っちゃうじゃん」
「てか、パパ、具体的にどうしていくか、っていう策はもう考えているの? そこがはっきりしていないと説得しようもなくない?」
「ひめちゃんの言う通り。おうちゃんの考えはどうなのさ。ほら、前、ひめちゃんがSNSに投稿したでしょ。あのときだって怒ってたけど、結局、動画を見たきっかけで来店してくれる人もいたしね」
「むーちゃんの言う通りだよ。なにも考えないでただ変えますなんていうのは、ダメすぎるよ。まずはちゃんと自分で考えなきゃ、ね?」
二人の女帝に相談しておいてよかったと央介は心から思っていた。央介が押され気味になるほど、二人はきちんと真剣に考えて意見を出してくれた。なんだか嬉しくてたまらなくなっていた。それと同じぐらい自分の愚かさを感じる。
いつも浅くしか考えられないこの人間の、どこに先代は魅力を感じたのだろう。
央介は思い出そうとしていた。先代と初めて会ったあの日のことを。
梶原和久という男は、外も中も穏やかな人間だった。ただ付き合いが長くなるにつれ、その奥底に秘めた頑固さやポリシーの強さがわかっていった。押しつける雰囲気はない。自然と導くように相手と接する人だった。
出会いは七年前だった。日芽香の親権を手に入れたものの、央介はまだ安定しない派遣社員として勤めていた頃だった。由香里と別れて実家に戻り、両親のバックアップを受けながら生活する日々はさほど切迫感がなかった。しかし、両親ともども高齢になるにつれ、このままではいけない、という思いは心の隅には常にあった。
当時働いていた職場は、住宅地の一角に構えたオフィスビルにあった。おしゃれとは程遠い古い雑居ビルだ。仕事は事務作業で、主に庶務業務を任されていた。備品の整理や表の作成、ときにはリモート会議のセッティング作業などをして営業の補佐的な役割を担うこともあった。時間は九時から十八時まで、残業はなし、時給はほかと比較すると高めで申し分ない。でも派遣先から、いらない、と言われてしまえばそれ以降の契約はなくなる。
三十代前半だった央介と同年代の正社員たちは、自然と比較対象になる。周囲は口に出さなくても、央介は劣等感に苛まれることがあった。だとしても、現状を変えようと動き出すことはなかったのだ。
そんなある日、ちょうど同い年だった川辺という正社員から誘いを受けた。
「高浦さん、実はね、ちょっとおもしろいお店を近くで見つけたんだよ」
それは央介が定時通りに打刻を押して、カバンを持ち、帰宅しようとしたさなかだった。
「あ、それはいいですね」
早く帰って日芽香に、今日学校でどんなことがあったの? と訊きたい気持ちを抑えながら頷いた。当時は小学校に入学したばかりで、日芽香にとって毎日新しいことが巻き起こっていた時期だった。たぶん、央介が早く帰らなくてもちゃんと食事は用意されているし、さみしい思いをするわけでもない。それでも父親としての時間を大事にしたいと思っていた。
「ここからだと駅からちょっと離れちゃうんだけどさ。あっ、別に酒の誘いとかじゃないよ。てか、高浦さんってコーヒーってブラックで飲める派?」
「あっそうなんですね。コーヒーは、まあ、はい。砂糖もシロップも入れないですね」
本当は、ブラックで飲める自信なんてなかった。いつも甘くして飲んでいた。コーヒーは基本的に缶で飲むもので、カップで飲むようなことはご無沙汰だった。
「そこさ、ホットコーヒーしか出さないっていうので有名でさ、ちょっと行ってみたいんだよね」
「どんな店なんですか?」
「うーん、ネットとかでもほとんど情報ないんだけど、結構おしゃれだって言われている」
「へえーそうなんですね」
ここで断ったら心象悪くなるだろうな、と思いながら、ゆっくりと帰宅の準備をする川辺を待ち、二人で外に出た。
職場のオフィスビルからとぼとぼと歩いていく。四月下旬から始まる大型連休を前にしても、夜になれば肌寒くなる。コートを着てこなかった央介の身には堪えた。
川辺の好きなゲームの話に対して央介が適当に相槌を打っていると、それが見えてきた。
『カフェ・モリム』
央介は最初、どこにでもある民家に看板が掲げられている、としか思わなかった。
店内からも央介は特筆したものを見つけられなかった。カウンターに椅子が五つ。一番端にはホクロとシミの老人がいる。強いてあげるのなら、随分座席数が少ない店だな、と思う程度だった。
香り立つものがふんわりと流れてきて、やわらかい視線がそれについてくる。
「いらっしゃいませ」
どうも、という首を上下に動かしながら、川辺と央介は視線と声に応えた。
背中がすっと伸びていて、スリーピースのスーツが似合う小柄な男性は、棚から袋を取り出した。
「はじめてのお客様ですか?」
「あ、はい」
川辺は情けない声を出すと、その小柄な男性は笑った。垂れた目を細め、形のいい小鼻を横に広がり、目尻から扇のような皺が生まれる。洗練された雰囲気を央介は感じた。
どうぞこちらへ、と促されて、央介と川辺はカウンター席につく。
「当店が提供しているのは、ホットコーヒーのみなんです。一杯、六百五十円なのですが」
「はい、存じております」
畏まった口調をしてしまった川辺は、少し頬を赤らめた。
「どうぞ、この空間をお楽しみください。隣の方もホットコーヒーでよろしいですか?」
「はい、お願いします」
央介の返答を受け、小柄な男性は作業を始めた。
川辺がいくつか言葉を投げかけてきたが、央介は上の空だった。細長い指先を動かしながらコーヒーを淹れていくまでの過程をじっと見つめていたからだ。とても丁寧にゆっくりと豆を挽いている。央介はじれったくなっていた。家には日芽香がいるのだから。
「あの、すみません」
央介はカウンター越しにある垂れた目を見つめた。
「なんでしょうか?」
「なにか、コーヒーに対して、こだわりみたいなものがあるんですか?」
央介の問いを受け、うーん、と考えるように目線が宙に浮く。
「物を大切にすること、時間をしっかりかけること、お客様に場所を提供すること、ぐらいでしょうかね。わたしは職人でもなければ、超一流のバリスタでもない。だから、自分のできる範囲内のことだけに注力するようにしています。手の届かないところに行ってしまえば、それはもうどうにもできませんから」
「身近にあるものが大事なんですね」
「ええ、そうです。世界は広いし、優秀な人もごまんといます。だから自分のできることだけを見極めて、できることを続けていくのが一番幸せなのかな、とわたしは思うことがあるんです」
央介は急に深いところに突き落とされた感覚がした。ただそこで自分の追い求めていた答えの一つを見つけたようにも思えた。
「ぼくには、娘がいるんです」
大きく頷きながら、コーヒーと向き合い続けているその姿はなぜか央介には輝いて見えた。
「娘はどんどん世界を広げています。小学校に入って、勉強以外のものにも多く触れています。もしかすると学業より、この世界にはいろんな人がいるんだな、って学ぶことのほうが多いと思うんです。そうして、自分の居場所を見つけていく、みたいな」
川辺は、「へー、娘さんがいるなんて知らなかった。どうして全然話してくれないのー」とわざとらしいリアクションをとっていた。央介は隣を一瞥して微笑み、もう一度カウンター越しにある顔に視線を向けた。
「ぼくは、どうして遠回りしてしまうんでしょうか? 近くにあるものに気を留めていても、うまく最善策を考えられないままなんです」
カウンターにソーサーに乗ったコーヒーカップが置かれた。中には黒い鏡のような液面が注がれている。
「できない人には、できないのかもしれないですね。でも視野を狭めると、見えることもできることも小さく集中できる気がします」
川辺はコーヒーカップに口をつけてから、「どういうことですか」と訊ねた。
「視野が広いことをよく称賛されますが、正直見なくてもいいものだってたくさん目に入ってしまう世の中なんです。一人の人間ができることは限られていて、理解できる範囲も限られている。だからこそ、わたしは目の前にあることだけに集中できるようにしたい、と思ってしまうんです。みんな世界を見て、遠くまで見渡せるのだから、近くのことだけを見つめるような人がいてもいいんじゃないかな、って思っているんです。勝手に」
「一つのことに集中する、ということですか?」
央介はうまく理解できていなかった。川辺が首を傾げる様子を視界の端で捉える。
「いいえ、いろんなことをしていいと思うんです。というか、せざるを得ないですよね。子供の世話、仕事、家事などなど。だからこそ、いろんなことをする範囲をどこかで狭めればいいんです。諦める、と言ったほうがわかりやすいかもしれませんが」
「諦める」
「ええ、諦めることは悪くない。もしかすると、諦めることで人生を豊かにするかもしれない、と長く生きてみて思うようになったんです。まあ、しがないコーヒーショップの人間の意見ですから、参考程度に聞き流してくださいな」
央介はそのときに飲んだコーヒーの味は正直よくわからなかったし、すぐに忘れてしまった。ただ凡庸な店内が作り出した雰囲気から生まれた言葉のやりとりは、たしかに脳裏に焼きついていた。
それから数日が経ったある日曜日、央介は日芽香と二人で出かけることにした。
特に計画を立てていなかった央介は、外に出てから日芽香に訊ねる。
「どこ行きたい?」
「別に、どこでもいいや」
遊園地などを希望するのかと思いきや、気のない返事が返ってくる。
「うーん、なんかおもしろいところあったっけな」
「パパの行きたいところに行きたい」
「前、むーちゃんたちとどこに行ったの?」
「遊園地でね、メリーゴーランドに乗った」
「そっか、じゃあ、どこにしようっか」
そう言いながらも央介は、自然と足はカフェ・モリムの方へと向かっていた。ホットコーヒーしか提供しないお店は、どう考えても小学一年生の子供と行くのには向いていない。でも、脳裏に焼きついた感覚が央介をそうさせていた。
職場の最寄り駅まで電車で向かい、平日と同じルートを歩いていく。ある二手に分かれた道に差し掛かった。そこは住宅地のど真ん中で、どちらへ行っても二階建ての家か小さなアパートなどがあるだけに見える。区画整備がされていないのか道が入り組んでいて、いくつもこうした分岐点のような箇所がある。ここらについて、古くから住む土地持ちが多く住んでいるのかも、と央介は想像していた。
まず央介は、向かうつもりがない道を指さした。
「こっちにね、今パパが働いているところがあるんだよ」
「ふーん、なんだかもっとビルがいっぱいあるようなところで働いているのかと思った」
正直すぎる日芽香の感想に、央介は思わず笑ってしまう。それぐらい素直でいてくれたほうがほっとする。いつも会社で気を遣って本音を隠し合っているため、いかにも「子供らしい」意見に心が安らいだ。
「でもね、今日はこっちのほうに行こう!」
央介はもう片方の道を指さす。
「なにがあるの?」
「ホットコーヒー屋さんだよ。ひめちゃんはまだブラックコーヒーは飲めないけど、経験だと思って行ってみよ」
「いいよー」
子供と行くのには適さない場所だということを言葉にして、少し躊躇した。ただ日芽香の無邪気な「いいよー」に背中を押された。今回のお出かけはひょっとしたら失敗に終わるかもしれない。たとえそうだったとしても、ここでモヤモヤするよりもマシかな、と思い直し央介は日芽香の手を引いた。
夜に訪れても、昼に訪れても、受ける印象は変わらない。
「えー、ここ? 普通のお家だよ」
「そうだね。でもほら、あそこに看板があるでしょ。民家っぽい雰囲気だけど、お店なんだよ。あんまりこんなところ見たことないでしょ」
「うーん」
日芽香の反応が芳しくない。それならこのまま店に入らず、別の場所に向かうのもありかもしれない。
央介がそんなことを思っていると、店のドアが開いた。
出てきたのは、あの小柄な男性だった。以前と同じように穏やかな表情をしながら、央介たちを見ていた。
央介は軽く会釈する。
「また来て下さったんですね。前お話ししてくださった娘さんと一緒に」
まず央介が驚いたのは、その記憶力だった。何人も接客をしているはずなのに、こんなしがない三十代前半の男を覚えているなんて。
「すごいですね、ほんと」
「なにがですか?」
「記憶力ですよ」
「いやいやいやいや、あなたほど印象的な人はなかなかいませんよ」
央介が呆然としていると、小柄な男性が手招きをしてくる。
「パパ、中入ろ」
「う、うん」
店内に、お邪魔します、と言いながら央介が入っていった。
「いらっしゃいませ」
「娘は、まだホットコーヒーが飲めるわけではないんですけど」
「いいじゃないですか。あなたもホットコーヒーを飲まずに、カウンターの席につくだけでも」
平然とした様子で小柄な男性は答えた。
「いや、でも、やっぱりホットコーヒーを頼みます」
央介は椅子に座りながら言った。その隣に日芽香がちょこんと腰掛ける。
「なんだか、普通なところだよね」
子供らしい残酷さを振りまく日芽香。央介は首を横に振った。
「普通だからいいんじゃない? きっと、みんな、いろんな特色に疲れちゃうんだよ。それがないと生きられないって思ってね。だから、普通っぽくて、どこにでもある空間を欲することだってあるんだよ」
流れている曲は、ルイ・アームストロング。ジャズのスタンダードナンバーだ。どこの喫茶店でもチョイスしそうな、そんな音楽が静かに流れている。
「いい誉め言葉ですね。ありがとうございます。どこにでもありそうなものって、実はどこにでもあるわけじゃないんです。だからコーヒーのサービスも最小限。そうした部分がこの店の特色なんじゃないでしょうか?」
央介は頷いて、日芽香を見る。そして、小柄な男性に視線を向けた。コーヒーを淹れる作業に取りかかっているその姿に包容力を感じて、つい央介はこんなことを訊いてしまう。
「マスターって呼んだ方がいいんでしょうか? それとも別の言い方がいいんでしょうか?」
「そうですね。わたしは梶原和久って言うんです。だから梶原とか、そんな感じで呼んでいただければ。あと変なあだ名とかはやめてくださいね。気恥ずかしいので」
「わかりました、梶原さん。わたしは、その高浦央介っていうんです。好きなように呼んでください」
「じゃあ、央介さんですね」
日芽香が自分を指さしながら、梶原を見た。
「わたしは、日芽香です。ひめちゃんってパパに呼ばれています。先生には高浦さんで、友達には日芽香って呼ばれています。わたしも好きなように呼んでください」
「わかりました、日芽香さん」
互いの呼び方が決まると、距離は一気に近づいた。
梶原は、日芽香に対して特別なサービスをするわけではなかった。客には平等にホットコーヒーだけを提供する。それが飲めない年齢の人にはなにもしない。子供だからとか、そんなことはこの空間内では関係がなかった。普通の空間と言いながら、独特なルールがそこに存在している。
その確固たるスタンスを央介は気に入った。柔軟性は皆無だが、とてもわかりやすい。トレンドや時代の流れに合わせるわけでもない。央介が、自分もこんな仕事をしたいな、と思ったのはちょうどそのときだったのかもしれない。
日芽香は、ホットコーヒーをもらえなかったことに対してぐずることはなかった。央介がホットコーヒーを飲んでいることに文句を言うこともなかった。これがルールなのだと、親が説明しなくても理解したような顔をして、ただ椅子に座っていた。
二人が帰ろうとしたとき、店の奥にある階段から薄紫色を纏った女性が下りてきた。たおやかな動きとにこやかな表情、そして目の奥には揺るぎない強い意志。和装姿のその老女から央介が感じたものは鮮烈だった。
央介は梶原とその妻和香子との出会いを思い返しながら、七年の歳月という残酷さに浸る。多くのことが変わりすぎた。そのままなのはカフェ・モリムだけなのではと思ってしまうほど。
梶原和香子は現在、自身の実家である旅館にいた。そこは創業百年以上の老舗で、今は和香子の姪が女将を努めているらしい。現在、週に一度しか休みがない店を切り盛りしている央介に宿泊する時間はない。央介は顔を出して、話をするだけだ。それは商売をしている側に対して、失礼なことのようにも感じていたが、和香子は理解しているはずだ。少なくても、和香子だけは。
交通の便は決していいわけではない。直接向かうことができるバスは通っておらず、最寄り駅から歩くのは現実的ではない距離にある。基本的に自家用車などで向かうことを推奨されているようなところだ。
そこには歴史ある旅館のこだわりを感じる。あくまでも客を選んでいるのだ。
央介はタクシーで向かいながら、実はカフェ・モリムも同じようなことをしているのでは、と思い始めていた。
瓦屋根の門をくぐると、竹林が左右を囲んでいる。そこを切りひらいたような道をまっすぐ進むと、唐草模様の引戸が見えてくる。高級旅館の趣が十分に演出されたその空間には、ほんのりヒノキの香りが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
央介よりもやや年配に見える着物姿の女性が正座をして手をつき、深く頭を下げ出迎える。
「すみません、わたし、高浦央介と言いまして、今日梶原和香子さんと会うお約束をしていて……」
顔を上げた女性は驚いた表情を一瞬見せ、すぐに持ち直し、表情をやわらかくした。
「これはどうも、遠いところまで、ご足労いただきありがとうございます」
「こちらこそ、直接押し掛けるようになってしまい、すみません」
「いいえ、おそらく叔母がそうするようにと言ったのでしょうから」
女性は営業向きなものから、身内に寄せるようなものに言動を崩し、しなやかに立ち上がったあとに央介を奥へと案内した。
外から差し込む日差しで白く反射した木の廊下で、央介は宿泊客らしき人と何人かすれ違った。しかし、そこには外国人観光客らしい姿はなかった。こそこそと聞こえてくる声も、日本語らしい平坦なものばかりだった。
「そういえば高浦さん、以前いらっしゃったとき、娘さんとお母様も一緒でしたよね」
「あ、そうですね。あれは三年以上前だったと思いますが、よく覚えていらっしゃいますね」
「ええ、娘さん、とても印象的でしたから。聡明な雰囲気があって、身のこなしにも品がありましたし」
「そう言っていただけると、とても嬉しいです」
「品性って、生まれた環境も左右するかと思うのですけど、おそらく潜在的なものにとても影響される気がするのです。顔立ちや骨格などでも判別できず、人種的な違いでもなく、どことなく溢れるものが形成しているのかと、わたしは感じるのです」
央介はその言葉の意味をうまく飲み込めないまま頷いた。
客室から離れた和室に央介は通された。央介には読めない達筆な字で書かれた掛け軸があり、そのそばには黄色や紫の小粒な華で彩られた生け花が添えられている。それ以外はなにもない部屋だった。一人になった央介は、おそらく応接間なのだろう、と見回しながら、しばらく待っていた。
すると、失礼します、という上品な声が聞こえた。はい、と央介が返答すると、ほんの少し襖が開き、一泊置いてから半分ぐらいまで開かれた。そのときに白い着物を着た和香子の正座をした姿が見えた。そこから流れるような美しい所作で襖の開け閉めを行い、央介の前に座った。その動きすべてに堅苦しさを全く感じさせず、滑らかさと品だけがあった。しかし、杖を使わなくて大丈夫なのか、という疑問が央介の頭に浮かぶ。
「旅館内は長距離移動ではないのでこうしてスムーズに動けるのですが、大変お待たせしてしまうこととなり、申し訳ございません」
心の中を読み解いたかのような言葉に、央介は驚きを隠しながら首を横に振った。モリムで会話するときの気軽さは影を潜め、すっかり仲居のような口ぶりになっていた。以前訪れたときはもっとずっと堂々としていたのに、今回はまるで宿泊客を招いているような雰囲気だ。央介は少し気恥ずかしくなり、目を逸らしてしまう。
「こちらこそ、わざわざお時間を作っていただきありがとうございます。今日は土曜日で、お客様も多くいらっしゃるでしょうに」
「いえ、わたしはね、もうほとんど業務関連には携わっていないんです。ここに出戻りしてからは、ただみなさんの邪魔にならないようにひっそりと過ごしているだけなんですから」
「こちらまで案内していただく配慮までしていただき……」
「央介さん、もうそんなことは気になさらないでください。それよりもお話があるんですよね?」
和香子の笑みはどこか央介のことを探るようなものに変わっていく。決していい報告でないことを勘づいているかのようだ。
「実は、今モリムで出しているメニューなど、一部を少しリニューアルしようかと思っていまして……」
「ええ」
「具体的には、ホットだけではなく、ミルクや砂糖など、それまで提供してこなかったものも添えるようにして、その分経費としてかかってくる分を回収するために、SNSなどで店を宣伝し、来客を増やしていこうかと考えております」
「ええ」
「つまり、これまでのやり方を、より、現代に合わせるようにして、受け入れていただける客層を拡大していこうかと思っております。例えば、ホットコーヒーのみの提供について、やはり同伴している子供に対して配慮がない、という書きこみがありまして、その……」
「ええ」
実際にそのような書き込みを夜のSNSチェックで見つけていた。これが拡散されマイナスイメージになることも考えられた。変わらないこだわりの強さだけで売り出していくのは、やはり難しいご時世となっている。
変革に考えが至った経緯を央介は延々と説明していく。できるだけ和香子の心情を配慮し、誠実に丁寧に伝えているつもりだった。
しかし和香子は、表情を変えることもなく「ええ」としか発さない。まるで反発して受け入れないかのように、硬い声で。
「先代の考えを生かしていきたいと思ってこれまでやってきました。でも時代の流れには逆らえないんです。平井さんも引退を考えていて、同様の豆を提供できなくなる可能性が高いんです。サービス業として生き残って娘や母と暮らしていくために、必要なことなんです」
央介は畳に額をつけて土下座をしていた。
「ええ」
和香子の声が空間に消えていき、しばらく経つ。互いに無言の時間が続く。
「で、言いたいことはそれだけですか?」
沈黙を破った和香子の言葉に、「はい」と央介は応える。
「なら、そうすればいいじゃないですか」
「あなたは、変わることを反対しているんじゃないですか?」
央介は頭を上げて、和香子を見る。能面のような顔が掛け軸のほうを向いていた。
「正直、主人がもうやらないと言ったとき、いっそ畳んでしまえばいいって思っていたの。でも、自分だけの仕事を求めていたあなたが現れた。熱意を見せてくれた。心が変わったの」
「ぼくは、決められたリズムに浸る時間に甘えていただけなのかもしれません。来てくれる方々や先代や和香子さんに対しても」
「甘えたっていいじゃない。この世界は変わりすぎなの。みんなに努力を押しつけて、変化を求めすぎている。わたしの若い頃だってずっと変化を求められていた。たぶんそれって、日本が明治維新を経験してからずっと、国民全体に課されていたことだと思うの。変わらない歴史的なものなんて、日に日に消えていくだけなんだからね」
「変わらないための努力は、辛いです」
「ええ」
和香子はまたその冷たい二文字をこの部屋に置いた。文鎮で声帯を押さえつけられたように央介はすぐに言葉を返せなかった。
本格的に二人の会話がなくなってしばらくしてから、央介は無理に声帯を震わせた。
「本日はお時間を作ってくださってありがとうございます。それではまた、失礼いたします」
別れの言葉を切り出すと、和香子はまた「ええ」と言った。
央介はわからなくなる。全権をすべて先代から譲り受けたのに、なんでこんなに許しを求めているのだろうと。
法律的にはたしかに、自分のものになった。それでもこれは借り物である意識が常にあった。凡庸な雰囲気も、ホットコーヒーだけというスタイルも、すべて央介が作り上げたものではない。ただ先代のマネをしているだけなのだ。娘との時間を犠牲にして、副業までして、それでも続けているだけなのだ。
おれは一体なにをしているのだろう。
そんな悩みがぐるぐると脳内で渦巻いている。
自宅兼コーヒーショップのカフェ・モリムの看板がある家に着くまでの道のりは、央介にとって長かった。気持ちの面で特に遠く感じていた。
毎晩のように続けてきた副業が捗らなくなる。特別な才能がない人間に特別な技術が必要な仕事はない。データ入力の作業、アフィリエイト収入を狙ったブログ作成、バックオフィス作業。隙間を埋めるように受注したり、自ら取り組んだり、どれも一貫性がない。当然安定した収入源にはならない。この生活を続けていくために、少しでも家計の足しにするために小銭を稼いでいる感覚だ。どうしてこんなことをしなきゃいけないのだと、央介はつい愚痴りたくなる。
日芽香と睦子の前では、狼狽えるようなことはしなかった。
簡単に、やはり和香子さんは変化を嫌っているという程度で報告をした。
店はもうこっちのものなんだから、と日芽香は強気な言葉を繰り返していた。睦子は、あんまりわからないけど、この生活が続かなくなるのは寂しいね、と言った。どれも頼りなく央介の耳に届いた。
パソコンの前に座っていられず、預金通帳を眺めてみる。
残高には、何桁もある数字が並んでいた。これを切り崩して、切り崩して、今の生活を維持している。もしも由香里が不倫をして、離婚していなかったら、こんな桁数にはなっていない。
由香里は今、別の男性と結婚生活を送っている。会社の役員をしていて、平均の数倍以上の金額を稼ぎ出す男性とだ。子供は二人いる。それでも由香里自身は、今も仕事をバリバリこなしていた。十分余裕のある生活を保てている。だから相手の男性が央介に支払った慰謝料は、大した出費ではなかったのかもしれない。二人で新しい生活を始めるためには、必要な資金だと捉えている節すらあった。
五十代のダンディーな雰囲気を持ち合わせたスーツの似合う男性が、重々しく頭を下げていた姿を思い出す。央介は正直に、助かった、と呟きかけていた。
どう考えても、央介の収入だけで日芽香と暮らしていくのは難しかった。
由香里に対して感謝する気持ちが止まらないのは、そんな経緯がある。だとしても金持ちの道楽気分で同じような商売を続けていくことは難しい。
央介は自分の携帯電話を操作し、通話ボタンを押そうとしていた。
こんなことをするのは愚かだと思いながらも、生活のことを考えるとついやってしまう。
「もしもし、夜分遅くに大変申し訳ございません。山岸さんお久し振りです。高浦です。今お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、高浦さん、どうしました? こんな時間に……」
「折り入って相談がございまして」
「もしかして、由香里……さんの件ですか?」
「いいえ、山岸さんに直接相談したいことがありまして、ご連絡をさせていただいた次第です。メールなどだとどうしても伝わりづらいかと思いまして、こんな時間に申し訳ないと思いながら、ついお電話させていただきました」
その日、カフェ・モリムは客足が途絶えなかった。
珍しい外国人観光客らしき一団が開店早々にテーブル席を占拠してから、昼には馴染みの府川も顔を出した。夕方になると近くにある高校のカップルがやってきて、それを冷やかす同級生らしき女子二人組が混ざって騒がしくなった。
日芽香がいつも通りに帰ってきてから、日が一気に落ちていく。
最近すっかり暗くなるのが早くなってきたな、と央介が思っていると、店のドアがそっと開いた。
「いらっしゃいませ」
央介はいつも通りの第一声を発し、入ってきた客を見た。
「すみません、失礼いたします」
身体に合ったスリーピースのスーツを着こなしながらも、恐れ多そうに何度も頭を下げてカウンター席に近づいてきた。
「こちらこそすみません。わざわざ店に顔を出してくださって」
「お母様と、娘さんは?」
心配そうに階段がある方を見ている。央介は少し冗談を言いたくなった。
「あなたの姿を見つけたら、すぐに駆け下りてくるかもしれませんね」
「そんな」
本気で嫌がった表情を眺めながら、央介は自身のユーモアのなさを嘆きたくなる。
「大丈夫ですよ。下りてくることはありませんから」
正直、確証はなかった。ただ二人で夕食を作っている時間帯なので、余程のことがない限り下に来ることはないはずだ。
「そうですか……」
高級そうな腕時計に一度視線を落としてから、はあ、とため息を吐く音が店中に広がる。
カウンター席の端には先客がいた。ずっとヘッドホンをしながら、ノートのようなものにペンを走らせている青年だ。かれこれ一時間、一杯のコーヒーで粘ってそうしている。あくまでも空間を提供する店だから、央介は長居することに文句をつけない。でも、たった今やってきたばかりの来訪者からすれば、鬱陶しい存在なのかもしれない。二人きりにならないと話ができないと思っているはずだから。
その青年が立ち去るまでの約二十分間、コーヒーを注文して、ちびちびと飲み進めながら、時間が過ぎていくのを黙って待っていた。央介に日常会話を振るわけでもない。この場所をどれだけ居心地悪く感じているのか、言葉にしなくても十分に央介には伝わっていた。
ひたすらなにかを書いていた青年が会計を済まし、店から出ていくと、央介から、あのー、と話を切り出した。
「山岸さんは、この店についてどう思いますか?」
あえてとても漠然とした訊き方をした。会社の役員として資本主義の恩恵を十分に受けている人物が、問われたことをどう捉えてどう答えるのか、単純に知りたくなった。きっといい答えは返ってこないし、そもそも本音を言ってくれる可能性は低い。そう思っているはずなのに。
「一種類のメニューで最小限のサービスを維持するのなら、デリバリー販売とかで活路を見出すとか、いろいろやりようはあるかもしれませんね。あと季節によって売り上げに差が出る商品ですから、暑い時期に合わせた新メニューを限定的にでも用意するべきかと──」
課題点を次々と挙げていきながら、山岸は真剣な表情をしていた。
妻の元旦那が行う商売について、これほどまでに考えてくれているとは、央介はつゆとも思っていなかった。
「──仮にここが競争とはかけ離れている場所にあるのだとしても、現実問題、改革は必要かと思います。個人事業主はどんな業種でもハードルが高いです。ましてやこれから高校、大学を控えている娘さんがいることを考えると、本当はここを売り払って、それを元手にして学費などを工面し、サラリーマンとして二十万から三十万ほどを毎月安定して稼ぐことが得策でしょうね」
央介は、少し感動していた。わかりやすく具体的に現実を見せてくれる。
「山岸さんは本当に、真剣に考えてくださったんですね」
「そんなことはありません。資金提供をしたり、以前お支払いした慰謝料以上の援助をしたり、というのは無理です。だから、あくまでも意見しか伝えない無責任な立場なんですよ。でも、あの夜中に電話をかけてきた高浦さんの切羽詰まった声を、表面的にあしらうことなんてできませんでした。わたしみたいに安いプライドもなく、実直に娘さんと向き合おうとしてきたあなたを知るからこそ……こんなことを言っちゃうんでしょうね」
山岸はおかわりを要求した。そこでも六百五十円がかかってくる。対価は快く払うという雰囲気とその余裕を央介は心の底から羨んだ。
「仕事で優秀な山岸さんから見たら、どうしようもなく見えるんじゃないですか」
「わたしはとても出来の悪い社員でした。同期にどんどん追い抜かれていったものです。その差を埋めたのは、労働時間でした。時代遅れだとみんな笑うかもしれませんが、わたしは朝から晩まで、懸命に働きました。たぶんそれができたのは明確な目標があったからかもしれませんね。今は残業や労働時間に厳しい世の中です。それは同時に能力がないのに上を目指したい人間にとっては厳しいことなんです。限られた時間内に、今抱えている仕事をこなしていき、目まぐるしく変わる物事に対処していかなくてはならない。本当に残酷だと思います」
「ぼく……わたしは、ずっと楽をしたかったんです。今も一種類のメニューだけを提供するこの立場に甘んじているんです。だから、本当は、手放したくない。でもそうはいかないこともわかっているんです」
「どんな生き方も、幸せがついてくればいいんですが、それが難しい。みんな幸せを感じる範囲や事柄が違い過ぎますからね」
「甘いんでしょうか……わたしは」
「そうは思いませんよ。高浦さんが甘いなんてこれっぽっちも思いませんし、仮に甘いと感じたのだとしても、わたしは責めることができる立場じゃない。実際、自分自身への甘さが高浦さんや娘さんたちを大きく傷つけたんですから」
「あれは、自然なことだった気がします。大事に思う基準がもともとズレていたんですから」
「以前もお伝えしたかもしれませんが、寛大なんですね」
「いいえ、持っている基準が違うだけなんです。山岸さんのおかげで、こうした生活に飛び込めたという部分もありますから」
山岸は苦境から救い出してくれる存在になってはくれなかった。微妙な関係性が絡まり合う中で、互いになかなか吐き出せないものを出し合っただけだった。央介はそれでもよかったような気がした。
山岸は閉店時間の少し前に出ていった。おそらくもう二度と来てくれないかもしれない。央介は初めて客に対して特別扱いをしたくなっていた。
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