彼女の優しい理由

諏訪錦

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彼女の優しい嘘の理由 8

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 自己嫌悪で鉛のように重たくなった両足を引きずるようにして、憂欝な家に向かった。帰りたくなどなかったが、今日はとにかく眠ってしまいたい。珍しく寄り道をしないで自宅に戻った。
 自室に戻ると、そのまま眠ってしまいたい衝動を抑え、携帯電話を取り出した。どうしても一つ済ませておきたいことがあった。それは今朝送られてきた、彩香からのメールに返信することだった。
 布団に包まり液晶画面を見る。そこには一件の不在着信の知らせが映し出されていた。彩香からの電話かと思い、慌てて画面を確認すると、そこに映された名前を見て驚愕した。
 着信は、長らく連絡がなかった母親からだった。別々に暮らすようになって母親から持たされた携帯電話だが、電話してこないでくれと俺の方から一方的に遠ざけていたのだ。
 それなのに、いまになってどうして連絡してきたのだろう。なにか問題が起きたのかと怖々しながら、折り返しの電話をかけてみることにした。数回の呼び出し音のあと、電話は繋がった。
「七季っ」
 開口一番、飛び上がるように突き抜けた声は、三年振りに聞く、けれど紛れもない母の声そのものだった。
「久しぶり、母さん」
「ええ、本当に……」
 受話器の向こうで、母が深呼吸するのがわかる。久しぶりに話すということで、向こうも緊張しているようだ。
 俺は思わず笑ってしまう。それを侮蔑と捉えたのか、母は声のトーンを一段落した。
「私、どこか変かしら? 普段通りのつもりなんだけど」
「母さんの普段通りを、もう忘れちゃったけどね」
 口を開くと、つい嫌味っぽい言葉が出てしまった。慌てて俺は言葉を添えた。
「まあ、母さんが緊張するのも無理ないと思うよ。俺が言ったんだもんな、電話してくるなって。これでも後悔してるんだぜ。あんなこと言うべきじゃなかったって。母さんが俺を置いて家を出たのは仕方のないことだった。だけど、あのときの俺はまだ子供で、母さんの気持ちを理解できなかったんだ。どれだけ母さんが辛い思いをしていたのか想像できないくらい、子供だったんだよ」
「そんなこと、七季が気にする必要ないのよ」
 母はそう言って溜息を吐く。
 馬鹿な息子に呆れながら、それでも慈しむような優しい間だった。
「それにね、七季はまだまだ子供よ。いつまでも、私の子供」
 俺は恥ずかしくなって言葉を返せなかったが、温かい気持ちになったのは間違いない。こんな気分は久しぶりだった。
「ところで……あの人は元気にしてるの?」
 母の声が、そこで若干沈んだのを俺は聞き逃さなかった。
「まあ、相変わらずだよ」
「相変わらず、お酒ばかり?」
 その通りだった。伊達に長年連れ添ってはいなかったのだなと感心してしまう。しかし、あまり気分はよくない。
「あいつの話は止そう。せっかく久しぶりに話すんだから、楽しい話がしたい」
 憮然としてそう言うと、母は困ったように言葉を探した。
「それにしても、本当に大人になったわね。考え方が変わったのはもちろんだけど、口調とかも少し大人びた気がするわ。やっぱり、七季ぐらいの年の子は成長が早いのね。私も傍で見ていたかった」
 そこで息を呑む声が受話器の向こうから聞こえた。母は失言だったと謝ってくる。
「私が出て行ったんだもの、そんなことを言うのは狡いわよね」
 母もまた後悔しているのだ。俺を置いて出て行ったことを。それが当時の最善策であったとしても、振り返れば後悔の念が過ぎるのだろう。
「俺は本当にもう気にしていないから。もちろん、恨んでいた時期もあった。憎まずにはいられない場面もあった。だけど、それは俺自身の弱さが招いたものであって、母さんが俺を助けようと必死だったのは知っているよ」
「でも、結果的にその家にあなたを置き去りにしてしまったわ」
「それも仕方のないことだろ。あいつは、母さんが俺を連れて出て行くことを許さなかったし、それに、母さんの再婚の話だって、俺がいたら上手くまとまらなかったかもしれない。いまも昔もこれからも、母さんには幸せでいて欲しいんだ。だから、俺の所為で幸せをふいにして欲しくない」
 そこまで言って、俺は自分の言葉が恥ずかしくなって誤魔化すように言葉を継いだ。
「そう言えば、どうして急に電話してきたの?」
「なあに? 電話しちゃ悪いみたいな言い方ね」
「いや、そうじゃないけどさ。俺、電話してくるなとか言っちゃったじゃん。だから母さんもそれから連絡してこなかったわけだし、それがいきなりどうして連絡してくる気になったのかなって」
 母は躊躇するような間を置いた。その間が意味するところを、俺は知らない。  
 やがて母は口を開いた。
「七季。その家を出るつもり、ある?」
 突然の質問に当惑しながらも、俺は思ったことを口にする。
「もちろん、こんな家はいますぐにでも出たいと思ってるよ」
「それを聞いて安心したわ。いまの旦那が、七季を引き取ってもいいって言ってくれてるのよ。私たち、また一緒に暮らせるのよ」
 そのことが母にとって堪らなく嬉しいことなのだと伝わってくる。
 だが、俺は複雑な気持ちだった。
「旦那って、母さんの再婚相手の………新堂(しんどう)さんだっけ?」
「そうよ。新堂の家で一緒に暮らしましょう。そうしたらいままでみたいに苦労することもなくなるのよ。また美味しいご飯を作ってあげる。お家だって広くて、七季にも綺麗な部屋が用意できるわ。それにね、旦那との間にもうすぐ子供が産まれるのよ。やっぱりお兄ちゃんがいてくれると、産まれてくる子供のためにもなると思うの。それにね、新堂の家にくれば、あの人に恐怖して暮らす必要もなくなるのよ」
「ちょっと待ってくれよ!」
 俺は考えた。この家から出たいとずっと願っていたのは本当だ。鉄郎のことは嫌いだし、母ともう一度暮らせるというのも、とても魅力的だと思う。もうコンビニの味気ない弁当を食べる必要もないし、洗濯も掃除もゴミ捨ても、やらなくていいならそれほど有難いことはない。だがしかし、この家を出ることはできない。ありのまま、それを伝えた。
「どうして? そんな家さっさと出て、一緒に暮らしましょうよ」
 母は、信じられないとでも言うように声を荒げた。
「俺はさ、やっぱりあいつを一人にはしておけないよ。あいつは誰かが見ていてやらないと駄目なんだ。酒も煙草も、俺がいれば少しは管理できる」
「そんなこと七季が気にする必要ないじゃない。ねえ、一緒に暮らしましょう? 七季のことが心配なのよ」
 その言葉に、少なからず腹が立った。なにをいまさら、と言ってやりたい気持ちになる。心配ならなぜもっと早くに助け出してくれなかったのか。なぜ自分を最優先で守ってくれなかったのか。言葉を探せばキリがない。だが、いま感情的になったらきっと母を悲しませることになる。それは嫌だと思った。
 自分を落ち着かせるために一息ついてから、俺は言った。
「大丈夫だよ、俺は一人でもやっていけるから」
「そんな……あんな人のこと、もうどうでもいいじゃない!」
 母は本音を叫ぶ。仮にも愛し合って俺を生んだはずの母から、その相手を蔑ろにする言葉を聞くのは耐え難かった。俺にとっては、どちらも親に違いないのだから。
「悪いけど、俺は新堂さんを家族だとは思えないよ。母さんのいまの旦那を父さんとは呼べない。俺にとって母親は母さん一人だけだし、父親だって………あいつだけなんだ。その事実から逃げることはできないんだよ。だって俺とあいつは血で繋がってるんだ。それは、もうどうしようもなく深い繋がりなんだと思うから」
「それなら私はどうなのよ。家族は一緒にいるべきなんでしょう?」
 母はまだ諦めるつもりはないらしい。まだ、わかってくれないのか。そう思い、俺は嘆息して言った。
「いまはいいかもしれない。母さんの言うように、新堂さんは俺を受け入れてくれるかもしれないさ。だけど、きっといつか俺が邪魔だと思う日がくるよ。俺は母さんに似てないから、あいつの性格の悪いところばかりが遺伝してるんだ。きっと幻滅されるに決まってる。それになにより、母さんと新堂さんの間には子供が生まれるんだろう? そうしたら俺は邪魔になるよ。新堂さんだって、自分の子供が可愛いに決まってるんだ」
「そんなこと―――」
「ないかもしれないっ、しれないけどさ!」
 母の言葉を奪うようにして俺は続けた。
「でも、信じられないんだよ。誰も信じられない。母さんだって、結局は俺をこの家に置いて出て行ったじゃないか。あいつしかいない家に俺を一人置き去りにしたじゃないか。いまさらだよ。いまさら遅過ぎる。俺はこれまで一人でやってきたんだ。これからも一人で大丈夫だよ。いや、大丈夫なくらい強くなったんだ」
 それはまったくの嘘だが、そうありたいと思うのは本当だ。誰かに寄生して生きたくなどない。だから俺は別離を込めて言った。
「元気でね、母さん」
 そして、電話を一方的に切った。母のすすり泣く声が、最後は聞こえていた。
 通話の切れた携帯電話を眺めながら俺はふと思った。近頃は女性を泣かせてばかりだな、と。そうして感傷に浸っていると、静けさに包まれた部屋に突如として嵐がやってきた。部屋と廊下とを隔てるふすまが、不躾な音と共に開け放たれたのだ。
 なにごとかと視線を向けると、そこにはおぼつかない足取りで立つ鉄郎の姿があった。
「な、なんだよ、勝手に入ってくるなよ!」
 俺は即座に怒声を上げる。大嫌いな家の中で、唯一気の落ち着ける場所に不当に侵入し、その絶対性を犯されたことが許せない。
「ここはお前の部屋である以前に、俺の家じゃ」
 唾を撒き散らしながら鉄郎は言う。その手には一升瓶が握られていた。家の中を歩き回るときでさえ、酒を手放せない鉄郎は完全にアルコール依存症だ。その手に握った酒瓶を煽り、喉を鳴らしてアルコール分を摂取した。ボタボタと口から酒をこぼし、乱暴に口を拭う。部屋中に酒の臭いが充満した。
「テメエ、いま誰と話してやがった」
 鋭い眼光を向けられ、俺は思わず瞳を逸らした。母と連絡を取ることを鉄郎に固く禁じられていたので、電話の相手を知られたくなかったのだ。
「答えぇ!」
 鉄郎は怒鳴り、床に散らばった学生服を蹴り上げた。昔の嫌な記憶が蘇り、俺は竦み上がった。やはり、植えつけられた鉄郎への恐れは未だ拭いきれていない。
「母さんと電話してただけだよ」
 そう答えると癇癪を起こすように頭を掻き毟り、鉄郎はまた酒瓶を煽る。
「あの女とはもう関わんなと何度も言ったろうが。あんな女、もうお前の母親ややない!」
「ふざけんなよ。お前に母さんのことをとやかく言う資格はない」
「父親に向かってお前とは何じゃ、お前とは!」
「いまさら父親面すんなよ」
「俺はおめえの父親じゃ」
「なら母さんだって、俺の母親じゃないか」
「あんな女、余所に男作って出て行くような淫売やないか」
「誰の所為でこんなことになったと思ってる!」
 奥歯に力を入れ過ぎて、顎が痛かった。それほどまでに、鉄郎の身勝手さに腹が立ったのだ。苛立ちを抑えることなど、もはやできなかった。
「全部あんたの所為じゃないか。働きもせずに酒ばっかり飲んで、暴力を振るうから、母さんも嫌気がさして出て行ったんだ。自分の責任を他人に押し付けるなよっ」
「ガキになにがわかる。仕事を奪われ、文子(あやこ)にも裏切られた俺の気持ちがわかるってぇのか」
 ふら付きながら、壁に背中からもたれ掛ける鉄郎。その口から母の名を耳にするのは久々だった。
 だからだろうか、この男の惨めさがひと際目立って見えた。
「情けない。本当に情けないよ、あんた」
 そう言って侮蔑の籠った眼差しを向けると、プライドばかり高い鉄郎は怒鳴り声を上げて向かってきた。覚束ない足取りで近付いてきて、手を上げる。頬を思いきり叩かれた俺は、それでも怯むことなく睨み返した。
「この、害虫が」
 腹の底から、怒りと共に俺は言葉を絞り出した。
「母さんの苦労も知らないで、のうのうと酒ばかり飲んでたのはどこのどいつだよ。浮気されたのだって、自分に責任があるとどうして思えない」
 鉄郎も引かなかった。
「俺は工場の仕事に誇りを持ってたんじゃ、ボケェ」
「誇り? そんなもんでメシが食えるのかよ。家族を思えば捨てるべきものだろうが。結局、あんたは自分の無能さを知るのが怖かったんだ。工場勤務以外を知らないから、別の仕事をしてダメな自分を知るのが怖かっただけだろう」
「ッ黙れ、このガキ!」
 怒りを静めるように酒瓶を煽り、鉄郎は喉を鳴らした。
 俺は呆れ果てて言う。
「そうやって酒を飲んでればなにかが解決するのかよ? 母さんの再婚相手からせしめた慰謝料で酒ばかり買って恥ずかしくないのか? もういい加減にしろよ、この寄生虫が」
 その言葉に、鉄郎の目が血走った気がした。一瞬の出来事でよくわからなかったが、次の瞬間には視界が暗転した。頭部が、まるで焼けるように痛い。チカチカと視界が歪んで、まともに前を見られなかった。だが、視界の中心に立つ鉄郎の姿だけはハッキリと見据えられた。その手に持つ酒瓶が目に映る。
 散漫とする意識の中、頭部を撫でて確認すると、生温かい鮮血がこびり付いていた。次の瞬間、俺は鉄郎の胸倉を掴みあげていた。
「殺してやる!」
 鉄郎を壁に押し付け、怒号を浴びせる。
「あんたさえいなければ、俺はもっとずっと幸せだったんだ!」
 こんな男が父親でさえなければ、と本気でそう思った。自分の不幸を正すのなら、そもそも生まれの不幸を呪わねばならない。鉄郎の息子として生まれたことが、そもそもの間違いなのだ。
「テメエこそ、自分の不幸を俺に押し付けているだけじゃろが」
 それはまるで、内心を見透かしたような言葉だった。
 鉄郎は纏わり付くような笑みを浮かべて、俺の顔を一瞥した。
「お前には無理じゃ。お前に俺は殺せない。お前には、無理じゃ」
 まるで怯む様子のない鉄郎に、食ってかかっているはずの俺が臆してしまう。鉄郎の襟首から手を離すと、自分の財布と携帯電話をコートのポケットに入れて、部屋を出た。
「どこ行くんじゃ!」
 背後でしゃがれた声が叫ぶ。その声を無視して家を飛び出した。
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