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ブラック & ホワイト
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父が車いじりを趣味にしている関係で、汚れてもいいように買ったつなぎの服を無断で借りて、その上からコートを着こんだ。スプレーインクの入ったカバンを手に、深夜の街へと繰り出す。
駅前にやって来たぼくは、深夜の一時を過ぎてもまだ人通りがあることを確認すると、持ってきたマスクで口元を隠した。ガスマスクではない。一般的なプリーツマスクだ。そして、頭にタオルを巻くことで、目元以外すべて隠れたことになる。
つなぎ服の口元にマスク、頭にはタオル。
なぜこんな作業員のような格好をしているかというと、それはぼくがいまいる場所に関係していた。先ほど電車を利用するために通ったばかりの駅。その構内で行われている改修工事の現場にぼくは立っていた。正確には、改修が行われる建造物を外部から遮断するために設置された白い塗装のアルミ板の前と言うべきか。
終電は既に終わり、改札は閉ざされているが、西口と東口をつなぐ構内は電車が終わっても通行することができる。だが、終電が終わってしまうとその人通りはほとんどないだ。ときどき人が通りかかるが、それも酔っ払いが数人といったところ。
ぼくは、ある程度予想が的中したことに安心していた。
これならやれる。深夜とはいえ、土曜の夜のマッドシティは人通りも多いのだが、西口にある店舗はほとんどが夜の八時には閉じてしまっているため、この時間に行動している人は東口側に集まっている。だから、西口と東口をつなぐこの通路を通る人はそれほど多くないのだ。
加えて、ぼくのこの格好なら、工事が行われている場所で作業をしていたとしても口出ししてくる人はそういないだろう。
そうだ。ぼくはこの場所にグラフィティを描くことにした。
この場所とは、改修工事を行っている建物を覆っている白い塗装が施されたアルミ板だ。
そのアルミ板なら、工事が終わればどうせ撤去される物なのだからグラフィティを描いても大きな問題にならないだろう。加えて、駅改札のすぐそばに位置するこの場所なら、昼間は人通りも多く大勢の人の目に留まる。宣伝という意味では、フライヤーよりもずっと効果を発揮するはずだ。
ぼくはカバンを開き、用意してきたスプレーインクに手を伸ばした。いくらカムフラージュをしたとはいえ、人通りが皆無ではないため、あまり時間はかけられない。最短の時間で描けるように段取りを組んでいく。
イメージは既に頭の中にハッキリと出来上がっている。一週間も前からその絵について考えていたのだから当然だ。
茶褐色の肌に、露出の高い水着を着用した女性のイラストが、頭の中に浮かぶ。フライヤー用にデザインしたイラストイメージを、目の前の白いアルミ板に投影し、その上からスプレーインクを吹き付けていく。
ときどき通り過ぎて行く人々の視線は、確かにこちらに向いているのだろう。だが、過去にも大勢の前でグラフィティをやった経験があるため、集中力には影響しなかった。
茶褐色の肌、それに食い込んだ水着のラインに、白いインクで肌の艶を表す。今日は時間を考慮して筆の類を持ってこなかったため、女性の表情の艶めかしさまでは表現できないのが気に入らないが、それでもイメージした映像を壁にある程度は再現することができたと言えるだろう。
あとは、イベント告知のための文言を描くだけだ。
本来なら崩した文字で表現するのがグラフィティの特徴だが、誰も読めない文字では宣伝の意味がないため、丁寧な文字で綴っていく。
イベントを仕切るのは、四人組女性ヒップホップ集団の『華撃』。
ぼくはあまり知らないが、ヒップホップの世界ではかなり有名らしく、メジャーからの声もかかっていると噂がされている。
そんな彼女たちがイベントを打つとなったら、本来ならイベントを仕切るオーガナイザーが出てきても良いようなものだが、与儀さんの話によると、自分たちの力だけでイベントを成功させたいという思いがあるようだ。今回のフライヤー制作の話も、華撃のメンバーにグラフィティに興味がある人物がいて、その経由で与儀さんに話が舞い込んだと聞いた。
イベント名と、華撃の名前を描き終えたぼくは、手早くスプレー缶をカバンに仕舞い込み、騒ぎが大きくなる前にその場をあとにした。
西口の方は人通りが少ない分、目立ってしまう可能性があるので、あまり気は乗らないが東口の方に一旦下りることにした。
案の定、東口には二十四時間営業の飲食店や歓楽街があるため、人通りはそれなりにあった。それでも、深夜ともなると人の往来は数えられるほどだ。
ぼくは人混みに紛れながら、さっきまで握っていたスプレー缶の冷たい感触を思い出していた。
やはり、グラフィティはいい。
描くことに集中しながら、同時に周囲にも気を張らなければいけないため、終わったあとの疲労感は半端じゃないが、同時に達成感も大きい。
なにより、余計なことを考える余裕がなくなるのがいい。
嘲笑われ、バカにされたことを考えなくて済む。
だが、さすがに疲れた。もうこの時間ではバスも出ていないため、歩いて帰るしかない。少しうんざりしながら、時間を確認しようとスマホの画面を見ると、真っ暗でなにも表示されなかった。
ああ、そうか。昼間電源を切ったきり入れるのを忘れていたんだ。普段ならこんなことありえないのだが、今日は考えごとが多くてスマホに触れずにいたのだ。
電源を入れると、ホーム画面が表示されたあと、振動とともに着信ありの文字が出る。
確認してみると、石神さんから何度も電話がきていた。
待っててくれと言われたのに、なにも言わずに帰ってしまったから心配してくれたのだろう。それなら、悪いことをしたな。そう思いながらも、今日はもう遅いから連絡するのを控えることにする。
「ん?」
石神さんからの着信の間に、別の番号からも電話がきていた。相手の名前を確認すると、そこには『アカサビさん』の文字。
登録したきり連絡など入ったことのないアカサビさんからの電話。なにかあったのだろうか。
時間も時間だし、連絡していいものか悩んだが、相手がアカサビさんということもあって折り返し電話を入れることにする。大した用事じゃないなら、きっとかけてくることもないだろうから、急用なのかもしれない。そう思った。
スマホを耳元に持ってきて折り返し電話をかけると、三コール目で繋がった。
「あ、アカサビさんですか? 夜分遅くにすみません。間久辺ですけど、昼間電話くれましたよね。電源切ってて気付かなかったんですけど、なにかありました?」
ぼくの言葉は、相手に届いているのだろうか?
そう思えるくらい長い沈黙が続いた。
やがて短く息を吸い込む音だけが聞こえて、それがなにか言いづらいことを伝えようとしているみたいに感じられた。
『御堂がーーー』
唐突に発せられた言葉があまりにも衝撃的で、ぼくはすぐには受け入れられなかった。
一転して沈黙したぼくに、アカサビさんは伝わっていないのかと思ったのか、再び同じ言葉を繰り返す。
『御堂が、入院したって言ったんだ。聞いてるのか間久辺』
御堂が入院? どうして? いったいなにがあったんだ?
聞きたいことが山のように頭に溢れて、うまく言葉が出ないぼくに、アカサビさんは「焦るな」と言って落ち着かせようとする。
はやる気持ちをぐっと抑え込み、聞いた。
「いったいなにがあったんですか?」
アカサビさんの説明は、こうだった。
いま街の裏側では不穏な影が暗躍している。アカサビさんはその影、アートマンを追っていく中でトライバルという半グレ集団が中心になって取り仕切る、違法な地下格闘技の存在を知ったという。
彼は、その半グレ集団とアートマンには関係があると推測している。近頃、アートマンという人物が若い女性を連れ去るなどして、眠らせ、その間に体に消えない刻印を施すという事件が起きているらしい。つまり、アートマンはタトゥーを彫る職人、彫り師だと。
そして、アカサビさんが襲われたという半グレ集団の名前がトライバル。それはタトゥーの種類の名称であり、リーダー格の青木という男が顔に入れているタトゥーでもあった。
このことから、トライバルという半グレ集団とアートマンに繋がりを見出したアカサビさんは、情報収集の結果、地下格闘技が行われている現場を見つけ出した。それが、昨日の深夜遅くのことだったという。
「待って下さいアカサビさん。御堂が入院した原因はなんなんですか? アカサビさんの話とどう関係するんです?」
ぼくは話が見えてこない苛立ちから、語気を強めてそう言った。
アカサビさんは元最強の喧嘩屋だし、街の異常に首を突っ込むこともあるかもしれない。だけど御堂は違う。あいつは自分の力を弁えているから、不用意に危険地帯に足を踏み入れたりしない。
『話は繋がっているんだ、間久辺』
アカサビさんの声から、どこか諦観の色がうかがえた。
『さっき話した地下格闘技場だが、生憎とオレはこの髪のせいもあって、顔が割れていて中に入ることができなかったんだ。なんとか入り込めないもんかと裏口を探しているときに、怪我を負って倒れている御堂を発見したんだ。あいつは、たった一人で敵の本拠地に忍び込んでいたんだよ』
御堂はときどきバカみたいに熱くなるけど、考えなしじゃない。なにか理由でもなければ、そんな危険な場所に一人で乗り込む訳がないんだ。
「……いったいなにがあったんだ?」
自問するような言葉に、アカサビさんの答えが飛ぶ。
『御堂は、オレと同じなんだと思う。アートマンと呼ばれる人物の特徴に、化け物のような覆面で顔を隠しているというものがあったんだ。オレがその一文を見たときに、真っ先に頭に浮かんだのがお前の存在だ―――線引屋』
ぼくは愕然とした。
街でそんな事件が起きていることも知らなかったし、もちろんぼくはアートマンなど無関係だ。だが、街を仕切るチームマサムネで幹部をやっている御堂の耳には、その事件のことも、アートマンの名前や特徴についても入ってくるだろう。
覆面で顔を隠した人物が街を荒らしている。そんな噂が流れれば、街を仕切る鍛島が黙っている訳がない。だから御堂は、一人で行動を起こしたんだ。ぼくのーーー線引屋の潔白を証明するためには、犯人が別人であることを証明する必要があったから。
御堂は、バカじゃない。だけど、バカみたいに熱くなると自分の身すら見境なく危険にさらす。
ぼくが目にしたそのほとんが、線引屋に関することだと今更になって気付いた。御堂は、ぼくを守るために今回も行動を起こしたのだ。
『落ち着け、間久辺』
爆発寸前のぼくをまるで目の前で見ているかのように、電話の向こうでアカサビさんは言った。
『お前に発破かけるためにオレはこんなことを話したんじゃない。むしろその逆だ。どうせオレが黙っていたって、御堂が入院したことくらいすぐにお前の耳にも入ってくるだろう。だから忠告するために、オレはお前に連絡を入れたんだ。絶対に動くな。トライバルって連中は普通じゃねえ。お前が出てきたところで、邪魔なだけだ』
「アカサビさん。御堂はぼくのために怪我をしたんだろう? それを聞かされて、黙っていられるほどぼくは冷静ではいられませんっ」
『間久辺っ!』
怒鳴り声をあげると、アカサビさんは数秒の沈黙のあと、言葉を継いだ。
『頼む。頼むから大人しくしていてくれ。お前の気持ちは十分に理解している。だから、オレを信じろ。必ずオレが、御堂を襲撃した連中を捕まえてみせるから』
その真剣な声を聞いている内に、頭に上った血が少し下りてきたような気がする。
ほんの少しだけ冷静になった思考で考える。
さっき、アカサビさんは言っていたじゃないか。
『御堂はオレと同じなんだ』って。
つまり、アカサビさんもぼくの潔白を証明するためにアートマンを探していたことになる。
彼もまた、ぼくのために動いてくれている一人なのだ。
そんなアカサビさんを信じないなんて、誰が言えるだろう。ぼくは彼の強さを知っている。彼が心に抱えた業の深さと、それに比例するくらい強い正義感を。ぼくの憧れる正義の味方が、誰かに負けるはずがないんだ。
「……わかりました。信じます。アカサビさんを」
その言葉を聞いたアカサビさんは、心の底から安堵したように息を吐き出した。
電話を切ろうとすると、最後に彼はなにかを思い出したように小さくを声を漏らした。
再び電話口に集中すると、アカサビさんは再び口を開いた。
『オレが御堂を発見したのは、地下格闘技の会場と噂されている場所のすぐそばの路地裏だった。自力で逃げ出してきたのか、それとも御堂を襲った連中が追い出したのかわからないが、ほとんど意識もない状態で倒れていたんだ。それでも、オレが呼びかけると、なんとか意識を保とうとしながら必死に伝えようとしていたことがあったんだ』
「それは、なんですか?」
『御堂は、般若の面をした人物ーーーアートマンがタトゥーを施している現場を目撃したと言っていた。その部屋に置かれていたベッドには若い女が肌を晒しながら横になり、大勢の観客の前でタトゥーを入れられていたそうだ』
つまり、見世物としてその若い女の人は体にタトゥーを彫られたのか。さっきアカサビさんが話していた、街で起きているアートマンによる事件の新たな被害者ということだろう。
『落ち着いて聞けよ、間久辺。その部屋の片隅には、学生用のカバンが置かれていたそうだ。そして、そのカバンに印刷されていた校章が、お前の通っている学校の物だったんだ』
「えっ」
それって、つまり―――
『アートマンの魔の手は、女子高生にまで及んでいる可能性がある。お前にも友人や大切な人がいるんだろう? だったら、用心させろ。これ以上、被害者を出さないためにもな』
それだけ言うと、今度こそ電話を切ったアカサビさん。
最後、なにかぼくを気遣うようなことを言っていたような気がしたが、まるで頭に入ってこなかった。
御堂が怪我を負いながら、それでも伝えようとしていたのは、ぼくの学校の生徒がアートマンの被害に遭ったということだった。
翌日の日曜日。ぼくはアカサビさんから御堂の入院先を聞いて、見舞いに来ていた。面会時間を確認し、午後から顔を出すことにした。手ぶらで顔を出すのも不躾かと思い、一応お菓子の詰め合わせをコンビニで買って来たが、病室のベッドで横になる御堂を見て、それが不必要だということを察した。
個室のベッドで横になっている御堂は、至るところに包帯が巻かれていて、左足と左腕にギプスがはめられていた。一瞬誰だかわからないくらい顔ははれ上がっていて、口元にはマウスピースのようなものが装着され、腕には点滴が打たれていた。
看護師の話では意識不明という訳ではないらしいが、いまは目が覚めると痛みで暴れてしまうため鎮静剤と睡眠導入剤を飲ませて落ち着かせているらしい。
ぼくが思っていたよりも、ずっと御堂の容態は悪かった。
幸いなのは、頭部へのダメージはほとんどないようで、意識の混濁といったような症状は出ていないようだった。ただ、それ以外の体のダメージは深刻で、全治四週間の大怪我と診断されている。
酷すぎる。いったい誰が、こんなことをしたんだ。
ぼくは怒りに震えながら、無力な自分を呪った。
アカサビさんが言うように、ぼくが動いたところで御堂の仇を打つことはできないだろう。
ただ茫然と御堂の姿を眺めることしかできなかったぼくは、部屋の扉が開かれ、人が入って来たことに気付かなかった。
すぐ後ろでリノリウムの床を踏みしめる音がして、初めて誰かが背後に迫っていたことに気付き、振り返る。
そこに立っていた人物を見て、ぼくは驚愕する。
鍛島多喜親。チームマサムネのリーダーで、この街のアンダーグラウンドを仕切る彼が、そこに立っていたのだ。
姿を見るのは、本当に久しぶりのことだ。確か、ぼくがまだ線引屋を名乗る以前、御堂と二人で会いに行ったとき以来だろう。
「誰だ、お前は?」
鍛島は厳めしい顔を一ミリも崩さず、そう言った。
以前会ったときはバンダナで顔を隠していたため、ぼくの顔は知らないはずだが、それでもなんの切っ掛けで思い出すかわからない。ぼくはなるべく目を合わせないようにしながら、答えた。
「ぼくは、御堂君の友人です。入院したと聞いてお見舞いに来ました」
「御堂の友人?」
疑問符を浮かべながら、ぼくの姿を上から下まで吟味したあと、「お前がか?」と失礼なことを言ってくる。見た目で人を判断するものじゃない。
と、文句の一つでも言ってやりたいが相手が相手だけに愛想笑いで誤魔化す。
あまり長いこと話しているのは危険だろうと思い、なんとか抜け出すタイミングを図っていたのだが、こちらからそろそろ帰る旨を切り出す前に、鍛島が口を開いた。
「詳しいことは言えないが、御堂の怪我の責任は俺にある。お前が御堂の友人だっていうなら、筋違いかもしれないが謝らせてくれ」
そう言って、驚くことに鍛島は頭を下げた。
驚愕と焦りでなんて返したらいいのかあたふたしている内に、鍛島は頭を上げる。
「左足首じん帯損傷、左腕部骨折、殴打による全身の打ち身、手の指の骨折。それに口内に電球を咥えさせた状態で殴打したことによる、口内裂傷によるものが主な傷だ。これは口封じのやり方だ。俺の街で舐めた真似をする連中がいる。俺の部下をこんな姿にした落とし前はつけさせてやる」
鍛島の言葉は、ぼくに対する保証の言葉というよりも、自分自身に科した責任のようなものに感じられた。ぼくが想像しているよりも、鍛島は人間らしい所があるのかもしれない。
「ところで、御堂がなぜこんな大怪我を負ったのか、詳しい話を聞いているか?」
ぼくは首を横に振った。実際、詳しいことはわからない。
「そうか。御堂の入院を聞かされて、駆け付けたら喧嘩屋アカサビの野郎がいやがったから、俺はてっきりアイツにやられたのかと思ったんだが、逆に助けられたみたいだな」
鍛島の言葉に、否定も肯定もしない。どこからぼくの正体が怪しまれるかわからないからだ。
「違法な地下格闘技。そんなもんが俺の街で行われているなんて許せねえ。あれは外れ者を呼び込んで街を駄目にイベントだ。なんとしても潰さねえといけねえが、いまは花口組っていうヤクザの相手で手一杯なんだ。だから、アカサビの野郎が地下格闘技を潰してくれたら助かるんだがな」
ぼくは曖昧に頷きながら、なぜ鍛島は、初対面のはずのぼくにここまで深い部分の話をするのだろうと考えていた。
そんなぼくの疑問を他所に、話を続ける鍛島。
「御堂が今回無茶をしたのは、花口組が狙うアートマンと線引屋が別人だと証明するためだった。花口組って連中は、元々ギャンブルで財を成した組で、その名残から花札ーーー花口と名乗るようになっただけあって、損得の勘定に優れている。だからアートマンを捕まえさえすればそれ以上線引屋が怪しまれることなく引き下がるだろうと考えたんだろうな。だから、御堂はたった一人で敵地に乗り込むような真似をした」
花札。つまり"カード"を記号化して花"口"か。鍛島が言うように、その花口組というヤクザの本質が損得勘定だとしたら、なんらかの損益をアートマンという人物に負わされたのだろう。
アートマンは、話によると線引屋と同じく覆面をした人物らしい。だから、花口組は線引屋を差し出すように、街を仕切る鍛島に圧力をかけた。
だから御堂は、たった一人でアートマンが潜む可能性のある地下格闘技場に乗り込んだのだ。
「そういえば、アカサビの野郎、前に線引屋に救われたことがあったな。ストリートジャーナルに書かれているのを読んだぜ」
鍛島は、急に話を変えたかと思うと、ぼくの顔から一瞬たりとも視線を外さなくなる。
「つまりよぉ、線引屋が動けばアカサビも動く。そうは考えられねえか?」
いつの間にか距離を詰めてきた鍛島。ぼくは、その目から逃げないようにするだけで精一杯だった。
鍛島は感づいている。ぼくが線引屋だということに。それは恐らく直感的なもので、なにか確証があるわけではないだろう。だから、なんとしてもボロを出す訳にはいかなかった。
睨み合いはどれだけの時間続いただろうか。やがて鍛島の方から視線を外すと、「まあ、仮定の話だけどな」と肩を竦めた。
張り詰めていた空気が弛緩したことで、話を続ける空気ではなくなり、この緊張状態からも解放されそうだ。
御堂の容態は気になったが、取り敢えず命に別状はないとわかり安心した。踵を返し、入ってきた扉から出て行こうとすると、御堂の姿が頭に浮かんだ。
薄暗い地下施設で、大勢の男たちに囲まれ、暴力を受ける姿。実際に見た訳でもないのに、リアルにその姿を想像できたのは、なにもぼくが絵を描く人間だからという理由だけではないだろう。
すぐ後ろのベッドで横たわる、ボロボロの姿。それを目の当たりにしたから、リアルに想像できてしまったんだ。御堂が殴られ、蹴られる姿が。
だけど、なにもできない。アカサビさんは、ぼくになにもしないでくれと頼み込んできたんだ。足手まといだからと。
ぼくは病室から出る直前、鍛島に向けて振り返らずに言った。
「線引屋なんて関わらなくても、アカサビさんは動きますよ。だって彼は、正義の味方ですから……ぼくとは、違うんです」
病院を出たぼくは、その足で『Master peace』に向かった。御堂の入院のことを与儀さんに伝えておこうと思ったのた。それに、フライヤーの件でもまだ連絡していなかったし、直接行って伝えた方がいいだろう。
ぼくが『Master peace』に入ると、与儀さんはどこかに電話をかけていた。話している内容から、それが謝罪の電話だということがわかる。
なにかトラブルがあったのだろうか。そう思いながら、それとなく電話の内容に聞き耳を立てていると、ぼくは思わず体が固まった。
ーーー線引屋。
その名前が聞こえてきたからだ。
やがて与儀さんは、再び丁寧な謝罪の言葉を口にしてから電話を切ると、深い溜め息を吐いた。
かと思うと、キッと鋭い瞳をぼくに向けた。
「あんた、なに考えてるのよ!」
いきなり怒鳴りつけられ、ぼくはなんの話かわからず戸惑った。与儀さんがここまで怒りに満ちた顔をしているのは初めてだ。
「あんた、駅にグラフィティを打ったそうね。しかも、依頼されていた華撃のイベントを宣伝するために」
「え、ええ。そうです。相談しなかったのは悪かったと思いますけど、そんなに怒ることですか? 要するに目立てばいいんでしょう? フライヤーなんて作ってチマチマ配るより、大勢の人の目に留まるグラフィティの方がいいじゃないですか。第一、ぼくはイラストレーターじゃない。グラフィティライターなんですよ。グラフィティを描いてなにがいけないんですか?」
「あんた、自分がなに言ってるのか理解してる? 線引屋はイリーガルなライター。つまり、あんたがやってることは、世間一般では違法行為なのよ。そんなあんたが、イベントの宣伝のためのグラフィティを描いたらどうなるか。少し考えればわかることでしょう?」
「え………っあ」
ぼくは茫然自失となった。
そうだ。あんな駅構内の目立つ場所にグラフィティを描けば、騒ぎは大きくなる。良い意味でも、悪い意味でも。
「いま、フライヤー製作を依頼してきた華撃のメンバーから連絡が入ったわ。これからメジャーデビューを控えているグループが、違法な宣伝でイベントを開催する訳にはいかない。今回のグラフィティは、あくまで熱狂的なファンが勝手にやったということにするそうだけど、周囲を騒がせた責任を取ってイベントは中止にするそうよ。これが、あんたの望んだ結末なの?」
違う、そうじゃない!
そんなことをぼくは望んではいなかった。ただ、ぼくが唯一持っているもの、それが線引屋なんだ。だからぼくは、今回グラフィティを描いた。せめて、線引屋としての自分だけは認めてもらいたくて。
それが、こんな結果を招いてしまうことになるなんて、想像もしていなかったんだ。
「想像していなかったで済まされる問題じゃないわよ」
ぼくの心の内を見透かしたような言葉を告げる与儀さん。
確かにそうだ。それで済まされる問題じゃない。
「あの、与儀さん。ぼくは、どうしたらいいですか?」
「なにもしなくていいわ。今回の依頼をあなたに回した私の責任だもの。だから、もうなにもしなくていい」
突き放すような言葉。だが当然の結果かもしれない。
ぼくは心のどこかで、線引屋としての自分に慢心があったのだ。
だけど、本当のぼくはこんなにも無力。なにもできずにただ指をくわえて待ってることしかできない。人を救うどころか、自分のやったことの尻拭いすらできない。それが、ぼくの現実なんだ。
駅前にやって来たぼくは、深夜の一時を過ぎてもまだ人通りがあることを確認すると、持ってきたマスクで口元を隠した。ガスマスクではない。一般的なプリーツマスクだ。そして、頭にタオルを巻くことで、目元以外すべて隠れたことになる。
つなぎ服の口元にマスク、頭にはタオル。
なぜこんな作業員のような格好をしているかというと、それはぼくがいまいる場所に関係していた。先ほど電車を利用するために通ったばかりの駅。その構内で行われている改修工事の現場にぼくは立っていた。正確には、改修が行われる建造物を外部から遮断するために設置された白い塗装のアルミ板の前と言うべきか。
終電は既に終わり、改札は閉ざされているが、西口と東口をつなぐ構内は電車が終わっても通行することができる。だが、終電が終わってしまうとその人通りはほとんどないだ。ときどき人が通りかかるが、それも酔っ払いが数人といったところ。
ぼくは、ある程度予想が的中したことに安心していた。
これならやれる。深夜とはいえ、土曜の夜のマッドシティは人通りも多いのだが、西口にある店舗はほとんどが夜の八時には閉じてしまっているため、この時間に行動している人は東口側に集まっている。だから、西口と東口をつなぐこの通路を通る人はそれほど多くないのだ。
加えて、ぼくのこの格好なら、工事が行われている場所で作業をしていたとしても口出ししてくる人はそういないだろう。
そうだ。ぼくはこの場所にグラフィティを描くことにした。
この場所とは、改修工事を行っている建物を覆っている白い塗装が施されたアルミ板だ。
そのアルミ板なら、工事が終わればどうせ撤去される物なのだからグラフィティを描いても大きな問題にならないだろう。加えて、駅改札のすぐそばに位置するこの場所なら、昼間は人通りも多く大勢の人の目に留まる。宣伝という意味では、フライヤーよりもずっと効果を発揮するはずだ。
ぼくはカバンを開き、用意してきたスプレーインクに手を伸ばした。いくらカムフラージュをしたとはいえ、人通りが皆無ではないため、あまり時間はかけられない。最短の時間で描けるように段取りを組んでいく。
イメージは既に頭の中にハッキリと出来上がっている。一週間も前からその絵について考えていたのだから当然だ。
茶褐色の肌に、露出の高い水着を着用した女性のイラストが、頭の中に浮かぶ。フライヤー用にデザインしたイラストイメージを、目の前の白いアルミ板に投影し、その上からスプレーインクを吹き付けていく。
ときどき通り過ぎて行く人々の視線は、確かにこちらに向いているのだろう。だが、過去にも大勢の前でグラフィティをやった経験があるため、集中力には影響しなかった。
茶褐色の肌、それに食い込んだ水着のラインに、白いインクで肌の艶を表す。今日は時間を考慮して筆の類を持ってこなかったため、女性の表情の艶めかしさまでは表現できないのが気に入らないが、それでもイメージした映像を壁にある程度は再現することができたと言えるだろう。
あとは、イベント告知のための文言を描くだけだ。
本来なら崩した文字で表現するのがグラフィティの特徴だが、誰も読めない文字では宣伝の意味がないため、丁寧な文字で綴っていく。
イベントを仕切るのは、四人組女性ヒップホップ集団の『華撃』。
ぼくはあまり知らないが、ヒップホップの世界ではかなり有名らしく、メジャーからの声もかかっていると噂がされている。
そんな彼女たちがイベントを打つとなったら、本来ならイベントを仕切るオーガナイザーが出てきても良いようなものだが、与儀さんの話によると、自分たちの力だけでイベントを成功させたいという思いがあるようだ。今回のフライヤー制作の話も、華撃のメンバーにグラフィティに興味がある人物がいて、その経由で与儀さんに話が舞い込んだと聞いた。
イベント名と、華撃の名前を描き終えたぼくは、手早くスプレー缶をカバンに仕舞い込み、騒ぎが大きくなる前にその場をあとにした。
西口の方は人通りが少ない分、目立ってしまう可能性があるので、あまり気は乗らないが東口の方に一旦下りることにした。
案の定、東口には二十四時間営業の飲食店や歓楽街があるため、人通りはそれなりにあった。それでも、深夜ともなると人の往来は数えられるほどだ。
ぼくは人混みに紛れながら、さっきまで握っていたスプレー缶の冷たい感触を思い出していた。
やはり、グラフィティはいい。
描くことに集中しながら、同時に周囲にも気を張らなければいけないため、終わったあとの疲労感は半端じゃないが、同時に達成感も大きい。
なにより、余計なことを考える余裕がなくなるのがいい。
嘲笑われ、バカにされたことを考えなくて済む。
だが、さすがに疲れた。もうこの時間ではバスも出ていないため、歩いて帰るしかない。少しうんざりしながら、時間を確認しようとスマホの画面を見ると、真っ暗でなにも表示されなかった。
ああ、そうか。昼間電源を切ったきり入れるのを忘れていたんだ。普段ならこんなことありえないのだが、今日は考えごとが多くてスマホに触れずにいたのだ。
電源を入れると、ホーム画面が表示されたあと、振動とともに着信ありの文字が出る。
確認してみると、石神さんから何度も電話がきていた。
待っててくれと言われたのに、なにも言わずに帰ってしまったから心配してくれたのだろう。それなら、悪いことをしたな。そう思いながらも、今日はもう遅いから連絡するのを控えることにする。
「ん?」
石神さんからの着信の間に、別の番号からも電話がきていた。相手の名前を確認すると、そこには『アカサビさん』の文字。
登録したきり連絡など入ったことのないアカサビさんからの電話。なにかあったのだろうか。
時間も時間だし、連絡していいものか悩んだが、相手がアカサビさんということもあって折り返し電話を入れることにする。大した用事じゃないなら、きっとかけてくることもないだろうから、急用なのかもしれない。そう思った。
スマホを耳元に持ってきて折り返し電話をかけると、三コール目で繋がった。
「あ、アカサビさんですか? 夜分遅くにすみません。間久辺ですけど、昼間電話くれましたよね。電源切ってて気付かなかったんですけど、なにかありました?」
ぼくの言葉は、相手に届いているのだろうか?
そう思えるくらい長い沈黙が続いた。
やがて短く息を吸い込む音だけが聞こえて、それがなにか言いづらいことを伝えようとしているみたいに感じられた。
『御堂がーーー』
唐突に発せられた言葉があまりにも衝撃的で、ぼくはすぐには受け入れられなかった。
一転して沈黙したぼくに、アカサビさんは伝わっていないのかと思ったのか、再び同じ言葉を繰り返す。
『御堂が、入院したって言ったんだ。聞いてるのか間久辺』
御堂が入院? どうして? いったいなにがあったんだ?
聞きたいことが山のように頭に溢れて、うまく言葉が出ないぼくに、アカサビさんは「焦るな」と言って落ち着かせようとする。
はやる気持ちをぐっと抑え込み、聞いた。
「いったいなにがあったんですか?」
アカサビさんの説明は、こうだった。
いま街の裏側では不穏な影が暗躍している。アカサビさんはその影、アートマンを追っていく中でトライバルという半グレ集団が中心になって取り仕切る、違法な地下格闘技の存在を知ったという。
彼は、その半グレ集団とアートマンには関係があると推測している。近頃、アートマンという人物が若い女性を連れ去るなどして、眠らせ、その間に体に消えない刻印を施すという事件が起きているらしい。つまり、アートマンはタトゥーを彫る職人、彫り師だと。
そして、アカサビさんが襲われたという半グレ集団の名前がトライバル。それはタトゥーの種類の名称であり、リーダー格の青木という男が顔に入れているタトゥーでもあった。
このことから、トライバルという半グレ集団とアートマンに繋がりを見出したアカサビさんは、情報収集の結果、地下格闘技が行われている現場を見つけ出した。それが、昨日の深夜遅くのことだったという。
「待って下さいアカサビさん。御堂が入院した原因はなんなんですか? アカサビさんの話とどう関係するんです?」
ぼくは話が見えてこない苛立ちから、語気を強めてそう言った。
アカサビさんは元最強の喧嘩屋だし、街の異常に首を突っ込むこともあるかもしれない。だけど御堂は違う。あいつは自分の力を弁えているから、不用意に危険地帯に足を踏み入れたりしない。
『話は繋がっているんだ、間久辺』
アカサビさんの声から、どこか諦観の色がうかがえた。
『さっき話した地下格闘技場だが、生憎とオレはこの髪のせいもあって、顔が割れていて中に入ることができなかったんだ。なんとか入り込めないもんかと裏口を探しているときに、怪我を負って倒れている御堂を発見したんだ。あいつは、たった一人で敵の本拠地に忍び込んでいたんだよ』
御堂はときどきバカみたいに熱くなるけど、考えなしじゃない。なにか理由でもなければ、そんな危険な場所に一人で乗り込む訳がないんだ。
「……いったいなにがあったんだ?」
自問するような言葉に、アカサビさんの答えが飛ぶ。
『御堂は、オレと同じなんだと思う。アートマンと呼ばれる人物の特徴に、化け物のような覆面で顔を隠しているというものがあったんだ。オレがその一文を見たときに、真っ先に頭に浮かんだのがお前の存在だ―――線引屋』
ぼくは愕然とした。
街でそんな事件が起きていることも知らなかったし、もちろんぼくはアートマンなど無関係だ。だが、街を仕切るチームマサムネで幹部をやっている御堂の耳には、その事件のことも、アートマンの名前や特徴についても入ってくるだろう。
覆面で顔を隠した人物が街を荒らしている。そんな噂が流れれば、街を仕切る鍛島が黙っている訳がない。だから御堂は、一人で行動を起こしたんだ。ぼくのーーー線引屋の潔白を証明するためには、犯人が別人であることを証明する必要があったから。
御堂は、バカじゃない。だけど、バカみたいに熱くなると自分の身すら見境なく危険にさらす。
ぼくが目にしたそのほとんが、線引屋に関することだと今更になって気付いた。御堂は、ぼくを守るために今回も行動を起こしたのだ。
『落ち着け、間久辺』
爆発寸前のぼくをまるで目の前で見ているかのように、電話の向こうでアカサビさんは言った。
『お前に発破かけるためにオレはこんなことを話したんじゃない。むしろその逆だ。どうせオレが黙っていたって、御堂が入院したことくらいすぐにお前の耳にも入ってくるだろう。だから忠告するために、オレはお前に連絡を入れたんだ。絶対に動くな。トライバルって連中は普通じゃねえ。お前が出てきたところで、邪魔なだけだ』
「アカサビさん。御堂はぼくのために怪我をしたんだろう? それを聞かされて、黙っていられるほどぼくは冷静ではいられませんっ」
『間久辺っ!』
怒鳴り声をあげると、アカサビさんは数秒の沈黙のあと、言葉を継いだ。
『頼む。頼むから大人しくしていてくれ。お前の気持ちは十分に理解している。だから、オレを信じろ。必ずオレが、御堂を襲撃した連中を捕まえてみせるから』
その真剣な声を聞いている内に、頭に上った血が少し下りてきたような気がする。
ほんの少しだけ冷静になった思考で考える。
さっき、アカサビさんは言っていたじゃないか。
『御堂はオレと同じなんだ』って。
つまり、アカサビさんもぼくの潔白を証明するためにアートマンを探していたことになる。
彼もまた、ぼくのために動いてくれている一人なのだ。
そんなアカサビさんを信じないなんて、誰が言えるだろう。ぼくは彼の強さを知っている。彼が心に抱えた業の深さと、それに比例するくらい強い正義感を。ぼくの憧れる正義の味方が、誰かに負けるはずがないんだ。
「……わかりました。信じます。アカサビさんを」
その言葉を聞いたアカサビさんは、心の底から安堵したように息を吐き出した。
電話を切ろうとすると、最後に彼はなにかを思い出したように小さくを声を漏らした。
再び電話口に集中すると、アカサビさんは再び口を開いた。
『オレが御堂を発見したのは、地下格闘技の会場と噂されている場所のすぐそばの路地裏だった。自力で逃げ出してきたのか、それとも御堂を襲った連中が追い出したのかわからないが、ほとんど意識もない状態で倒れていたんだ。それでも、オレが呼びかけると、なんとか意識を保とうとしながら必死に伝えようとしていたことがあったんだ』
「それは、なんですか?」
『御堂は、般若の面をした人物ーーーアートマンがタトゥーを施している現場を目撃したと言っていた。その部屋に置かれていたベッドには若い女が肌を晒しながら横になり、大勢の観客の前でタトゥーを入れられていたそうだ』
つまり、見世物としてその若い女の人は体にタトゥーを彫られたのか。さっきアカサビさんが話していた、街で起きているアートマンによる事件の新たな被害者ということだろう。
『落ち着いて聞けよ、間久辺。その部屋の片隅には、学生用のカバンが置かれていたそうだ。そして、そのカバンに印刷されていた校章が、お前の通っている学校の物だったんだ』
「えっ」
それって、つまり―――
『アートマンの魔の手は、女子高生にまで及んでいる可能性がある。お前にも友人や大切な人がいるんだろう? だったら、用心させろ。これ以上、被害者を出さないためにもな』
それだけ言うと、今度こそ電話を切ったアカサビさん。
最後、なにかぼくを気遣うようなことを言っていたような気がしたが、まるで頭に入ってこなかった。
御堂が怪我を負いながら、それでも伝えようとしていたのは、ぼくの学校の生徒がアートマンの被害に遭ったということだった。
翌日の日曜日。ぼくはアカサビさんから御堂の入院先を聞いて、見舞いに来ていた。面会時間を確認し、午後から顔を出すことにした。手ぶらで顔を出すのも不躾かと思い、一応お菓子の詰め合わせをコンビニで買って来たが、病室のベッドで横になる御堂を見て、それが不必要だということを察した。
個室のベッドで横になっている御堂は、至るところに包帯が巻かれていて、左足と左腕にギプスがはめられていた。一瞬誰だかわからないくらい顔ははれ上がっていて、口元にはマウスピースのようなものが装着され、腕には点滴が打たれていた。
看護師の話では意識不明という訳ではないらしいが、いまは目が覚めると痛みで暴れてしまうため鎮静剤と睡眠導入剤を飲ませて落ち着かせているらしい。
ぼくが思っていたよりも、ずっと御堂の容態は悪かった。
幸いなのは、頭部へのダメージはほとんどないようで、意識の混濁といったような症状は出ていないようだった。ただ、それ以外の体のダメージは深刻で、全治四週間の大怪我と診断されている。
酷すぎる。いったい誰が、こんなことをしたんだ。
ぼくは怒りに震えながら、無力な自分を呪った。
アカサビさんが言うように、ぼくが動いたところで御堂の仇を打つことはできないだろう。
ただ茫然と御堂の姿を眺めることしかできなかったぼくは、部屋の扉が開かれ、人が入って来たことに気付かなかった。
すぐ後ろでリノリウムの床を踏みしめる音がして、初めて誰かが背後に迫っていたことに気付き、振り返る。
そこに立っていた人物を見て、ぼくは驚愕する。
鍛島多喜親。チームマサムネのリーダーで、この街のアンダーグラウンドを仕切る彼が、そこに立っていたのだ。
姿を見るのは、本当に久しぶりのことだ。確か、ぼくがまだ線引屋を名乗る以前、御堂と二人で会いに行ったとき以来だろう。
「誰だ、お前は?」
鍛島は厳めしい顔を一ミリも崩さず、そう言った。
以前会ったときはバンダナで顔を隠していたため、ぼくの顔は知らないはずだが、それでもなんの切っ掛けで思い出すかわからない。ぼくはなるべく目を合わせないようにしながら、答えた。
「ぼくは、御堂君の友人です。入院したと聞いてお見舞いに来ました」
「御堂の友人?」
疑問符を浮かべながら、ぼくの姿を上から下まで吟味したあと、「お前がか?」と失礼なことを言ってくる。見た目で人を判断するものじゃない。
と、文句の一つでも言ってやりたいが相手が相手だけに愛想笑いで誤魔化す。
あまり長いこと話しているのは危険だろうと思い、なんとか抜け出すタイミングを図っていたのだが、こちらからそろそろ帰る旨を切り出す前に、鍛島が口を開いた。
「詳しいことは言えないが、御堂の怪我の責任は俺にある。お前が御堂の友人だっていうなら、筋違いかもしれないが謝らせてくれ」
そう言って、驚くことに鍛島は頭を下げた。
驚愕と焦りでなんて返したらいいのかあたふたしている内に、鍛島は頭を上げる。
「左足首じん帯損傷、左腕部骨折、殴打による全身の打ち身、手の指の骨折。それに口内に電球を咥えさせた状態で殴打したことによる、口内裂傷によるものが主な傷だ。これは口封じのやり方だ。俺の街で舐めた真似をする連中がいる。俺の部下をこんな姿にした落とし前はつけさせてやる」
鍛島の言葉は、ぼくに対する保証の言葉というよりも、自分自身に科した責任のようなものに感じられた。ぼくが想像しているよりも、鍛島は人間らしい所があるのかもしれない。
「ところで、御堂がなぜこんな大怪我を負ったのか、詳しい話を聞いているか?」
ぼくは首を横に振った。実際、詳しいことはわからない。
「そうか。御堂の入院を聞かされて、駆け付けたら喧嘩屋アカサビの野郎がいやがったから、俺はてっきりアイツにやられたのかと思ったんだが、逆に助けられたみたいだな」
鍛島の言葉に、否定も肯定もしない。どこからぼくの正体が怪しまれるかわからないからだ。
「違法な地下格闘技。そんなもんが俺の街で行われているなんて許せねえ。あれは外れ者を呼び込んで街を駄目にイベントだ。なんとしても潰さねえといけねえが、いまは花口組っていうヤクザの相手で手一杯なんだ。だから、アカサビの野郎が地下格闘技を潰してくれたら助かるんだがな」
ぼくは曖昧に頷きながら、なぜ鍛島は、初対面のはずのぼくにここまで深い部分の話をするのだろうと考えていた。
そんなぼくの疑問を他所に、話を続ける鍛島。
「御堂が今回無茶をしたのは、花口組が狙うアートマンと線引屋が別人だと証明するためだった。花口組って連中は、元々ギャンブルで財を成した組で、その名残から花札ーーー花口と名乗るようになっただけあって、損得の勘定に優れている。だからアートマンを捕まえさえすればそれ以上線引屋が怪しまれることなく引き下がるだろうと考えたんだろうな。だから、御堂はたった一人で敵地に乗り込むような真似をした」
花札。つまり"カード"を記号化して花"口"か。鍛島が言うように、その花口組というヤクザの本質が損得勘定だとしたら、なんらかの損益をアートマンという人物に負わされたのだろう。
アートマンは、話によると線引屋と同じく覆面をした人物らしい。だから、花口組は線引屋を差し出すように、街を仕切る鍛島に圧力をかけた。
だから御堂は、たった一人でアートマンが潜む可能性のある地下格闘技場に乗り込んだのだ。
「そういえば、アカサビの野郎、前に線引屋に救われたことがあったな。ストリートジャーナルに書かれているのを読んだぜ」
鍛島は、急に話を変えたかと思うと、ぼくの顔から一瞬たりとも視線を外さなくなる。
「つまりよぉ、線引屋が動けばアカサビも動く。そうは考えられねえか?」
いつの間にか距離を詰めてきた鍛島。ぼくは、その目から逃げないようにするだけで精一杯だった。
鍛島は感づいている。ぼくが線引屋だということに。それは恐らく直感的なもので、なにか確証があるわけではないだろう。だから、なんとしてもボロを出す訳にはいかなかった。
睨み合いはどれだけの時間続いただろうか。やがて鍛島の方から視線を外すと、「まあ、仮定の話だけどな」と肩を竦めた。
張り詰めていた空気が弛緩したことで、話を続ける空気ではなくなり、この緊張状態からも解放されそうだ。
御堂の容態は気になったが、取り敢えず命に別状はないとわかり安心した。踵を返し、入ってきた扉から出て行こうとすると、御堂の姿が頭に浮かんだ。
薄暗い地下施設で、大勢の男たちに囲まれ、暴力を受ける姿。実際に見た訳でもないのに、リアルにその姿を想像できたのは、なにもぼくが絵を描く人間だからという理由だけではないだろう。
すぐ後ろのベッドで横たわる、ボロボロの姿。それを目の当たりにしたから、リアルに想像できてしまったんだ。御堂が殴られ、蹴られる姿が。
だけど、なにもできない。アカサビさんは、ぼくになにもしないでくれと頼み込んできたんだ。足手まといだからと。
ぼくは病室から出る直前、鍛島に向けて振り返らずに言った。
「線引屋なんて関わらなくても、アカサビさんは動きますよ。だって彼は、正義の味方ですから……ぼくとは、違うんです」
病院を出たぼくは、その足で『Master peace』に向かった。御堂の入院のことを与儀さんに伝えておこうと思ったのた。それに、フライヤーの件でもまだ連絡していなかったし、直接行って伝えた方がいいだろう。
ぼくが『Master peace』に入ると、与儀さんはどこかに電話をかけていた。話している内容から、それが謝罪の電話だということがわかる。
なにかトラブルがあったのだろうか。そう思いながら、それとなく電話の内容に聞き耳を立てていると、ぼくは思わず体が固まった。
ーーー線引屋。
その名前が聞こえてきたからだ。
やがて与儀さんは、再び丁寧な謝罪の言葉を口にしてから電話を切ると、深い溜め息を吐いた。
かと思うと、キッと鋭い瞳をぼくに向けた。
「あんた、なに考えてるのよ!」
いきなり怒鳴りつけられ、ぼくはなんの話かわからず戸惑った。与儀さんがここまで怒りに満ちた顔をしているのは初めてだ。
「あんた、駅にグラフィティを打ったそうね。しかも、依頼されていた華撃のイベントを宣伝するために」
「え、ええ。そうです。相談しなかったのは悪かったと思いますけど、そんなに怒ることですか? 要するに目立てばいいんでしょう? フライヤーなんて作ってチマチマ配るより、大勢の人の目に留まるグラフィティの方がいいじゃないですか。第一、ぼくはイラストレーターじゃない。グラフィティライターなんですよ。グラフィティを描いてなにがいけないんですか?」
「あんた、自分がなに言ってるのか理解してる? 線引屋はイリーガルなライター。つまり、あんたがやってることは、世間一般では違法行為なのよ。そんなあんたが、イベントの宣伝のためのグラフィティを描いたらどうなるか。少し考えればわかることでしょう?」
「え………っあ」
ぼくは茫然自失となった。
そうだ。あんな駅構内の目立つ場所にグラフィティを描けば、騒ぎは大きくなる。良い意味でも、悪い意味でも。
「いま、フライヤー製作を依頼してきた華撃のメンバーから連絡が入ったわ。これからメジャーデビューを控えているグループが、違法な宣伝でイベントを開催する訳にはいかない。今回のグラフィティは、あくまで熱狂的なファンが勝手にやったということにするそうだけど、周囲を騒がせた責任を取ってイベントは中止にするそうよ。これが、あんたの望んだ結末なの?」
違う、そうじゃない!
そんなことをぼくは望んではいなかった。ただ、ぼくが唯一持っているもの、それが線引屋なんだ。だからぼくは、今回グラフィティを描いた。せめて、線引屋としての自分だけは認めてもらいたくて。
それが、こんな結果を招いてしまうことになるなんて、想像もしていなかったんだ。
「想像していなかったで済まされる問題じゃないわよ」
ぼくの心の内を見透かしたような言葉を告げる与儀さん。
確かにそうだ。それで済まされる問題じゃない。
「あの、与儀さん。ぼくは、どうしたらいいですか?」
「なにもしなくていいわ。今回の依頼をあなたに回した私の責任だもの。だから、もうなにもしなくていい」
突き放すような言葉。だが当然の結果かもしれない。
ぼくは心のどこかで、線引屋としての自分に慢心があったのだ。
だけど、本当のぼくはこんなにも無力。なにもできずにただ指をくわえて待ってることしかできない。人を救うどころか、自分のやったことの尻拭いすらできない。それが、ぼくの現実なんだ。
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