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ブラック & ホワイト
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気は晴れないまま、翌日の月曜日を迎えた。
さっそく通常授業が始まり、これまた気分が落ち込む体育の授業が一時限目からだった。ぼくは、どうにも気乗りしない気持ちを体調不良という言葉に置き換えて今日の体育は見学することにした。しかしながら、真冬の外でただジーっと見学しているというのは体に堪えるもので、思わずくしゃみをすると、先生はそれを見て体調が悪化したらまずいからと、保健室で休んでいるように言ってきた。
なんだか悪い気はするが、これも日頃の行いの賜物だろう。
これまで学校を一度も休んだことのないぼくは、教師陣からは一応真面目な生徒として認知されているため、こういうとき役に立つのだ。
体育の内容は、廣瀬や中西たちと週末話した通り、持久走だそうだ。時代錯誤も甚だしいよね、実際。人間は知恵と技術によって様々な移動手段を開発してきたのだから、いまさら走る能力を高めてどうするのだろう。
保健室へと向かう道すがら、先生のホイッスルの音と同時に男子生徒たちが校庭をただぐるぐると回り出すのを見て、いよいよもって、なぜこんな無意味なことをしているのだろうと不思議な気持ちになってくる。学校教育っていうのは、みんな同じ格好をさせて、同じ価値観を教育し、同じような毎日を繰り返す場所だ。そういう意味では、同じ場所をただぐるぐると回るだけという持久走という授業は、学校教育のあり方を体現したような内容かもしれない。
「同じ場所をぐるぐる、か」
ぼくは、まるで成長した気がしない自分のことを示しているように思えてならなかった。覚悟を持って他人と関わろうとしていたはずなのに、いまではそれを恐ろしく感じる。線引屋としてぼくが行動することで、傷つく人が出てしまうのなら意味がない。そもそも、イリーガルな行為に正統性など無いのだから。
頭の中で、やはり考えがぐるぐると回転していた。回転しているだけで、同じ場所を行ったり来たりするだけで答えは得られないままだ。
考えごとをしている内に保健室に到着すると、保健の先生は不在のようだ。
それなら適当に休ませてもらおうと、カーテンを閉めて空きベッドで横になっていると、少ししてから慎ましい「失礼します」という女子の声がした。
ベッドから起き上がったぼくは、カーテンを少しだけ開けて、「いま保健の先生不在だよ」と女子に告げた。
さりげなくそこに立つ女子生徒の姿を確認するが、すぐに誰だかわからなかった。どこかで見たことはあるんだけどな。
だが、すぐにその娘が、始業式の日にギャル二人組に絡まれていた女子生徒―――確か黛さんだったか―――であることを思い出す。
彼女は既に授業が始まっているにも関わらず、いま登校してきたかのような格好だった。遅刻でもしたのだろうか、制服姿に学校指定の学生カバンを肩から下げている。
「間久辺君、体調悪いの? それならごめんね。君が保健室に入って行くのが昇降口から見えたから、ちょっと寄らせてもらったの」
そう言って、黛さんは学生カバンに手を伸ばすと、カバンの脇にあるポケットからなにか小さく折り畳まれた紙を取り出した。
なんだろう。彼女とは始業式の日に初めて関わったくらいで、接点などないはずなのだけど。
彼女が差し出した紙を受け取り、折り畳まれた物を開くと、ぼくはそこで理解した。
あれだけ探しても無いのは当然だったんだ。フライヤー用に描いたイラストの紙。それはぼくの手元にはなかったのだ。
「これ、間久辺君のだよね? マスターピースでしたっけ? そういう名前のお店から出たところで落としたのを見かけて、すぐに追いかけようと思ったんだけど、人通りが多くて姿を見失っちゃったの。だから、今日まで返せなくてごめんね」
受け取ったイラストに目を落としたぼくは、なぜいまさらになって出てくるのかと内心で悪態をついた。もしもこのイラストが無くなっていなければ、グラフィティなど描かずにフライヤーとしてこのイラストを与儀さんに提出していたかもしれないのに。
いや、そんなことはないか。あのときのぼくは、もやもやした気持ちをグラフィティで発散させようとしていた。憤懣やるかたない気持ちをただ吐き出すためだけに、違法な行為に手を染めたんだ。
ジッとイラストを見ていると、ふと気になることがあって、ぼくは口を開いた。
「ねえ、黛さん。君はあんな場所でなにをしていたの?」
ぼくは、イラストから顔を上げて彼女を見る。
「あの辺りは歓楽街にも近いから治安が悪くて、健全な学生が近付くような場所じゃないよ。そんな所で、いったいなにをしていたの?」
「それを言ったら、間久辺君も同じじゃない。あんな場所でいったいなにをしていたの?」
「ぼくは、ちょっと買い物を」
そう言って誤魔化したぼくだったが、不自然さはあっただろう。
お互い黙り込んだが、すぐに黛さんは口を開いて息を吐き出した。
「呼び出されて、いたんです。クラスメイトの安住さんと、坂崎さんに」
あのギャル二人組か。始業式の日に、確か黛さんを囲んでなにか脅しみたいなことをしていたように見えたけど、それと関係しているのだろうか。
「あんな場所に呼び出されて、いったいどこに連れて行かれたの?」
ぼくのその問いに、顔を伏せる黛さん。
急に黙り込んだため、どうしたのかと様子をうかがっていると、その体は震えていて、肩から下げたカバンがずれ落ちそうになったのか手を伸ばして持ち上げた。
彼女が肩から下げたカバンは、デザイン性に難がある学校指定のカバンだ。生徒の多くはそのカバンを使用しない。放課後、学校帰りにそのまま駅前などで遊ぶ場合、制服では入れる場所や時間が限られてくる。だから、着替えを普通のカバンに入れた状態で通学する生徒がかなりの人数いる。ぼくでさえ、友人たちとゲーセンに遊びに行くときは着替えを持ってくることがあるため、学校指定のカバンは普段から使っていない。あれだけ大きく、学校を示す校章が描かれていたら目立ってしょうがない。
「ねえ、黛さん。もう一度聞くよ。君はどこに連れて行かれたの? 安住と坂崎。あの二人組は、いったい君をどこに連れて行ったんだ!」
思わず声を荒げてしまったぼくは、心を落ち着かせるために静かに深呼吸し、彼女に謝った。
だけど、落ち着くことなんてできなかった。もしもぼくの考えが正しければ、彼女はいま街で起きている事件の被害者だ。
ぼくが『Master peace』の側でイラストを落としたとして、それを黛さんが拾ったということは、彼女もその場所にいたということになる。あの、アングラショップや歓楽街がひしめき合う通り沿いをだ。
そして、あの日は金曜日だった。その深夜遅くに、御堂は地下格闘技が行われているライブハウスの地下に単身で乗り込んだ。アカサビさん経由で聞いた話だが、その場所ではステゴロという喧嘩の延長みたいな格闘技が行われていると同時に、奥の部屋では観客を前に、タトゥーを彫る様子を見せる部屋が用意されていたらしい。御堂はそこで見た光景を、ぼくに伝えようとしていたらしい。
タトゥーを彫っていたという人物が、アートマンであるのは間違いないだろう。
それは別にいい。御堂が伝えたかったのは、そこではない。
ベッドで横になり、タトゥーを彫られていた若い女性。そして、部屋の片隅に放られていたカバン。そこには、ぼくの通う学校の校章が描かれていたという。
あらためて、目の前の女子生徒のことを考えてみた。
事件があった日。黛さんは、治安の悪い街の東側に、ギャル二人組によって呼び出された。そして、御堂が目撃した事件現場では、黛さんと同じ学生カバンが目撃され、若い女性がタトゥーを彫られていた。つまり被害者は、ぼくの通う学校の生徒だった。そのことを御堂は伝えたかったのだ。
「黛さん、勘違いならいいんだ。だけど、もしも黛さんがアートマンという人物が起こす事件の被害者なら、ぼくはきっと事件解決の力になれる。だから、話してくれ」
それでも黛さんはなかなか口を開こうとしなかった。もしかしたらギャル二人組から脅されているのかもしれない。だとしたら、ぼくなんかに軽はずみに被害を訴えることはできないだろう。
どうしたら信じてもらえるだろうかと考えていると、黛さんはぼくがいるベッドに近付き、開いていたカーテンを閉めた。
何事かと思い彼女の動向を見守っていると、黛さんは持っていたカバンをベッドに放ると、ブレザーのボタンに手をかけた。一つ、また一つと外していき、上着を脱ぐと、今度は白いブラウスのボタンまで外し始める。
「ちょっと、なにしてるのさっ!」
思わず慌てるぼくに、黛さんは落ち着いた声で、「静かにしてください」と言った。大丈夫ですから、と。
その間にブラウスまで脱いだ彼女は、下に長袖の体操服を着用していた。だから脱いでも大丈夫だったのかと安心していると、今度は背中を向ける黛さん。体操服の裾の部分に手をかけた彼女は、顔だけ振り返ると、少し恥ずかしそうに頬を染めながら、「ちょっと後ろ向いててください」と言った。
慌てて後ろを向いたぼくの背後で、衣擦れの音が聞こえる。
それから少しして、「もう、こっち向いていいですよ」と弱々しい声がして、恐る恐る振り返ったぼくは、目の前の光景に驚いていた。
すらりと背の高い黛さんの白い肌があらわになっている。背中を向けているとはいえ、それでも上半身下着姿の女性を直接見たことなんてない。本当だったら、早く目を逸らすべきだったのかもしれない。だけど、ぼくの視線は彼女の背中に吸い込まれ、釘付けになってしまった。
そこに色鮮やかな絵―――タトゥーが彫られていたからだ。
やっぱり、御堂が見たという若い女性は黛さんだった。彼女がアートマンの更なる被害者なのだ。
ぼくは、黛さんの背中のタトゥーを見た。
左の肩甲骨の辺りに蝶が二匹舞っている。素人のぼくがイメージするタトゥーの代表的な絵柄の一つ。それに、その下に花の絵が描かれている。
まじまじタトゥーを眺めていると、寒さからか、あるいは恥ずかしさからか彼女は「そろそろいいですか?」と言ってきた。
「あ、うん」
咄嗟にそう言ったぼくだったが、服を着ようとしている彼女に待ったをかける。
「ごめん。もう少し、もう少し見てもいいかな?」
「……わかりました」
渋々頷いた黛さんにお礼を言って、ぼくは女性の背中に描かれたタトゥーをさらに詳しく見た。見たというよりも、見惚れたと言う方が正しいのかもしれない。白い肌に咲いた花の上を、美しく舞う蝶の姿。タトゥーという物を初めて目にしたが、ぼくはその美しさに目を奪われてしまっていた。
「ねえ、触っても平気?」
普段だったら絶対に言えないようなセリフがすんなりと出てきた。まともに話すのなんて初めての相手だというのに、ぼくの興味は背中のタトゥーに奪われていた。
なにも言ってこないということは肯定だと判断し、彼女の背中に触れると、タトゥーの上からでも彼女の肌のきめの細かさがうかがえた。
「綺麗だ」と思わず口を吐いた言葉に、彼女の体がぴくっと動く。
「……綺麗?」
振り返った彼女の表情は、怒りに染まって見えた。
「こんな体にされて、それでも綺麗だって、そう言うの?」
初めて直接目にしたタトゥーに意識を奪われるあまり、ぼくは黛さんの気持ちも考えていなかった。自分の意志でもなんでもなく、体に一生消えない痕を彫られてしまったのだ。ぼくの言葉は、あまりにも無神経だった。
罪悪感から自責の念に駆られるあまり、保健室の扉が開かれたことにも、この瞬間はまるで気付いていなかったのだ。
黛さんが肌を隠すように、慌てて体操着を着ようしたことで、ぼくはようやく意識が我に返った感じがした。なぜそんなに彼女が慌てているのかも、近付いてくる足音を聞いてようやく理解する。
誰か入ってきのか?
しかも、足音は一直線にこちらに向かっていた。
見ると、黛さんは焦るあまり体操着をうまく着られないようだった。このままでは彼女の背中のタトゥーが見られてしまうかもしれない。そう思ったぼくは、黛さんの肩に手を置くと、立ち位置をずらしてぼくがカーテンの前に立った。これなら、一瞬くらいならぼくの体で黛さんを隠すことができる。
開かれたカーテンから、蛍光灯の光が射し込んできた。逆光で一瞬視界を奪われたぼくは、カーテンの向こうに立つ人物の息を飲む声を聞いた。
そして、すぐに回復した視覚が、今度は冷静な判断を奪っていく。
「どうして、ここにいるの? ―――石神さん」
絞り出した声は、擦れて、宙に舞い霧散した。
さっそく通常授業が始まり、これまた気分が落ち込む体育の授業が一時限目からだった。ぼくは、どうにも気乗りしない気持ちを体調不良という言葉に置き換えて今日の体育は見学することにした。しかしながら、真冬の外でただジーっと見学しているというのは体に堪えるもので、思わずくしゃみをすると、先生はそれを見て体調が悪化したらまずいからと、保健室で休んでいるように言ってきた。
なんだか悪い気はするが、これも日頃の行いの賜物だろう。
これまで学校を一度も休んだことのないぼくは、教師陣からは一応真面目な生徒として認知されているため、こういうとき役に立つのだ。
体育の内容は、廣瀬や中西たちと週末話した通り、持久走だそうだ。時代錯誤も甚だしいよね、実際。人間は知恵と技術によって様々な移動手段を開発してきたのだから、いまさら走る能力を高めてどうするのだろう。
保健室へと向かう道すがら、先生のホイッスルの音と同時に男子生徒たちが校庭をただぐるぐると回り出すのを見て、いよいよもって、なぜこんな無意味なことをしているのだろうと不思議な気持ちになってくる。学校教育っていうのは、みんな同じ格好をさせて、同じ価値観を教育し、同じような毎日を繰り返す場所だ。そういう意味では、同じ場所をただぐるぐると回るだけという持久走という授業は、学校教育のあり方を体現したような内容かもしれない。
「同じ場所をぐるぐる、か」
ぼくは、まるで成長した気がしない自分のことを示しているように思えてならなかった。覚悟を持って他人と関わろうとしていたはずなのに、いまではそれを恐ろしく感じる。線引屋としてぼくが行動することで、傷つく人が出てしまうのなら意味がない。そもそも、イリーガルな行為に正統性など無いのだから。
頭の中で、やはり考えがぐるぐると回転していた。回転しているだけで、同じ場所を行ったり来たりするだけで答えは得られないままだ。
考えごとをしている内に保健室に到着すると、保健の先生は不在のようだ。
それなら適当に休ませてもらおうと、カーテンを閉めて空きベッドで横になっていると、少ししてから慎ましい「失礼します」という女子の声がした。
ベッドから起き上がったぼくは、カーテンを少しだけ開けて、「いま保健の先生不在だよ」と女子に告げた。
さりげなくそこに立つ女子生徒の姿を確認するが、すぐに誰だかわからなかった。どこかで見たことはあるんだけどな。
だが、すぐにその娘が、始業式の日にギャル二人組に絡まれていた女子生徒―――確か黛さんだったか―――であることを思い出す。
彼女は既に授業が始まっているにも関わらず、いま登校してきたかのような格好だった。遅刻でもしたのだろうか、制服姿に学校指定の学生カバンを肩から下げている。
「間久辺君、体調悪いの? それならごめんね。君が保健室に入って行くのが昇降口から見えたから、ちょっと寄らせてもらったの」
そう言って、黛さんは学生カバンに手を伸ばすと、カバンの脇にあるポケットからなにか小さく折り畳まれた紙を取り出した。
なんだろう。彼女とは始業式の日に初めて関わったくらいで、接点などないはずなのだけど。
彼女が差し出した紙を受け取り、折り畳まれた物を開くと、ぼくはそこで理解した。
あれだけ探しても無いのは当然だったんだ。フライヤー用に描いたイラストの紙。それはぼくの手元にはなかったのだ。
「これ、間久辺君のだよね? マスターピースでしたっけ? そういう名前のお店から出たところで落としたのを見かけて、すぐに追いかけようと思ったんだけど、人通りが多くて姿を見失っちゃったの。だから、今日まで返せなくてごめんね」
受け取ったイラストに目を落としたぼくは、なぜいまさらになって出てくるのかと内心で悪態をついた。もしもこのイラストが無くなっていなければ、グラフィティなど描かずにフライヤーとしてこのイラストを与儀さんに提出していたかもしれないのに。
いや、そんなことはないか。あのときのぼくは、もやもやした気持ちをグラフィティで発散させようとしていた。憤懣やるかたない気持ちをただ吐き出すためだけに、違法な行為に手を染めたんだ。
ジッとイラストを見ていると、ふと気になることがあって、ぼくは口を開いた。
「ねえ、黛さん。君はあんな場所でなにをしていたの?」
ぼくは、イラストから顔を上げて彼女を見る。
「あの辺りは歓楽街にも近いから治安が悪くて、健全な学生が近付くような場所じゃないよ。そんな所で、いったいなにをしていたの?」
「それを言ったら、間久辺君も同じじゃない。あんな場所でいったいなにをしていたの?」
「ぼくは、ちょっと買い物を」
そう言って誤魔化したぼくだったが、不自然さはあっただろう。
お互い黙り込んだが、すぐに黛さんは口を開いて息を吐き出した。
「呼び出されて、いたんです。クラスメイトの安住さんと、坂崎さんに」
あのギャル二人組か。始業式の日に、確か黛さんを囲んでなにか脅しみたいなことをしていたように見えたけど、それと関係しているのだろうか。
「あんな場所に呼び出されて、いったいどこに連れて行かれたの?」
ぼくのその問いに、顔を伏せる黛さん。
急に黙り込んだため、どうしたのかと様子をうかがっていると、その体は震えていて、肩から下げたカバンがずれ落ちそうになったのか手を伸ばして持ち上げた。
彼女が肩から下げたカバンは、デザイン性に難がある学校指定のカバンだ。生徒の多くはそのカバンを使用しない。放課後、学校帰りにそのまま駅前などで遊ぶ場合、制服では入れる場所や時間が限られてくる。だから、着替えを普通のカバンに入れた状態で通学する生徒がかなりの人数いる。ぼくでさえ、友人たちとゲーセンに遊びに行くときは着替えを持ってくることがあるため、学校指定のカバンは普段から使っていない。あれだけ大きく、学校を示す校章が描かれていたら目立ってしょうがない。
「ねえ、黛さん。もう一度聞くよ。君はどこに連れて行かれたの? 安住と坂崎。あの二人組は、いったい君をどこに連れて行ったんだ!」
思わず声を荒げてしまったぼくは、心を落ち着かせるために静かに深呼吸し、彼女に謝った。
だけど、落ち着くことなんてできなかった。もしもぼくの考えが正しければ、彼女はいま街で起きている事件の被害者だ。
ぼくが『Master peace』の側でイラストを落としたとして、それを黛さんが拾ったということは、彼女もその場所にいたということになる。あの、アングラショップや歓楽街がひしめき合う通り沿いをだ。
そして、あの日は金曜日だった。その深夜遅くに、御堂は地下格闘技が行われているライブハウスの地下に単身で乗り込んだ。アカサビさん経由で聞いた話だが、その場所ではステゴロという喧嘩の延長みたいな格闘技が行われていると同時に、奥の部屋では観客を前に、タトゥーを彫る様子を見せる部屋が用意されていたらしい。御堂はそこで見た光景を、ぼくに伝えようとしていたらしい。
タトゥーを彫っていたという人物が、アートマンであるのは間違いないだろう。
それは別にいい。御堂が伝えたかったのは、そこではない。
ベッドで横になり、タトゥーを彫られていた若い女性。そして、部屋の片隅に放られていたカバン。そこには、ぼくの通う学校の校章が描かれていたという。
あらためて、目の前の女子生徒のことを考えてみた。
事件があった日。黛さんは、治安の悪い街の東側に、ギャル二人組によって呼び出された。そして、御堂が目撃した事件現場では、黛さんと同じ学生カバンが目撃され、若い女性がタトゥーを彫られていた。つまり被害者は、ぼくの通う学校の生徒だった。そのことを御堂は伝えたかったのだ。
「黛さん、勘違いならいいんだ。だけど、もしも黛さんがアートマンという人物が起こす事件の被害者なら、ぼくはきっと事件解決の力になれる。だから、話してくれ」
それでも黛さんはなかなか口を開こうとしなかった。もしかしたらギャル二人組から脅されているのかもしれない。だとしたら、ぼくなんかに軽はずみに被害を訴えることはできないだろう。
どうしたら信じてもらえるだろうかと考えていると、黛さんはぼくがいるベッドに近付き、開いていたカーテンを閉めた。
何事かと思い彼女の動向を見守っていると、黛さんは持っていたカバンをベッドに放ると、ブレザーのボタンに手をかけた。一つ、また一つと外していき、上着を脱ぐと、今度は白いブラウスのボタンまで外し始める。
「ちょっと、なにしてるのさっ!」
思わず慌てるぼくに、黛さんは落ち着いた声で、「静かにしてください」と言った。大丈夫ですから、と。
その間にブラウスまで脱いだ彼女は、下に長袖の体操服を着用していた。だから脱いでも大丈夫だったのかと安心していると、今度は背中を向ける黛さん。体操服の裾の部分に手をかけた彼女は、顔だけ振り返ると、少し恥ずかしそうに頬を染めながら、「ちょっと後ろ向いててください」と言った。
慌てて後ろを向いたぼくの背後で、衣擦れの音が聞こえる。
それから少しして、「もう、こっち向いていいですよ」と弱々しい声がして、恐る恐る振り返ったぼくは、目の前の光景に驚いていた。
すらりと背の高い黛さんの白い肌があらわになっている。背中を向けているとはいえ、それでも上半身下着姿の女性を直接見たことなんてない。本当だったら、早く目を逸らすべきだったのかもしれない。だけど、ぼくの視線は彼女の背中に吸い込まれ、釘付けになってしまった。
そこに色鮮やかな絵―――タトゥーが彫られていたからだ。
やっぱり、御堂が見たという若い女性は黛さんだった。彼女がアートマンの更なる被害者なのだ。
ぼくは、黛さんの背中のタトゥーを見た。
左の肩甲骨の辺りに蝶が二匹舞っている。素人のぼくがイメージするタトゥーの代表的な絵柄の一つ。それに、その下に花の絵が描かれている。
まじまじタトゥーを眺めていると、寒さからか、あるいは恥ずかしさからか彼女は「そろそろいいですか?」と言ってきた。
「あ、うん」
咄嗟にそう言ったぼくだったが、服を着ようとしている彼女に待ったをかける。
「ごめん。もう少し、もう少し見てもいいかな?」
「……わかりました」
渋々頷いた黛さんにお礼を言って、ぼくは女性の背中に描かれたタトゥーをさらに詳しく見た。見たというよりも、見惚れたと言う方が正しいのかもしれない。白い肌に咲いた花の上を、美しく舞う蝶の姿。タトゥーという物を初めて目にしたが、ぼくはその美しさに目を奪われてしまっていた。
「ねえ、触っても平気?」
普段だったら絶対に言えないようなセリフがすんなりと出てきた。まともに話すのなんて初めての相手だというのに、ぼくの興味は背中のタトゥーに奪われていた。
なにも言ってこないということは肯定だと判断し、彼女の背中に触れると、タトゥーの上からでも彼女の肌のきめの細かさがうかがえた。
「綺麗だ」と思わず口を吐いた言葉に、彼女の体がぴくっと動く。
「……綺麗?」
振り返った彼女の表情は、怒りに染まって見えた。
「こんな体にされて、それでも綺麗だって、そう言うの?」
初めて直接目にしたタトゥーに意識を奪われるあまり、ぼくは黛さんの気持ちも考えていなかった。自分の意志でもなんでもなく、体に一生消えない痕を彫られてしまったのだ。ぼくの言葉は、あまりにも無神経だった。
罪悪感から自責の念に駆られるあまり、保健室の扉が開かれたことにも、この瞬間はまるで気付いていなかったのだ。
黛さんが肌を隠すように、慌てて体操着を着ようしたことで、ぼくはようやく意識が我に返った感じがした。なぜそんなに彼女が慌てているのかも、近付いてくる足音を聞いてようやく理解する。
誰か入ってきのか?
しかも、足音は一直線にこちらに向かっていた。
見ると、黛さんは焦るあまり体操着をうまく着られないようだった。このままでは彼女の背中のタトゥーが見られてしまうかもしれない。そう思ったぼくは、黛さんの肩に手を置くと、立ち位置をずらしてぼくがカーテンの前に立った。これなら、一瞬くらいならぼくの体で黛さんを隠すことができる。
開かれたカーテンから、蛍光灯の光が射し込んできた。逆光で一瞬視界を奪われたぼくは、カーテンの向こうに立つ人物の息を飲む声を聞いた。
そして、すぐに回復した視覚が、今度は冷静な判断を奪っていく。
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