パパは自分の店をバズらせたくない

Jun Sakurai

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後編

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 次の日もまた朝から開店準備に取り掛かる。しかし央介は、ずっとこのお店の終わり方を頭の中で巡らせていた。朝早く挨拶を交わした日芽香や睦子にも伝えないまま、思考ばかりが一人歩きしていく。
 ただ日頃のルーティンに沿ってちゃんと身体は動いていた。まるで意志とは反して勝手にそうしているように。店内の掃除、カップ、ソーサー、スケール、コーヒーミルなどの商売道具の確認、店の前の掃除、通行人との挨拶。どれも自然にこなしていく。
 この生活が馴染んでいる。そう央介は確信した。
 次にこの店を完全に切り離して、新しい生活をすることを考える。これまでアルバイトとして雇われたり、派遣社員として働いたりした日々を思い浮かべる。あの時と同じような時間をこれから過ごしていくのか、とぐっと歯を噛みしめてしまう。
 二つの考えが交差していく。そして開店の時間を迎え、早々に客が入ってくる。「いらっしゃいませ」
 そこからなぜかどんどんと、日本語をまるで喋れない人々が入ってくる。どの人も、店内を次々と写真に収めていく。
 央介は拙い英語を喋り続ける。「ホットコーヒーオンリー、ホットコーヒーオンリー。シックスハンドレッドフィフティエン」
 どうしてこうなったのか理解できない。常連の女性がやってきたが、いつもと雰囲気が違うと一杯だけ飲んですぐに帰ってしまった。
 来店してくる外国人たちに訊ねたい気持ちが湧いてくるが、うまく伝えられる言語能力はない。英語についてはたぶん、日芽香のほうが喋れるはずだ。ずっと学校の勉強をサボってきて、学費を払えれば通えるような大学まで出たが、なにもかも身につかないまま大人になっていた。
 央介は、日本語がうまく通じない人々にコーヒーを淹れていくたび、悔やんだ。
 客の回転率は異常なまでに早かった。ほとんどコーヒーはおまけで、一杯分を払って、写真を撮影し、そして早々に帰っていく人ばかりだったからだ。
 そうして何人もの客をさばいていき、ようやく来客が途絶えた頃、日芽香が帰ってきた。
 入ってくると同時に日芽香は、自分の携帯電話の画面を央介に見せてくる。
 SNSの画面に一枚の写真。それはこの店内で撮ったもので、昨日来た外国人観光客らしき一団が笑顔で収まっている。
「パパ、どうして気づかなかったの? 昨日、有名なミュージシャンがこの店に来たんだよ」
 央介は日芽香のキラキラとした瞳を見た。その視線の先には、一過的な忙しさが過ぎ去って、がらんとしたカウンター席がある。
「でもあんまり意味なかったのかな? 今日も全然いないもんね」
 日芽香はがっかりとした様子で言った。
「いや、そんなことなくて……」ドアが開いた。「あっ、いらっしゃいませ」
 来店してきたのは、府川だった。
「日芽香ちゃん、こんにちは。あと、央介も」
 日芽香はぺこりと頭を下げ、ニコっと微笑んだ。
「いらっしゃいませ。空いている席にどうぞ。ホットコーヒーでよろしかったでしょうか?」
 日芽香が央介よりも丁寧な接客態度で案内する。
「うん、そうするよ。ありがとうね。日芽香ちゃんは今帰り?」
 府川は端の席に腰掛けながら言う。
「はい、そうです」
 いかにも大人が求める中学生らしい素直さを日芽香が振りまいていると、またしてもドアが開いた。今度は屈強な身体をした白人の三人組で、入るや否や英語でペラペラと央介に向かって話しかけてきた。
「いらっしゃいませ」
 とりあえず央介はお決まりのセリフを言った。三人組の言っていることはわからない。ジェスチャーでテーブル席を促し、にっこりとした表情を作って、英会話が難しいことを暗に伝えようとする。
「ホットコーヒーオンリー、ホットコーヒーオンリー。シックスハンドレッドフィフティエン」
 三人組は困惑した表情を見せていた。すると日芽香がカウンター内に入ってくる。府川とのやりとりを終えたようだ。
「ディスシートイズ──」
 日芽香は三人組になにかを説明し始めた。央介は最初の「この席は」という部分しか聞き取れなかった。おそらくこのままコーヒーを注文するはずだからと、府川の分も含め、コーヒーカップを四つ用意して準備に取り掛かる。
 日芽香と会話を終えた三人組は満足そうな表情をして、例に漏れず携帯電話で写真を撮り始めた。
「今日本に住んでいる海外のミュージシャンなんているんだな。それもこんなところに来るなんて」
 頬杖をついた府川が言った。
「英語わかるんですか?」
 央介はちょっと驚きながら、府川を見た。
「あれぐらいわかるだろう。先代はな、英語やらフランス語やらも達者だったんだぜ」
「知らなかったです」
「変わらない商売を続けるっていうのはな、それなりに隠れた努力があるもんだ。それもどんどん客は多様化してくるからな。先代の頃よりも、そうした意識がずっと大事なんだと思うぞ」
 うんうん、と頷きながら、央介はコーヒーを淹れていく。
 もしかすると店のシステムを変えたり閉店したりというよりも、自分自身の意識を変えていくことのほうが大事なのだろうか──央介はそんなことを考えた。
「どこをどう変えたら、変わらない商売ができますかね?」
「その匙加減は具体的にはわからんよ。もしわかっていたなら、おれがこの店を継いでいたさ。大事なのはやっぱり心の持ちようなんじゃねえかな」
 府川にいつものホットコーヒーを提供すると、カウンター内に残って三人組と会話し続けていた日芽香が央介に近づいてきた。
「前、ケンヤ、っていう人来てたじゃん」
「あーうん」
 央介は、システムエンジニアをしながらまだ音楽を捨てきれていない旧友の姿を思い浮かべた。
「あの人がさ、この店を紹介したんだって、海外の音楽業界では結構有名な人なんだね」
「えっ、システムエンジニアなんじゃないの?」
 央介は驚きでソーサーをひっくり返しそうになったが、なんとか持ち直し、三人組にコーヒーを提供する。
 央介と日芽香は営業スマイルを三人組に一瞬向けてから、また互いに目を合わせた。
「いろんなことをしているみたい。だからコネクションがあって、みたいな。今いる三人も音楽関係の人らしいし」
「すごいね。そんなこといちいち言わないところもね」
「めっちゃひけらかしているみたいで、実はそういうことを言わない人って卑怯な感じもするけどね」
「そう?」
「だって、意味深にやってきてさ、なんかいやらしいっていうかさ。まあお店を紹介してくれたことは嬉しいけどね」
「よっぽどお気に召さなかったんだね」
「だって、全然清潔感なかったじゃん」
 府川が、はははは、と笑った。親子の会話が耳に届いていたようだ。
「ここって店だけどさ、たまに親子のやりとりがあったり、この場所がそのまま残っていたり、なんだか実家に帰ってきた心地よさを感じることがあるんだよな」
 ボソッとこぼした府川の言葉が、央介にとって一番の誉め言葉のように思えた。
「まあ、わたしにとっては実家だからね。てか、パパはどう思うの?」
「店のこと? ケンヤのこと?」
「ケンヤのことだよ」
「見た目もこだわりを伝えているって感じがしていいと思ったよ。それに今って、どんな格好していてもいい時代なんじゃない?」
 日芽香が不機嫌そうに頬を膨らます。
「すごいことをしているのを言わないところは?」
「素直に、すごいって思うよ。堅実な技術職を手に入れてさ、社会に適応しながらも、自分の夢をきちんと維持し続けて、海外にまで関係性を広げているなんてね」
「でも、今って海外に繋がることって普通じゃない?」
「たしかにSNSを駆使すれば不可能なことじゃないかもしれないし、昔よりもずっとハードルは下がっているよね。でも、それを実践できる人って多くないじゃん。なかなか実行に移せないよ」
「央介もすごいっちゃすごいよな」
 府川がニコニコとしながら親子の会話に割り込んでくる。
「この店の後継者問題が出て、央介自身を取り巻く環境が変わって、っていうことが重なって引き継ぐことになったよな。条件が合致して今に至ったことも素敵で奇跡的なことだけれど、互いに実行に移したこと自体が素晴らしいと思うんだ。おれは自分の知らない業界に挑戦しようなんて、いろいろ理由をつけてやらないだろうしな」
「府川さんもすごいと思いますよ」日芽香が食器を拭きながら続ける。「だって、こんなパパのこといつも応援してくれているんだから」
「そうだな、おじさんもすごいんだな」
 日芽香と府川が笑い合っている。非難的な意見から、美しい肯定へ日芽香の言動が流れていく。そこに小さな成長が垣間見えた。央介は急に瞼が熱くなって顔を伏せてしまった。
 しばらくして外国人の三人が帰って、日芽香が二階に上がって、それから府川が帰っていく。
 央介が一人の時間はすぐに終わりを告げ、また新しい客が入ってくる。それから閉店時間までに何組かの客のためにコーヒーを注いでいった。
 二階に上がると、睦子がテレビを見ていた。日芽香は部屋に籠っていた。二人がそれぞれの世界にいるこの時間にようやく、央介の一人の時間が訪れる。
 朝から悩んでいたことをうまく思い出せず、いつものように央介は副業の準備を始めていた。データ収集の依頼がメールで届いている。少しでも生活費の足しになればとこなしていく。
 深刻で重大な悩みをどこかに置き去りにして、結局心地のいい場所に戻ってくる。
 そんな感覚を生み出しているこの空間を守っていきたいという気持ちだけが央介の中に残っていた。

 土曜日の、モリムが休みの日に家族三人でお昼の食事をしていると、日芽香が央介に訊いてきた。
「パパってさ、音楽やっていたんだから、ダンスに合った曲とかも詳しいんじゃない?」
 日芽香のダンス部は、中学校の選手権大会に出るようなことはない。
 夏休み時期のお祭り、十月下旬の文化祭、クリスマス時期に地域で行なわれるダンスの披露会。主にその三つが晴れ姿になる。公式大会に出なくても、遊び半分というわけではないそうだ。体育会系な雰囲気ではなく、生徒の自主性を尊重して曲や振り付けが決められていくらしい。そこにはもちろん彼女たちなりの真剣さがあるはずだ。しかし、央介は詳しい内情を知らない。
「えっと、ひめちゃんって、ヒップホップダンスをしているんだっけ?」
「ヒップホップダンス?」
「えっと、ヨー、ヨー、チェケ、みたいな」
「なにそれ? 違うってば。一年の頃見たじゃん。あんな感じ」
 央介は約一年ちょっと前の文化祭での日芽香を思い出そうとする。同じメロディーやリズムを繰り返すキャッチーな音楽に乗って、懸命に日芽香は身体を動かしていた。
 央介は真剣に音楽でプロを目指していたが、ダンスのことはまるでわからない。だから、ただ音楽がどうとかダンスの技術がうんぬんではなく、その動く姿ばかりに注目していただけだった。今、央介の目の前でチャーハンを頬張って、おいしそうな顔をする様子を見ているのと同じ感覚だ。
「ひめちゃん、すごくしっかり踊ってたよね」
「そうじゃないって、音楽もちゃんと聴いていたんでしょ?」
「あーあんまり思い出せないかも」
「世界的なアーティストとコラボしているような人と一緒に音楽やってたのに、なんでそうなるかな?」
「そういえば、ケンヤの紹介で外国人がたくさん来て繁盛したのも二日三日程度だったよね。やっぱり流行りが切り替わるスピードってめちゃくちゃ早いよね」
「話題を変えないで! 音楽の話をしてんの。二年生もね、どんな音楽で踊りたいかっていう案を出さなきゃいけなくなっちゃってさ。そんで、パパに相談してんの」
「うーん、韓国アイドルとかがやっている音楽でいいんじゃない」
「そういうのはさ、もう去年やったから、別の雰囲気のものがいいんじゃないかって話になっているわけ」
「パパに訊いてもあくまでもおじさんの意見になるしさ、たぶんうんちくもたくさん言っちゃうよ」
「質問に答えてくれればいいからさ。余計な知識のひけらかしとかいらないの」
 日芽香がなにかを質問してくることは多い。でもより詳しい説明や知識を伝えようとすると、もうほとんど聞いていないモードになる。合理的に情報を得たいだけなのだ。わかっていても央介は伝えようとしてしまう。親子で考え方も環境も世代も違うのだから、当たり前のことだ。そんなすれ違いすらも央介は、愛おしく思えた。
「どんな音楽でもダンスにはなると思うよ。ただ、みんながいいって思えるか思えないかの差があるだけじゃない」
「まーた、抽象的な言い方して」
「ほんとだって、人が求めているものを生み出すのって本当に難しいんだから。ひめちゃんたちダンス部だって、ただ自分たちがやりたいことをやるんじゃなくて、みんなに楽しんでもらいたいって気持ちがあって、ダンスするんでしょ?」
「まあ、そうなのかな? あんまり考えたことなかったかも」
「どうせ文化祭とかでやるならさ、そういうのも考えて踊る内容を決めてもいいかもね。パパはみんながどんな感じの踊りをしたいとか、求められているものがどうとか正確にわからないから、安易にアドバイスするのはよくないかも」
「はー、もう。……おかわり」
 多めに作ったチャーハンが見る見るうちに消えていく。テレビを見ながら黙々と食べている睦子によそった分はまだ半分しか減っていないのに、日芽香はもう三杯目だ。
 一日のカロリー消費量が多い若者が家計を圧迫しているのは事実だ。だとしても、ダイエットなどをあまり気にするそぶりも見せず、しっかりと食事をする姿を見せてくれていたら、不満などは湧いてこない。
 央介は空っぽになった皿にチャーハンを大盛にしてよそう。
「パパ、ありがとー」
 と言って、日芽香が受け取る。自分でやりなさい、ときついことは言えない。
 央介は自分の甘さを感じる。それは親子の考え方によるすれ違いよりもずっと深い問題なのかもしれない。
 そんなことを思いながら、グリーンピースとパラパラした米を奥歯で噛みしめる。なぜだかチャーハンから生み出されることがないはずの苦みが舌を刺激した。

 食事を終えると日芽香は出かけていった。睦子も学生時代の友人と会うのだと言って外出した。また一人の時間ができる。央介は身体を少しでも休めようとベッドに横になった。それでも落ち着かず、ついつい仰向けのまま携帯電話の画面を触ってしまう。
 ダンス動画を流す同業者、〈自営業 やめとけ〉という検索ワード、中学生が巻きこまれた事件の記事──心も身体も休まらない。むしろ頭の中が混乱していく。
 こうなったら携帯電話をどこかに隠してしまおう、と枕の下に押し込んでみる。すると、ブルブルと振動を感じた。無視したい気持ちはすぐに、日芽香に対しての心配によってかき消される。もしかすると、緊急で連絡をしてきたのでは、と画面を見た。案の定、日芽香からだった。
〈今日の夜、チキンはなしね。フライドチキン食べたから〉
 そんなことかよ、という感想と同時に、あんなに食べてまだ胃袋に入るのかよ、と我が子の食欲に驚愕した。
〈はい。わかりましたよ。気をつけて帰ってきてね〉
 誰といるの? どこにいるの? 何時に帰ってくるの? 
 訊きたいことは盛りだくさんだ。だけどあまり干渉すると嫌がる年代でもある。それ以上のことは送らなかった。こうしてまだこまめに連絡をくれるだけマシなのだから。
 央介はほんの少し幸せな気持ちになって目を閉じた。でも徐々に黒い雲が心を覆っていく。お小遣いを与えているとはいえ、フライドチキンを買えるほどのお金を所持していたのだろうか、と。日芽香がどのような形で決して多くないお小遣いをやりくりしているか、央介は知らない。
 基本的には央介は娘のことを信じている。だから気にしないようにと、そのまま目を閉じ続けていた。
 央介は、身体をビクッとさせて起きた。いつの間にか眠っていた。台所からはガサガサという音が聞こえる。寝ぼけていた央介は周囲を見回し、携帯電話を探した。窓の外はすっかり暗くなっている。食事は央介が用意するつもりだった。携帯電話が枕の下敷きになっていることを思い出す。すぐに取り出して時刻を確認する。十七時五十五分。
「ごめーん、今からやるから」
 央介は部屋から出て、玄関に向かう。そこには、睦子が買い物袋から牛乳を取り出す姿があった。
「あー、チキンが安かったから買ってきたの。出来合いだけどね。いつも忙しいんだから、ちょっと手抜きしようね」
「いや、ひめちゃんが外でチキンを食べたんだって、だからチキン以外がいいって言ってて……あれ、ひめちゃんまだ帰っていないの?」
「うん、明日は日曜日だしさ、もしかすると、どこかでお泊りでもするんじゃない?」
「それだったらさ、連絡ぐらいくれるでしょ」
央介はつい声を荒げてしまった。
「まあ、まあ、そのうち帰ってくるって」
「あれから連絡も来ていないし、どうしたのかな?」
 日芽香は遅くても十七時頃には家に帰ってくる。これまで十八時を過ぎることなんてなかった。
 睦子の、呑気な態度にイラつきながら、電話をかける。
 ──出ない。
 メッセージを残す。〈ひめちゃん、今どこ? そろそろ帰ってこない?〉
 ──既読にならない。
「おれさ、ちょっと外見てくるわ。あと、ひめちゃん用の夜ご飯買ってくる。チキンはおれたちで食べよ」
 睦子の、もう少し待ってみたら、という言葉を無視して、央介は椅子にかけていたジャージを羽織り、一階にバタバタと下りていく。
 最近は日が暮れると寒くなってきた。日芽香が長袖のTシャツしか着ていなかったことを思い出し、心配する。
 駅の方へと歩き出し、その足はどんどん駆け足になっていく。
 日芽香がどこで遊ぶのかはわからない。央介は自分の中学生時代を思い出し、懸命に想像した。友達の家にいる可能性もある。しかし、もし中学生が遊ぶのなら駅周辺にいる可能性が高い。大型商業施設などはないが、マクドナルドやゲームセンターの類いはあるのだから。
 くどいと思われるかもしれない、と躊躇いながらも、追加でメッセージを送る。
〈ひめちゃん、もう帰っておいで。お返事くれないかな?〉
 家を出る前に送った分も既読になっていない。
 息が荒くなる。胸の鼓動が高鳴る。運動不足な三十代の身体ではあるが、数メートルの駆け足で悲鳴をあげることはない。
 間違いなく、日芽香になにかあったらどうしよう、という気持ちによるものだ。
 駅前に来た。マクドナルドの前は高校生ぐらいの年代の子供たちがいる。店の中に入って見回す。数多くの店員が忙しなく動き、家族連れや老人などが注文したものを待っていたり、テーブル席に腰掛けたりしている。そこに日芽香はいない。
 央介は外に出て、今度はゲームセンターに向かった。もう子供だけだと入場できない時間帯ではあるが、日芽香は大人っぽく見えるため、注意されることなく滞在しているかもしれない。UFOキャッチャーが多く並ぶコーナーをくまなく探す。携帯電話の画面を確認する。どちらも成果はない。
 日芽香と変わらない年代の女の子が、両親と思われる中年の男女と一緒に楽しげに会話している姿を見た。
 やはり親に非があるような気がしてくる。思春期真っ只中なのだから、日芽香が遅くなることは健全な証なのだと言い聞かせながらも、央介は自分を責めていった。
 もしも平日の夜や日曜日をしっかり休めたのなら、こんなすれ違いは生まれなかったのかもしれない、と。
 どんどん「もしも」が重なっていく。もしも母親がいて、もしも父親が普通の仕事をしていて、もしも子供が親の仕事についてあれこれ考える必要がなかったのなら──。
 央介がゲームセンターの片隅で呆然としていると、携帯電話が震えた。
 それは睦子からの着信だった。
「ひめちゃん帰ってきたよ。早くおうちゃんも帰っておいで」
 安心感とは違う涙が、央介の頬を伝っていた。

 日芽香は、二階に上がってきた央介の姿を見て、えっ、と驚きの声を上げ、すぐに頭を下げた。
「ごめんね。パパ。ほかのね、喫茶店とか巡ってみてね、どんなお店がどんな工夫をしているのか見ておこうって思って、それで……」
「ううん、パパも悪い。たぶん、パパが悪い」
 ぎゅっと昔みたいに抱きしめたい衝動を抑えながら、央介は自分のズボンを掴んだ。
「目が真っ赤になっちゃったね、顔洗っておいで。あと、ひめちゃん、ごめんね。夜もまたチキンになりそう」
 睦子がやさしく言った。
「いいよ。うん」
 日芽香はあえて明るく振る舞っているようだった。
 バシャバシャと顔を洗いながら、央介は考えた。日芽香が一人で店をどうすればいいのか研究し行動していた事実を、どう受け止め、どう返せばいいのかと。
 央介はズルズルと問題解決を先送りにして、結局いつもと変わらない生活を続けていただけだ。要するに事実から逃げている。前々からわかっていたことだけれども、そのことを突きつけられた気がした。
「パパ、ちょっといい?」
 央介の背中に、日芽香の遠慮がちな声が届いた。
 顔をしっかりと拭いてから、ニコっと央介は笑いかける。
「どうしたの? 名案でも思いついたの?」
「パパは一体どうしたいの?」
「うーん、できればこのままなにも変わらずにやっていきたいって思っている。だから、SNSとかに載せてほしくないって言ってたんだよ。隠れ家みたいな雰囲気で、来てもらう人に平等に接して、一つの商品を出して、ただ特別でもなんでもないような空間を提供したい。現実的なことじゃないし、お金のことはどうしても気になるんだけどね」
 央介は思いついたことを、ずらっと並べるように挙げていった。
 日芽香は少し黙ってから、なにかを決意したように頷いた。
「わたしにさ、できることってある? パパが具体的に言ってくれればさ、できる限りのことなら協力するよ。どうすればいいのか、正直わかんないけどさ」
 こんなやりとりは何度もしてきた。央介は前に進むことなく、毎日が過ぎていき、ただただ日芽香だけが成長し続けている。
「もし、この店を売るって言ったら、どう思う?」
 日芽香がすーっと息を吸って、顔を横に逸らした。
「わたしは嫌だな。刺激がなくて退屈そうな毎日なのに、パパはなんだかんだで充実しているっぽいからさ。うん、やっぱりモリムを手放したら、悲しいよ。好きなものとか、続けられるものなんて、そう簡単に手に入れられない世界なんだからさ」
 せっかく顔を洗ったのに、と思いながら央介は手で顔を覆った。
 この子のためなら、おれはなんでもできる。
 央介は改めて深く思った。いくら思っても、全然足りないぐらいに。

 ある程度人が来る状態を維持すれば、自然と収益は見込める。家族三人でも十分に生活していくことができる。
 そう央介が判断して、モリムの先代に相談をしたのは、父の死がきっかけだった。
 人はとても簡単に死んでしまう。身体が丈夫で虫歯もなく、毎朝サイクリングをしていたのに、その終わり方はあっけなかった。
 長生きするためにとタバコも酒もやめ、頼りない息子を援助し、孫に不自由のない生活を送らせようとしていた。だから個人事業主として働き続けるつもりだった。そんな人だった。
 四年前のある朝早くの出来事だった。
 央介はいくつも渡り歩いてきた派遣先の一つへ行く準備をしながら、まだ小学生だった日芽香のために朝食を作る。二つのパートを掛け持ちしていた睦子はぐっすりと眠っていた。
 央介は卵焼きを作りながら、そういえば、まだ帰ってこないな、という程度にしか考えていなかった。遅くなろうとも心配することはなく、いつもの朝を過ごしていた。
 最初に電話が鳴ったのは、睦子の携帯電話だったそうだ。しかし、寝ていて着信があったことに気づくことはなかった。
 央介の携帯電話が鳴った。知らない電話番号が表示される。ちょうど、日芽香が起きてきて、「おはよー」と声をかけてきたときだった。
「ああ、おはよう。一人で起きれたね。もう少し待っててね」と声をかけ、火を止める。それから鳴り続ける携帯電話を手に取った。
「すみません、高浦浩一郎さんのご家族の電話でお間違いなかったでしょうか?」
「ああ、はい。浩一郎はわたしの父ですが」
「先ほど、病院に搬送されましたので、×××病院まで来てください」
「えっ、父が?」
 直接病院から電話がかかってきても、央介は、どうして父親が運ばれたのか、見当がつかなかった。交通事故に遭うなんてことはつゆほども思わなかったのだ。
 とりあえず日芽香に食事を与え、睦子に声をかけた。央介がもたもたとそんなことをしている間に、浩一郎は亡くなっていた。
 人はなにか大きなきっかけがないと、動き出すことはできない。府川が央介のことを褒めたが、単純に追い込まれただけだった。そして今、また別の意味での佳境を迎えている。
 日芽香が少し遅く帰ってきた日の夜、なぜか央介は浩一郎の死を思い出していた。
 副業として深夜に行う作業が捗らない。このままだと提出期限に間に合わず、仕事を完了できない。焦燥感に駆られるほど、集中力は遠ざかっていく。
 永遠なんてものはない。ノウハウ通りにいかないことも多い。楽をすることだって難しい。
 そんな世の中で、先代が考えに考えて築いたシステムに乗っかって生きてきた。
 先代が築いたものを維持していくために、自ら動き出さなくてはならない。
 コーヒー豆の卸業者として大ベテランの平井が引退を考えている今、明日にも根幹が揺らいてしまう可能性があった。最近は減収の一途を辿っている。やることをやっていかなくてはならない。
 家族が寝静まった深夜二時、央介は自分の顔をパンパンと叩き、気合を入れ直す。
 この仕事をまずは片づける。信頼を失ってはいけない。
 そうして朝を迎えようとしていた。捗らないながらも、地味で細かい作業をコツコツと続け、なんとか納品を完了させることができた。
 これから日芽香のために朝食を用意して、開店の準備をしなくてはならない。仮眠をとる時間は作れそうになかった。
 頭がふらっとした。央介は浩一郎のように体力にも健康にも自信があるわけではない。ただこの日々を続けていかなくてはならない。
 パパはなんだかんだで充実しているっぽいからさ、と日芽香が言ったことを思い出す。
 央介は部屋から出て、台所の前に立つ。まだ睦子も日芽香も起きてきていない。
 やっぱり先に顔を洗おうと、洗面台の前に立った。
 央介には、自分の顔が狭いところにあるように見えていた。視界がどんどん狭くなっていく。寝不足だから仕方がないだろう、と頭をブルブルと振って、目を見開いた。
 顔を洗って、歯を磨いていると、ガサゴソ、と日芽香の部屋から物音が聞こえてきた。それからしばらくして睦子の部屋からも物音が聞こえてきた。
 変調は一時的なものだったらしい。もう頭がふらっとすることもないし、視界もすぐ元に戻った。
 大丈夫、まだまだ続けていける。
 央介は、そう自分に言い聞かせてから、食パンを二枚トースターに入れて、カレンダーを見た。次の月曜日、つまり明日には平井が来ることが記されている。
 朝からずっと、はっきりとしない曇り空が色合いをほとんど変えることなく、空に留まり続けている。時計の短針は十二時を示す付近にあった。
 客が来ない日曜日は、じんわりじんわりと進んでいく。
 店のカウンターでうとうとしているわけにはいかない。央介はひたすら眠気を覚ますために掃除を繰り返す。もし誰かがふとした瞬間に来てもいいように、準備を怠ってはいけない。
 ただそれでも、ぼーっとしてしまい、時間が過ぎてしまうこともある。
 眠くてではない。深く考え込む時間があるとついついぼーっとしてしまうのだ。
 店の隅に行き、サンドイッチを頬張って、いつもよりも長く咀嚼した。まるで定年を過ぎた人のスローライフみたいだな、と央介は思った。
 先代はそのつもりでこの店を開業した。一般企業の社員として働いて、早期にリタイアして、安住の地を求めた。結婚をしても子供はいなくて、妻が浪費家でも株や投資でコツコツと溜めていた。だから資金を確保してこの土地を買い、開業を実現させることができたのだ。でも徐々に身体が言うことを効かなくなった。その妻はモリムを手放したくなかったが、夫婦二人でも店を切り盛りするのは難しいと考えた。悩みに悩んで、若い誰かに託す形で店を継承することが最善だという結論に至った。
 改めて引き継いだ人間と、引き継がれた人間を比べてみる。共通点なんてものはさほどないと央介には思えてくる。
 昼下がりになってモリムのドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
 着物姿の女性が入ってくる。先代の妻であった和香子だった。央介は目を見開く。
「今日は空いているんですね?」
「はい」
「そんな日もあるのよね」
「いつものでよろしかったでしょうか?」
「ええ、お願いしようかしら」
 以前連呼していた「ええ」よりもずっとやわらかい声色だった。
 どんなことを言ってくるのか、という緊張感が汗になって背中を伝う。
 それでも央介は、いつもと変わらない手つきでコーヒーを用意し始めた。
「もしかして央介さんは、わたしのことを株主みたいな存在だと思っています?」
 急な質問に央介は戸惑う。しかし、手先はいつものように動いていた。
「株主……そうかもしれません。個人の店ですけど、お客さんも、家族も、支えて下さる方もみんな、株主みたいなものなんじゃないでしょうか」
「あの人はね、株主の顔色ばかり考えるような企業なんて、ダメだって言ってたっけな」
「そうだったんですね。株や投資で資金を作っていたと伺っていたんですけど……お待たせいたしました」
 和香子はいつものようにソーサーを持ち上げて、音もたてずにコーヒーを飲む。そしてカップから唇を離すと、噴き出すように笑い出す。
「わたしが飲むと、いつも真剣な眼差しを送ってくるわよね」
「そう感じさせたのなら、申し訳ないです」
 央介は目を逸らす。
「本当はコーヒーって、ソーサーを持ち上げて飲まないの。紅茶は持つんですけどね」
「なんか、聞いたことがあります」
「知っていたんでしょ。だから凝視してしまう」
「いいえ、単純に、味が変わっているとか、先代と違うと思われたくなくて、見つめてしまうんです」
「ずっと、マナー違反を咎めているのかと思っていたの」
「みんな、一杯のコーヒーの前では平等です。どんな飲み方をしてもいいし、最悪、飲まなくてもいいと思っているぐらいなんですから」
「あの人に感化されたの?」
「うーん、どちらかというと、無関心なのかもしれません。先代によって作られたこだわりに沿って、ただ店員を演じているだけだからこそ、自分でも居心地がいいように思えるのかもしれません」
「そういう楽さはあるよね」
「個性とか、やりたいこととか、正直どうでもいいんです。ただ、娘のことを考えているんです。娘が心配な自分のことを考えているんです」
「だから、前、あんなことを言いに来た」
「本当の気持ちなんてわからないです。もっと金儲けをしたいと思っている側面もあるし、この生活を続けたい側面もある。ただ現実的な問題に合わせて、方向性を考えていくだけなんです」
「娘さんは、この店を変えたがっているの?」
「嬉しいことに、わたしのことをなにより考えてくれているみたいです。充実しているように見えているらしくて……まあ、本心で言ってくれたのかどうか、わからないけど」
「どちらにしても愛よね。そして央介さんも、本当の意味でこの店が好きになってくれている」
「そうですね、はい」
「とにかく、わたしのことを気にしないで。どんなにこの店が変わっても、あなたの意見を尊重したいから」
 央介はようやく和香子の本音を聞き出せた気がした。それは和香子が知らないところで悩みに悩んで出したものなのかもしれない。
「いつもありがとうございます」
「ええ、また来るわ」
 その日の客は、和香子だけだった。それでも央介にとっては十分に思えた。

 朝、央介は目を覚ます。昨晩も遅くまで副業をしていて、四時間ぐらいしか寝ていない。
 ベッドから身体をなんとか起こした。いつも以上に重たい感じがした。
 この頃は体調を崩すことなく、日々を過ごしていた。子供の頃はよく体調を崩していたし、大学時代もよく寝込むことがあった。
 熱や頭痛と無縁になったのは、日芽香が生まれてからなのか、モリムを引き継いでからなのか、央介ははっきり思い出せない。
 どちらにせよ、責任感が芽生えたことが心や身体に変化を与えているように感じる。ただ、もうお金よりも先に身体が限界を迎えているのかもしれない。ダメかもしれない──央介は弱気になりながら、一旦ベッドに腰掛ける。
 平井が来る。大事な話をしなくてはならない。どちらにしても今日は休めない。
 央介は、ゆっくりと息を整えて、腰を上げた。
 部屋の外ではガサガサと音がしていた。日芽香の部活の朝練があることを思い出す。
「ひめちゃん、おはよう」
「ああ、パパ。おはよ」
 日芽香は昨晩に炊いた米を、あつ、あつ、と言いながら、覚束ない手つきで丸めようとしている。おにぎりを作ろうとしているようだが、しっかりと握れていないようだった。
「ひめちゃん、一緒にやろ」
「今日はわたしが朝ごはん用意するから、もうちょっと寝てていいよ」
「えー、パパも手伝いたいよ」
 央介はあえて甘えたような声を出したが、日芽香は真剣な眼差しを向けてきた。
「ううん、ダメ」
「なんで?」
「パパ、顔色が悪く見えるから、ダメ」
 日芽香は、はっきりと言いきった。
 傍から見ても体調不良であることがすぐわかる様子なのだと知らされ、央介はショックを受ける。客商売なのに、具合が悪そうだと最悪だ。
「パパ、熱測って」
「うん」
「あと、病院行って」
「休めないよ。今日、平井さん来るし」
「身体が一番大事なんだよ」
「だけどさ」
「いいから体温計を取って測って。パパはずっと休んでいないんだから、たまには休みなさい。先代だってしょっちゅう風邪ひいて休んでたらしいじゃん」
「しゅ、収益が」
「パパが本格的に倒れちゃったら、もっと赤字になるの。気合とか根性とか、昭和のおじさんみたいな考えは一旦捨てて」
「はい、わかりました」
 体温計を脇に挟む。すぐにピピピと音が鳴る。三十六度ちょうど。熱はない。
 日芽香はしっかり握れていないおむすびをお皿に並べながら、しきりに央介の様子を気にしている。
「ひめちゃん、ああ、おうちゃん、おはよう」
 睦子が起きてきた。
「おはよ。むーちゃん、今日お仕事? パパが体調悪そう」
「あら、じゃあ休みなさい」
「顔色悪く見えるよね?」
「いつもクマを作ってるからよくわかんないや」
 睦子の発言に央介はさらにショックを受ける。目のクマなんて気にしたこともなかった。
「わたし、今日学校休んでモリムで働こっかな?」
「ひめちゃんは学校へ行きなさいね」
 睦子と央介が同時に言った。日芽香は鼻をしかめ、唇をツンとさせた。
 もし日芽香が体調を崩したのなら、央介は店を休んで病院に付き添う。過去には、看病のために二度ほどモリムを休みにしたことがある。でも今回は、央介自身の問題だ。
「とにかく心配しないで。もし無理そうなら午後には休むから、ね?」
 日芽香の握り切れていないおむすびを頬張って、安心してもらえるようにと央介は取り繕った。
「まあ、もしなんかあったら連絡してきて。わたしが午後休むから」
 と睦子が言うと、日芽香は、仕方ないな、という雰囲気で頷き、階段を下りていった。
 平井が来たのは、いつも通り開店してすぐの時間だった。
 黒い車を店の前に停めて、奥までコーヒー豆を運んでくれる。
「いつもありがとうございます」と声をかけながら、央介は本当に訊きたいことに触れる。
「以前、ご自身の進退について、少しお話しいただきましたよね?」
「ああ、はい」
 太い眉毛を八の字にして、平井は笑う。その顔はいつも感情の動きによって生み出されている感じがしない。反射的に同意する際に癖で微笑むという習性が自然と出たという感じだ。つまり、平井の笑顔は常に業務的なものとして央介には映っている。
「もしも、平井さんが卸の仕事をお辞めになった場合なのですが……」
「なんでしょう」
「誰かにその、お仕事を継承されたり、引き継いだりということは考えていらっしゃるのでしょうか?」
 平井の顔が若干強張った。
「いいえ、わたしはわたしなりに社会にお役に立てるようにと思ってやってきました。しかし、そんな考えを押しつけるつもりは毛頭ございません。自分の持つ信念が、誰かに共感してもらえるものだとは思っていないからです」
「人のためと思ってやってきた、というお気持ちがそうさせるのですか?」
「一番残酷なことは誰かに強要することです。実際、わたしの仕事を引き継ぎたいと名乗り出てくれる人は現れていません。さすれば、老兵は死なずただ去るのみなのです」
「あなたのおかげでとても助かっています。平井さんがいらっしゃらなければ、たぶん、この店を続けていくことは難しいと思っています」
 央介は本音をぶつけた。平井は、わかっている、と理解しているかのように頷いた。
「そうすれば、別の形で社会に貢献をすることを考えていくべきだと思います。正直言うと、この店の評判は梶原さんの頃から落ちています。経営状況や支出を考えても、梶原さん夫妻の二人暮らしと、あなたの三人暮らしでは負担の差が違います。よくここまで店を続けてこられたな、と思っているぐらいなんです。だから、別の道、については互いに考えていくべきなのかもしれませんね」
 心が左右に揺さぶられる。央介は自分の意志がわからなくなる。そして気がどんどん遠くなっていき、視界が暗くなっていく。
「大丈夫ですか! ちょ」
 平井の声が途切れた。央介は自分がなにを考えていたのかもわからなくなりそうだった。

 梶原和久が倒れた場所もモリムだった。
 ちょうど央介が引き継いで一年経った頃だった。
 経営権を移してからも、一か月ほどは央介のために無償で手伝いに来た。
 よしこれで大丈夫だ、と判断してからは、客として一か月に一度のペースで顔を出すようになった。
 運転免許証を返納し、病院通いが増えた梶原は、いつも来るときにタクシーを利用していた。店のすぐ前に停めてもらい、できるだけ自分で歩く距離を減らそうとしていた。
 二、三歩、なんとか足を前に動かし、店のドアを開ける。その姿を見ると、央介はつい駆け寄っていきたくなったが、梶原は助けてもらうことを嫌がった。
 どんどん顔色は土色になっていき、歩くのもぎこちなくなったが、モリムに入ると生命力が湧き上がったかのように元気になる。
「いらっしゃいませ」
 梶原の第一声は、いつも同じセリフだった。
「央介さん、コーヒーをくださいな」
 先代が来ても央介は、特別な接客をすることはない。いつもと変わらないコーヒーをただ提供するだけだ。そして何気ない会話をする。仕事の話はほとんどしない。話題の大半は日芽香のことだった。
「ひめちゃんは、まだ帰ってこないのかい」
 平日の真昼にやってきてさみしそうにそうつぶやく梶原の姿を見て、なぜか央介はかわいくも悲しくも感じた。
 もしかすると店を持つよりも、梶原が求めていたのは、子供だったのかもと思ったのだ。梶原にとっても、日芽香は未来だったのかもしれない。
 梶原はこんなことをひとりごちた。
「この店をひめちゃんが継いでくれたら最高なんだけどな……まあ、彼女の人生を強制することなんて、この店が潰れる以上に嫌なことなんだけどな」
 コーヒーを飲み終えた梶原は、自分がデザインしたカウンターを抱きしめるように、突っ伏して意識を失った。それは央介が少し目を離している間に起きたことだった。
 それから一週間ほど、病院のベッドでゆっくりと眠るように過ごし、梶原は静かに息を引き取った。

 白い空間の中にぽつりと一人でいる。
 央介が目を覚ましたとき、そんな感覚がした。
 腕に点滴の針が刺さっているのに気づいて、ようやく病院に運ばれたのだとわかった。
「パパ、起きた?」
 日芽香がすぐそばにいた。大人っぽくなってきた顔立ちが、いつもより幼く見えた。
「う、うん」
「よかった。お医者さんがね、過労だって」
「そっか」
 睦子が女性の看護師と一緒に近づいてくる。
「ああ、心配したよ」
 と言いながら、睦子がバッグから央介の下着やジャージを取り出す。
「少し入院したほうがいいって、お医者さんが言っていたよ。この際だから一週間ぐらい休んでもいいんじゃないかな」
 睦子の言葉を受け、央介は笑いながら首を横に振った。
「いや、一週間も穴を開けるのはダメでしょ」
「もしも、このペースで働いていたらさ、たぶん難しいんじゃないかなって、思った。商売をしているのに、ずっと貯金を切り崩していかなきゃならないなんて、やっぱり最初からおかしかったんだよ。それに副業もやってさ、働いても働いてもって感じだったでしょ」
 ぼそぼそと睦子が言った。日芽香はしょんぼりとした顔をしながら小さく頷く。
 央介は言い返せなかった。窓から差し込む日差しを見て、モリムの行く末を考える。どちらにせよ最終的に決めるのは自分なのだ、と心に重いものを感じて、窓から目を背けた。
「誰か、あのお店を引き継いでくれる人はいないかな?」
 日芽香と睦子は黙って俯いてしまった。央介がなんとか絞り出した言葉が虚しく病室に響くだけだった。
 入院中は検査などを行いながらも、基本的には十分な睡眠と規則正しい食生活を心掛けながら過ごすことになった。
 央介がやや栄養失調気味だと診断され、睦子は、母親のわたしがちゃんと食事を摂らせなきゃいけなかったのに、と自分を責めた。日芽香も、全然食べていないことは気づいていたのに、と後悔していた。央介は、むしろ二人がいるからここまで頑張れているんだよ、と慰めた。
 モリムの看板のそばに、『店主が体調不良のため、しばらくお休みさせていただきます』と書いた貼り紙をつけてくれたらしい。
 これで一旦は大丈夫だと感じた央介は、日芽香と睦子に、毎日お見舞いに来なくていいよ、と伝えた。
 二人には二人の生活がある。倒れてしまったときにわざわざ学校や仕事場を抜け出してきてくれた。これ以上大切な人たちの負担になりたくない。ただでさえ入院費がかかるというのだから。
 それに央介は今までずっとなかった孤独の時間を欲していた。一人でゆっくり物事を考える時間がずっとなかった。でも病院のベッドでならそれができそうだった。
 病室から日芽香と睦子が出ていき、一人きりになった。
 最初にモリムがこのまま忘れ去られることを考えた。音楽をやっていた頃はコネクションを広げようと多くの人と会っていた。ただ日芽香が生まれてからすっかり価値観が変わっていった。今は常連でもカウンター越しの会話以外で付き合いがある人はあまりいない。地元の行事に参加することもあるが、正直お店以外での付き合い自体が好きじゃなかった。昔してきたことの反動と日芽香の存在により、家族以外への無関心に至っている。
 つまりは、希薄な関係しか築いていないため、店がなければつながりがほとんどない。入院していることも知らないだろう。モリムが休みでも困る常連はいないはずだ。そうして自然と店を畳むことになっても、誰も気にしないし、日芽香も理解してくれるかもしれない。
 このままフェードアウトかな、と思うと、少し気が楽になり、同時に日芽香の学費を心配した。まあ、お金は働き方を変えればなんとかなるだろう、と央介は自分に言い聞かせる。
 そんなふうにして、少しずつ心の中に引っかかっているものを取り除いていこうとした。
 なのに、入院生活二日目から、事態が変わってきた。

 午前中は検査があり、少しバタバタしていた。
 こうした検査もまた別料金がかかり、退院の日に支払う金額に加算されていく。労災保険などに加入していないため、直接的な負担が大きくなる。
 央介は、血液検査などを行うたびに、頭の中にあるそろばんを弾いた。モリムを再開する準備に取り掛かるのではなく、手っ取り早くお金を得る手段を考えた。
 目の前にいる医師の話が、右から左へと抜けていく。
 病室は当然個室ではなく、いつも誰かいる。でも検査のとき以外は、ほとんどみんなカーテンで仕切られたところに閉じこもっている。
 央介は、どんな人と一緒なのかいちいち気にしない。
 みんな静かにしている。干渉してくることはない。食事の時間も一人で、健康のために作られた味が薄い食事を、それぞれ最小限の音だけを出して胃袋に入れていく。
 十三時前に昼食を終え、また央介が一人の時間を過ごしていこうとしたとき、ゆっくりと誰かが病室に入ってくる音がした。
 央介は同じ病室の人たちに倣って、仕切りのカーテンを閉めっぱなしにしていた。また医師か看護師が来たのだろう、と思っていると、央介のスペースを囲っているカーテンが勢いよく開いた。
「おい、央介、大丈夫か?」
 そこには府川がいた。しわくちゃでホクロとシミだらけな顔から溢れる心配そうな表情。モリムの店内以外で会う府川から、央介はなぜか慈悲深さを感じた。
「府川さん、どうして?」
「平井さんに聞いたんだよ。央介が倒れちまったってな。そんで、おまえのお母様から入院先を聞いてさ……ったく無理しやがって。バカやろう!」
「すみません、ご心配をおかけして」
「いいか。モリムはたしかに大事だ。でもな、そんなことよりも大事なことがあるだろ。健康だよ。な、そうだろう」
「申し訳ないです」
「謝ってほしいわけじゃねえんだ。ただ、ただな……」
 府川は俯きながら、鼻をすすった。
「府川さん……」
「心配しているって伝えたいだけなんだよ。本当にそれだけなんだ。元気になってほしくてな、今日は朝からなんにも手につかなかったぜ、ちきしょうめ」
 そのあと、どこで聞きつけたのか、いつも釣りを請求しない二人組が病室に現れた。
 定年退職後、天下り先で勤務をしていたが今年の四月に腰を痛めて退職した男性。そして、長年連れ添った妻から離婚を突きつけられて、なんとか穏便に済ませたいと考えている男性。それぞれがモリムの外で初めて、央介に向けて語りかけてきた。
「あそこでさ、好き勝手言えるのが楽しみなんだ」
「また、元気になってさ、店開けてくれよな」
 次に現れたのは、今年七十五歳になるという常連さんだった。年齢相応に白髪で、ピンクがかった銀縁メガネをつけている。今日は赤いジャケットに黄色いバッグという相変わらず、全身が鮮やかな装いだ。
 その後ろからぞろぞろと、レインボーカラーの髪型をした女性やデニムジャケットを羽織ったヒッピースタイルの女性がやってきた。病院とフェス会場を間違えたかのような違和感を放ちながら、「失礼するわね」を連呼し、央介のベッドを囲んでいった。
「まだまだあなたは若くて可能性があるんだからね。だから今はしっかりと休むの、わかったね! これからどんどん評価も上げて、みんなに知ってもらわなきゃいけないんだから」
「とにかく心配したのよ。大事に至らなくてよかったね。また遊びに行くし、もっと友達も紹介するから、頑張るのよ」
「あなた、いい意味で頑固だから倒れちゃうのよ。もっと肩の力を抜いて生きればいいのよ。ピース」
 それぞれがそんな言葉を残して、長居せずに立ち去っていった。
 続々と常連さんたちが訪れてくる。あまり店には訪れない近所の人も心配して来てくれた。央介はまるで身体が休まらないし、一人になれなかった。
 央介は、一体なんなんだ、と思いながら「お見舞い客」たちの応対を続けていた。それに、毎日こんなに人が来たら、たぶんそれこそすぐにまた過労で倒れてしまうとも感じてしまう。
 ただ不思議と嫌な気はしない。
 夕方になると、日芽香がやってきた。
「ひめちゃん、ありがと。でもね、毎日お見舞いに来なくていいんだよ」
 制服姿の日芽香を見ると、つい央介はそんなことを言ってしまった。
「だって心配じゃん」日芽香の視線が央介から横に逸れていき、その目を見開いた。「てか、なにこれ?」
 日芽香の見つめる先には、色とりどりのブリザーブドフラワーがあり、焼き菓子や雑誌なども一緒に置かれていた。全部、今日やってきた人たちが置いていったお見舞いの品だった。
「パパって、こんなにお友達いたの?」
「うーん、たぶんむーちゃんが府川さんにいろいろ訊かれて、入院したことを伝えたからかも……SNSとかで一気に拡散したわけじゃないんでしょ?」
「わたしも、一応、投稿しちゃった」
「ひめちゃーん」
「あと、ママにも一応、ね」
「ママにも?」
 央介のベッドを囲う仕切りのカーテンが少し揺れた。日芽香が後ろを振り返る。
「あっ! ママ……」
 そっと顔を覗かせていた由香里が苦々しく笑った。
「ごめん、前もって連絡すればよかった」
 由香里が申し訳なさそうに小さい声で言うと、日芽香は自分の携帯電話を取り出して、壁側に寄った。
「いや、まあ、いいよ。ありがとう」
「とりあえず、ゆっくり休んでね。あと……」
 由香里がハンドバッグからなにかを取り出そうとして、やめた。その視線もまた、今日お見舞いにやってきた人々が置いていったものに向いていた。
「なんか気遣わせてしまったみたいでさ」
「融通が利かなくて、一つのことしか見えていなくて、どことなくまっすぐで──」
「なに?」
「ずっと変わらないね。いい意味でも、悪い意味でも。だから、なんだかんだで、誰かに好かれ続けるんだろうね」
「えっ、そう? 自分ではすごく変わっていった気がするけど」
「ううん、子供のまんまなんだよ。音楽のことばかり、娘のことばかり、コーヒーショップのことばかり、不器用なんだよ」
 由香里は、ずっと胸にしまっていたことを吐き出しているようだった。
 圧倒的な悪者になって、新しい家族を築いた由香里は、その本音を今までぶつけられずにここまで来てしまったのかもしれない。
 日芽香はぎょっとした目で由香里を見たが、なにも口出しをしなかった。
「おれだってわかっていたよ。こっちにも非があるってことをね。離婚してしまった夫婦はどこの家庭も同じなんて微塵も思わないけど、おれたちの場合は、そうだったってだけなんだよ」
「日芽香の学費もわたしに払わせてください。お願いします」
 由香里が急に頭を下げた。
 央介はつい言ってしまいそうになる。そんなこと娘の前でやるなよ、と。しかし、そうしなかった。
「ありがとう。おれがこんなんなっちゃったから、ほんとに助かる」
 由香里ができることは金を出すことだけだ。いくら夢や理想に彩られた御託を並べたくても、現実はそうなのだ。この世界は金がなければ、愛も生まれにくい。
 別のところで家庭を築いても、由香里はずっと変わらない。いくら払っても罪悪感を晴らすことができない。贖罪は止まらない。
 由香里もまた不器用でまっすぐなのだ。
 央介は、由香里の置かれた状況を利用しようとしている。慰謝料をもらっても、家賃が発生しないところに住んでいてもお金で苦労し続けている。まるで生活力がないけど、少しでも金銭的な余裕が欲しい。店の未来がわからないのだから、尚更だ。本当は誰よりもズルい人間なのだと、央介はちゃんと自覚している。でも日芽香には絶対に悟られたくない。
 ちょっとバカなふりをして、央介は微笑む。
「パパはそれでいいの?」
 日芽香はそっと呟いた。由香里のことを否定しているわけではなく、央介が持つプライドとか、そんなくだらないものを気にして訊ねたようだった。
「パパはね、ひめちゃんがみんなから愛されていることが嬉しいだけなんだよ。だけどみんなからの気持ちを負担に感じる必要なんかないんだよ。今、ダンスを一生懸命やっているよね。高校になったら、またダンスを続けるかもしれないし、別のなにかに熱中するかもしれない。もしかすると、ただダラダラしちゃうかもしれない。それでもいいんだよ。とにかくお金があれば余裕を持って高校受験のスタートラインに立てる。ひめちゃんのママがその手伝いをしてくれるのは自然なことだよ。パパは思いっきり甘えたいって思ってるんだ」
 今は複雑な感情を抱くかもしれない。でもあとになってから、お金を用意してもらってよかったと思える未来が待っていれば、それでいい。
「逆にそういうこと言うとプレッシャーじゃん」
「いや、本気だって、好きなように過ごせばいいんだから」
「えー、なんか変なの」
 央介と日芽香のやりとりを見ていた由香里が、へへへ、と昔みたいに笑った。大学時代、由香里は、へへへ、と笑ったのだ。
 央介は由香里と出会った頃のことをふと思い出す。だとしても、過去の思い出に浸る気になれなかった。
 二人が帰ると、静かになる。仕切られた空間で央介は一人になった。薄い寝息が聞こえるだけで、孤独に感じた。とても騒がしかった日だったのに、夜になると寂しさを覚えていた。

 一週間の入院生活は、瞬く間に過ぎていった。
 日中は検査とお見舞いに来てくれた人の相手で潰れ、夜になると疲れて眠ってしまう。当初考えていた一人でゆっくりと考える時間はほとんど作れなかった。
 央介が退院する前日には、どこで噂を聞きつけたのか、ケンヤが現れた。
 病室内でギターをかき鳴らそうとし、看護師から注意を受けるというひと騒動を巻き起こして去っていった。同じ病室で入院していた人々には多大な迷惑をかけ続けていたと思い、退院の日にはそれぞれに謝罪をしていった。
 さぞ怒られるかと思い、覚悟していたわけだが、央介の隣のベッドにいた老人は謝罪を笑って受け入れてくれた。
「たしかに、騒がしかったですよね。いろんな人が来て。ずっとそれまでは病院関係者の方以外の出入りしかない部屋だったんですから」
「本当に申し訳ありませんでした」
「いやいや、まあ、あなたが迷惑をかけたわけじゃなくて、結果的に多くの人が来た、というだけなんですから、ご自身が責任を感じることはないんですよ。それでも、こうして最後に謝りにきてくれただけで、わたしは十分です」
「ありがとうございます」
 ちなみにほかの二人は、謝罪を伝えてもほとんど無視だった。
 しかし普通はそんなものである。他人とは一定の距離を置いて関わらない。人を許したり、助けたり、受け入れたりしたらトラブルに巻き込まれることもある。
 ただ央介が奇跡の連続の中で生きているだけなのだ。
 次の土曜日には、日芽香が通う中学で文化祭が開催される。ダンス部として参加するのに、日芽香は病室にも頻繁に顔を出し続けていた。
 ひめちゃん、ダンスの練習を休んでここに来ているわけじゃないよね? と訊くと、「当たり前じゃん。ここに来るより、ダンスを優先しているに決まってるっしょ」と頼もしいことを言っていた。
 でも、文化祭に向けて集中できているか、きちんと練習ができているだろうか、などという心配が尽きず、央介は不安になっていた。退院してからモリムの営業を再開しても、お店の売り上げよりもやはり日芽香のことが気になる。
 初日は、客が多く来た。常連を含めた人々が次々に顔を出し、珍しく列をなすこともあった。央介は感謝する気持ち半分、いきなり多忙になったことへの疲れが半分、という状態になった。しかし、二日目からはいつもの閑散とした店内に戻っていった。
 店内で一人の時間ができて、日芽香のことを考える。しつこく、本当に大丈夫なの、と訊くと嫌がるに決まっている。本当のことを言ってくれていないのかもしれない。もし本番でうまくいかなくて、日芽香が後悔するようなことがあったらどうしよう──そんなことを延々と考えていた。これだったら入院しているときよりずっと一人の時間が作れているじゃないかとも思い始める。
 そして副業も再開した。さすがに病室内にノートパソコンを持ちこんで、副業を続ける気になれなかった。一旦中断したものを再開させるのは、やはり疲れる。退院してからモリムを再び開けたときの二倍の疲労感を、静かな夜に感じた。発注リストを確認し、自分でもできそうなものを見つける。その作業をしながらも、ふと日芽香のことを考える。
 もう、央介の脳内は日芽香のことでいっぱいになっていた。大学時代に由香里と付き合っていたときも、こんなことにはならなかったとふと思い出す。
 そうして、次の土曜日がやってきた。モリムを土曜休みにしておいて、本当によかったと央介は思った。
 日芽香が通う公立の中学校には、保護者会で何度か足を運んだことがあるし、文化祭も初めてではない。それでも央介はどこか緊張感を持って校門をくぐり、一人で校庭に足を踏み入れた。睦子は同僚が体調を崩したため、どうしても休みがとれないということとなり、今回の生観賞を見送ることになってしまった。
 教室で行う出し物もあるらしいが、央介にとっては興味がない。体育館の客席に直行し、日芽香たちの出番を待つ。
 各クラスや部活の単位で演目を用意しているようで、短い時間で演劇をしたり、合唱をしたり、コントをしたりしていく。
 央介にとっては退屈な時間だった。セリフが飛んだのか、笑ってごまかすような場面を見て、白けた。合唱の中に少し音程が外れている声が聴こえて、鼻で笑いそうになる。笑いどころがわからないギャグに、つい真顔になってしまう。他人の子は所詮他人だ。真剣に受け止めることはない。
 次のパフォーマンスがアナウンスされて、日芽香たちがステージ上に現れる。お揃いの赤いTシャツを着て、十人ほどの生徒が一列に並んだ。日芽香は一番端に立っていた。反対側の端には日芽香より背の高い女の子がいる。傍から見たら、彼女たちはみんな同じように見えるのかもしれない。曲が流れる。日本語の、音楽番組でよく流れているポップスだった。それぞれが同じような表情を作って、同じ動きをしていく。ときどき誰かがズレる。立ち位置もズレる。ただ央介にとっては日芽香しか気にならない。どんなときでも特別なのだから、出来なんてまるで気にしない。本人が満足してくれれば、それでいい。むしろ、それだけを願っている。
 愛おしいからどんな姿でも素直に応援できる。自分がやるより緊張する。客観的な評価なんてできない。央介は去年と変わらず、ただただ懸命な姿を瞼に焼きつけていた。
 踊り始めて五分もしないうちに、ダンス部のパフォーマンスは終わった。拍手とかけ声を受けて日芽香たちが舞台袖へと駆けていき、次の演目のアナウンスが流れる。全体の反応は概ね良好だったようだ。ただそうした反応は、仲のいいものたちによる社交辞令の可能性もあるけれど。
 父兄や生徒がごった返す体育館から出て、央介は秋の香りが漂い始めた空気を大きく吸い込んだ。シャツにカーディガンだけだと、少し冷える。
 また来年、日芽香が中学の最終学年になって、同じように学芸会に出る頃にもまだモリムはあるのだろうか、とふと思う。遠いようで近い未来を思うと、やはり不安がやってくる。秋風よりも強烈に、身に染みるほど。
「パパ、どうだった?」
 気がつくと、央介の隣に日芽香がいた。額には汗を浮かべていて、まだ少し息が上がっている。いきいきとした眩しさを纏っていて、なんだか央介は照れてしまう。
「よかったと思うよ。一生懸命だったしね」
「まーた、そんな感じ? いつも漠然とした意見しか言わないよね」
 日芽香は不満そうに頬を膨らます。
「ひめちゃんがさ、しっかりできたって思うことのほうが大事じゃん」
「まあ、先輩も後輩も意見を言い合って作り上げたプログラムだったからね。全部が全部うまくいったのかどうかはわからんけど、あとから動画で確認するからさ」
「じゃあ、後悔はないってことでオッケー?」
「そうだね、うん。全体練習の時間もたくさんとってやったから、あれがわたしたちにできる最大限なんだと思う」
「それはよかった。本当によかった。お見舞いにいつも来てくれていたからさ、パパね、正直、ひめちゃんが、大丈夫、って言っても、やっぱり練習の時間を削って来てくれていて、やりたいことができていないのかも、ってずっと心配になっていてさ……」
「まあ、たしかに、練習が終わってから病院、っていうのを毎日続けていたから大変だったけどさ。しょーがないじゃん。そうしようって決めたのは自分だし、どっちもきっちりやりたかったしさ。マジで気にしなくていいんだからね」
「そうだね」
 央介は頷きながら思う。
 もしも日芽香が同級生だったら、たぶん友達になりたい、とただ遠くから見つめているだけの存在だったのかも、と。
 親子という関係だからこそ、対等な感覚を味わえる。
 本気で人として尊敬しているからこそ、そう思えるのだ。
「なーに、感傷的な顔してんの。今度はクリスマスに向けて練習していかなきゃならないんだからさ。あと、むーちゃんが見れるようにちゃんと撮影した?」
「え、してない」
「もう、今日の朝言ったよね。パパ、なんだかずっとぼーっとしているんだからさ。お店のことは、もうなるようにしかならないんだから、ね。しっかりして」
「う、うん。しっかりする」
「まあ、部内で再確認するために撮影してたぶんがあるから、それでいっか」
「そだね。よかった、よかった」
「パパ一緒に教室まわる? なんかいろんなものあるらしいよ。知らんけど」
「うーん、お友達とまわったら」
「あっそ、わかったー」
 親子という関係だからこそ、完全な友達にはなれない。父と娘という境界線が二人のあいだに常にあるのだ。
 一定の距離感を作ろうとしてしまう自分に、央介は歯がゆさを感じた。
 そして、央介は一人で帰ることにした。もう長居する必要もない。目的は果たしたのだ。
『カフェ・モリム』の看板が見えてくる。
 夜の副業に向けて、少し寝るのもありかもしれない。睦子が帰ってくるまでに食事の下準備ができていればいい。
 央介は、じっと看板と店の出入口のほうを見て近づいていく。すると、小さな毛むくじゃらの黒いものがドアの隅にいることに気づいた。
 さらに近づいてみる。それは丸くなっていた小さな猫だった。
 ときどき野良猫を見かけることはあったが、店の前でリラックスしている姿を見るのは初めてだ。
 ドアを開けようとすると、猫はむくっと起き上がって、小さく「みゃー」と鳴いた。
 央介は猫に詳しくないので、年齢も種類もわからない。ただ両手で簡単に包み込めそうなサイズのため、まだ子供なのかもしれないと予想した。
「ごめんね、ちょっとどいてね」
 小さな黒い猫がまた「みゃー」と鳴いて、今度は央介の顔を見つめてきた。
 見上げてくるその姿に愛らしさを感じる。ただ無責任に愛でるわけにはいかない。飼う責任がないのに、中途半端に世話をするのは逆にかわいそうな結果を生む。それに、コーヒーを扱う環境であるため、なにを持っているかわからない動物を入れるわけにはいかない。
 央介は姿勢を低くして、猫の目線に合わせようとした。
「仲間のところに戻ろうよ。ママ猫が捜しているよ」
 育てたり飼ったりする気はないのに、甘い声を出してしまう。
「ねえ、ここにいちゃダメなんだよ。きみにはきみの世界があるんでしょ? ごめんね。おれは、このお店のことと日芽香のことで精一杯なんだよ。これ以上のものを受け止められる度量がないんだよー。本当に、ごめんね」
 子猫は央介から視線を離さない。立ち上がって手を振り、ドアを開けて中に入ろうとすると、後ろをついてこようとする。
「お願い、ここでバイバイしよ。本当にダメなんだ。人のことを簡単に信頼しちゃいけないよ。きみはきみの世界で生きなきゃね」

「えっ、どういうこと?」
 階段を上がってきた睦子は素っ頓狂な声を上げた。央介はもじもじとしてしまう。
「あーその……今日さ、文化祭に行ったじゃん──」
「文化祭の景品だったの?」 
「いや、その、今日のひめちゃんのダンスを思い出してさ。ああ、あんなに小さかったのに、こんなに大きくなってって思って」
「ひめちゃん関係あるの?」
「あーううん、違うんだけど、ひめちゃんの小さい頃となんだか重なってさ」
「店に来た子供に対して特別なことをすることがない人が?」
「店に来る子供って、親子連れじゃん。それに、家族連れで来る人って店のメニューを知ってすぐに帰る人が多いし」
「まあ、それは置いておいて……」
「その、ひめちゃんだって猫飼いたがっていたしさ」
 店の前にいた黒い子猫は、テーブルの上にある籐のカゴに入ったまま、すやすやと眠っている。二人の人間が大きな声で奇妙なやりとりをしていても、一向に目覚める気配がない。
「じゃあ、飼う気?」
「いやー、その、一緒に入ってきちゃって」
「ごはんは食べさせたの?」
「ううん、とりあえずカゴに入れてみて、しばらく撫でてたら寝ちゃって」
 睦子は首をひねっている。央介もどうしてそんなことをしたのかうまく説明できなかった。後先を考えずに行動して、このあとどうすればいいのか正直戸惑っていたのだ。
「とりあえず、ひめちゃんがそろそろ帰ってくるから相談しよっかなって」
「おうちゃんはまだ、完全に疲れがとれていないんだね。とりあえず今日もゆっくり休みなさいな」
 睦子は呆れた様子だったが、央介を責めることなく、コンロにある鍋の中を覗き込んだ。
「まあ、この状況でお味噌汁を作れただけ上出来かもね」
 睦子はにっこりと笑った。
 それから二十分もしないうちに、階段を駆け上がる音がした。
「あー、お腹空いた! もうご飯できている?」
 日芽香がただいまも言わずに叫んだ。
「ああ、ひめちゃん。おかえりなさいね。今日うまくできた?」
 睦子がニンジンを切りながら訊ねる。
「うーん。やっているときはうまくいった感があったけど、映像で見たら揃ってなかった部分もあったっぽかった」
「じゃあ、今度のクリスマスにリベンジだね」
「うん、そうそう。次々って感じ。ってか、なんでむーちゃんが野菜切ってんの? パパ寝てんの?」
「ううん、違う」
 睦子が笑いをこらえるような顔をして、央介のほうを見た。その視線に日芽香もつられる。
「ええええええええええええ」
 日芽香は一ミリも央介のことを見ていない。
 二、三秒フリーズしてから、央介のほうに駆け寄ってくる。当然、央介に駆け寄ってきたわけではない。
「この子どうしたの? えっ、ボンベイって感じじゃないし、サイベリアンかな? それともミックス? なになに、寝てんの、かわいいー」
「なんか、家の前にいてさ、そのまま一緒についてきちゃって、無理やり追い出すのも気が引けて、ここにいるんだ」
 日芽香の興奮に圧倒されながら、央介はちょっと言い訳するように言った。
「動物病院とかに連れていった? 絶対野良でしょ? いや、もしかして家猫が逃げてきた? うーん、こんなちっちゃい子がこんなところまで一匹だけで来るとは考えられないし……パパ、誘拐してきた?」
 央介は首を横にブンブンと振る。
「もし野良だったら親猫が心配しているかもしれないし、ここにずっと居させるのはよくないかも……」
 欲しい、飼おう、とねだってくるのかと央介は思っていた。興奮していたのは最初だけだった。日芽香の反応は、家族の中で一番冷静にこの状況を対処しようとしているように見える。自分の欲求に従順でないその姿に頼もしさすら感じる。
「やっぱり、家猫の可能性も断定できないから、とりあえず保護センターに連絡したほうがいいかも。起きて暴れたら大変だから、ケージとか用意できればいいのかも……もう外は暗くなってきたし……母猫が諦めちゃってたら、マズいもんね」
 日芽香は携帯電話の画面を見ながら、ぶつぶつと呟き始めた。央介はその姿を見つめるほかなかった。
 食事を終わらせてから央介が副業に勤しみ始めた頃、日芽香の甘ったるい声が聞こえてきた。
「あー、起きたのー。あーいい子だね。うんうん」
 黒い子猫が目を覚ましたらしい。
 央介は仕事を中断させて、様子を見にいく。
 猫はカゴの中に入ったまま、ふんわりとした体をもぞもぞとさせている。まだ寝起きで意識がはっきりしていないようだ。
「今ね、部活の後輩の猫飼っている子に写真送ったら、引き取りたい、みたいな話になってたんだ。目を覚ましちゃったけど、このかごに入れたまんま、その子の家まで運べるかな?」
「これから?」
「じゃないとまずいっしょ。ごはんも与えてないんだからさ」
「夜も遅いから、パパもついていったほうがいいよね?」
「そうだね。親の承諾はとった、みたいに言ってくれているけど、こっちも親がついてきたほうがちゃんと話がまとまりそうかも」
「誰かの飼い猫の可能性があるんじゃなかったっけ?」
「うーん、ゼロじゃないけど、その後輩の子ってわたしよりも猫に詳しいし、先住さんもいるし、保護センターの手続きとかもご両親がやってくれるみたいなこと言っていたから、あんまりこっちが心配することないかもね」
「そこまで話をまとめてくれたんだね」
「ううん、単純に相談しただけ。わたしはほとんどなーんにもしてない」
「でも頼もしい」
「まあね」
 央介が子猫を入れたままカゴを抱えた。急な上下運動に驚いたのか、一瞬体をビクッとさせた。でもそれ以上派手な動きをすることなく、カゴから無理やり出ようとするそぶりもない。なにか囲うものを用意するべきじゃないかと、日芽香に言われたが、結局そのまま運んでいくことになった。
「じゃあ、気をつけていってらっしゃいねー」
 と睦子に見送られて、階段を下りていく。
 猫は何度も央介の顔を覗きこむような仕草をしながら、前足で自分の顔を弄っている。央介は頬を緩めながら、小さい頃の日芽香みたいだな、と思いながらその様子を見つめた。
 日芽香が先に店の出入口から外に出た。央介がその後ろをついていく。
 風がびゅーんと吹いたとき、黒い子猫は、ぴょんと跳んだ。
「あっ」と央介が言うと、そのまま闇に消えていった。一瞬のことで、日芽香が振り返ったときにはもう、カゴはもぬけの殻になっていた。
「あ、あれ……」
「いっちゃったね」
「ちゃんとママ猫のところに帰れるかな?」
 日芽香のやさしい声が店の前にぽとりと落ちた。なによりも猫の安全を心配する言葉を聞いて、央介はどこか幸せな気分に満ちていた。

 翌朝、日芽香は卵かけごはんを食べながら、ぶつぶつと呟いていた。
「やっぱりケージを買いに行って、用意してあげたほうがよかったのかも」
「勢いよくカゴから出たとき、ある程度高さもあったはずだから、怪我していなきゃいいけど」
 文化祭での披露が終わり、ダンスのことはひと段落したのもあってか、もう頭の中は昨晩の子猫でいっぱいになっているようだ。
「もし心配なら、オープン前に近所をまわってみる?」
「うーん、パパは忙しいと思うから、わたし一人で見に行くよ」
 いつもは、モリモリと食べるのに、箸を宙に浮かして、やっと米粒を掴む、ということを繰り返す日芽香。
「むーちゃんが一緒に行こうか?」
 睦子は、猫のことではなく、日芽香を心配している。
「ううん、今日がお休みになったんでしょ、ゆっくりしていればいいよ」
 昨日文化祭に来なかったことへの当てつけにも聞こえる。睦子は眉尻を下げた。
 今日は日曜日で、おまけに部活がない。日芽香には時間があった。
「一日ぐるぐる近所を回ろうっかな──」
「そういえば、後輩の子にはちゃんと伝えたの? あの子猫のお迎えの準備をしてくれていたと思うんだけど」
 央介が訊ねると、日芽香は、こくん、と首を縦に動かした。
 ほうれん草のおひたしと、朝食後のデザートとして用意していたイチゴを残したまま箸を置いて、日芽香は階段を下りていく。
「気をつけていってらっしゃい」
 と睦子が言っても、なにも返ってこなかった。
 それからしばらくして、央介は開店前の掃除に取りかかった。
 日芽香は戻ってきていない。睦子は音を小さくしてテレビを見ている。
 店の前を掃除していると、細い顔をした女の子がやってきた。
「あの、すみません」
「はい、どうしました?」
 小柄ではあるが、顔つきは子供っぽくない。日芽香と同じ中学生ぐらいの年齢に見える。央介の目の前まで来たにもかかわらず、視線を合わせることなく、戸惑った顔をしていた。
「もしかして、日芽香のお友達ですか?」
 少し考えるように上を向いてから、はい、と言った。
「じゃあ、遊びに来たのかな? 日芽香は出かけているんだけど──」
「いや、その、猫を探すようにって言われて、その……」
「一緒に探してくれているの?」
「いや、まあ、はい」
「じゃあ、手分けして探してくれているんだね。ありがとう」
「えっ、あっ、そうですね」
 どこか歯切れの悪い返答を繰り返すため、央介は不信感を募らせていた。
「娘にここに来るように言われたの?」
「うーん、そんなわけじゃないんですけど……」
 細い顔の女の子は、困ったように指を弄り始めた。
「ねえー」
 央介の背後から、声がした。少し尖ったような声だった。
 振り返ると、日芽香がいた。無表情に近くて、どこか冷たい顔をしていた。
「すみません」
 そう言って細い顔の女の子は、日芽香に向かって歩いていく。
 日芽香はもう背を向けていて、その後ろを細い顔の女の子がついていく。
 あの「すみません」には緊張感があった。そして日芽香の態度は、どこか威圧的だった。友達の前ではあんな態度をとっているのかと、呆然としてしまう。
 秋風が昨日よりもさらに冷たくなって、央介に吹きつけてきた。

 九時にモリムを開店させるが、央介の気分は重たいままだった。
 ただ、客が来ればちゃんと出迎え、コーヒーを提供するモードに自動的に切り替わる。やることは決まっているのだ。それに合わせて身体を動かしていけばいい。
 央介はそう自分に言い聞かせた。
 開店してしばらくすると、ドアのあたりから物音が聞こえてきた。央介は客が入ってくるのかと身構えたが、誰も入ってこない。
 コン、コン、と音がして、そのあと、ドン、という強い音に変わった。
 央介は、ドアをそっと開けてみる。
 すると、白地に黒が混ざった色合いの猫がいた。
 その猫は後ろを振り返って、央介の顔を見上げる。
 なにか用かしら? と貴婦人のように凛とした態度だった。
 央介は一度店から出た。さすがに連日猫が現れるのはおかしい、と思い、周囲を見回す。撒き餌などの形跡は見当たらない。いつも丹念に掃除をしているので、猫が寄りつく原因を残してしまう可能性は低い。どうして猫が来るのか、理由はわからなかった。
 央介はもう一度、貴婦人のような猫を見た。特にかまわないで、と言われているような気がして、そっと視線を外す。
 昨晩みたいに話しかけることはしない。見た感じだと、困っている様子もない大人の猫だ。下手に刺激をすると威嚇されるかもしれない。出入り口から離れてほしいと思う気持ちを抑えて、放っておくことにした。
 店内に戻ると、また物音が聞こえてくる。さっきいた猫は物静かに過ごしていた。原因は別のところにあるのかもしれない。ただ謎解きみたいに真相追う気にはなれなかった。
 猫から意識を逸らすと、日芽香に対しての不安と心配がみぞおちの辺りに差し迫ってくる。それは少し吐きそうな感覚に似ていた。店で倒れたときよりも、ここを潰してしまうことを考えたときよりも、ずっと深刻なものとして腹の底から湧いてきた。
「おーい、央介、考え事か?」
 府川の声がした。央介はすぐに切り替える。
「いらっしゃいませ」ドアが開いた音が聞こえず、反応が遅れたことを引きずらないようにと続ける。「今日もいつものですか?」
 そのとき初めて、央介は店に入ってきた府川の姿をちゃんと見た。
「えっ? 府川さん……」
「ああ、ほれ、かわいいだろ」
 府川の腕の中には、黒い子猫がいた。おそらく、昨日央介についてきて家に転がり込み、夜の闇に消えていったあの猫だ。
「その子、どこに?」
「ああ、店の前にいたんだよ。あれ? もしかして央介、猫アレルギーか?」
「い、いいえ。違います。けど──」
「ああ、一応人の口に入るものを扱ってるから迷惑だよな、すまねえ。店の前に置いてくるわ。もうこいつ、ドアに体を寄せていてさ、どうしても入りたそうだったから、ついつい、中に入れちゃったんだわ」
「この子以外に、大人の猫っていませんでした? あの、白地に黒が混ざった……」
「あー、そんなのはいなかったぞ。こいつだけだったな」
 央介はいつもの行動をすっかりと忘れて固まってしまった。
「悪かったよ。外に出すから、そんなショックを受けたみたいな顔しないでくれよな」
 府川が黒い子猫を抱いたまま、回れ右をしたとき、ドアが開いた。
 入ってきたのは、日芽香だった。少し顔が赤くなっていて、息が上がっているようだった。
「あー、おはようございます!」
「日芽香ちゃん、おはよ」
「あー、この子!」
「うん、あっ、そういえば、日芽香ちゃん、猫好きだったよな」
「ずっと探していたんです」
「そうだったのか、あーよかった、よかった」
 府川に抱かれていた子猫を日芽香が受け取ろうとする。すると、子猫はぴょんと跳んで、床に華麗に着地した。
 日芽香は屈んで、両手を広げた。
「お店にいたらよくないんだよー。さあ、こっちおいで」
 口調はやさしく、穏やかだった。央介はその姿から包容力を感じ、母性すらも感じた。
 子猫は日芽香のことを無視して、店の隅へと移動する。
「央介、悪いな。無理やりでも連れていくようにするから」
「いいです。そっとしておいてあげてください」
 府川を制するように央介は言った。子猫はリラックスした雰囲気で、壁にもたれかかった。コーヒーを淹れる道具やカウンター席からも離れている。暴れ回るようなことはなさそうだ。
「このまま、ここに居させて本当に大丈夫?」
 日芽香が確認してくる。央介は別のことを確認しておきたかった。そこにまだ府川がいるのにも関わらず。
「ひめちゃん、さっきお友達来てたよね?」
「ああ、うん、あの子が昨日話していた後輩の子だよ」
「ひめちゃんって、部活だといつもあんな感じなの?」
「えっ、どういうこと」
「ちょっとさ、後輩の子になんだか強い感じがしたなって、思っちゃって」
「ときどき、もじもじしちゃうんだよね、あの子」
「猫を探すのは、率先して協力してくれたの?」
「えっ、お願いしたんだけど」
「そっか」
 央介の視界に、まだテーブル席につくことなく立ったままでいる府川が入った。これ以上家族の話題を広げるのはよくない。
 央介はコーヒーを淹れる準備に取りかかった。
「府川さん、どうぞ、おかけください。すみません、お騒がせして」
 府川は日芽香と央介を交互に見ながら、座った。
 日芽香は携帯電話を取り出して、店内で誰よりもくつろぐ子猫の姿を撮影してから、なにも言わずまた外へと出ていってしまった。
「あの年代は一番難しいよな」
 府川がぼそっと言った。
「そうですね」
「親や大人の前ではいい子でも、学校内ではそんなわけでない……いや、日芽香ちゃんが悪い子だって言いたいわけじゃなくてさ。そのやっぱり人にはいろんな側面があるわけだよな」
「子猫に接している姿からは、どこか母性を感じたんです。娘に対してなのに、変ですかね?」
「全然変じゃない。そう、人って単純じゃないんだ。おれみたいな単純な人間でも二面性はあるんだと思う。ましてや今一番多感な時期を迎えている子だったら、いろんな部分があるもんなんだよな」
「これまでは、なんでも成長したなって感覚で受け止められていたんですけど、なんだかもっと違う感情が湧いてきて……」
 客に自分の気持ちを素直にぶつけた。央介はいつもの作業をしながら、いつもとは違うことをしてしまう。
「おまえが引き継ぐって知ったとき、正直もう行かないだろうなって思ったんだ。でも、店から日芽香ちゃんが出てきて、近所の人にさ『よろしくお願いします』ってお願いしていたんだよ。ああ、店主は無愛想でよくわからん男だけど、娘さんは懸命でいい子なんだな、って思ったんだ。だから、こうやって最近毎日じゃないけど通い続けている」
「知りませんでした。娘がそんなことをしていたってことも……」
「おれたち大人は基本的に見守ることしかできない。だけど問題が大きくなる前に大人がなんとかしなきゃいけないことだってあるんだよな。どんなにいい子とでも、難しいよな、人と関係を続けていくってのはさ。特に親子だと……な」
 央介がテーブルの上に、コーヒーを置く。府川がカップに口をつける。
「うん、特別うまくもなければ、まずくもない」府川が央介に微笑む。「でもこうやって二人の心を吐き出し合いながら、飲んでみるとさ、深みとか味わいが、別のところからやってくるんだよな」
「そう感じてもらえたなら、光栄です」
「大事なのは、味じゃない。サービスのよさでもないのかもしれないな……うん、人と人のつながりをどこかで感じられること、なんだよ」
「そうですね」
「もし、なにかあったらおれに相談しろよな。おまえはいろんなものを抱え込みすぎなんだよ。だから倒れちゃうんだ。日芽香ちゃんのことだってそう。あの子に介入することはできないけどさ、心が和らぐかもしれないだろ、な?」
「はい、ありがとうございます」
「解決することより、問題をシェアすることのほうが、ずっと心を軽くしてくれるかもしれないぞ」
「ええ」
 府川は念を押すように何度も同じようなことを言ってくる。央介は正直、どんどんうざったく思えてきた。でも、それは府川のやさしさによるものだ。いちいち嫌がって、避けていたら、本当に孤独な世界で生きていくしかなくなる。
 子猫は壁際から動かない。まるで黒猫の人形みたく、鎮座している。
 府川はコーヒーを飲み終えてから、手を差し出して子猫をあやそうとしたが、見向きもせずにじっとしていた。
「央介、もしこのままこの子が居座るようなら、ミルクを用意してあげたほうがいいぞ。じゃあ、頼んだな」
 と言い残して、府川は帰っていった。
 少しも店から出ていくつもりがなさそうな子猫に近づき、そっと央介は撫でてみる。黒いその体は央介の掌を受け入れるように、じっと動かずにいた。
 それから央介は二階でテレビを見ている睦子を呼んで、子猫用のミルクを買いに行ってもらった。日芽香にも連絡をしたが、すぐに既読にすらならなかった。
 正確な年齢がわからないため、「一歳までの成長期用」と明記されたものを買ってきてもらった。平たい皿にミルクを少量入れて、子猫の前に置いてみる。すると、舌を器用に動かしながら舐め始めた。
「あら、やっぱりお腹が空いていたんだね。よくここでおとなしくしていたね」
 睦子がやさしくそう言った。
 そんなことをしていると、別の客がやってきた。
 今の店内は普段とは違う。猫がいるという特殊な状況を受け入れられず、嫌な思いをさせたらどうしようと、央介は心配しながらも、いつもどおりに振る舞う。
「いらっしゃいませ」
 迷いなくドアから一番近いカウンター席に腰掛けたのは、山岸が来店した日にやってきた青年だった。ずっとヘッドホンをしながら、ノートのようなものにペンを走らせていた姿が印象的で、央介はすぐに思い出せた。しかし、以前も来ましたね、などとは絶対に言わない。
「当店が提供しているのは、ホットコーヒーのみなんです。一杯、六百五十──」
「はい、お願いします」
 青年は被せ気味に言ってすぐにテーブルの上に視線を置き、ヘッドホンを装着して、リュックからノートと筆記用具を取り出した。ミルクを飲んでいる猫やそのそばにいる睦子には見向きもしない。
 一人の世界に浸りたい客を邪魔するつもりはまるでない。客の邪魔にならないようにと、央介は透明人間になったつもりでコーヒーを用意する。
 睦子も息をひそめるように子猫のそばから動かなかった。おそらくミルクをすべて平らげたら、すぐに皿を撤収して上に戻っていくはずだ。
 いつもの作業をしながら、ときどき子猫を視界入れる。青年はその視線の動きを気にするそぶりも見せない。
 央介が小声で「どうぞ」と言い、ノートと筆記用具から少し離れたところにコーヒーカップを置く。青年は手の動きに気づいたのか、顔を上げて軽く会釈してきた。それからすぐにまた下を向き、なにかを書き進める。
 皿を持った睦子が忍び足でカウンターに入り、階段を上っていく。
 子猫はミルクを飲み終えたあとも変わらず、壁際にいた。来客にも気づいているようだが、まるで気にしていない様子である。
 別の客が来た。央介の記憶にはない人物だった。
 小柄な初老の女性で、紺色の七分袖ブラウスを着ている。手首は細くて小枝のようだ。
「いらっしゃいませ」
「ああ、ここは、ホットコーヒーだけなんですよね?」
 入って来て早々、初老の女性が訊いてくる。
「はい。一杯、六百五十円です」
「じゃあ、それを」
 初老の女性は一番奥の席に腰掛けてから、壁際にいる子猫を一瞥する。
「ああ、こういう雰囲気に、猫っていいですね。こちらで飼われているんですか?」
 小さい声で落ち着いた話し方だった。初老の女性は、懸命になにかを書いている青年や子猫に配慮してくれているようだ。
「いいえ、野良猫なんだと思うんですが……飼い猫かもしれません。ただ店内に入ってきて、おとなしくしているだけなんです。この子猫が入ってきたのは、今日が初めてだから、なんとも言えないんです」
 央介も同じトーンを心がける。
「最近、なにか変わったことがあったんですか?」
 初老の女性からの問いに、央介は首を傾げる。
「まあ、わたしが入院していて、一時期お休みにしていたんです」
「そのあいだに、猫がここを心地がいい空間だと認識したのかもしれませんね」
「わたしがいないあいだに店内にこっそり入って縄張りにしていたとか、ですかね?」
「それも素敵ですけど、もっと違う理由がある気がします。例えば……」
「例えば?」
「あなたにある邪気を払おうとしてくれているとか」
「そうしてくれたら嬉しいです」
 初老の女性のスピリチュアル的な回答に、央介は苦笑いを浮かべてしまう。
「あと、あなたがやさしいのもあるんじゃないでしょうか」
 やさしいはずがない、と央介は心の中で否定する。とても自分勝手なのだ。今だって、こうして仕事をしていないと、落ち着かない。気を緩めると、いつものことができなくなる。
「あなたはわかっているのね」
 なにも言わない央介に初老の女性が言った。央介は黙ったまま、微笑んだ。
「商品に工夫を凝らしても、一過性のものでしかないの。万人のために受け入れてもらおうとするのも無理があるの。なにを買うかじゃなくて、誰からどのように買うか、なのかもしれませんね。それがわからなくて、ビジネスで失敗した。SNSを活用して、注目を浴びようとしても、まるで空虚だったんです。今の風潮を否定する気はけっしてありません。ただ複雑に多様性が絡み合って、すれ違ってばかりになってしまうんです。無理に時代に合わせる必要はなくて、ただ一つの信念だけを持って示せば、世代問わずに支持してくれる人が出てくる。もちろん、人の道を外れていないことがなによりも大事なんですけどね」
「わたしは、ただ先代のマネをしているだけなんです。それ以外は、特別なことをしていません」
「普通、マネなんてできない。どこかで自分独自のものを出そうとする。それをしていないんですよね?」
「そう、ですね……」
「よほど特殊な業界でない限り、個性は疎まれるだけですから、それでいいんです。個性がなく、ただ機械的に動くことは素敵ですよ。案外、人工知能って人間的な動きが苦手ですから。人間らしい機械的な動きってこれからも必要になってくるのかもしれませんね」
「AI関連にお詳しいんですか?」
「こんなおばさんですけど、エンジニアだったんです。自分にしかできないものを作り出そうとして、海外との競争に敗れて、もう業界から離れたんです。この空間には、そんな競争が一切ないわよね。比べたり、競ったりしても心が荒むだけ。人って、本当に大事なことだけに目を向けていればいいんですよ」
 語りたいことを語ればいい。央介はただそう思っていた。初対面の人から受ける言葉からは重みを感じない。納得することがあっても、心にずっしり来ることはない。もしも府川が同じことを言ったのなら、共感するかもしれないけれど。
 初老の女性は、席を立った。子猫はその様子を目で追っていた。青年はひたすら書き続ける。やはりそこには、はっきりとした境界線なんてものはない。
 央介は思った。もう一度、日芽香に連絡しなきゃ、と。
 住む世界が違う住人たちが同じ空間に存在している。央介自身もまたその一部なのだと、これまで以上に痛感していた。
 
 もう少しで十二時になる。上では睦子が昼食の用意をしているはずだ。
 青年は二時間以上滞在している。央介は文句を言うつもりはなかった。この地域では、土日祝日だからといって書き入れ時というわけではない。この日もほとんど客は来ていなかった。あくまでもコーヒーと共に空間を提供するのがこの店のコンセプトだ。一定のルールのもとで、採算は度外視してそうしてきている。苦境に立たされていても、その姿勢をここで崩すつもりはなかった。
 ドアが開いた。日芽香の後輩である細い顔の女の子だった。日芽香は一緒ではなかった。
「いらっしゃいませ」
 とりあえず定型文を読み上げるように、央介は客を迎えるいつもの声掛けをした。
 細い顔の女の子は央介に薄く笑いかけて、壁際にいる猫を見た。
「当店が提供しているのは、ホットコーヒーのみなんです。一杯──」
「ここにいるんですね」
 機械的な央介の案内を遮り、細い顔の女の子は、ゆっくりと猫のそばに近づいていく。黒い子猫は、夢中で自分の体を舐めていた。
「きみは、昨日の文化祭に出ていた、よね?」
 央介は日芽香の父としての口調に切り替えて訊いた。
「わたし、足を怪我して出れなかったんです。あんまり重症じゃないから、その、普通に歩けるんですけどね。昨日の夜も、本当はここまで取りに来ようと思ったんですけど、ひめ先輩が、家にいなさいって……」
「そうだったんだね。でも、あの子は、今日きみに猫を探すようにお願いしたんだよね?」
「わたしの家の近所、猫のたまり場だったんです。その周辺を見て、って意味だったみたいで……」
「もしかして、あの子、きみをいじめていないよね?」
 細い顔の女の子はきょとんとした顔をして央介を見た。
「どうしてそう思ったんですか?」
「いや、朝、きみに対して、高圧的な態度をとっていた気がして……もし、そうだったら、本当に申し訳なくて、その……」
 ぎこちない言い方になってしまう。もし日芽香がいじめの加害者だとしたら、胸が張り裂けそうになる。だけど、もう問いかけてしまった以上、止めることはできなかった。真実と向き合う準備なんて、央介にはできてないのにも関わらず、つい突っ走ってしまった。言葉を発するたび、後悔が募っていた。
「ひめ先輩はわたしがあちこち探し回って、ここまで来ちゃったから怒っていたんです。本当は軽傷なのに、無理させちゃいけないって思ってくれているみたいでして」
「それだけの理由?」
 央介の中で勝手に疑惑が膨らんでいく。どれもこれも心に引っかかって仕方がなかったのだ。
 日芽香が発していた緊張感のある口調と威圧的な態度には、もっと別の理由がある気がした。それに今猫の顔周りを撫で続けているこの少女は、いじめをしていないとすぐに否定しなかった。あの「きょとんとした」顔も、不意に真実を突かれて、あっけにとられた様子にも見えた。
「ひめ先輩のパパは、娘を信じていないんですか?」
「えっ?」
「ひめ先輩は、自分のパパのことを誰よりも信じているのに……」
 央介はつい固まってしまった。細い顔の女の子が猫を撫でる手を止めて、真剣な表情で見つめてきたからだ。
「信じているよ、もちろん」
 なんとか央介は言葉を絞り出すも、静寂な空間の中でもすぐに掻き消えるほどの声にしかならなかった。
「ひめ先輩は、本当はここをバズらせて、みんなに注目されるような場所にしたいって思っているんです。だけど、パパにはパパの考えがあるし、どうするべきなのか真剣に考えているから、もうやらないんだ、って言っていたんです。ほら、なんでもSNSとかスマホでこなせる時代ですけど、やっぱりそれに逆行したものもみんな求めているじゃないですか? 
 みんなで同じ空間で過ごせるところ、リラックスしてなにもせずにいられる場所、みたいに……たぶんひめ先輩は人気もあるし、かわいいから、自分がどんどんアピールすればいいって思っているんです。でもパパさんはそう考えていないんです。パパさんは今のやり方を心地よく感じている。だから我慢しているんです。パパさんを信じているから、ひめ先輩は自分がやってみたいことを抑えているんです」
 子猫が央介のほうを向く。鳴き声も出さず、見つめてくる。その眼差しにもまた、強い意志があるように感じてくる。
「ひめ先輩は、パパさんのことが大好きなんです。どんなときでも自分のことを最優先に考えてくれているパパさんのことを信じているんです。ちょっとしたことで変に娘を疑ったりしないで、本当の意味で信じてあげてくださいよ。部活でも頼りになる先輩です。練習についていけない子を出さないようにって懸命に一緒に練習してくれる人です。わたしが出られないってことになったとき、上級生で唯一泣いてくれたんです。それが、わたしから見えているひめ先輩なんです。パパさんは安心して見守っていればいいんです。この子を受け入れたみたいに……」
 心にずしんと来た。気圧されているぐらいだった。央介は泣きそうになるのを抑えながら、黙々とテーブル席でなにかを書き続けていた青年に意識を向けていった。
 青年も央介を見つめていた。ヘッドホンを外し、書く作業もやめ、感情が読めない視線を送ってくる。
「おかわりですか? お会計ですか?」
「いいや、違くて……」青年は視線を落とす。「なんか家の中みたいっすね、ここ。思春期の子供がいる会話が少ない家って感じでその、歯がゆい感じとか、どことない緊張感とか、そんなものがあって、ここで生活している感じがするんですよね。いい意味でどこかざわざわしていて、なんか喫茶店っぽくないんです。無理に作り出している感もなくて、その……」
 青年は言葉を切って、大きく息を吐き、子猫とそのそばにいる女の子を一瞥した。
「おかわり、もう一杯もらえますか?」
 央介は、「は、はい」と言って、コーヒーを用意する。
 青年が来店したときはいつも、店内は央介自身に関するゴタゴタが渦巻いている状態だった。最初は元妻の現夫が来ていて、今は日芽香の後輩がいる。ヘッドホンで音を遮断していても、十分にその生々しさが伝わっていたのかもしれない。
 細い顔の女の子は、猫と戯れながらも、ちらちらと青年を見ている。
 青年はヘッドホンを外して、またノートに視線を落とした。
「あの、お兄さん」
 細い顔の女の子が青年に声をかけた。
「はい、どうしましたか?」
 青年はほとんど表情を変えずに応じる。
「なに書いているんですか? ずっと黙々とやっているみたいですけど」
 日芽香の前ではもじもじしていたのに、案外図々しい側面もあるようだ。初対面の人に対しては積極的に話せるが、親しくなればなるほど、どんどん引っ込み思案になるタイプなのかもしれない。
「あー、自分の思いをね、とりあえず書き留めていくんだ。これが映画になるのか、小説になるのか、音楽になるのかわからないけど、いつか誰かに伝えるなにかにしたいなって思っていてさ」
「へえー」
「でも伝えるのって難しいよね。その人が求めている答えじゃないかもしれないしさ、自分の押しつけかもしれないし、なんかさ、書いていて、どうすればいいのかわかんなくなるんだよ。だけどとにかく言葉にしたくて今、まとまらないまま書き続けているんだ」
「人に無理して伝える必要はないんじゃないですか。どこかに書き留めて、吐き出せているのなら、無理に形にしなくてもいいかなって」
「でも、伝えないとわかってもらえないかもしれないじゃん」
「わたし、部活でダンスをしているんですけど、練習して、披露してみて思うんです。ただ自己顕示欲を見せつけているだけなんだろうな、って。でも自分がやっていて満足すればそれでいいようにも思えてきたんです。ここの、店主の、パパさんの娘さんが、あっ、わたしの先輩は、自分が納得できればそれでいいじゃん、的なことを言ってたんです」
「でも完成度を高めて披露しようって練習するんでしょ?」
「うーん、相手にどう伝わるか、よりも、自分がどうしたいか、っていうことを考えて披露するべきなのかなって、そう思うようにしているんです」
「自分さえよければいいってこと?」
「そんな極端なことを言っていませんけどね」
「まあ、簡単に一番いい方法がわかったら誰も苦労しないよな」
「答えなんてじっくり探していけばいいんですよ」
 二人は言い争うわけでなく、静かに話し合っていた。互いに抱えているものを、相手に伝えて、自分に落としこもうとしているようだった。たとえそれがうまくいかなくても、二人はさっきよりも満ち足りた表情をしていた。
「パパさんはいいですね。ここで働くっていう答えをちゃんと見つけられているんですから」
 細い顔の女の子は店内をゆっくりと見回しながら言った。
 央介は、「どうかな?」と言いながら、コーヒーをテーブルの上に置いた。

 閉店の一時間前になると、朝方に顔を出した、白地に黒が混ざった色合いの猫がやってきた。壁際でじっとしていた黒い子猫がドアのそばに近づいていく。カウンターにいた客がそのことに気づき、ドアを開けた。すると、子猫はすっと店から出ていき、白地に黒が混ざった色合いの猫について歩いていった。さも親が保育園に迎えに来たようだった。
「猫っていう生き物はよくわからんもんだよな。人間だってよくわからないもんなんだから、まあ、当たり前なんだろうけどな」
 客は太鼓腹をした中年の男性しかいなかった。央介は、その客から猫がいる事情を訊ねられ、簡単に説明を済ませていた。
「ここの噂を聞きつけてさ、一人落ち着きたくなって来てみたら、先客が居座ってんだもんな。まあ、悪くなかったさ。隠れ家って感じで、とっても落ち着くもんな。おれたちは刺激をずっと求めているくせに、ふとそうじゃないものが欲しくなるんだ。普遍的っていうか、なんていうか、時代が変わっても変わらないものが、このDNAに深く刻まれているんじゃねえかな」
「そう思ってもらえると光栄です」
 とても饒舌な客だった。一人で落ち着きたいというより、自分の話をたくさん聞いてもらえる人間を探していたのかもしれない。央介にとっては心地よくも悪くもなかった。
 単純に今、安心していた。
 夕方になる前に、日芽香が帰ってきた。
 日芽香は、「ただいま」と発してすぐに上に行ってしまった。閉店作業が終わって、時間がある程度できても、日芽香は長く出かけていた理由を多く語らないかもしれない。だとしても問題ない。央介にとっては、ちゃんと帰ってきてくれただけで十分だったのだから。

 その日から度々、黒い子猫は店を訪れるようになった。親猫は店の前まで付き添ってから、人間に託すかのようにどこかへ行ってしまう。そして、閉店が近づくと迎えに来るのだ。
 真意はわからない。訊ねても答えはもらえない。でも子猫を連れた親猫は、人間を信用してくれているようだった。
 央介はその二匹に、自分と日芽香を重ねてしまう。まるで親猫は、人間だけでなく、自分の子供にも全幅の信頼を寄せているように見える。動物界のしきたりや価値観はまるで違うはずだ。本当のことなんてわからないから、そう思っていればいい。人間は都合よく解釈することしかできないのだ。ただいいように捉えることこそが、健全な気がしてくる。
 不思議なことに、央介のリズムに合わせるように客が入ってくる日が増えていった。
 混み合うわけでもなく、閑散とし続けるわけでもなく、なにか理由を持って、誰かが訪れてくる。
 ある客は、度々訪れる子猫目当てに現れて、「ねえ、今日はクロスケいる?」と訊いてくる。猫がいなければ、「にがいな」と言いながら、一杯だけ飲む。子猫がいれば長く居座って二、三杯ほど飲んで帰っていく。
 またある客は、「央介くん、大丈夫かい。無理すんなよ」と言いながら、頻繁に顔を出してくれる。「一回倒れちゃってから心配でさ、ほら、これ持ってきたから、しっかり栄養つけてな、がんばれ」と米袋や野菜を手渡して、一杯だけコーヒーを飲んで帰っていく。
 またまたある客は、店内に流れるジャズに浸りながら過ごす。「ここって有名なミュージシャンが来るんですよね」と言って、自分の音楽論を語り続けるのだ。いつも日曜日に来て、子猫がいれば、おやつをわざわざ買いにいって与えてくれる。コーヒーに自前で持ってきたミルクを入れて、ゆっくり時間をかけて一杯を飲み干すのがその客の作法として定着していった。
 これまでの出来事が絡み合って、誰かの新しい居場所になっていく。
 どんな出来事も一切無駄じゃなかったのだというように、それぞれが共鳴して新しい関係が生まれていく。
 だとしても央介のやることは決して変わらない。誰が来ても並列に客として迎え、ホットコーヒーを用意し続けているだけなのだ。

 時が過ぎていき、外気に触れるだけで、身体の中心まで凍えるような季節が訪れた。
 駅前ではときどきクリスマスソングが聴こえてきて、モリムの近所では、イルミネーションで彩られた家が現れる。ホットコーヒーは比較的、冬になると売れ行きが上がる。その現象は例年通りで、汗ばむ秋よりもずっと来客は増えていた。
 朝早くには、日芽香がバタバタと支度を始める。央介はできる限り早く起きて、学校へ向かう姿を見送る。
 由香里に買ってもらったコートを着て、スカートの下にはジャージを履く日芽香が食パンを頬張って、髪を縛っていた。身なりよりも機能性や効率性を重視したその格好と動きに、央介はつい一言言いたくなる。
「ごはんはさ、ゆっくり食べてもいいんじゃない」
「あのさ、朝の時間は、あっという間に、過ぎていくんだよ」
「まだ時間に余裕があるんでしょ?」
「後輩たちも、みんな気合が入っているから、早めに集まって、振り入れしていくの。もう、いちいち、なんか言うんだったらさ、もう少し寝ててよ」
「あと、三日後だっけ?」
「うん、そう。パパも、見に来るんだっけ?」」
「もちろん、土曜日だもんね」
 日芽香はずっともぐもぐさせていた食パンを飲み込んで、それじゃあね、と言って階段を下りていった。央介は、いってらっしゃい、と言いながら手を振った。
 いつもの朝がモリムの上にある二階から忙しなく始まっていく。
 央介が一階に下りると、また店の前で物音が聞こえてきた。それはもう親猫が子供を預けてほしいというお決まりの合図になっている。ドアを開け、黒い子猫を出迎える。すぐに親猫はどこかへ歩いていく。子猫は定位置となっている場所を陣取って、べたっと床に座り込んだ。
 開店前には、コーヒー豆の卸業者の平井が訪れた。肩をすぼめながら店に入ってきて、おはようございます、と言いながら、いつものようにコーヒー豆を奥まで運んでくれる。
「平井さん、本当にあのときはありがとうございました」
「もう何度もその言葉は聞いていますよ。それより、すっかり元気になられたようでよかったです」
 央介が倒れたときに、迅速に119番通報をしてくれたのは、その場に居合わせた平井だった。厳しさと独自の考えを持つ人物ではあるが、央介は顔を目にするたびに恩を感じずにはいられなくなる。お礼を伝えると、平井はいつもはにかむような笑顔を見せてくれる。その表情はまんざらでもなさそうで、会うたびにこんなやりとりを繰り返すようになっていた。
「最近、客入りがいいみたいですね」
「はい、おかげさまで。きっと招き猫のおかげかもしれません」
 央介の視線を辿るようにして、平井が子猫を見た。
「ああ、この子猫、クロスケって呼ばれていますよね」
「えっ、知っているんですか?」
「はい、スマホでこのお店を調べると、かわいい猫と遭遇できるかも、っていう情報が流れてくるんですよ」
「あんまり話題になるのは──」
「いいじゃないですか。落ち着いたネット社会から離れたこの場所が自然と誰かに知られていく。それって、作為的にしたことではないわけじゃないですか。ここはあなただけのものではないし、先代だけのものでもないんです。自然な流れに身を任せていけばいいんじゃないでしょうか。以前は厳しいことを言いましたが、これからどうなっていくのかわかりません。一寸先は闇なのか光なのかもわからないです。だからわたしも変に考えを固執せず、流れに沿って身の振り方を考えていければと思っているんです」
「今後のことについては、その──」
「実は、この前、わたしのもとにある青年が来ましてね。今やっている事業を継ぎたいと名乗り出てくれたんですよ」
 平井はドアを開けて、「おーい」と声を出し、外に向かって手招いた。店の前にはいつものように黒い車がある。央介が搬入したコーヒー豆の請求書に目を通していると、「久し振りです」という声が聞こえた。
 ドアの前には、以前カウンター席でヘッドホンをつけてなにかをずっと黙々と書き続けていた青年がいた。
「いらっしゃいませ」
 央介は反射的に、客を店内に迎え入れる挨拶をした。
「今日は、平井さんがどんな仕事をしているのか知りたくて、ついてきただけなんです」
 青年は青いダウンジャケットを着ていて、さわやかな笑みを浮かべて央介を見た。
「気持ちはまとまったんですか?」
 央介は店内でのやりとりを思い返しながら、訊ねる。
「ぼく、カフェ巡りが好きで、いろんなところに顔を出していたんです。それで、あの中学生ぐらいの女の子とここで話して思ったんです。こういう場所を残していきたいなって。最初は漠然とした感じだったんですけど、それからいろいろ調べて、平井さんのことを知ったんです。大学を卒業してから普通に就職したんですけど、なんだかずっとモヤモヤしちゃっていて、自分のやりたいことがはっきりしないなら、まず誰かのためにやれることとか、誰かの意志を引き継ぐようなことをしたいなって……まあ、なんだか、おこがましいこと言っちゃっているんですけど」
「正直、まだ決意とか覚悟とかが彼にあるのか、わたしにもわからんのですけどね」
 平井が厳しい目つきで青年を見ながら言う。
「でも行動することが大事なんですよね。ずっと吐き出すように書き留めていても次に進まないから、本格的に動き出したいな、って」
「第一歩が踏み出せたなら、それって素敵なことですよね」
 央介の言葉にまるで同意するかのように子猫が小さく「にゃー」と鳴いた。

 それから三日間は忙しかった。テレビ番組からの取材は断り続け、配信者の撮影も丁重に断っていたが、じわりじわりと名前が広がっている感覚がした。
 店内に猫が来ることがある、という理由だけで、人々は関心を寄せていった。そんな店はいくらでもあるし、毎日会えるわけでもない。でも、どこにでもあるコーヒーショップに付加価値が加わったことはたしかだった。
 それに、先代から引き継いだスタイルはどんどんズレ始めている。陰日向で咲くように脚光を浴びることなく運営していき、ホットコーヒーだけを提供する形ではなくなった。
 ある日、三歳ぐらいの子供がテーブル席で手持ち無沙汰をしているとき、ちょうど睦子が一階に下りてきた。両親はホットコーヒーだけしか注文できないことに了承していた。でも、その日はちょうど猫がおらず、子供が退屈をしているのは明らかだった。それを見かねたのか、睦子が勝手に牛乳を温めてカップに注ぎ、「はい、どうぞ」と与えたのだ。すると小さな子供はニコっと笑った。
「あったかくて、おいしいー」
 その日からモリムに二つ目のメニューが生まれた。ホットミルクだ。金額は四五〇円で、こだわりもなにもない。二階にある牛乳を温めるだけのものだ。日芽香はそのエピソードを含めて気に入り、新しいメニューを歓迎した。とても自然に発生したこの重大な出来事を、なぜか央介も簡単に受け入れていた。猫のことも、メニューが増えたことも、央介が手を下したことではない。ただこうした些細な変化の連続は、継続してきたからこそ生まれたことだ。央介はどこか奇跡に近いもののように感じていた。
 央介は金曜日の昼間に訪れた府川にそのことを伝えると、しわくちゃな顔をもっとしわくちゃにしながら笑った。
「じゃあ、央介、おれにもホットミルクをくれよ。ホットコーヒーに入れてみるぜ。両方合わせて千円も出費するのは癪だけど、それで三つ目のメニューを試してやるよ。一つ変わったら、ドミノ倒しみたいにどんどん物事って変化するもんさ。なにもなかった地域にスマホが入ったら劇的に変わるのとか、鎖国していた国が開国すると価値観まで変わっちまうのとおんなじなのかもな」
 もうこの変化を止めることはできない。モリムは新しい局面に差し掛かっている。一方で不思議と迷いや不安がどんどん消えていく。結局はお金が解決してくれている。収益が以前より少しずつ上がっているから、悲観的な考えが薄くなっているのかもしれない。
 央介はそんなことを思いながら、金曜日の夜を迎えた。

 土曜日の朝、晴れ渡った寒空の下、央介は睦子とともに駅から離れた公園に向かった。道沿いにある広い公園の入り口まで来ると、何度かモリムを訪れたことがある二人が近づいてきた。そして、二人はいきなり央介の両腕を掴んで引っ張った。
「高浦さん、ありがとうございます。お手伝いに来てくれたんですね」
「さあ、さあ、どうぞ、きちんとお金の管理よろしくお願いしますね」
「えっと、今日は娘がクリスマスイベントで踊るから、その、見に来て──」
「ああ、日芽香ちゃんのダンス部はまだ先だから、安心してください」
「あ、はい。わかりました」
 地域で行なわれるクリスマスイベントは、近所の店が協賛しており、公園に出店しているところもあった。央介は特になにもしていない。しかし、顔馴染みの地元民が揃うため、当たり前のように協力することを求められる。去年も、近くにあるパン屋さんの手伝いをさせられた。
 央介が連れてこられたテントの下にある台には、しましまや水玉の模様が描かれた食器が並べられている。今年は、陶芸作品を扱った出店の番をすることになるらしい。
「裏に値段がありますからね。そこを見て売ってくださいね」
「あの、娘が出てきたら、離れてもいいんですよね?」
「もちろんですよ。当たり前じゃない! ここからでも向こうにあるステージは見えるけど、やっぱり近くで見たいですもんね」
 央介がいるところから少し離れた場所にステージが設置されている。そのそばにある甘栗を販売している出店には、睦子がにこやかな表情をして立っていた。
 楽しそうな雰囲気を漂わせながら、元気に声出しをしている。睦子が、この地域の人と馴染めるか、と最初は不安を漏らしていたことを思い出した。
 央介自身も心境の変化を感じている。以前は地域と密着した店として生き残っていくため、とか、常連であり顔見知りだから、とか、打算的な考えがすぐに浮かんできた。
 でも今は、協力し合って生きていくという文化が心の奥に染み込んでいる。急で無茶な頼みごとをされても、それが自然で、お互い様なのだからと真っ先に感じられるようになっていた。
 過労で倒れた経験や、店内で様々な人々と触れ合うことが、心境の変化につながっていたはずだ。
 央介は、一人笑みを浮かべ、それから店内で装うような笑顔を作った。
「どうぞーぜひ見ていってください」
 イベントにどんどん人が集まってくる。ほとんどの人は央介の前を素通りしていき、ときどき誰かが足を止め、商品を眺めていった。その足を止めたほんの一部の人が、商品を手にし、お財布を出す。並べられた食器たちは、ほとんど残ったままだ。出店している立場の人からは不満が漏れる。
「あー、もう少し、なんていうか集客ができればねー。あー」
「でも向こうは、結構売れているみたいですよ」
「負けたくないよね。こっちが扱っているものは、ここでしか買えない一点ものなのに」
「うーん、やっぱり……」
 店の番をしている央介に冷たい視線が向けられる。三十代後半のおじさんを客寄せパンダに使えるわけがない。
「すみません、高浦さん」
 若い女性の声を背中で感じた。
「はい」
「この時間までありがとうございます。もう店番大丈夫ですよ。ご協力ありがとうございます」
 央介は時刻を確認した。あと三十分ほどで、日芽香がステージ上に現れる。
 微妙な時間が残ってしまった。本当は日芽香に声をかけたり、空いている時間帯にクリスマスイベントを回ったりしたかったが、仕方がない。
「すみません、お力になれず」
 央介は本気で申し訳なく思いながら、言った。
「いえいえ」
 若い女性も申し訳なさそうに振る舞うが、もう央介のことを構っていられない、という雰囲気が滲み出ていた。
「それじゃあ、失礼いたします」
 央介は少し離れて、さっきまで手伝っていた出店を見た。
 先代の声がいくつも蘇ってくる。
「商売をすることで大事なことは、無理に競い合って、背伸びをしたり期待したりしないことである。成長を追い求めても事業によってはマイナスになるケースがある。変わったことをしたり変化を求めたりしても、うまくいかないと思わなくてはならない。社会から急かされて自分を急かしてしまい、常に競争を求めてしまう。そんな感情的なものを真に受けてはならない」
「焦ってはダメ、余裕がなくてもダメ、自分ができるペースで着々とこなしていく。休みを入れながらそうした日々を繰り返して、ときどき訪れる幸せや幸運を全身で感じるんだ。大きなものがつかめなくても、小さいものなら掴めるかもしれないからな」
 当時と変わらぬ声のまま蘇った言葉に対して、央介はつい言い返したくなった。
「そうなのかもしれないですけど、人間って、そんなうまくできていないんですよ。あなたを模倣したぼくだって、なかなかうまくいかなかったんですし」
 四角いステージの袖下から背の高い女性が下りてきた。央介はその人物の顔をすぐに思い出せず、ついじっと見つめてしまった。
 すると、その女性が手を振ってきた。はっきりとへっこんで見えるえくぼで気づく。
「あっ、高浦さん、お久し振りです」
「ああ、先生、いつも日芽香がお世話になっております」
 互いに会釈をした。
 何度か顔を合わせたことがあるダンス部の顧問、という情報以外なにも浮かばずにいた。日芽香はいつも「顧問」と呼んでいるため、名前すらも思い出せない。
「学芸会にもいらしていたんですよね?」
「はい。いつもご指導ありがとうございます。学芸会のときはご挨拶に伺えず申しわけありませんでした」
「いえいえ、気にしないでください。あと、みんなの自主性を尊重しているので、正直わたしはなにもしていないんです」
「今後も日芽香をよろしくお願いいたします」
「ええ、こちらこそです。それに──」
 央介は簡単な挨拶で終わると思っていた。でも顧問の先生は、まだなにかを話そうとしている。これは貴重な機会をいただけそうだ。二学期末の三者面談には、睦子が央介のかわりに参加することになっていた。教員から見た日芽香を直接訊くチャンスだった。
 以前の央介は、学校の先生と話すのを恐れていた。自分の知らない日芽香の一面を知るのが本当は怖かったのだ。でも、猫が初めて店の中に入ってきたあの日、細い顔をした日芽香の後輩に背中を押されていた。
 どんな話を訊いたとしても、心の底から日芽香のことを信じられている今だからこそ、受け止めることができそうだった。
「ひめち、あ、日芽香さんは、最近リーダーシップを発揮していて、引退した三年生のかわりに部を引っ張ってくれているんです。自主性ばっかり強いるんじゃなくて、やり続けて、コツコツ積み重ねて充実していく気持ちが大事なんだって言ってくれて、みんなを前向きにしてくれるんですよ」
「知らないうちにどんどん成長していきますよね。子供だっていう感じで見るより、同じ人間として娘を見ているんですけど、凄まじいスピードで置いていかれている気分です」
「いえ、日芽香さんはお父さんを見て、そう思ったみたいですよ。ごはんをちゃんと食べないし、だらしないところもあるけど、いつも夜起きていて、店もしっかり引き継いでいて、刺激になっているみたいです。互いに人間力を高め合ってるっぽい、みたいなこと言ってて……すみません、失礼な言い方をして」
「いや、全然。娘にそう思ってもらえているのなら嬉しいです。面と向かうと綺麗なことを言って、本音を隠してしまうことが多いですけど、先生の口から彼女の意見を聞けて嬉しいぐらいですよ」
「公立だから、いろんな家庭のお子さんを見る機会が多いですけど、今って平均のラインって見えづらいんです。多様性が尊重されすぎて」
「先生のお立場も大変ですよね」
「うーん、そう考えたら、他人を気にしすぎるのはやっぱりよくないのかなって思うんです。昔からみんな違っていて、今はそれが表面化されてきて、って段階だから、結局大事なのは、なんだろう、誠実さ、みたいなものなのかもしれないな、って。自分でコツコツと自分の信じる道を進んでいけば、それを誰かが見てくれて、互いに誠実なところを見つけ合って、認めていく、みたいな……ごめんなさい、うまく言えなくて。これでもわたし教師なのに、なんか恥ずかしい言い方しちゃって」
「恥ずかしくなんかないですよ、全然。この世界って、簡単に言葉にできないことばっかりですから」
 ダンス部の顧問である先生は二十代中盤ぐらいに見えた。十年ほど経てば、日芽香も同じ年代を迎えることになる。まるで日芽香の未来を見ているような気分になり、素直に応援したくなってきた。しかし保護者と教師という立場上、あからさまに態度に出すことはできない。央介は少し歯がゆくなった。
「次の次が出番なんです」
「はい。しっかりとここから見守ります」
「すみません、足を止めてしまって……たぶん、ひめちゃんは、パパに見てもらいたくて、踊ると思います」
「そうなんですかね」
「みんなに届けようなんておこがましい。今一番近くにいる人に向けて、不器用なりに届けていきたいって、ああ、これもひめちゃんの、受け売りの言葉なんですけどね」
 そう言って顧問の先生は深くお辞儀をして、ステージのほうへと戻っていった。
 ステージの隅にマイクを持ったスーツ姿の男性が現れる。ちょうど一つの出し物が終わったところだった。
「次に披露していただくのは、ケンヤ・レノンさんによる、『ロックンロールに花束を』です。さあ、よろしくお願いします」
 生真面目な紹介と同時に出てきたのは、央介の元音楽仲間であるケンヤだった。ほとんどの人はステージ上を注目していないようだ。地域にまつわる人々が出演する場において完全に場違いな人物だった。その場違い感を強調するように、サイケデリックなマルチカラーのトップスと赤いフレアパンツの組み合わせで登場した。レノンを名乗っているはずなのに、その姿はどちらかといえばヘンドリックスだった。
 スタンドマイクの前に立ち、フォークギターを取り出す。
 いや、そこはエレキギターじゃないのかよ、とつっこみを入れたくなったが、周囲の目もある。央介はなんとか無表情を貫きながら見つめていた。
「みなさん、ぼくはここに住む皆さんが大好きです。ほとんど誰も知らないけど、大切な友人がいるんです。そんな友人と、その娘さんに届けます」
 ケンヤはやや乱暴にギターをかき鳴らしながら、マイクに唇を近づけた。

 夢を失った今のほうがずっといい
 追いかけるのは疲れてしまう
 生きたくなると、死にたくなる世界
 思った以上に役に立たない
 スマートフォンは疲れてしまう
 触りだすと、止まらなくなる指
 人に迷惑をかけるのが当たり前
 だけど誰も許しちゃくれない
 最悪楽しくなくたっていい
 生きる気持ちがあればいい
 黒い子猫に餌を与えて、きみの家に住まわせた
 音楽と猫とコーヒーと
 忘れちまったか、きみの言葉を
 おれはこの子のために生きるんだよと
 幸せを感じてほしくて届けてみた
 だけど、きみは幸せの中にいた
 夢を失った今のほうがずっといい
 追いかけるのは疲れてしまう
 思った以上に役に立たない
 
 ケンヤのため息をマイクが拾う。ほとんどの人はステージを気にせず素通りしていた。それでも聴いている人が最低でも二人いれば、その歌はちゃんと成立していた。央介はケンヤの偏った考えに賛同することなどない。ましてや唐突に子猫が店に来るようになったのがケンヤの仕業だったということを知り、呆れるほどだった。
 だとしても、央介の口元は緩んでしまう。どうして自分はこんなに恵まれているんだろう、と。
「ただ叫んでいたみたいな感じだったね」
 いつの間にか睦子が央介の隣にいた。
 ケンヤがステージから降りると、またマイクを持ったスーツ姿の男性が現れた。おそらく次が、日芽香たちの出番だ。
 央介の後ろから足音が聞こえた。後ろを振り返ると、そこには息を切らした由香里がいた。
「ああ、間に合った……」
 由香里と睦子の視線がぶつかる。
「高校の授業料って無償化になっているのよ」ぼそっと睦子が言い、視線をステージのほうへと移した。「でも、ありがとう。これからたくさんお金がかかるから。まあ、でもなんだかんだで、あなたもあの子の親なんだもんね」
「親が頼りないから、子供がしっかりしただけなのかもね」
 央介が一言添えると、由香里が首を横に振る。
「誰かに助けられながら生きている父親だとしても、十分に立派だと思うけどね」
 ステージに、サンタの帽子を被った学生服の女子中学生たちが散らばっていく。日芽香はやや後方に位置を取った。
「ねえ、いつも、見に来てあげているの?」
 由香里が訊ねてくる。
「時間が合えば、できるだけね。全部が全部は無理だけど」
「そっか、わたしは全然だよ。環境を変えても、結局、仕事ばっかり優先してきたし、自分のしたいことばかりに集中し過ぎた」
「まあ、ほどほどにしなきゃね、なんでも」
「たぶんずっとわたしはこのまんまかもね」
「無理に変わる必要はないよ。自然と少しずつ、変わればいいんじゃない」
 冬の太陽の勢いが、少し増す。日差しが地面に降ってくる。十二月とはほど遠い、まるで春の気配すら覚えるような暖かさが公園内を包み込む。
 クリスマスまではまだ時間がある。それから正月を迎え、いくつもの季節を過ごしていく。そんな日々の中で、今いる場所とそばにいる人々を守りたい。そのためにはもっと余裕が必要なのかもしれない。
 央介は、不意にそんなことを思った。
 どうして人は無駄に金を稼ごうとするのだろうか?
 央介はちゃんと答えを知っている。知っているからこそ、誰かを愛し守ろうとすることができるのだ。
「準備が整ったようです。次に披露していただくのは、逢花中学ダンス部によるパフォーマンスです。さあ、よろしくお願いします」
 日芽香たちの舞台が始まる。
 Aマイナーセブンのコードから始まる、ゆったりとしたイントロが流れていく。
 央介は、思わず笑ってしまった。
「ああ、この曲、おれが昔に作ったやつだ」
 まだ日芽香が幼い頃、子守唄がわりに聴かせた自作の曲──そのうとうとと眠る姿を見て、央介の気持ちが固まったことを思い出した。
 この曲があったから、今がある。うまく夢に見切りをつけることができた過去の自分に、央介は心から感謝した。
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