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ゴーストライター
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警察官から、絵里加が運ばれた病院を聞き、ぼくは真っ先に向かうことにした。
母さんは警察官からの質問に答えなければならないというので、まだ電話を切られずにいるようだった。詳しい話を聞いてから父さんにも連絡を入れなくてはならないようなので、先んじてぼくだけ様子を見に行くことにした。
ぼくは家を飛び出すと、久々に自転車を持ち出し、病院がある駅前へと急いだ。日曜の夕方はバスの時間が十分間隔ほどあるため、それなら自転車で駅まで行ってしまった方が早いだろう。
いや、実際のところはわからない。ただ、頭だけでなく体すらも混乱してしまっていて、いまはバスを悠長に待っていることなどできなかった。回転させる足がちぎれてしまうくらい、息が切れて呼吸もままならないくらい、自転車をこぎ続けていなければ、この不安に押し潰されてしまいそうになる。
病院へは二十分ほどで到着した。受付で、妹の名前を告げて居場所を聞くと、現在治療中で会えないと言われた。そんなに重篤なのだろうか。血の気が引くのが自分でもわかった。目の前が真っ暗になって、立っているのかもわからないくらい、意識がぐちゃぐちゃになる。
とりあえず治療中の部屋の前で待たされている間、ぼくは椅子にもたれかかり、周囲をせわしなく眺めた。
ぼくよりも後に来た家族と思しき四人が、蒼白の顔で治療中の赤いランプを見つめていた。小さな女の子は、「お父さん」と何度も繰り返しながら、涙をぼろぼろ流し、それをあやすように頭を撫でる母親らしき女性の顔からも生気が感じられない。
どれくらいの時間が流れたか、治療室の扉が開かれ、中から移動式のベッドが運ばれてくる。その上には、体の大きい男性が意識のない状態で横たわっている。
そばにいた家族がそのベッドに駆け寄るのを見て、ああ、あの家族の父親なんだと納得した。
しかし、同時に、なぜ絵里加よりも後に搬送されたはずの男性が先に治療室から出され、絵里加はいまだ治療を受けているのだろうか。それだけの大怪我を負っているのかと思うと、不安で不安で、視界がぼやける。
もしも、絵里加の身になにかあったら、絶対に許さない。
どんなことをしてでも、運転していた人間に報いを受けさせてやる。
そんな恨み言を心の中で呟いていなければ、自分の心を保っていられる気がしなかった。
それから、長い時間が経った―――母さんが来ていないことを考えれば、実際はそれほどでもなかったのかもしれないが、それでも体感的にはとても長く感じられた。
治療室の扉が開かれ、白い衣服に身を包んだ看護師が出てくると、
「間久辺絵里加さんのご家族の方」
と呼ぶ。ぼくはすぐに立ち上がり、自分がそうだと名乗り出ると、治療室の中に入るように言われた。
覚悟なんてできていないし、できるはずないけれど、それでも自分を奮い立たせて部屋に入った。
すると―――
「あれ、兄貴一人なの?」
妹が、ベッドに腰かけながらぼくを見ていた。
「絵里加っ、怪我は!?」
慌てて駆け寄ると、鬱陶しそうに顔を顰める。いつもの妹の顔だ。
「はあ? 怪我ならしてるっつーの。見てよこの足」
上げられた右足には包帯が巻かれていた。話によると、車と接触したときにどこかに引っ掛けて足を切ってしまったらしい。それと、転倒したときに付いた傷がいくつか目立ったが、目に見えた大怪我はないようだった。
すぐにやってきた医者が、絵里加の状態について説明した。
一言で言うと、軽症。
やけに治療が長いなと思ったが、どうやら急を要する患者から先に見ていたため、軽症の絵里加は後回しにされていたようだ。そのため、時間がかかったのだと言う。安堵のあまり深いため息を吐いたぼくだったが、医者の顔を見ると曇っていた。というのも、傷自体は命に係わるような怪我ではないが、出血の量に比例するように足の傷が結構深いらしく、もしかしたら傷が治っても痕が残ってしまうかもしれない、というのだ。
絵里加自身は、そんなこと別に気にならないという風を装っていたが、それが嘘だということくらい顔を見ればすぐにわかる。それが強がりの虚勢だということくらいわかる程度には、ぼくは彼女の兄として生きてきた。
妹は、現在中学生。これから色気づく頃だろうし、それに彼女自身、石神さんに憧れていることからもわかるようにお洒落に興味が出始めている。そんな思春期を迎える妹が、もしかしたら、一生消えない傷を体に負ってしまったかもしれない。気にならないなんて、ぼくを心配させないように吐いている嘘に決まっているじゃないか。
すぐに駆け付けた母さんに、医者は同じことを告げ、妹も同じ態度を貫き通した。だけど、なにも言えなかったぼくと違い、労りながら、怖かっただろうと、包み込むような態度を母さんが見せると、さっきまで気を張っていた妹が嘘のように、ポロポロと瞳から涙をこぼしていた。
「怖かったよ……すごく、怖くて、痛くて……やだ、やだよぉ、こんな傷、誰にも見られたくないよぉ……」
妹の涙を見るのは、いつぶりだろうか。
いつも強気な姿を見ているせいで忘れていたが、絵里加はまだ中学生なんだ。
ぼくはどうしようもない憤りと虚無感のないまぜになった感情に心を支配された。
とはいえ傷は軽症ということもあり、絵里加はそのまま家に帰ることになった。遅れてやってきた父さんが会計などの手続きをする中、ぼくは、母さんから警察官の話を聞いていた。
運転していた男は、隣街に住む大学生。事故の原因について口を閉ざしていた運転手だったが、その様子のおかしさから男の車中を調べると、中からドラッグ―――覚せい剤が出てきたそうだ。検査結果はまだ出ていないようだが、運転手の男の状態が怪しいと警察官が感じた時点で、ドラッグの使用はまず間違いないだろう。
ぼくはおもった。また、ドラッグかと。
先日、隣街で発生した火事もジャンキーが絡んでいると黛が言っていたな。
家に帰ってから、ぼくはずっと考えていた。そして、翌朝にはその考えが決意に変わる。
月曜日の朝。登校したぼくは、真っ先に隣のクラスに行き、彼女を呼び出す。
「間久辺君から私に声をかけるなんて、いったいどうしたの?」
アートマン―――黛を呼び出したぼくは、要件だけを話した。
「この間の話。ヤクザと黒煙団が裏で繋がっているって話、詳しく聞かせてくれないか?」
ぼくの言葉を受け、まるで吟味するみたいに顔を覗き込んできた黛だったが、そこからいったいなにを見出したのか、うんと一回頷くと、了承した。
「花口組系の賀修会と、黒煙団は裏で通じている。賀修会からしたら、黒煙団と手を組むことで、自分たちが手を出さずにカシワの街の若者たちを実質上支配することができる。逆に黒煙団からしたら、名の通ったヤクザが後ろ盾になってくれることで、権威を保つことができる」
「それで、具体的に二つの組織はどういう繋がりを持っているんだ?」
「具体的って……いったいなにが聞きたいの?」
「ドラッグについてさ」
ぼくがそう言うと、一瞬、黛の瞳に影がさした気がした。
「それを聞いて、どうするつもり? 言っておくけど、興味本意の火遊びじゃ済まないわよ」
「生憎だけど、ぼくはそんな物に手を出すつもりはないよ。そうじゃなくて、前にあんたが言ってたじゃないか。ニュースにもなっていたビル火災。あれ、クスリをやってた黒煙団のメンバーの、火の不始末だって」
「ええ、確かにそう言ったわ。だけど、それと間久辺君がドラッグについて聞きたがることの間に、因果関係が見当たらないのだけれど?」
あまり詳しいことは話したくないが、それでは黛は詳しいことを教えてくれないだろう。
黛自身、裏社会のことを話し過ぎるリスクについては考えているはずだからな。
だからぼくは、悩んだ末にこちらの事情を話すことにした。
「妹が、交通事故にあったんだ」
あの痛ましい傷と、絵里加の涙が脳裏に焼き付いて離れない。
「妹さん、大丈夫なの?」
「ああ。怪我は大したことない。だけど、そのときに出来た傷が結構深いみたいで、もしかしたら怪我が治っても傷痕は残るかもしれないって医者が言っていた……運転していた男は、クスリを使っていたみたいなんだ」
ぼくは思わず渋面を作りながら、黛を見る。
「もしも、近頃の薬物が絡んだ事件に賀修会と黒煙団が絡んでいるんだとしたら、見過ごせない。だから、教えてくれっ」
黛は、それでも考えているようだった。
その間、ぼくは急かすことはせずジッと待ち続けた。
「わかったわ」
黛がそう言って了承してくれたのは、一分以上経過した後のことだった。
「間久辺君の想像通りだと思うけど、賀修会が黒煙団と裏で繋がった理由の一つに、ドラッグが関係している。そもそも、ヤクザの世界では大義名分―――って言い方はおかしいか。建前上ドラッグ、特に覚せい剤に関わった人物は破門っていう掟があるのよ。名目上、任侠の世界にもルールはあるの。でもまあ、ヤクザがしのぎとして得ている金銭の内、ドラッグが占める割合は決して少ないとは言えない。だから、現実問題としてドラッグの売買がヤクザの世界で問題視されることはほとんどないし、自分たちの収入源を取り締まるような真似はしないから、基本的には見て見ぬふりをしているのが原則ね。それでも、例えばヤクザの幹部が集まる集会のような場で、組織の人間がドラッグに手を出しているなんて話が浮上したら、それは裁かずにはいられない。要するにタイミングなのよ。わざわざドラッグに手を出している組を探したりはしないけど、運悪く見つかってしまったら、示しを付けるために罰を与える。だから、賀修会はそのリスクをなるべく低くするために、売人を黒煙団の若者にやらせているのよ。もしも警察に掴まっても、決して賀修会の名前は出させない。そうすれば、少なくともドラッグを手配しているのが賀修会だっていう証拠が出ない限り、警察が介入してくることもないし、賀修会の上部組織である花口組も、上納金さえ収めていれば文句は言わない」
つまり、賀修会は裏で手に入れたドラッグを、カシワの街を縄張りとする黒煙団にさばかせているということか。そんな分別もないガキに、人を狂わせるクスリを渡すなんてまともじゃない。
「間久辺君の妹さんは不幸だったけど、本当に恐ろしいのは今後だわ。いまはドラッグに手を染めたバカなガキが、狂って事故を起こしている程度で収まっているけれど、このままドラッグがカシワの街の若者たちにさらに出回るようになれば、価格は当然高騰し、手に入れることができない連中が出てくる。そうなったらもう街は滅茶苦茶になるでしょうね。ドラッグ欲しさに強盗、窃盗、私刑……殺人も起きるかもしれない。そしてその混乱は、間違いなくカシワの街で留まることはない。私たちがいるこの街が本当の意味で狂った街になる日も、そう遠くはないでしょうね」
ギリッと音がして、それが自分の奥歯が擦れて出た音だとわかったときには、黛は驚きに顔を染めていた。
あの黛が困惑するということは、それほどぼくの表情は怒りに支配されていたということだろうか。
ぼくは自らを落ち着かせるために、息を一回吐き出した。それで少しは冷静になれた気がした。
「ありがとう、参考になったよ」
そう言ったところで、丁度予鈴がなったため彼女に背中を向ける。
だが、歩き出そうとすると、黛はぼくを呼び止めた。
「ねえ、間久辺君。あなた、どうするつもり?」
「どうするって、そんなの、授業を受けるに決まっているじゃないか。学生なんだから」
「そうじゃなくてっ」
黛が声を荒げたのは、ぼくが彼女の意に沿わない返答をしたためだろう。
というよりも、意図的に質問の意図を捻じ曲げて回答したからだろう。
「間久辺君。私はあなたの質問に答えてあげたでしょう? だったらあなたも、私の質問に正直に答えるべきだわ」
ぼくは立ち止まったが、振り返らずに黛の言葉を待った。
いま、自分がどんな顔をしているかわからない。だが、今後、関わり合いになるつもりもない相手とはいえ見られたくない表情をしていると思う程度には、冷静に自分を分析できていた。
黛は、ぼくの背中に向けて質問をぶつける。
「ねえ、間久辺君。あなた、まさか流通するドラッグをどうにかしようと考えてるの?」
ぼくは、その質問に答えずにいた。
沈黙から意図を汲み取った黛は、意外にも感情的に声を荒げた。
「あなたわかっているの!? それってつまり、県内でも最大クラスの不良グループ黒煙団と争うことになるのよ! さっき自分で言っていたじゃない。あなたはただの学生で、不良でも喧嘩屋でもない。ただの絵描きなのよ!」
黛は知らないんだな。
ぼくに唯一残されていた戦う術。線引屋という存在すら、失ってしまったことを。
だけど、そんなことは関係ないんだ。自分に力があるから立ち上がって、自分に力がないから見過ごす。そんな割り切りができるほど、ぼくは器用にできてはいないし、そんな自分を許せそうにない。辛いとき、痛いとき、困ったとき……見過ごし、見放される辛さを誰よりも知っているからこそ、黙ってはいられないんだ。
街がドラッグの脅威に脅かされそうになっているのを見過ごして、その結果、大切な人が傷つくことになったとしたら、そのときこそ本当に、ぼくはぼく自身を許せなくなるだろう。
「なあ、黛―――」
ぼくは、背中を向けたまま、顔を半分だけ黛の方に向け、
「ありがとう。あんたみたいなヤツにでも、心配されるのは悪い気しないよ」
「言ったでしょう。私は、あなたを気に入っているって。だから何度でも言うわ―――無謀よ」
「無謀か。確かにそうかもしれない。だけど、こんな話を聞いて黙っていられるものか。ぼくは自分のことが嫌いだ。だけど、最近、ようやくこんなぼくを認めてくれる人たちが現れたんだ。もし、ここで見て見ぬを振りをしてしまったら、きっとその人たちに顔向けできない……いや、今度こそ本当に、ぼくはぼく自身を一生嫌いなままで生きていくことになると思う」
黒煙団との因縁は深い。
クラブで石神さんを誘拐し、彼女を恐ろしい目に遭わせたのはヤツらだ。
与儀さんと侭さん、過去に二人の関係が崩れかけた原因を作ったのもヤツらだ。
そして今回、黒煙団が裏で売りさばく薬物が原因で絵里加は傷つけられ、涙していた。
このままヤツらを野放しにしていたら、更なる被害が出ることになるだろう。
警察は当てにできない。警察という組織は良くも悪くも、地道な捜査によって確証を得た事件にのみ力を行使する。裏でヤクザが絡んでいるのなら、最終的には警察組織の力が必要となるだろうが、いまはすぐにでも巷に流れるドラッグの供給を絶つ必要がある。
だから、ぼくは―――
「―――叩き潰す。黒煙団を」
決意を込めた言葉だけ吐き出すと、ぼくは黛を置いて空き教室を出て行った。
廊下を歩いていると、ふと窓の外が気になり目をやると、曇天が空を覆っていた。それから、窓ガラスに映った自分の姿を見る。そこには、怒りに支配された人間の顔が映し出されていた。
母さんは警察官からの質問に答えなければならないというので、まだ電話を切られずにいるようだった。詳しい話を聞いてから父さんにも連絡を入れなくてはならないようなので、先んじてぼくだけ様子を見に行くことにした。
ぼくは家を飛び出すと、久々に自転車を持ち出し、病院がある駅前へと急いだ。日曜の夕方はバスの時間が十分間隔ほどあるため、それなら自転車で駅まで行ってしまった方が早いだろう。
いや、実際のところはわからない。ただ、頭だけでなく体すらも混乱してしまっていて、いまはバスを悠長に待っていることなどできなかった。回転させる足がちぎれてしまうくらい、息が切れて呼吸もままならないくらい、自転車をこぎ続けていなければ、この不安に押し潰されてしまいそうになる。
病院へは二十分ほどで到着した。受付で、妹の名前を告げて居場所を聞くと、現在治療中で会えないと言われた。そんなに重篤なのだろうか。血の気が引くのが自分でもわかった。目の前が真っ暗になって、立っているのかもわからないくらい、意識がぐちゃぐちゃになる。
とりあえず治療中の部屋の前で待たされている間、ぼくは椅子にもたれかかり、周囲をせわしなく眺めた。
ぼくよりも後に来た家族と思しき四人が、蒼白の顔で治療中の赤いランプを見つめていた。小さな女の子は、「お父さん」と何度も繰り返しながら、涙をぼろぼろ流し、それをあやすように頭を撫でる母親らしき女性の顔からも生気が感じられない。
どれくらいの時間が流れたか、治療室の扉が開かれ、中から移動式のベッドが運ばれてくる。その上には、体の大きい男性が意識のない状態で横たわっている。
そばにいた家族がそのベッドに駆け寄るのを見て、ああ、あの家族の父親なんだと納得した。
しかし、同時に、なぜ絵里加よりも後に搬送されたはずの男性が先に治療室から出され、絵里加はいまだ治療を受けているのだろうか。それだけの大怪我を負っているのかと思うと、不安で不安で、視界がぼやける。
もしも、絵里加の身になにかあったら、絶対に許さない。
どんなことをしてでも、運転していた人間に報いを受けさせてやる。
そんな恨み言を心の中で呟いていなければ、自分の心を保っていられる気がしなかった。
それから、長い時間が経った―――母さんが来ていないことを考えれば、実際はそれほどでもなかったのかもしれないが、それでも体感的にはとても長く感じられた。
治療室の扉が開かれ、白い衣服に身を包んだ看護師が出てくると、
「間久辺絵里加さんのご家族の方」
と呼ぶ。ぼくはすぐに立ち上がり、自分がそうだと名乗り出ると、治療室の中に入るように言われた。
覚悟なんてできていないし、できるはずないけれど、それでも自分を奮い立たせて部屋に入った。
すると―――
「あれ、兄貴一人なの?」
妹が、ベッドに腰かけながらぼくを見ていた。
「絵里加っ、怪我は!?」
慌てて駆け寄ると、鬱陶しそうに顔を顰める。いつもの妹の顔だ。
「はあ? 怪我ならしてるっつーの。見てよこの足」
上げられた右足には包帯が巻かれていた。話によると、車と接触したときにどこかに引っ掛けて足を切ってしまったらしい。それと、転倒したときに付いた傷がいくつか目立ったが、目に見えた大怪我はないようだった。
すぐにやってきた医者が、絵里加の状態について説明した。
一言で言うと、軽症。
やけに治療が長いなと思ったが、どうやら急を要する患者から先に見ていたため、軽症の絵里加は後回しにされていたようだ。そのため、時間がかかったのだと言う。安堵のあまり深いため息を吐いたぼくだったが、医者の顔を見ると曇っていた。というのも、傷自体は命に係わるような怪我ではないが、出血の量に比例するように足の傷が結構深いらしく、もしかしたら傷が治っても痕が残ってしまうかもしれない、というのだ。
絵里加自身は、そんなこと別に気にならないという風を装っていたが、それが嘘だということくらい顔を見ればすぐにわかる。それが強がりの虚勢だということくらいわかる程度には、ぼくは彼女の兄として生きてきた。
妹は、現在中学生。これから色気づく頃だろうし、それに彼女自身、石神さんに憧れていることからもわかるようにお洒落に興味が出始めている。そんな思春期を迎える妹が、もしかしたら、一生消えない傷を体に負ってしまったかもしれない。気にならないなんて、ぼくを心配させないように吐いている嘘に決まっているじゃないか。
すぐに駆け付けた母さんに、医者は同じことを告げ、妹も同じ態度を貫き通した。だけど、なにも言えなかったぼくと違い、労りながら、怖かっただろうと、包み込むような態度を母さんが見せると、さっきまで気を張っていた妹が嘘のように、ポロポロと瞳から涙をこぼしていた。
「怖かったよ……すごく、怖くて、痛くて……やだ、やだよぉ、こんな傷、誰にも見られたくないよぉ……」
妹の涙を見るのは、いつぶりだろうか。
いつも強気な姿を見ているせいで忘れていたが、絵里加はまだ中学生なんだ。
ぼくはどうしようもない憤りと虚無感のないまぜになった感情に心を支配された。
とはいえ傷は軽症ということもあり、絵里加はそのまま家に帰ることになった。遅れてやってきた父さんが会計などの手続きをする中、ぼくは、母さんから警察官の話を聞いていた。
運転していた男は、隣街に住む大学生。事故の原因について口を閉ざしていた運転手だったが、その様子のおかしさから男の車中を調べると、中からドラッグ―――覚せい剤が出てきたそうだ。検査結果はまだ出ていないようだが、運転手の男の状態が怪しいと警察官が感じた時点で、ドラッグの使用はまず間違いないだろう。
ぼくはおもった。また、ドラッグかと。
先日、隣街で発生した火事もジャンキーが絡んでいると黛が言っていたな。
家に帰ってから、ぼくはずっと考えていた。そして、翌朝にはその考えが決意に変わる。
月曜日の朝。登校したぼくは、真っ先に隣のクラスに行き、彼女を呼び出す。
「間久辺君から私に声をかけるなんて、いったいどうしたの?」
アートマン―――黛を呼び出したぼくは、要件だけを話した。
「この間の話。ヤクザと黒煙団が裏で繋がっているって話、詳しく聞かせてくれないか?」
ぼくの言葉を受け、まるで吟味するみたいに顔を覗き込んできた黛だったが、そこからいったいなにを見出したのか、うんと一回頷くと、了承した。
「花口組系の賀修会と、黒煙団は裏で通じている。賀修会からしたら、黒煙団と手を組むことで、自分たちが手を出さずにカシワの街の若者たちを実質上支配することができる。逆に黒煙団からしたら、名の通ったヤクザが後ろ盾になってくれることで、権威を保つことができる」
「それで、具体的に二つの組織はどういう繋がりを持っているんだ?」
「具体的って……いったいなにが聞きたいの?」
「ドラッグについてさ」
ぼくがそう言うと、一瞬、黛の瞳に影がさした気がした。
「それを聞いて、どうするつもり? 言っておくけど、興味本意の火遊びじゃ済まないわよ」
「生憎だけど、ぼくはそんな物に手を出すつもりはないよ。そうじゃなくて、前にあんたが言ってたじゃないか。ニュースにもなっていたビル火災。あれ、クスリをやってた黒煙団のメンバーの、火の不始末だって」
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黛自身、裏社会のことを話し過ぎるリスクについては考えているはずだからな。
だからぼくは、悩んだ末にこちらの事情を話すことにした。
「妹が、交通事故にあったんだ」
あの痛ましい傷と、絵里加の涙が脳裏に焼き付いて離れない。
「妹さん、大丈夫なの?」
「ああ。怪我は大したことない。だけど、そのときに出来た傷が結構深いみたいで、もしかしたら怪我が治っても傷痕は残るかもしれないって医者が言っていた……運転していた男は、クスリを使っていたみたいなんだ」
ぼくは思わず渋面を作りながら、黛を見る。
「もしも、近頃の薬物が絡んだ事件に賀修会と黒煙団が絡んでいるんだとしたら、見過ごせない。だから、教えてくれっ」
黛は、それでも考えているようだった。
その間、ぼくは急かすことはせずジッと待ち続けた。
「わかったわ」
黛がそう言って了承してくれたのは、一分以上経過した後のことだった。
「間久辺君の想像通りだと思うけど、賀修会が黒煙団と裏で繋がった理由の一つに、ドラッグが関係している。そもそも、ヤクザの世界では大義名分―――って言い方はおかしいか。建前上ドラッグ、特に覚せい剤に関わった人物は破門っていう掟があるのよ。名目上、任侠の世界にもルールはあるの。でもまあ、ヤクザがしのぎとして得ている金銭の内、ドラッグが占める割合は決して少ないとは言えない。だから、現実問題としてドラッグの売買がヤクザの世界で問題視されることはほとんどないし、自分たちの収入源を取り締まるような真似はしないから、基本的には見て見ぬふりをしているのが原則ね。それでも、例えばヤクザの幹部が集まる集会のような場で、組織の人間がドラッグに手を出しているなんて話が浮上したら、それは裁かずにはいられない。要するにタイミングなのよ。わざわざドラッグに手を出している組を探したりはしないけど、運悪く見つかってしまったら、示しを付けるために罰を与える。だから、賀修会はそのリスクをなるべく低くするために、売人を黒煙団の若者にやらせているのよ。もしも警察に掴まっても、決して賀修会の名前は出させない。そうすれば、少なくともドラッグを手配しているのが賀修会だっていう証拠が出ない限り、警察が介入してくることもないし、賀修会の上部組織である花口組も、上納金さえ収めていれば文句は言わない」
つまり、賀修会は裏で手に入れたドラッグを、カシワの街を縄張りとする黒煙団にさばかせているということか。そんな分別もないガキに、人を狂わせるクスリを渡すなんてまともじゃない。
「間久辺君の妹さんは不幸だったけど、本当に恐ろしいのは今後だわ。いまはドラッグに手を染めたバカなガキが、狂って事故を起こしている程度で収まっているけれど、このままドラッグがカシワの街の若者たちにさらに出回るようになれば、価格は当然高騰し、手に入れることができない連中が出てくる。そうなったらもう街は滅茶苦茶になるでしょうね。ドラッグ欲しさに強盗、窃盗、私刑……殺人も起きるかもしれない。そしてその混乱は、間違いなくカシワの街で留まることはない。私たちがいるこの街が本当の意味で狂った街になる日も、そう遠くはないでしょうね」
ギリッと音がして、それが自分の奥歯が擦れて出た音だとわかったときには、黛は驚きに顔を染めていた。
あの黛が困惑するということは、それほどぼくの表情は怒りに支配されていたということだろうか。
ぼくは自らを落ち着かせるために、息を一回吐き出した。それで少しは冷静になれた気がした。
「ありがとう、参考になったよ」
そう言ったところで、丁度予鈴がなったため彼女に背中を向ける。
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「ねえ、間久辺君。あなた、どうするつもり?」
「どうするって、そんなの、授業を受けるに決まっているじゃないか。学生なんだから」
「そうじゃなくてっ」
黛が声を荒げたのは、ぼくが彼女の意に沿わない返答をしたためだろう。
というよりも、意図的に質問の意図を捻じ曲げて回答したからだろう。
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ぼくは立ち止まったが、振り返らずに黛の言葉を待った。
いま、自分がどんな顔をしているかわからない。だが、今後、関わり合いになるつもりもない相手とはいえ見られたくない表情をしていると思う程度には、冷静に自分を分析できていた。
黛は、ぼくの背中に向けて質問をぶつける。
「ねえ、間久辺君。あなた、まさか流通するドラッグをどうにかしようと考えてるの?」
ぼくは、その質問に答えずにいた。
沈黙から意図を汲み取った黛は、意外にも感情的に声を荒げた。
「あなたわかっているの!? それってつまり、県内でも最大クラスの不良グループ黒煙団と争うことになるのよ! さっき自分で言っていたじゃない。あなたはただの学生で、不良でも喧嘩屋でもない。ただの絵描きなのよ!」
黛は知らないんだな。
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街がドラッグの脅威に脅かされそうになっているのを見過ごして、その結果、大切な人が傷つくことになったとしたら、そのときこそ本当に、ぼくはぼく自身を許せなくなるだろう。
「なあ、黛―――」
ぼくは、背中を向けたまま、顔を半分だけ黛の方に向け、
「ありがとう。あんたみたいなヤツにでも、心配されるのは悪い気しないよ」
「言ったでしょう。私は、あなたを気に入っているって。だから何度でも言うわ―――無謀よ」
「無謀か。確かにそうかもしれない。だけど、こんな話を聞いて黙っていられるものか。ぼくは自分のことが嫌いだ。だけど、最近、ようやくこんなぼくを認めてくれる人たちが現れたんだ。もし、ここで見て見ぬを振りをしてしまったら、きっとその人たちに顔向けできない……いや、今度こそ本当に、ぼくはぼく自身を一生嫌いなままで生きていくことになると思う」
黒煙団との因縁は深い。
クラブで石神さんを誘拐し、彼女を恐ろしい目に遭わせたのはヤツらだ。
与儀さんと侭さん、過去に二人の関係が崩れかけた原因を作ったのもヤツらだ。
そして今回、黒煙団が裏で売りさばく薬物が原因で絵里加は傷つけられ、涙していた。
このままヤツらを野放しにしていたら、更なる被害が出ることになるだろう。
警察は当てにできない。警察という組織は良くも悪くも、地道な捜査によって確証を得た事件にのみ力を行使する。裏でヤクザが絡んでいるのなら、最終的には警察組織の力が必要となるだろうが、いまはすぐにでも巷に流れるドラッグの供給を絶つ必要がある。
だから、ぼくは―――
「―――叩き潰す。黒煙団を」
決意を込めた言葉だけ吐き出すと、ぼくは黛を置いて空き教室を出て行った。
廊下を歩いていると、ふと窓の外が気になり目をやると、曇天が空を覆っていた。それから、窓ガラスに映った自分の姿を見る。そこには、怒りに支配された人間の顔が映し出されていた。
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