彼女の優しい理由

諏訪錦

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彼女の優しい嘘の理由 9

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 真冬の夜の冷気が、熱くなった頭を冷やしてくれる。同時に鉄郎に殴られた頭部がガンガンと響いた。だが、その傷みがいまは心地良い。傷みだけが俺の弱さを責めてくれているようで有難かった。
 近所の公園にやって来た俺は、殴られた頭部の傷口を洗った。寒さも相まってか、人恋しくなる。というより、弱音を聞いてほしいと感じた。
 携帯電話を開き、ボゥッと光る液晶画面を眺めたが、誰に連絡をすればいいのか定まらない。康一郎、達夫、艮の顔が真っ先に浮かんだが、無条件で笑顔になれる場所を失いたくないと思い、俺は躊躇した。彼らとは対等な友だちでありたいのだ。
 ベンチに腰掛けながら、頭を抱えて蹲る。結局、頭に浮かんだのはいつも俺を支えてくれる女性の顔だった。アドレス帳から、自然と『枯井戸彩香』の名前を見付けだしていた。今朝、コンビニにいるときに彩香から送られてきたメールには、会いたいと確かに書かれていた。夕方には用事が終わると書かれていたので、もう時間的には大丈夫なはずだ。
 彼女の電話番号にカーソルを合わせ、中央の決定キーを押せばそれで話を聞いてもらえる状態になった。連絡を待っていると言っていたから、必ず電話に出てくれるだろう。
 中央のボタンに指を添え、俺は力を込めた。その瞬間、携帯電話が震え出し、画面に着信を告げる相図が浮かび上がった。なんの因果か、画面には『更級沙良』と名前が映し出されている。考えるよりも先に手が動いてしまい、通話状態となった携帯電話を憎々しく思いながら、俺はそっと耳に当てた。
「もしもし」
 自分の沈んだ声が反響して聞こえた。なんて酷い声をしているのだろう。
「夜分遅くにすみません」
 更級さんは丁寧に、お決まりの挨拶を述べる。
「今日の、その、デートのことでお礼を言いたかったんです」
「なに、そんなこと?」
「え、そんなことって………もしかして迷惑でしたか?」
「いや、別に」
 ぶっきら棒に俺はそう答えた。八つ当たりなんて最低だ。このまま話を続けていると、彼女に当たり散らしてしまいそうになる。だから本当ならすぐにでも電話を切るべきだったのだろうが、ほんの気紛れのつもりで俺は言ってしまった。
「会いたい」
「え?」
 耳を疑うように、甲高い声が返ってくる。
「更級さんに、会いたいな」
 どうしてこんなことを口走っているのか、自分でもわからなかった。ただ結局、いまの俺にとっては誰でもよかったのだ。それが騙している相手だったとしても、寂しさを紛らわすためなら平気で利用する。そんな卑怯な自分が嫌で、俺は口を噤んだ。鉄郎を糾弾したこの口が、平気で甘えたことをぬかすのが許せない。
 そうして必然的に沈黙が訪れた。いつまでも続くのではないかと思われた無言は、更級さんによって破られた。
「いま、どこですか?」
 それは予想だにしない言葉だった。更級さんは優しいから、俺の無茶な頼みでも聞いてくれようとしているみたいだ。
「いや、嘘だよ。本気にしないでくれ」
「いいから答えて下さい。いま、どこにいるんです?」
「ごめん、からかい過ぎたよ。謝るから、だからもう―――」
「嘘吐かないで下さい!」
 ぴしゃりと言い放たれ、俺は面食らった。そんな強い口調も出るのだと、感心すらしてしまった。
「大声を出してごめんなさい。だけど、心配なんです。いまの藪坂君、なんだか辛そうで。ねえ、どこにいるんですか?」
 もう一度、同じように彼女は聞いてきた。今度は優しい口調で、すべてを包み込むような声色で、本当の俺を探し出そうとしてくれる。俺は目を閉じ、星が一つもない真っ暗な空を仰いだ。涙が止めどなく溢れてこぼれ落ちそうになったから、そうしたのだ。上を向いていれば、涙がこぼれないと聞いたことがあったから。
 現在地を告げると、ニ〇分ほどで彼女はやってきた。自転車に跨って現れた更級さんは、公園内に俺の姿を発見すると目の前までやってきて自転車から降りた。
「遅くなってすみません。それで、なにがあったんですか? 電話での藪坂君、少し変でしたよ」
「変ってどんな風に? 俺のこと、まだなにも知らないじゃないか」
 また関係のない更級さんに八つ当たりする自分がいる。
 だが、彼女はめげた様子も感じさせない。
「わからないから、こうして来たんですよ。理解してほしいなら話して下さい。そうでないなら、泣きごとを言われるのは迷惑です。そうでないと傍にいる人をみだりに心配させるだけですよ」
「な、なんだよそれ。別に心配してくれなんて頼んでねえだろ」
 彼女の諌めるような言葉にカーッとなり、俺は怒鳴った。そんな説教くさいことを言われる筋合いはないと、そう思ったのだ。
「心配されたくないのなら、心配されるような態度を取らないで下さい。だって心配って誰かに頼まれてするものじゃないでしょう? 藪坂くん、自分じゃ気付いてなかったかもしれませんけど、電話でひどい声だったんですよ。いまにも泣き出しそうなそんな声です」
 俺は驚き、再び天を仰ぐように上を向いた。
「情けないな。全部、お見通しだったんだな」
 更級さんに隠しごとは通用しない。なぜだかそう思った。
「心配掛けたみたいで、ごめん」
「それはいいんです、私が勝手にしたことですから。でも、その代わり無駄足にはさせないで下さい。話せば楽になるなんて、そんな甘いことを言うつもりはありません。だけど藪坂君は私に会いたいって言ってくれました。それはつまり、私になら話してもいいって、そう思ってくれたんですよね?」
 俺はバツが悪くなって目を逸らし、かぶりを振って否定した。
「それは違う。別に誰でも良かったんだ。ただ丁度、更級さんから電話が掛かってきたから、俺はそれに甘えただけで」
 本当は、別の女性に連絡しようとしていたのだと、流石にそこまでは不憫で言えなかった。
「そう、ですか」
 一瞬寂しそうに目を伏せる彼女。自分が特別ではないと認識したからかもしれない。しかし、更級さんはすぐに顔を上げると、真っ直ぐに俺を見た。
「誰でもよかったのなら、むしろ私は嬉しいです。だって私は藪坂君の彼女ですから、藪坂君が苦しんでいたら傍にいてあげたいし、慰めてあげたい。他の人にできることなら、なおさら私がしてあげたいんです。だって、本当に辛いときに隣にいるのが彼女の役目じゃないですか」
 情けなくて、俺は顔を上げられなくなった。こんなに尽くしてくれる彼女を前にしても、まだ彩香のことが頭から離れない自分が、どうしようもなく嫌になる。
「大丈夫。私が傍にいますから」
 涙を流す俺に、更級さんは寄り添って肩を抱いてくれた。彼女が必死になればなるほど、罪悪感で頭がおかしくなりそうだった。
 それから、公園を出て夜の住宅街を歩いた。更級さんの自転車を彼女の代わりに押して歩く。初めは遠慮していたが、それが彼氏の役目だと言うと、頬を赤く染めて小さく一回頷いた。
 行く当てもなく夜の住宅街を彷徨い歩いていると、二人の足は自ずと町はずれにある工場群に向かった。四年前まで稼働していた廃工場は、未だに殆どが閉鎖されている。
 夜の闇が巨大なコンクリート施設を不気味に包み込んでいた。そのあまりの不気味さに息を呑んだ。深夜ともなると、その無骨さは際立って見える。
 だと言うのに、更級さんは俺の顔を覗き込んで微笑んだ。
「入っちゃいましょうか?」
「いや、流石にまずいだろ。バレたら問題になるって」
「大丈夫ですよ。長いあいだ閉鎖されている工場なんですから」
 見かけによらず怖いもの知らずな更級さんに続いて、俺も工場施設に張り巡らされているフェンスをよじ登る。部活で身体を動かしている彼女と違い、乗り越えるのに結構な苦労をした。
 そして見えてくるのは、大きなコンクリート造りの建物が等間隔に建ち並ぶ広大な敷地。そこからは俺が先導して歩いた。父親がここの第四工場に務めていた関係で何度となく足を踏み入れたことがあり、記憶を頼りに歩を進める。第四工場の裏手には森林が広がっていて、工場と森林の間には小さなプレハブ小屋がある。そのプレハブ小屋まで到着すると、扉の前に立って俺は手を触れた。
「この小屋の中に、工場と繋がる抜け道があるんだ」
 懐かしくて、思わず壁を一撫でする。
工場と隣接して建つそのプレハブ小屋の中には小窓があって、その小窓を抜けると工場の中へと忍び込むことができる。中学に上がるまでは、よく彩香と二人で侵入して遊んだものだ。
 更級さんは、当然そんな事実を知るはずもなく、「詳しいんですね」と驚いた様子を見せる。
「そういえばこの場所って、子供の遊び場でしたもんね」
 それ以上突っ込んだ質問をされたくなくて、俺は答えなかった。その代わりに視線を辺りに向けた。
 耳を澄ませば、風を受ける木々の葉が擦れる音が聞こえる。
 更級さんが言ったように、この森林は子供たちの遊び場でもあった。森林を抜けた先に小さな広場があり、そこで昔はよく遊んでいたのを覚えている。遊び相手はもちろん彩香だ。彼女と二人で色々な遊びをし、いつまでもその日々は続くものだと思っていた。楽しい時間に終わりがくるなど、想像もできなかったのだ。

 あの事件が起きるまでは。

 森林の奥へと続くケモノ道にも似た縊路。その暗闇の先に一つの光景が浮かんできた。辺りはこんなにも暗いのだから、実際に見えているはずのない映像。それでも、その景色は記憶として脳裏に焼き付いていて忘れられない。見えるのは稚拙な造りの〝墓標〟だ。中学に上がったばかりの頃、俺自身がこしらえた代物。
「――藪坂君、どうかしました?」
 不審に思ったのか、更級さんは眉をひそめて俺を見た。
「いや、なんでもない」
 そう言って、視線を森林からプレハブ小屋の脇に積まれた木材に移し、木材と木材の間にできた隙間に手を突っ込む。さっと手を引き抜き、その手に握られた冷たい物を確認した。それは簡単な造りの鍵だった。いまや百円やそこらで購入可能な安物。
「すごい、秘密の鍵ですね」
「そんな大層なものじゃないさ。まだこの工場が稼働していた頃、職員の人がここに鍵を隠しているのを見たことがあるんだよ。まだ残っていてよかった」
 鍵を鍵穴に差し込むと、錆付いていてなかなか回らなかったが、力を込めて回すと不快な音とともに半回転した。
 プレハブ小屋に踏み込むと、中は埃っぽい空気で充満していて思わずむせ返った。小屋の中には白い布で包まれた機材がそのまま放置されていて、何年も人の出入りがないためか、その布も心なしか黄色く変色している。
 更級さんを扉の傍で待機させたまま、機材と機材の間に小窓があるのを確認する。それが俺の知る、工場へと続く抜け道だった。
「工場が稼動していた当時は、この小窓から工場に道具なんかを運び入れていたみたいなんだ。このプレハブ小屋って工場の真裏にあるから、なにかを取りにくるとき表に出て大回りしないといけないだろう? その手間を省くために造られた扉ってわけ」
「開きそうですか?」
「どうかな。多分、大丈夫だと思うけど」
 鍵に手を伸ばし、力を込めて小窓を動かす。押して引いて、それでも駄目なら横にスライドを試みるが、ビクともしない。
 携帯電話の光で小窓を照らしてみると、工場の内側から木材で十字に固定されたソレは、まるで嵐から窓を守るときの処置に似ていた。ビクともしないのもこれで頷けるというものだ。
「ごめん。俺に任せろとか偉そうなこと言って、全然駄目だった」
 すると、更級さんは恐縮したように慌てて言った。
「そんな、謝らないで下さい。元をただせば私が工場に入りたいなんて言い出したのが悪いんですから」
「でも、それだって俺のために言ってくれたんだろう?」
「―――え?」
 更級さんは茫然とした顔になった。
「流石に気付くさ。俺のためを思って、こんな人気のない場所まで案内してくれたんだろう?」
「ただ、寒かっただけですよ」
 更級さんはそう言って笑ったが、そんなはずはない。
「本当に寒いだけなら、廃工場でなくともファミレスやコンビニでいいはずだ。人気のない所じゃないと、俺が落ち着いて話せないと思って、わざわざこんな場所に連れてきたんだろう?」
 更級さんは困ったように微笑み、言った。
「寒かったのは本当ですよ?」
「そっか。それならきっと、俺の考え過ぎなんだろうな」
 それ以上の追及は野暮と思い、俺は引き下がった。彼女の気遣いに気付けただけでも満足だ。
「まあここは外より暖かいし、それに邪魔も入らずに話せそうだ。聞いてくれるか、俺の話」
 確認のため隣を窺うと、更級さんは小さく頷いた。
 話がまとまらず、うまく言葉にできない俺を彼女は根気強く待ってくれた。やがて訥々と俺は語り始める。
 父親とのしがらみ。母親との離別。それがどれだけ自分にとってショックな出来事だったのか、俺は包み隠さず話した。不思議と涙は出てこなかった。更級さんが隣にいてくれたからかもしれない。
「さっき父親と口論になって、本気で殺してやりたいと思ったよ。殺してやる殺してやるって何度も心の中で叫んだ。だけどできなかった」
 自らの両手を眺めながら、俺は目を伏せる。
「何度あいつの苦しむ顔を想像したかわからない。でも、いざ目の前にすると、どうしたって体が動かないんだ。それで悟ったよ。俺は、憎む対象である父親を、失いたくなかったんだって」
 頭を抱えて、認めたくない事実から目を背けた。
 更級さんは、その間も黙って俺の隣にいつづけた。なにか言葉を掛けるよりも、黙って聞くことがいまは重要だと言うみたいに。
「ごめん、みっともないところばかり見せて」
 そう言い終わる前に、温かいなにかが俺の体を包んだ。俺は顔を上げ、その正体を確かめる。彼女の細枝のような両腕が俺を包み込んでいた。戸惑いや羞恥心よりもそれに勝る包容力が彼女の腕にはあった。緊張よりも安心感に促されるまま、彼女の腕に包まれ、優しさに甘んじる。目を瞑り、ただ温もりだけをいまは感じていたかった。
「みっともなくたって、弱くたっていいじゃないですか」
 更級さんの励ましの言葉に、憮然として俺は答えた。
「俺は、そんなの嫌だよ」
 いまだって、本当は彼女に甘えている自分が許せない。
「私だって弱いです。でも、二人でならどんな困難だって乗り越えられますよ」
 弱い人間が生き抜くには、この世界はあまりにも辛辣だ。怠惰を許さず、弱音を吐く者を容赦なく切り捨てる。それでも俺は、父親を恨むことでこれまでやってこれた。だが、それすらも信じられなくなったいま、なにを糧に生きていけばいいのだろうか。その答えを、更級さんは示そうとしてくれる。
「藪坂君がもし生きる意味を失いそうなら、私が藪坂君の生きる理由になりますから」
 それはとても力強い言葉であった。焼却炉の前で初めて会った気弱な彼女は、もう見る影もない。
「私が藪坂君にしてあげられることなんてないかもしれません。それでも、もし必要としてくれるなら、私は側にいますよ」
 そう言って俺から離れると、更級さんは、羽織っていたコートをいきなり脱ぎ出した。そうかと思うと、そのまま衣服にも手を掛け、纏っていた布をゆっくり一枚ずつ脱いでいく。白い肌が徐々に露わになり、それに呼応する形で俺の鼓動も早くなった。視線は彼女の姿態に釘付けになる。
 ゆっくりとシャツが上部にたくし上げられ、まるで臓器など内包されていないかのような括れた腹部があらわになる。シャツを完全に脱ぎ終えると、色白な肌が晒され、同じ人の肌とは思えないほど更級さんの顔だけが真っ赤に上気しているのが見て取れた。
 俺はというと、あまりにも想定外の出来事に言葉を失っていた。どうして彼女が服を脱いでいるのか、その理由が見当もつかない。
 更級さんの手が下半身に伸び、ジーンズの下から華美さのあまりないショーツが見えてくると、いよいよ彼女は上下とも下着姿となった。
 そうして、俺の理性は完全に崩壊していった。彼女のきめ細かな肌に、小さいながら確かに存在感を見せる女性らしい膨らみに、目を奪われていたのだ。
「あまりジッと見ないで………恥ずかしい」
「あ、えと、ごめん」
 尚も俺に見られていることを意識したのか、更級さんはそっと近付き、その手で俺の肩に触れる。次の瞬間、正面から抱き締めてきた。まるで、そうすることで自らの体を隠すように、長い時間そうして動こうとしない。
 フワッと鼻腔をくすぐる香水のような香り。その香りが麻薬のように俺の感情を高ぶらせた。若干強く感じられる香水の匂いも、不慣れながら身だしなみに気を遣った結果だと思うと愛おしく思える。
 更級さんは体を離すと、次いで俺の顔にそっと手を触れた。正面から見つめられ、その瞳から目が離せなくなる。まるで吸い込まれてしまいそうなほど、どこまでも深い瞳をしている。
「藪坂君」
 甘く、囁くような声が脳髄を麻痺させ、そのまま彼女の瞳に吸い込まれるように、そっと唇を重ねた。
 俺にとってそれは、一六年間の人生で初めてのキスだった。長いようで短いキスのあと、どちらともなく求め合うように、再び唇を重ねる。息つぎのために離れると、吐く息は白く、それだけで艶めかしい彼女の吐息がいまはよりいっそう妖艶に見えた。
 それから、裸で抱き合い、暖を取った。温もりを求め、きつく、そして固く結び合う。当然のように俺の下腹部が更級さんの膣に収まり、再び熱い吐息が漏れた。短い悲鳴が小屋に反響する。淫靡な声が耳元で確かに聞こえたが、彼女を思いやることがどうしてもできなかった。そんな余裕が俺には端からなく、ただ同じ作業を繰り返す凡庸な機械人形のように腰を振り続けた。
 下腹部に電流が流れたような痺れを感じ、それが快感なのか、そうでないのかもわからないままに腰を振る。そうすることで、不思議な安心感を味わっていた。
 心で繋がれないのなら、せめて肉体で繋がり合いたい、と彼女は言った。そんなことを言わせてしまったことに、俺は申し訳なく思った。罪悪感は広がりをみせるばかりだ。
 こうして更級さんと繋がっているにも関わらず、不謹慎にも別の女性―――枯井戸彩香の顔を思い浮かべてしまうことが、両者への罪悪感を膨らませた。
「もう………限界だっ」
 いまにも溢れ出しそうな情欲の塊を、彼女の膣の奥に注ぐことに少なからず抵抗があった。責任を取る覚悟がないのだから当然だ。
 痙攣にも似た腰つきを止めて、果てないように慎重に下がってゆく。しかし、そのとき、更級さんの両足が腰に絡まってきて、離れることを拒否した。
「このまま、このままで願いします」
 荒い息づかいのまま、切なげな声色で、彼女は訴えた。
「藪坂君の背負ってきた傷みとか、苦しみ。そういう自分では対処できない排泄物は私がすべて受け持ちますから。全部は無理だとしても、それでも私にだって少しくらいは背負えるはずですから、だから、そういう淀んだ想いは全部私の中に注いでください」
 必死にそう告げていたが、俺は彼女の言葉の半分も理解できず、溢れそうな快感に耐えるので精いっぱいだった。
 やがて強烈な高揚感が襲ったかと思うと、次の瞬間にはみっともない声と共に、彼女の中で盛大に果てていた。
 更級さんは、それをなにも言わずに受け止めるだけだった。
 性行為を終えると、更級さんは熱い息を口内へと直接流し込んできた。熱を持った唇が様々な形に変化しながら重なる。舌を絡めることにも戸惑いはなくなっていた。
 当然だが、プレハブ小屋には暖房設備などない。先ほどまでの燃え上がるような高揚感と温もりはすぐに消え去り、お互いに服を着ると、肩が触れ合う距離に隣り合って腰を下ろす。
 俺はふと浮かんだ不安を、確認せずにはいられなかった。
「本当に良かったのか? 俺なんかと、その………」
 言い淀むが、その先に続く言葉など聞かずともわかるのだろう。
 更級さんはクスッと笑うと、俺の顔を覗き込んで言った。
「藪坂君は私の彼氏なんですから、そんな気弱なことを言わないで下さい。私、藪坂君にならなにをされたって構いません」
 更級さんは本当に強いと思った。
 彼女の身体を抱きながら、俺は口を開く。
「俺さ、身勝手な母親の言葉も、理不尽な父親の暴力もうんざりなんだよ。これからもそれが続くんだって思うと、死にたくなる」
 心の丈を打ち明けた。その間、更級さんはジッと耳を傾けてくれていた。そして聞き終えると、そっと手を取った。
「私が生きる理由では小さいでしょうか? 藪坂君は、こんな私を好きだって言ってくれました。こんな私を必要としてくれました。それだけで強くなれます。私は、藪坂君を守ってあげられるくらい強くなります。だから―――」
 更級さんはそこで言葉を切った。苦痛に耐えるように顔を歪め、それが涙を堪えているのだとわかったときには遅かった。
「もう、死にたいなんて絶対に言わないでっ」
 顔を覆い、声を殺して彼女は泣いた。
 慌てて肩を抱き寄せ、俺は何度も何度も謝る。
「わかった、もう死にたいなんて言わない。だから泣かないで。今日から更級さんが、俺の生きる理由だ」
 やがて落ち着きを取り戻した更級さんは、顔を上げて言った。
「私も、もう泣きません。藪坂君を守れるくらい強くなります。私の生きる理由も、今日からあなたです」
 そう言って涙を流しながら、それでも必死に微笑み、
「ずっと………ずっと、一緒です」
 俺は彼女を抱き寄せながら、不覚にも目頭が熱くなるのを感じた。こんなに誰かに思われたことが初めてで、こんなに誰かに理解されたことも初めてだった。 
 更級さんは、俺を守れるくらい強くなると言った。だがしかし、俺もこのとき一つの覚悟を固めた。こんなに華奢な体で俺を守ろうと必死になる彼女をこの手で守ってみせると、そう誓ったのだ。
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